旦敬介のレビュー一覧

  • ラ・カテドラルでの対話 (下)

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    ネタバレ

    下巻の最初の場面は1958年。オドリア政権が1948〜1956年なのでその2年後。上巻最後の場面のカヨ・ベルムーデス失脚から数年経っている。
    今の大統領はマヌエル・プラード。新聞社に勤めているサンティアーゴの元に「昔の酒場で大人気だった歌姫(ムーサ)が刺殺された」という知らせに取材に行く。世間からは彼女が「カヨ・ベルムーデスの愛人だったオルテンシア」だったことも忘れかけられている。ベルムーデスの失脚後、贅沢暮らしと高慢な態度が身についてしまって手を差し伸べる人も少なく、娼婦めいたことで暮らしていたらしい。サンティアーゴは、オルテンシアと同性愛と言われているケタに取材に行く。
     そこで、サンティアーゴもびっくり、読者もびっくりの情報が!
    オルテンシアを殺させたのは、<金の玉>と渾名されるサンティアーゴの父のフェルミン・サバラで、実行犯は「あいつのおかま相手の黒人運転手。」というのだ。
    つまり、フェルミン・サバラとアンブローシオは同性愛関係で、そのことをオルテンシアが恐喝していたので殺させたと言うのだ、ええ、そういう話に行くのか!
    (最初に読んだときに「金の玉」って腐敗資産家の意味かと思って「他に翻訳なかったのか!?」と思ったんだけど、もしかして同性愛下半身も揶揄してる??)
    サンティアーゴがショックを受けたのは、「父が同性愛者だってことを自分たち家族以外に国中が知っていたんだ!」
    実家から距離をおいているサンティアーゴだが、さすがに父に連絡を取り「…なんか噂でさ、アンブローシオが犯人で、ちょっと父さんの名前も出てたから気になって…」とか伝える。
    フェルミン・サバラは表面的には平気な顔をして「それより家に帰ってこい。援助させてくれ。お前のことが心配だ」と強調する。
    とりあえず数日後にサンティアーゴが食事と一応の一家和解のために実家を訪ねたら、アンブローシオは退職していなくなっていた。
    気が重くなるサンティアーゴ。父がアンブローシオを逃がしたんだろう、するとやはり刺殺に関係があるんだろうなあ。
    小説の書き方として、サンティアーゴが「新聞社の先輩で今はアル中入院中のカルトーリスに話しかけている」文章が差し込まれていたんですが、どうやらこの「父の黒い噂」を聞いた時に偶然であって悩みを聞いてくれたのがこのカルトーリスだった。そこで信頼できる相手として、アル中になっても見舞いに行ってるんですね。

    【クーデター失敗?】
    場面は、サンティアーゴが大学で逮捕され、保釈されてから数年後に戻ったっぽい。
    カヨ・ベルムーデスをオドリア政権に紹介したエスピーナ将軍がクーデターを起こして失敗した??政治の混乱、それによりベルムーデスが内務大臣に昇格したこと(今までは閣僚クラス)、フェルミン・サバラが利ざやを得ていた特権が剥奪され資金難になったことが語られる。(サンティアーゴがオルテンシア殺害を確認しに行ったときには「資金は大幅になくしたが、援助はできる」って感じだった)

    【カヨ・ベルムーデス失脚を詳しく】
    前巻終盤に書かれた「カヨ・ベルムーデス失脚」の市立劇場での暴動の様子が書かれる。
    オドリア政権に対立する連立グループが、市立劇場で集会を行うことになった。ベルムーデスはそれを政府支持集会に乗っ取るための人員動員を指図していた。そして先導者として、アンブローシアの元同僚たち秘密警察たちと、アンブローシオの父であるトリフルシオも差し向けられていた。
    しかし動員人数が集まっていない。連絡がうまく行かなかったのか、わざと無視されたのか?(時系列混じってるこの小説は一度読んだだけでは分からない…)
    そして秘密警察やトリフルシオたちの扇動は大失敗して袋叩きに合いトリフルシオは死ぬ。
    …この事件の記述は、生き残って帰ってきたアンブローシオの同僚が彼に酷い経験を話して聞かせる形式です。しかしトリフルシオの名前は知らなかったので「あの黒人が叩き殺されるのを見た」くらいの報告になっている。果たしてアンブローシオは、その殺された黒人が自分の父だって分かったのだろうか?
    暴動は街中に広がり、オドリア政権幹部と軍隊はカヨ・ベルムーデスを首にして外国に追い出すことで手を打つことにする。
    それで、オリテンシアが置いていかれて、フェルミン・サバラを恐喝して、殺された事件につながっていくんですね。

    【そのころアマーリアは】
    オルテンシアは贅沢暮らしを続けたがどんどん転落していく。アマーリアは唯一の女中として側にいた。このころフェルミン・サバラを恐喝していて、お金を運んでいたのがアンブローシオだった。アマーリアは妊娠して、オルテンシアとその同性愛相手のケタから助けてもらいながら暮らしている。そして出産してオルテンシアに連絡しようとしたら彼女が殺されたことを知る。さらに自分が「オルテンシア刺殺当日に姿を消した女中」として容疑者第一号になっているという。
    現在の私達なら「入院記録、出産記録もあるんだから、警察に出頭して説明する」という選択肢もあるけど、この当時のペルーで、女中階級のアマーリアの説明が聞いてもらえる可能性はものすごっく低い。問答無用で犯人にされたり酷い目に合ったりする可能性のほうが高い、と怯えるアマーリア。

    そこへアンブローシオが姿を表して「三人で田舎で暮らそう」と連れ出したのだった。しかしそれはアマーリアにとってまったく心が弾まない決断だった。

    【時系列整理!】
    市立劇場からの暴動でカヨ・ベルムーデス失脚。
    ⇒困窮したオルテンシアがフェルミン・サバラを恐喝する。
    ⇒アマーリアが妊娠する。
    ⇒アンブローシオがオルテンシアを刺殺する。
    ⇒出産から戻ったアマーリアが、自分が容疑者だと知る。
    ⇒サンティアーゴが父に「刺殺事件で、アンブローシオと父さんの名前が」と告げる。
    ⇒アンブローシオがサバラ家を退職。
    ⇒アンブローシオと、アマーリアは、赤ちゃんのアマーリア・オルテンシアを連れて田舎に隠れ住むことにする。
    ⇒実家を訪れたサンティアーゴは、アンブローシオがいなくなっているので「やっぱり父さんが口止めのために追い出したんだ」と考える。

    【悪役(?)たちにも…】
    フェルミン・サバラやカヨ・ベルムーデスは金と権力の悪の象徴のような存在で、作者は彼らを全く褒めてないはずなんですけど「彼らにも彼らのモラルがあるよね?」って混乱するんです。。
    フェルミン・サバラは政治も他の人の暮らしもどうでも良くて、自分たちの資産のために政治家に献金して地位を築いた象徴人物なんだけど、サンティアーゴたち家族に対しては純粋に父親としての愛情を表明し続けている。
    カヨ・ベルムーデスは妻と愛人にはあの仕打ちなのに、性的なことにわりと公平なのかというところが見られる。
    他の人が「フェルミン・サバラを落とすには彼の性癖(同性愛)を使えばいい」と言うがカヨは「それはダメ」という。その手段を使うのは彼にとってフェアではないのかな?
    また、ある実業家が身柄拘束されて、その美人妻が決死で夫の釈放と海外逃亡の交渉に来た時に、身体を要求したかのように受け取れる事を言うんだけど、実際にはその実業家が愛人と散財してることを妻に知らせた上で、二人の海外逃亡を見逃したのでした。夫の釈放のために身体を張ろうとする妻に、夫の本性を見せてやったのは、ある意味親切な気もする。
    さらにカヨが二人のダンサー(そのうち一人はケタ)を呼びつけて裸でダンスを要求したときには「やっぱりこういう野郎だったか」と思ったんだが、カヨはオルテンシアの同性愛相手を探しに来ていたらしい。女性同士の行為を見るのが好きなのかな(-_-;) なんか性的なことには不思議な感覚を持ってるなーー。
    (なお、彼のモデルとなったペルー内務大臣アレハンドロ・エスパルザ・サニャルトゥは女性への参政権を付与したらしい)

    【アンブローシオとフェルミン・サバラの同性愛関係】
    アンブローシオは暴力仕事もするのだが、立場が強い相手が強く出てこられると弱腰になってしまう性質がある。
    アンブローシオがカヨ・ベルムーデスの運転手をしていた時、フェルミン・サバラが彼を見て気がついたらしい。この黒人は自分の相手なるし、抵抗もしない。
    それをカヨ・ベルムーデスが察知して、運転手として譲った形だったらしい。
    ということは、「同性愛関係」とはいっても恋人とかではなくて、立場が上のフェルミンが、心身大変なときに「本当の自分でいさせてくれ!」と、行為の相手をさせたのですね。アンブローシオにとっては望まない性行為だっただろうけれど、それはそれとして「旦那さんは紳士なんです」と慕って庇っていて、殺人までしてしまう。なんかアンブローシオも複雑だ。
    そして小説内では、アンブローシオがフェルミン・サバラに例えばカヨ・ベルムーデスのことを「こんなことがあったんですよ、旦那さん」という感じで説明する描写がある(それによって読者も知る)。この会話の実際の状況は、フェルミン・サバラの別宅で、同性愛行為の前にリラックスするための会話だったのか…!…もしこの小説を読み返すことがあったらアンブローシオの「旦那さん」って語りかけの場面では「行為直前か…」って考えてしまいそう…(-_-;)

    【オルテンシア刺殺のこと】
    アンブローシオがオルテンシアを殺したことは間違いなさそう。しかしフェルミン・サバラの命令かどうかは不明。アンブローシオは「旦那さんのためにやった。自分だけで決めた」ようなことを言っている。

    【アンブローシオとアマーリア】
    フェルミン・サバラはまとまったお金を渡してアンブローシオを田舎にいかせた。アンブローシオ、アマーリア、赤ちゃんのアマーリア・オルテンシアの新生活が始まる。
    女中とはいえリマ出身のアマーリアは、虫だらけの汚い家に馴染めなかったが一年もするとすっかり馴染んできた。しかしアンブローシオは相変わらず強い相手から強く出られると弱気になってしまってやっぱり仕事はうまく行かない。
    アマーリアはまた妊娠して妊娠後期に病院に担ぎ込まれるが、母子ともに亡くなった。
    アンブローシオはこっそりリマに帰る。身分証明書がないのでその日暮らしの仕事だ。

    【サンティアーゴの結婚】
    サンティアーゴはたまに実家に顔を出して夕食を食べていく習慣になっていた。兄のチスパスも、妹テテも大人になっていく。皆は自分を歓迎する。だが自分は外見は白人でも中身はチョロ(白人とインディオの混血)になったかのように、この家とは馴染まない思いを深めるばかりだった。
    ある時サンティアーゴは取材に行ったときに交通事故に合って入院した。そこでインディオ系の看護師アナと知り合う。退院してから交際へ繋がるが、サンティアーゴはその関係を秘密にしていた。
    アナは妊娠し、サンティアーゴは堕胎を進める。関係はこれで終わるかと思われた。しかし彼女から堕胎の知らせを聞いた時、彼女の元に駆けつけてプロポーズした。だがこれも極秘結婚。
    やがてサンティアーゴは実家にアナを連れて行かざるを得なくなるが、母親のソイラ夫人が「女中階級の女なんかが(上流階級である)うちの息子をたぶらかすとは!」と騒ぎぶち壊しに。
    兄のチスパス、妹のテテと婚約者ポパイはその後もサンティアーゴとの付き合いを望むがうまくはいかない。
    サンティアーゴはポパイとテテの結婚パーティに呼ばれるが、玄関のところで引き返す。自分はこの世界の住人ではない。

    【みんなのその後】
    フェルミン・サバラは発作で死んだ。(オルテンシアからの「告発」手紙でショックを受けた?)
    カヨ・ベルムーデスは亡命先で暮らし、たまにこっそりとペルーに戻ってもいる。
    サンティアーゴとアナは、ソイラ夫人とも穏やかな関係を築けるようになり、実家とは適度な距離を保ってやれるようになった。
    アンブローシオはリマで日銭を稼いで生きていくのだろう。<ここで、あそこで、そしてその後は、そうですね、その後はもう死ぬのではないだろうか、ちがいますかね坊っちゃん?(P523)>

    ===
    ペルーが政治的にも社会的にも大きく動いている時代に、政治はわからないが自分の利益のためには動く政治家や実業家たちが国を動かしている。そんな世の中に、上級社会から逃げ出した(けれども未だに自分探し中)のサンティアーゴ、使用人階級のアンブローシオとアマーリアは、時には助けられ、時には生活や心情に苦しむ。
    まさにペルーの都会も田舎も、上層部も使用人や労働者も、政権争いにその日暮らしに、民族も生活も小説の形式もごったまぜでペルーまるごと隅から隅まで書いている(のだと思う)。このごった煮感はペルーなのだろうし、それをごった煮の形式で小説にしているんだから凄いよなあ。

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    2026年07月31日
  • ラ・カテドラルでの対話 (上)

    Posted by ブクログ

    いつだめになってしまったのだろう?ペルーも、自分も。
    新聞社説担当サンティアーゴ・サバラ(サバリータ)は考える。
    家に帰ったら妻が「犬を散歩させていたら、野良犬収容係員に強奪されてしまったの」と泣く。怒ったサンティアーゴが収容所に乗り込むが係員は「この不景気で、狂犬病対策として犬を収容して歩合制で小銭を稼ぐ仕事に就かざるをえないんですよ。係員の中には人が抱っこしている犬を取り上げる、人の家の庭に乗り込んで繋がれている犬の紐を切って連れていく連中もいますよ。あなたは記者なんでしょ?社会のための仕事がこの低賃金で押し付けられています。人間に権利なんてあるんですかね?この問題を取り上げてくださいよ」などと言われる。
    そしてサンティアーゴは昔知っていたアンブローシオというサンボ(黒人と先住民の混血)と再会し、二人はラ・カテドラルという労働者向け安居酒屋に入る。どうやらサンティアーゴは上流階級出身だがそんな暮らしを嫌がり家を出た。そして父にはサンティアーゴも知らない「何か」があり、それをアンブローシオは知っているようなのだ。サンティアーゴはアンブローシオに「一体何があったんだ。なあ、間抜けのフリは辞めてくれ。父のせいなのか?父がやったのか?」と問う。

    本書の現実的な時間は、サンティアーゴとアンブローシオがラ・カテドラルで過ごした4時間。そこで彼らがどのように生きてきたのかが、ペルーの政権不安や革命、反体制運動などを背景に語られていく。

    しかしバルガス=リョサなので、二人の会話の合間にどちらかが当時を思い出してそこから話が広がっていくのだが、一つの文章ごとに時間が生きつ戻りつ広がりつつ、誰と誰の会話かは分かってもそれがいつの会話かは読み進めないと分からない、心情とセリフと客観的描写が入り乱れる、という手法。これでもちゃんと読めるし分かるんだから凄いよなあ。私の「バルガス=リョサを読む時に活性化する脳細胞」が活性化してきました・笑

    以下、メモ取らないと理由わからなくなるので書き留めまくってやたらに長いです(^_^;)

    【登場人物】
    ◆人種の呼び名。
    ・インディオ:混血がある・なしという人種区別よりも、スペイン語以外の先住民言語を話し伝統を受け継いで生活しているという文化的な区別として呼ばれる。
    ・メソティソ:インデオと白人の混血。または混血ある・なしに関わらず、都市部に住んでスペイン語を話して都会的生活を送る混血者はインディオではなくメソティソと見做される。
    ・チョラ、チョロ:インディオと白人の混血の女、男。メソティソと同じ意味だが多少の侮蔑が含まれるが、仲間内の親しみとして使うこともある。
    ・サンボ:黒人とインディオの混血
    ・ムラート:白人と黒人の混血
    ・ネグラ、ネグロ:黒人の女、男
    ・セラーノ:アンデスの山間出身者を「田舎モン」と揶揄するニュアンス

    ◆政治家、党派
    ・ベナビデス将軍・大統領(実在人物/1933年〜39年)
    ・ブスマンテ大統領(実在人物/1945年〜48年):上流階級出身で、外交官から大統領になった。
    ・オドリア将軍・大統領(実在人物/1948年〜56年):チョロ(先住民との混血)の軍人。大統領ブスタマンテに対してクーデターを起こした。作中のフェルミン・サバラや、ドン・カヨはこの派閥。アプラ党を取り締まる。
    ・ベラウンデ(実在人物/1963年〜68年):作中では、カヨ・ベルムーデス失脚後に大統領になっていることが明かされる。
    ・アプラ党:1924年に結党された「アメリカ革命人民同盟」。暴力革命も肯定している。その時時の政権に弾圧される。
    ・カウイデ:共産党地下組織と、ホセ・カルロス・マリアテギ設立のペルー社会党
    サンティアーゴの大学政治活動の時に出てくる名前。アプラ党、カウイデ、社会党組織と接触してデモを実行したのか??

    ◆サバラ家(上流階級。愛称は「サバリータ」)
    ・両親:実業家のフェルミンとソイラ夫妻。オドリア政権派で、成約や建築を受注し、政財界の重鎮となる。
    ・サンティアーゴ:少年時代の渾名は「ヤセッポチ」。学生時代は父に反抗して、カトリック大学ではなく、チェロや中層階急の通うサン・マルコス大学に通った。
    ・テテ:サンティアーゴの妹。後にポパイ・アレバロと結婚。
    ・チスパス:サンティアーゴの兄。元士官候補生から半ヤクザになり、サンティアーゴに変なことを吹き込んだりしていた。その後父の会社で真面目なサラリーマンになった。

    ◆アレバロ家(上流階級)
    ・ポパイ:少年時代の渾名は「ソバカス」。サンティアーゴの幼馴染で彼の妹テテと結婚する。建築士。

    ◆ラ・クロニカ新聞社
    ・バイェホ:編集長
    ・ペリキート:カメラマン
    ・カルリートス:サンティアーゴの新聞社の同僚(先輩)で、サンティアーゴは彼に色々と話をする。後にアル中で入院。

    ◆アンブローシオ
    チンチャ出身の黒人と先住民の混血(サンボ)。
    ドン・カヨの幼馴染で御用聞きみたいなことをした。その後、フェルミン・サバラの運転手になり、「何か」があり長い年月行方不明だった。

    ◆アマーリア
    サバラ家のメイドだったが、ソイラ夫人に解雇される。サンティアーゴとポパイは彼女に欲情して訪ねていったことがある。
    アンブローシオとは内縁の妻のような関係で、子供を残して死んだことが分かる。

    ◆ベルムーデス家
    ・両親:父「禿鷲」、母「信心深いドニャ・カタリーナ」と呼ばれる。禿鷲は人夫出身だが、ベナビデス将軍官僚と組んで財産を作り、チンシャ町長になる。
    ・一人息子:カヨ:アンブローシオと幼馴染だが、父の社会的地位向上により距離が生じる。最初の妻は、黒人女のローサ。この結婚に激怒した父から援助を切られる。この勝手な結婚には、アンブローシオと、学生友達のセラーノが協力していた。ローサは「うまくやった」のだが、年月が経つとどんどん醜くなり夫婦仲も悪くなっている。

    【カヨ・ベルムーデス(ドン・カヨ)がオドリア政権に入る】
    第三章は、カヨ・ベルムーデスが、学生時代の友人セラーノにリマに呼ばれるところから。(「セラーノ」というのは「インディオ系」という呼称で、本名はエスピーナ将軍。)
    セラーノは、ブスタマンテ政権の大臣だったが、オドリアによるクーデター後も大臣を務めている(このあたりの政治の動きはよくわからず…)。そしてカヨ・ベルムーデスをオドリア政権の官僚に推薦した。
    カヨ・ベルムーデスはそのままリマに残り、ローサとは別居。愛人として「オルテンシア」という女性を入れたらしい。
    この後カヨ・ベルムーデスは軍保安部で秘密警察を取り仕切り、アプラ党や共産主義を弾圧していく。<この国は文明国なんかじゃなくて、野蛮な、暗愚の国なんだ。(P241)>
    だが彼には政治主張は無く、ただ役割としての弾圧を敷いているのだった。
    そしてサンティアーゴの父、フェルミン・サバラも政治主義ではなく商業価値としてオドリア政権と親しくなっていく。

    【サンティアーゴの逮捕】
    そしてそのころ、サンティアーゴはサン・マルコス大学の同級生のアイーダやハコーボと仲良くなり、学校内の政治勉強会(共産主義、労働者階級のための闘争、マルクス主義など)に参加する。
    サンティアーゴは上流階級の学校を避けて庶民や混血たちのいる学校に入ったのだが、政治や本の話をする時に、教授も、学生も、意欲が無いこと気が付き、「チョロ(混血。社会的に地位が低い人たちを示していると思う)の連中も金持ち坊っちゃんたちと同じだった」と感じる。活動仲間は「安月給で働く教授たち、地位の低い階級の学生たちが世の中に無関心なのは体制が悪い。だから教えてやらなければ。」というのだが、サンティアーゴ自身は本気で共産主義もアプラ党支持にもなりきれない。
    そんなサン・マルコス大学活動ブループが労働者デモを呼びかけ、結構大きな事になった、のかな。そこへカヨ・ベルムーデスが軍隊を入れて大学を占拠し、政治活動グループを逮捕した。その中にサンティアーゴもいた。
    彼は、父のフェルミン・サバラがカヨ・ベルムーデスに頼んだため釈放された。
    フェルミンは息子のサンティアーゴが自分に反抗しても青春の寄り道として期待して応援していた。しかしサンディアーゴは家出同然で独立し、大学も辞めて新聞社に勤めるのだった。(彼の階級では人に使われる人生というのは脱落となってしまう)
    なお、この大学占拠と学生逮捕にサンティアーゴは一種の責任を感じていたのだが、実はカヨ・ベルムーデスが、フェルミン・サバラを警戒して盗聴などを行っていたところ、息子のサンティアーゴのデモ計画を知って襲撃した、ということをアンブローシオから聞かされる。

    【父と息子の関係】
    うまく行かない二組の父と息子が出てくる。禿鷲とカヨのベルムーデス親子、上流階級実業家フェルミンと反抗するサンティアーゴのサバラ親子。
    両方を知っているのがアンブローシオ。ラ・カテドラルでは「旦那さん(フェルミン)は坊っちゃんを心配して、こっそり様子を見に行っていたんですよ」「父は主張のない商業主義者で憎らしい俗物さ」なんて話も差し込まれる。ずっと昔、アンブローシオがフェルミン・サバラにベルムーデスの話をした時は「旦那さんは、禿鷲とドン・カヨの話をしていながら、ご自身とサンティアーゴ坊っちゃんの話をしているのでは?」なんて考えている。
    ただサンティアーゴ自身もオドリア独裁政権には大反対でだが、他の党派に賛同しきれない気持ちも抱えている。
    フェルミンの言う<仕事をしている人間がみんな手を引いてしまって、政治家だけに政治を任せてしまったら、国はむちゃくちゃになってしまいますから。(P261)>は、「政治理念のない素人が首を突っ込むことの危険」もあるけれども「政治プロだけが国を動かす危険回避」って意味ではそうだよなあとは思うんだけどさ。

    【そのころアマーリアは?】
    アマーリアはトリニダーというアプラ党員で工場勤務の男と付き合っていた。彼は以前逮捕歴があり心の傷となっているらしい。アマーリアは妊娠するが、トリニダーはアプラ党の活動でしょっちゅう出かけるし、心の傷だといって働かない。
    だがトリニダーが死んで判明したのは、彼はアプラ党員何かではなかったということ。彼が「党員仲間」と言っていた男が言うには「彼はアプラ党員と間違われて逮捕されたことがあり、それ以来似非のアプラ党員を名乗っていた。彼が党活動って言っていたのは、俺達と飲んでいただけ」だという。
    えええ。これって精神医学的に「トラウマから、余計に自分を傷つけようとする」って病症が実際にありそうですね。
    トリニダーは、カヨ・ベルムーデス配下の秘密警察にやられたことが分かるのだが、アンブローシオはその秘密警察の運転手になる。(そしてフェルミナン・サバラの運転手に転職したようなんだけど、「いつ」なのかがよくわからない…)

    【アンブローシオの両親】
    アンブローシオの父トリフルシオは刑務所に入っていた。釈放されてからは、農場主でオドリア派議員アレバロの元で働く。オドリア派の選挙不正とかが書かれます。
    母はトマサという田舎のネグラ(黒人女)。


    【アンブローシオとアマーリア】
    カヨ・ベルムーデスは、オルテンシア(歌姫という意味の「ムーサ」とも呼ばれている)いう歌手?ダンサー?水商売?の女を愛人にして家を与えている。多くの男を夢中にさせた美女で、同性愛の傾向もあるらしい。
    アンブローシオは、一人になり生活に困っているアマーリアにこっそりと「オルテンシアのところで女中を募集している。だが絶対に俺の名前は出すな。カヨが邪魔するから。」と言って紹介した。
    どうやらこの後アンブローシオとアマーリアの間に娘が生まれるのだが、彼女が「オルテンシア・アマーリア」と名付けられるらしい。

    【カヨ・ベルムーデス失脚】
    カヨ・ベルムーデスに監視されるようになったフェルミン・サバラは、カヨを政権に推薦したエスピーナ将軍(セラーノ)、オドリア大統領の甥パレーデス大尉たちと「反体制連立グループ」を組んだ??(フェルミンがいろいろな人と接触したり離れたり、カヨがいろんな人と組んだり監視したりの場面が入り組んでいるので、誰が味方で誰が敵で誰がそんな政治主張かわからなくなっている…。なおカヨがフェルミンを監視していたのは連立グループ入りを察知されたからで、結果としてサンティアーゴの大学が占拠された。)
    そして市立劇場での反体制政治家による集会を、カヨたちが妨害しようとしたりして、実際に行われた集会には襲撃者が乱入したこともあり大騒動に。カヨは軍隊で鎮圧しようとするが、市民グループも蜂起して「革命」に近い状態になる。カヨは辞任せざるを得なくなり外国に亡命し、それまで贅沢に暮らしていたオルテンシアは置いていかれた。
    フェルミン・サバラは身の危険を感じて姿を隠す。
    現時点での政権
    ・オドリア政権は、共産党や反対者は弾圧したが、公共事業などには力を入れて独裁を正当化した。
    ・フェルミン・サバラのような実業家は政治家と癒着した。
    ・フェルミンたちの「連立グループ」は、カヨの弾圧から身と財産を守るためのクーデターみたいなもの?
    ・多分連立グループを組んだのは、カヨにより失脚しかけている政治家、富裕層、政治家と癒着して財産を得ている実業家たち。

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    2026年07月31日
  • ラ・カテドラルでの対話 (下)

    Posted by ブクログ

    圧倒的な筆力で書かれた20世紀文学の集大成。下巻では、ペルー社会の腐敗がえぐり出されていく。独裁政権が張り巡らせる権謀術数のもと、勝者と敗者とに分かれていく。そのなかで弱い立場の人間ほど、悲惨な結末をたどっていくし、強い立場の者には、敗れても、それなりの地位が残されている。最後、敗れたあとも、サンティアーゴ/サバリータが採った態度は"一寸の虫にも五分の魂"を示すものであり、そこに微かに人間の気高さに対する期待が残される。

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    2025年11月09日
  • 世界終末戦争(下)

    Posted by ブクログ

    もともとボリュームはあるけども、割と仕事を忙しくしていたこともあり結局上下読み終わるのに2ヶ月かかった。
    私にとっての初バルガス=リョサ。ラテン文学好きで、ノーベル賞作家なのに、初でした。

    ブラジルが帝政から共和国制に切り替わった19世紀末、時代の流れに取り残されたブラジルの内陸部地方エリアで勃発した通称「コンセリェイロ」率いるキリスト狂信者集団(作中ジャグンソと呼ばれる)の反乱と、それを鎮圧すべく向かうブラジル共和国との戦い。史実をベースに、細部がセミフィクション化された物語。
    史実の通り最終的には鎮圧される。鎮圧されるまでの両サイドの思想なり人間模様なりが、群像劇のように視点を変え語られる。

    傍から見たら狂信者と思われる集団なのだけれども、細部を見ると実はその集団ができる非常に合理的な理由がある。
    貧困だったり抑圧だったり。貧しさが当然で地形的にも孤立している社会では、コンセリェイロが説く思想が綿のように身体に染み込む。狂信者になろうとして狂信者になるのではなく、その思想を救いとする以外、対抗する思想などどこにもないのだ。受け入れる以外の選択肢はなく、結果その人々が狂信者と呼ばれるようになる。
    しかしその彼らは篤信で清貧、信仰が厚いがゆえに規律ができておりコミュニティ内でのトラブルもない。そしてコンセリェイロのおかげで、悪事の限りを尽くしてきた荒くれ者たちすらルールに則った正しい生活を送っている。
    ただ一つ、共和制というルールを認めることができず、戦争に巻き込まれていく。

    物語の中に何人かキーとなる人物が出てくるのであるが、その中でも最重要人物だと思われるのが、近眼の記者。彼は当初共和国軍側の記者として同行し、その後ジャグンソとの戦いで敗走する中、紆余曲折を経てジャグンソ側に身を寄せる。彼のある意味中立の立場から両者を眺める場面が幾度となく現れ、この戦争の輪郭がはっきりしていく。はっきりしていく一方、何が正しいのかがわからなくなっていくのも彼の視点を通じてである。

    両軍ともに困憊しボロボロの状態、そしてその絶望的な状況でなお信念に従い使命を持って動き続ける様、本当に痛々しくも圧倒される生のほとばしりをそのまま文章に落とし込む技術。素晴らしい。群像劇のように視点が変えられると書いたが、終盤はすこし時系列も前後する。ただ、この時系列の前後も物語に大きな印象を付け加えることに一役買っている。この語り口はバルガス=リョサの得意とする技法らしいのだが、これが実に効果的である。上下で1100ページくらいあるのだが、長く続く戦争を読み手に飽きさせることなく語り尽くす。

    ブラジルの地形、地名、独特の名前。慣れないと読みにくいところはたくさんある。
    ラテン文学の中では抜群に読みやすい方だとは思うが、それでもするすると読めるようなものではない。
    それでも少しずつでも、この物語の登場人物それぞれの生のほとばしりに触れる価値はあると思う。傑作。

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    2025年11月08日
  • ラ・カテドラルでの対話 (上)

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    長く、複雑で、シーンの数も登場人物の数も多いので、かんたんに理解できる小説ではない。しかし、退屈ではない。おそらくこれがバルガス=リョサがノーベル賞を授かった主な業績なのだろう。そう思うほどに前衛的なやりかたで、社会と政治の腐敗を描いている。話のおもしろさを理解するためには、サンティアーゴ/サバリータを主人公とみなし、父親のドン・フェルミンとの関係がどういうものか、そして彼自身がどういう人生を歩んでいくのかを常に見失わないことが必要だ。そうすれば、すべて人間関係を把握しなくても、本書のテーマが見えてくる。

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    2025年11月04日
  • 世界終末戦争(下)

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    ネタバレ

    内容についてのレビューではなくなってるので注意

    ■上げて上げて上げて落とす

    カヌードスの反乱を討つべく第三回遠征の指揮官となったモレイラ・セザル大佐。彼への期待はその華々しい登場で描写されている。多くの民衆が駅に駆け付け歓声を上げる、大佐は小柄だが他の有象無象とは違う雰囲気を醸し出し、ただ一人強者の風格を漂わせている。その隊は「常勝連隊」であり、大佐の愛馬である白馬がおろされる。極めつけは第一回遠征と第二回遠征の「敗者」カストロ大尉とフェヘイラ中尉との会話だ。大佐は補佐として連隊に加われという命令を受けた二人をどう扱ったか。ひと握りの盗賊にすら勝てなかった恥晒しなどに用はないと冷たく言い放つ。これらを今風に言うと「負けフラグを構築している」。数々の反乱を鉄拳で叩き潰し、陸軍を侮辱した新聞記者を容赦なく射殺した大佐は半ば神格化されていた。これでもかというくらいモレイラ・セザル大佐は持ち上げられている。まだ3章の始まりだというのに。ここから第三回遠征隊がカヌードスに到着し戦闘になるまでが長い。その間ずっと勝ったも同然の大佐の連隊の行軍となる。大佐が唯一恐れるのはアントニオ・コンセリェイロ及び復古派反徒が既にカヌードスから逃亡してる可能性だけだという。大佐はアントニオ・コンセリェイロの背後にこの狂信者達を操って、王政復古を企む黒幕がいると確信している。散々持ち上げられる大佐だが、彼もガリレオ・ガルと同じく不確定な情報に踊らされる哀れな道化役だと仄めかされているように思う(私にはガルに何か積極的なものを見出すことはできなかった)。気を張り詰めた代償か大佐は倒れてしまう。そこで大佐が敵視する男爵に命を救われるが、ここでも己の信念は曲げない。男爵からは狂人だと看破される。若干雲行きが怪しくなったが、カヌードスに着く。3章はずっと大佐のターンだったが、3-Ⅶでようやくカヌードスの反乱者との戦闘になる。さぞや一進一退の攻防をじっくり見せてくれると思いきや、あっさりと決着がついてしまう。大佐戦死!はやっ!今までの持ち上げと引っ張りは何だったのか。そう、すべてはこのための溜めだったのだ。上げて上げて上げて一気に落とす――

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    2025年09月18日
  • ラ・カテドラルでの対話 (下)

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    「誰かに打ち明けなければならないことがあるんだカルリートス、自分が中から焼かれているんで」とサンティアーゴは言った。「それで気分がよくなるなら、オッケーだぜ」とカルリートスは言った。「でも、よく考えろよ。時々オレも、危機に陥って打ち明け話に走ることがある、それが後になって重くのしかかってきて、自分の弱点を知っちまった人間を恨むことになる。明日になったらオレのことを恨んでいるなんて、ならないようにしてくれよサバリータ」(p.55)

    同じ事件、人物に対しても語られる視点で受ける印象が異なるのが面白かったなー。特にオルテンシア、ムーサに関しては、アマーリアからは優しい奥様だったのが、親友だと思っていたケタからだといかれた女なわけで、その視点の書き分けがうまかった。アンコンのマンションをソイラ夫人が頑なに拒む理由も読者にはわかるわけで。

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    2025年05月06日
  • ラ・カテドラルでの対話 (上)

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    ネタバレ

    面白いとは聞いていたが、ここまで面白いとは…ぐんぐん引き込まれて、今年ベストかもしれない。ハンガンの少年が来るといい勝負。バルガス=リョサ追悼ウィークはこの上下だけになりそうだけれど(分厚い!GW終わった!笑)、バルガス=リョサ大先生素晴らしい体験を有難うという感じです。

    「これまでに書いたすべての作品の中から一冊だけ,火事場から救い出せるのだとしたら,私はこの作品を救い出すだろう」
    そう著者が言うだけある作品…

    まず視点が自由間接話法を縦横無尽に使って入り乱れる。映像的ともいうべき交差で、最初は登場人物もわからないから、何が何だかという感じだったが、慣れるとこれが心地よいスピードで話が進むし、思わぬところで思わぬ話が何気なく繋がっていく種明かしのような構成がとてもスリリングだった。

    ペルーの政治情勢と、密接に絡み合う人種・階層含む社会経済状況、何も知らずに読み出したが、そこもある視点として知ることができて面白かった。

    彼自身もペルーなのだサバリータ、彼もまた、どこかの瞬間でダメになってしまったのだ。彼は考えるーそれはどの瞬間だったのか?ホテル・クリヨンの前で、一匹の犬が彼の足を舐めにやってくるーおまえは狂犬病じゃないだろうな、さっさと失せろ。ダメになってしまったペルー、と彼は考える、ダメになってしまったカルリートス、誰も彼もがダメになった。(p.15)から始まる。

    「全然迷いがなかった、信じていたんだ」とサンティアーゴは言った。「僕はその前から何かを盲目的に信じている人たちのことを、羨ましいと思っていたんだよカルリートス」…「それこそが人間にとって、一番恵まれていることなんだよアンブローシオ」とサンティアーゴは言う。「自分の言っていることを信じられるということ、自分のやっていることが好きだということ」(p.277)

    「かわいそうにな」とカルリートスは言った。「これで一生、新聞記者になっちまうんだな。いいか、ちょっとこっちに寄ってくれ、誰にも聞かれないように。ひとつ重大な秘密を告白しよう。詩こそこの世で一番偉大なものだぞサバリータ」(p.450)

    …もう二度とあの熱意は持てないだろう、と彼は考える、何かをやり遂げたいというあの欲求、特ダネをとってみんなにちやほやしてもらうんだ、ああいう企画も二度と出さないだろう、それで昇進するんだ、なんて。何がダメになったんだろうか、と考える。彼は考えるーいつ、なぜ。(p.458)

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    2025年05月06日
  • 知への賛歌 修道女フアナの手紙

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    ソルフアナっていう1600年代のメキシコに生まれたアメリカ大陸初のフェミニストの本超感動した。フェミニズム系の本で初めて感動した。私が不良少女から勉強に目覚めた時の思いがそのまま書かれてて鳥肌たった。

    ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス Sor Juana Inés De La Cruz
    生年:1651年
    没年:1695年
    メキシコの詩人、修道女。世界に版図を広げたスペイン・ハプスブルク帝国の末期、植民地に生まれた、同時代のスペイン文学最大の作家。結婚せず学問を修めたいがために修道女となり、恋愛の機微や女性の生き方、男性批判などの個人的主題を文学にもちこんで恐れなく明快に表現した。現在、その肖像はメキシコの200ペソ紙幣で使われている。

    300年前のメキシコに社会の規範や道徳と闘った女性がいた! 詩こそが最高の文学だった17世紀末。ソル・フアナはそんな時代に世界で最も愛された詩人だ。美貌の修道女でありながら、恋愛、女性の権利、学問への欲求、抑圧的な社会への抗議などをテーマとした作品を残した。彼女の思想を明快に表現した詩と2通の手紙を、詳細な解説とともにまとめたわが国初の試み。

    知への賛歌 修道女フアナの手紙 (光文社古典新訳文庫)
    by ソル・フアナ、旦 敬介
    ソル・フアナはアメリカ大陸最初のフェミニストである、と言われるのはそのためだ。

    92 番について 『カスタリアの氾濫』より。ソル・フアナのもっとも有名な作品のひとつで、アメリカ大陸におけるフェミニズム意識の最初のあらわれとされる。レドンディーリャという八音節の四行詩の形式。何連でも続けることができる。各連では一行目と四行目、二行目と三行目の末尾が子音まで含めて脚韻を踏むことが求められる。

    また、手紙の末尾では、自分が今後何かを書くことがあれば、かならず「あなた」の校閲を受けるようにする、と述べているが、この手紙の翌年、一六九二年にはふたたびスペインで彼女の作品集第二巻が出版されており、この手紙が書かれた時点では、すでにその出版準備が始まっていたと考えられる。そこには主に、ラグーナ侯爵夫妻が帰国した一六八八年以降に書かれた作品が収められ、「アテネー書簡」も収録された。この第二巻も好評を博してすぐに再版されている。つまり、ソル・フアナは八九年から九二年ぐらいの時期に、世俗的な作家としてのキャリアの絶頂にあったといってよい。この手紙は、その時期のものである。しかし、「ソル・フィロテア」の叱責の序文以後、ソル・フアナは、明らかに作家としての活動を低下させていき、やがて一切の世俗的文筆を断ったとされるが、フィロテアの叱責がそのきっかけだったとも、他の何が原因だったとも、正確には断定できない。(訳者)

    つまり、言えないことがらは、言えないのだということだけでも言っておく必要があるのです。そうしないと、黙っているのが、何も言うことがないのではなく、言わなければならないことがあまりにも多くてことばの中に収まりきらないのだ、ということを人に理解してもらえないからです。

    なぜなら、中傷する人たち自身の判断にもある通り、私には博識でなければならない義務もなければ、的を射るだけの能力もないのですから。それゆえ、たとえ私が誤ったことを言っても、それは罪でも不面目でもないのです。罪でないのは、私にはその義務がないからで、不面目でないのは、もともと的を射る可能性が私にはないからであり、要するに「誰にも不可能事をなしとげる義務はない」からです。それに本当のところを言えば、私は強いられて無理やり、他の人を喜ばせるために文を書いたことしかないのです。自分としての愉悦などなかったばかりか、むしろはっきりと不快をおぼえながら書いていたわけで、それというのも、私自身、自分に文芸の才能や、書き物をする人の責務として求められる機知があると判断したことはないからです。というわけで、しきりに注文してくる人に対する私の返事はいつも、そしてそれが宗教的主題に関してであればなおさら、次のようなものなのです──「私にはどんな知力があるというのですか、どんな学問、どんな題材が私にあるでしょう? そんなことに必要な知識もなく、あるのは表面的な駄弁ばかりなのですから。

    その話はちゃんとわかっている方にやってもらってください、私は宗教裁判所とのごたごたはお断わりですし、無知な私は響きの悪い文を口にしてしまったり、本物の知性の持ち主のことばを歪めてしまったりするのが怖くて震え上がってしまうのですから。私は物を書くために勉強しているのではなく、ましてや教えるためではなく(それは私の場合、途方もない傲慢となるでしょう)、ただ単に、勉強すれば少しでも無知が減るものかどうか見てみたくてやっているだけなのですから」。このように私はいつも返答し、たしかにそのように感じているのです。

    私の性向に関する話を続けますと──これについてはすっかりお知らせしておきたいのです──、私が三歳になる前のことですが、母が私の姉のひとりを「アミーガス( 13)」と呼ばれているものに通わせて、字を読めるよう学ばせにやっていたところ、私は親愛と悪戯心から姉の後ろにくっついて出かけていったのです。そこで姉が授業を受けているのを見ると、私は自分も読めるようになりたいという欲求に一気に燃えあがり、先生を騙して(騙しているつもりで)、私にも教えるようにと母が命じている、と先生に言ったのです。先生は信じませんでした、とても信じられることではなかったからです。それでも彼女は、私の思いを満足させるために授業をしてくれました。そこで私はその後も教室に通い続け、先生は私に教え続けたのですが、もう冗談半分ではありませんでした、というのも、経験から彼女にはすぐにわかったからです。私はごく短い期間で字が読めるようになり、母が気づいたときにはもうすっかり文が読めるようになっていました。先生は母には突然知らせて喜ばせ、ふたり一緒に褒めてもらおうと考えて隠していたのです。一方、私もまた黙っていたのは、言われていないことを勝手にやったと言ってぶたれると思ったからでした。私を教えたこの先生はまだ存命であり(神のご加護を)、その通りだと証言してくれるはずです。

    そのころの自分のことで覚えているのは、おいしいものに目がないのはその年代の子として普通だったのに、チーズを食べるのをやめていたことです。チーズを食べると馬鹿になるという話を聞いたからでした。子供において食欲は強力なものであるにもかかわらず、私にとっては、知りたいという欲望のほうが食べる欲望にまさっていたわけです。その後、六歳か七歳ぐらいになって、すでに読み書きはでき、家事や裁縫など女が習う仕事も全部できるようになっていたころに、私はメキシコ市には大学や学校といって諸科学を勉強できる場所があることを聞き知りました。それを聞くや否や、私は無理な願いを母に言いつのって悩ませはじめました──服を取りかえて[男装して]、メキシコ市に送ってくれ、勉強して大学に入るために親戚の家に住まわせてくれ、と。母はそんなことは望まず、それは正しい判断でした。しかし、私は祖父が持っていた多岐にわたる多数の本を読むことでその欲望を満たしていき、それをやめさせようとする罰も叱責も役には立ちませんでした。そのため、私が実際にメキシコ市に出てきたとき、人々が驚いて目を見張ったのは、頭の良さというよりも、かろうじて話ができるようになる程度の時間しか生きていない年齢にしてすでに、貯えもっていた記憶と知識の量のほうだったのです。

    私はラテン語を習いはじめましたが、受けた授業は二十回に満たなかったと思います。私の熱意は非常に強いものだったため、女にとって──それも花咲く年ごろであればなおさら──髪の毛は自然の飾りとしてとても価値があるものとされているにもかかわらず、私は指四本ないし六本分( 14) ほど自分で髪を切り、切る前にどこまであったかを計っておいて、今度そこまで伸びてきたときに、それまでに自分で学ぶと決めたあれこれのことがまだわかっていなければ、自分の馬鹿さの罰としてまた髪を切…

    というのも、髪が伸びるのは早く、私が学ぶのは遅かったからで、実際に私は馬鹿さの罰として髪を切りました。こんなにも知識がなくて丸裸な頭が髪の毛を着ているなんて理不尽に思えたからです…

    私が修道院に入ったのは、修道女という身分には私の性向にとって不快なこと(公式なことがらではなく、付随的なことがらのことです)がたくさん含まれているのはわかっていたにもかかわらず、それを考慮しても、結婚というものに対して全面的な拒絶を抱いていた私にとっては、それがもっとも不適切さの度合いが低い選択肢だったからであり…

    この[勉強好きという]性向という形で、私は自分自身を引き連れてきていただけでなく、自分の最大の敵も同時に引き連れてきていたわけで、天がそれを私にあたえたのは褒美としてなのか罰としてなのか私には判断できませんが、この性向は宗教生活にともなうさまざまな活動によってつぶされたり阻害されたりするにつけ、火薬のように破裂して、「欠乏は欲望の原因なり」を私の中で実証することになったのです。

    こうして私は、本を読んでまたさらに読むという勉学の仕事に復帰しました(いや、これは間違った言い方です、やめたことは一度もなかったのですから)。継続したのです、書物そのもの以外には先生がいないままに、勉強して、また勉強する、という仕事を(これは私にとっては、義務を終えたあとの余った時間のすべてをあてる休息に他ならなかったのですが)。魂のない文字だけで、先生の生きた声と説明なしで勉強するのがどれほど辛いことかはすぐにわかります。

    私はこのようにして進んでいきました。すでに述べたように、常に勉学の歩みを聖なる神学という頂に向けていました。でも、そこまで到達するには、人間の科学と芸術という階段をのぼっていく必要があると私には思われました。なぜなら、「諸科学の女王」[神学]の文体を、その従僕の文体すら知らない人が理解できるはずがあるでしょうか? 論理学を知ることなしに、聖書に書かれている全般的な、個別的なさまざまな論法を知ることなどできるでしょうか?

    ヨブ記の中では、神がヨブにこう言います──「あなたはプレイアデスを鎖で結び、オリオンの綱を外せるか。かの星々をその時に引き出し、また熊と彼女の子らを導ける( 21)」。こうした言い方は、天文学の知識がなければ理解するのは不可能です。こうした高貴な学問ばかりではありません。工芸的な技芸ですら、そこ[聖書]で述べられていないものはひとつとしてないのです。すると結局のところ、他のすべての書物を包括している書物[聖書]、他のすべての学問を含みこんでいる学問[神学]は、どうやったら理解できるのでしょうか? それを理解するには、他のすべての書物と学問が役立つのではないのでしょうか? それらをすべて知ったあとでも(それが容易なことではなく、可能でもないことはすぐにわかりますが)、これまでに述べたものに加えて、さらにもうひとつ別の状況が必要になります。

    もしアリストテレスが料理をする人であったなら、もっと多くのことを書けたはずだ、と。さてそこで、私の中での思弁のありようについて続けるならば、これは私においては絶え間のないことであって、本など必要ないほどなのです。ある機会に、おなかのひどい事故があったせいで、お医者さんたちに勉強を禁止されたことがあり、私は数日間その通りにして過ごしたあとで、彼らにこう言ったほどです

    寡婦ブレシラも同じ称賛を彼から受けています。そして、名高い処女エウストキウムもまた同様です。どちらもこの聖女の娘たちですが、二人目のほうは、その学識から「この世の驚異」と呼ばれたほどだったのです。ローマのファビオラ(*) もまた、聖書についてこのうえなく博学でした。ローマの女性、プロバ・ファルコニア(*) は、ウェルギリウス(*) の詩文の寄せ集めを使って、我らの聖なる信仰の神秘について優美な本を一冊書きあげました。

    この点はいかにも正当であって、一般に愚かであると考えられている女たちにだけあてはまるわけでなく、男であるというだけで賢者であると思っている男たちにも同様にあてはまるのであり、聖書の解釈は、博学で有徳でない者、素直で善良な傾きの知性を持たない者にはもとから禁止すべきだったのです。なぜなら、そうしなかったことから、私の考えでは、これほど多くの分派が出てしまったのであり、こんなにも多くの異端が生じてしまったのですから。というのも、無知になるために勉強する人は多く、とくに、横柄で、不穏で、尊大な精神の持ち主や、法の定めの中に新奇なものを持ちこむのが好きな人たちがそうなのです(法は本来、新奇なものを拒絶するものなのですが)。

    知がもたらす害のほうが、無知がもたらす害よりも大きいのです。ある分別ある人の言によれば、人はラテン語を知らないからといってまったくの馬鹿者だということになるわけではないが、ラテン語を知っていれば、それはまったくの馬鹿者になる資格を得たということである、とのことです。それにつけ加えて私なら、少しばかりの哲学と神学を学び、少しばかり外国語の知識を得ることによってこそ、馬鹿者は完成されるとでも言っておきたいところ

    こういう人たちにとっては、話をもとにもどしますが、勉強することは害になります、なぜならそれは、狂っている人の手に刀を持たせることだからです。身を守るためのこのうえなく高貴な道具であるものが、その人の手の中では、自らの死と他の多くの人の死に他なりません。

    博識が彼らにおいては害をなしたわけですが、その理由は、博識が魂にとっては最良の養分であり命であるにもかかわらず、ちょうど、調子をこわして悪い熱気をもった胃袋が、よい食物を受け入れるほど、より不毛で腐敗した 禍々しい液体を生み出すというのと同じように、こうした悪辣な人たちは、勉強をすればするほど、よりひどい見解を生み出すことになるからです。

    彼らにおいては理解力が、まさにその養分となるべきものによって阻害されてしまっているわけで、たくさん勉強しても少ししか消化できないのは、自分の理解力の限られた容積に合わせて調節しないからです。これに関して、使徒はこう言っています──「私に与えられた恵みによって、あなたがたのうちにいるすべての者に私は言うが、適切である以上に賢くあってはならない。

    私がアリストテレスや聖アウグスティヌスと同等かそれ以上に知りたいと望んだところで、もし私に、聖アウグスティヌスやアリストテレスの能力がなければ、そのふたりよりも多く私が勉強したところで、それを成し遂げることなどできないだけでなく、私は自分の貧弱な理解力の働きを、不釣り合いな目標によって、さらに弱め、鈍らせることになるのです。

    文法的な面に限っても、単数形のかわりに複数形になっていたり、二人称から三人称に移り変わったりしていることなどがあり、まさに「雅歌」にその例が見られるのではありませんか?──「彼の口のくちづけで、彼が私にくちづけしてくれたら。あなたの愛は、葡萄酒よりもずっといい( 72)」。形容詞を、対格にすべきなのに属格にした例、「救いの杯を私は挙げよう」というのはどうでしょうか( 73)? また、女性形を男性形のかわりに使ったり、反対に、あらゆる罪を姦淫と呼びならわしたりした例がないでしょうか?

    つまり、私たちのカトリック教会は詩文を軽んじていないどころか、むしろそれを教会の讃歌に利用しており、聖アンブロジウスや聖トマス、聖イシドルスその他の詩文を朗唱しているのです。聖ボナヴェントゥーラ(*) は詩文に対して非常に愛着をもっていたため、彼の著作で詩が出てこないページはほとんどないほどです。聖パウロも詩を勉強したことがはっきりと見てとれます、というのも、詩をよく引用していますし、アラートスの作品──「われわれは神のうちに生き、動き、存在する( 82)」──を翻訳したほか、パルメニデスの作品──「クレタ人はいつも噓つき、悪しき獣、怠けた食い道楽( 83)」──に言及しています。

    これはわが父、聖ヒエロニムスが「良きことばは秘密を必要としない( 89)」と言い、聖アンブロジウスが「隠れるのは 邪 な意識に特有なことである」と言っている通りです。

    喝采はしばしば、自分のものではないものを自分のものと勘違いさせてしまうものなので、人は大いに用心する必要があり、心の中に使徒の次のことば──「あなたの持っているもので、もらったものでないものがあるか? もしもらったものであるのなら、なぜもらっていないような顔をして誇るのか?」( 91) ──を書きつけて、称賛の刃先をはね返す盾として使わなければならないのです。称賛はたしかに槍であり、称賛とは神に対する称賛であることを見落としてしまった瞬間から、私たちの命を奪うものとなり、私たちを神の誉れをかすめ取る泥棒に変えてしまい、私たちに一時的に預けられたものである才能と、貸与されたものである能力を、それゆえきわめて厳密に管理しなければならないはずのものを、勝手に着服する横領者に変えてしまうのです。

    ですから、修道女様、私は中傷よりも、称賛を恐れるのです。なぜなら前者は、辛抱という単純な行為だけで有用なものに転換されるのに対して、後者が害とならないようにするためには、謙虚であるとか、自分自身を知るといった自省的行為が大いに必要だからです。

    十六世紀初めから十九世紀初めまでのおよそ三百年におよぶアメリカ大陸の植民地時代の全体を通じて、最も現代的で、最も魅力的な作家をひとりあげるとなると、十七世紀後半のメキシコ市に生きた修道女ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス(一六五一~九五年)をおいて他にない。これは英語圏・ポルトガル語圏・フランス語圏などを含めて考えてもまず変わらないだろう。ソル・フアナはハプスブルク家がスペインの王家であった時代の一番最後、いわばスペインの絶頂期の末尾に、新大陸で最も繁栄していたヌエバ・エスパーニャ副王領の首府の宮廷社会に彗星のようにあらわれ、十数年間の短い間ながらも、スペイン本国と植民地の全スペイン語世界に華々しく文名を響かせたのち、二百年ほど続くことになる忘却の中へと去っていったスターだった。

    そのような保守的な時代のさなか、貴族の端くれでも何でもない一介の賃貸農園に生まれた平民の子供で、それも出身地すら明らかでない怪しげな苗字の持ち主を父親とする私生児で、おまけにスペインには一生涯一度も足を踏み入れたことがない 植民地人 で、しかもそれは女で、なおかつ修道女である、という幾重にもおよぶ不利な立場の絡みあいの中から、奇跡のように、同時代のスペイン文学最大の作家が生まれることになったのだった。

    そのような土地柄にあっては、修道女が恋愛の機微を詩に歌うというのは相当に常識外れでリスキーなことであり、そんな女が、正式に神学を修めることを認められていないにもかかわらず、神学論文を出版するともなれば、激しい非難が巻き起こり、異端の声すらあがりかねないことは、おそらく誰にでも予想ができた。しかし、その両方を実際にやってのけた彼女を受け入れるだけの許容量が、奇跡のように、歴史の中の一瞬、この世界にはたしかにあったのだった(一方、ヨーロッパでは、彼女の全集が宗教的な批判に曝されることなくくりかえし再版されたのだったし、ポルトガルの一部の女子修道院にはソル・フアナの詩のファンクラブのようなものができて、彼女に作品を依頼してその写本を作り、複数の修道院間のネットワークの中で回し読みされるといったことがあった)。

    けれども彼女の作品の場合、単なる表現の巧みさということ自体よりも、作品の内容の現代的な意味での面白さ、つまり、自己主張の強さが際立っていて、そこに凄みがあるのだ。作品の技術的な巧みさと、作者の主張やキャラクターの興味深さとが両立しているのだ。ゴンゴラの亜流・模倣がなおも横行するメキシコで、ソル・フアナには技巧はたしかにあったのだが、それ以上に彼女には、徹頭徹尾、読み手に訴えたい個人的テーマがあったのである。それゆえ、彼女は技巧だけに還元されなかった。バロック詩は様式美だけに陥りがちなのだが、彼女には自分のテーマ、すなわちお決まりの様式から溢れてしまうものが明確にあったがゆえに、単なる様式美から逃れることができたのだった。これが彼女の最も突出したところであり、ロマン主義以降の文学観(作者の個性だとか主張だとか、理性の束縛を越えた自然なエモーションの発露だとかに価値を見出す文学観)の中に生きているわれわれにも彼女の作品が意味をもって響いてくる源泉なのだ。彼女はバロック文学を最初に脱出した人だったのだ。

    こうしたテーマは、現代でも賛否両論を巻き起こしうるものだろうが、彼女の時代には今以上に先鋭的な政治的テーマだった。そして、これほど政治的なテーマを詩においても散文においても、彼女ほど明快に、恐れなく表現した文筆家は同時代にひとりとしていなかったと言ってよい。

    しかし彼女は、言いたいことを言うときには驚くほどフランクに口にすることができる 類 い 稀 な勇気の持ち主だった。いわば彼女は、作家としてこれらのテーマを取り扱うために修道女になった人だったのだ。彼女には、スペイン文学に多くあらわれた神秘主義文学の宗教人作家たちのような宗教的霊感などなかった。彼女は宗教的な動機で修道女になった人ではなかった。彼女は、はっきりと割り切れた世俗的な動機で修道女になった人だった。

    ちなみに彼女は松尾芭蕉とまったくの同時代人で

    本書に収められた手紙で語られているところによれば、フアナは姉が通う寺子屋的な私塾に同行しているうちに、五歳ぐらいまでに読み書きを覚えてしまい、以後、祖父の書斎など手近なところにある本を読みあさることで知的な好奇心を満たす早熟な少女だったようだ。八歳ごろには、メキシコ市に「大学」というものがあることを知り、女は入学できないことを聞かされると、男装して行かせてほしいと言い募って母を困らせた。当時の大学では、法学などの若干の例外分野をのぞけば、基本的には学者は神学者すなわち聖職者であり、したがって聖職者になる道がまったくない女には学問を修める必要はないとされ、高等教育はもとより、中等教育を受けられる機関も存在しなかった。裕福な家では家庭教師をつける場合があったが、フアナの場合は結局、私塾以後、独学以外の勉強をする機会を得ることはなかった(十代半ばの一時期には、ラテン語の家庭教師に数回レッスンを受けたという)。

    結婚というものに対して抱いていた全面的な拒絶」を貫徹できる唯一の場所であるがゆえに修道院に入ることを選んだのだ、と。この「結婚生活に対する拒絶」という表現と、作品の中に見られる同性に対するかなりエロティックな表現の内容から、ソル・フアナは同性愛だったのではないか、という憶測も広くされており、まったく根拠がないわけでもないように見える。

    同時代のスペインで最も裕福な女性のひとりだったとされるが、美貌で知られ、詩心もあった。このマリア・ルイサ(副王妃の名前)とソル・フアナの関係は、誕生日を祝福する詩を贈りあったりするところから発展して、やがて互いに相手の美しさを称賛する詩や肖像を交換したりするようになり、ソル・フアナは、ほとんど男から女にあてた恋愛詩とも読めるようなエロティックな傾きをもった作品をいくつも書き送った。マリア・ルイサの側では、その地位と富を利用してソル・フアナを支え、擁護し、非難から守り、詩作を注文したり報酬を払ったりして作品作りを刺激した。

    ふたりの間の結びつきはこのように、友情と恋愛感情、宮廷人としての上下関係、アーティストとパトロンの関係などが入りまじった複雑なもので、それに刺激されてソル・フアナは世俗的な詩と戯曲の制作に激しく打ちこむことになった。一六八〇年代の彼女の作品としては、私小説的な恋愛詩と判断せざるをえないものが少なからず生まれることになり、その傍らで、高まる名声と、それとセットになった中傷に対する苦慮や、知的探求への願望、男女間の不平等への批判など、これまた彼女の大きな特徴となる知的な、批評的な主題群が形作られていった。ソル・フアナとマリア・ルイサの間のあまりにも濃密な関係はさまざまな想像をかきたてるものだが、彼女との出会い、そして庇護がなければ、ソル・フアナが、時代と身分の拘束を抜け出して、後世に残るアーティストとして自らを成就することがなかったのはほぼ確実だと思われる。

    十七世紀末のメキシコで、宗教的な抑圧社会のただ中で、こんな表現がありえたんだ、そんな生き生きとした人の存在が許され、社会的にも歓迎されたのだ、ということを多くのひとに知ってもらいたい、それによって、ステレオタイプを超えてメキシコという国を知り直してもらいたい、ラテンアメリカの植民地社会に対するイメージを修正してもらいたい、というのが僕にとってこの本を作る動機となった。というのも、僕が偏愛するキューバの作家レサマ=リマが説いていたように、文学の大事な機能のひとつは、大人になるとともに社会によってつぶされてしまうのが当たり前だと見なされている幼児性のようなもの、反社会的で天真爛漫なものが、実はすべての人の中に生き続けているのだと証し立てて、それに表現をあたえることだと確信しているからだ。

    ソル・フアナはきわめて明晰な文章を書くが、分かりにくいところも多い。それには、わざともってまわった表現によって曖昧化しているケースもあれば、ことばの遊びや機知として、わざとことばを多義的に使っているケースもある。古文としてのむずかしさもさることながら、この意図的なむずかしさがバロック文学の中枢にはあり、翻訳者泣かせの部分である。それを翻訳において的確に実現するのは不可能に近いが、一方、やはり翻訳することによって、原語の読者でも意識しづらいもの、発見しづらいものを発見し、確定できるという側面もたしかにあった。今回の翻訳においても、少なくともひとつは、通常、了解されている以上に鮮明な意味をソル・フアナの詩の中に見出し、訳出できたところがある。それが虚栄( vanidades)という語をめぐる一篇である。

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    2024年11月18日
  • 悪魔とプリン嬢

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    人間の本質は善か悪か。難しいテーマのように思えるが、設定がたくみで序盤から面白い。心の中にいる天使の輝きと悪魔のささやきに揺れる登場人物たち。信仰と犯罪、町に伝わる聖者の逸話などの間で様々な論議がかわされる。最後はうやむやにならず、明確な解答にすっきりした読後感だった。

    昔のアニメとかでよくあったアレ、
    主人公がよこしまな考えを抱いたときに横から登場する、
    悪魔「やっちゃえよ」
    天使「ダメだよ!」
    みたいなシーンを思い出しながら読んだ(笑)。

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    2021年08月28日
  • 11分間

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    ネタバレ

    アルケミストにハマらなかっただけに衝撃を受けた。怒涛の読書体験で完全に圧倒された。全てが熱くて燃えている一冊だった。ああやってオープンに話せる人をパートナーにほしい。「当たり前」に疑問をもちそれについて話すことをためらわない人を。最初のペンのエピソードから、なにからなにまで魅了。

    最後は、あそこで途切れるから良いのにという思いが、特に私も「終」の文字のあとを想像してしまうからこそ、思ったけど、最高にhopeless romanticでもある。ロマンチックを信じている人だからこその作品。

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    2021年06月27日
  • 11分間

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    ネタバレ

    2021.4.7 ノートから転記

    ほんとうに面白い作品だった。正直初めのほうは売春をするに至るまでの彼女にそこまで前のめりにならず、こつこつと読んでいったのだが、中盤で一人の画家に出会うところで惹かれはじめた。そしてなによりも痺れたのが、運命的な出会いを果たし主人公がそこから正の方向に導かれていくのかと思いきや、サドマゾという〈痛み〉の誘惑と出会って引きずり込まれそうになるところだ。確かに人ってそんなすぐに正解が正解だと理解して身を委ねられるものでないと思えた。恋、愛、セックスについて、例えばオナニーとセックスの快感は何が違うのかというのを誰にも伝わるように描いていると思った。アルケミストはもちろん大好きだが、じっくり読もうとしたうえでこの本も大好きだった。ほんとうに苦しいときに、この本は僕を救う。

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    2021年05月04日
  • 11分間

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    感想を書くのが難しい。

    描写の生々しさが伝えてくる情景や感情がすっとはまることもおおくて、あぁ、わかる、素敵、と思う場面がいくつかあった。
    時々のマリーアの日記からも、背伸びをして大人になっていっていると自分に言い聞かせて、自分を騙して深入りしないようにして、他人の期待と自分の夢との葛藤、理性を超える瞬間、新しい経験、二十歳前半の女の子ならではのむず痒さ。

    面白かった。

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    2020年11月11日
  • 旅立つ理由

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    いゃ〜、面白い短編小説集だった。200ページ程度の本に、21編の短編小説が収められている。更に、門内ユキエさんの素敵な挿絵もふんだんに収載されており、平均すると、1編が8ページ程度の、本当に短い小説の集まり。
    どれも味のある小説ばかりだけれども、私の好みをあげれば、「キューバからの二通の手紙」「一番よく守られている秘密」などの少し洒落た小説と共に、「アフリカの流儀」「アミーナの買い出し」「父祖の地への旅」といった、主人公のパートナー(たぶん、作者の実際の妻がモデル)であるアミーナの祖国であるウガンダでの姿を描いたものだ。
    特に、主人公が初めて、アミーナのウガンダへの里帰りについて行く「アフリカの流儀」が好きだ。私の妻はタイ人、私がタイで勤務していた時に知り合い結婚した。妻はタイでもバンコクではなく、地方、それも相当に田舎の出身だ。この小説を読んで、私が初めて妻の里帰りに付き合った時のことを思い出した。アフリカに流儀があるように、タイの田舎にはタイの田舎の流儀があり、その中で生き生きとしている妻の姿を見るのは、悪くないなと感じたことをよく覚えている。

    この小説集は、ANAの機内誌「翼の王国」に連載されていたものを単行本にしたもの。そういう本に連載されていた小説なので、読むと旅行に出かけたくなる。

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    2020年06月27日
  • 七つの殺人に関する簡潔な記録

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     700ページの大作、書籍というよりは壁もしくは鈍器といったほうが良い「七つの殺人に関する簡潔な記録/マーロン・ジェイムス」です。よくこんな本出す気になったな早川書房。しかも、中は二段組みで書かれており、正味2倍の容量。そして、忍び寄る老眼によってぼやけて見えるため、攻略難易度が異常に高いのが特徴です。いやー、時間かかりましたよ読むの。3か月はこれにかかりきりでした。
     ジャマイカの英雄、ボブ・マーリーにまつわるお話なのですが、(まつわるといっても本人は全部で10行くらいしかでてこない)、なんというか凄すぎて興奮が止まりません。「ナルコス・ジャマイカ編」とでもいえば良いのでしょうか。様々な登場人物が織りなす、スーパーバイオレンス群像劇。ドンパチとドラッグによる酩酊の中に潜む人間模様が深く、出てくるキャラクターの魅力がガルシア・マルケスmeetsNetflixとでも言いましょうか物語をグイグイとドライブしていきます。
     このボリュームだからこそ出せる小説の良さがここにはあります。人と人の関係が折り重なり、事件と事件が交錯し、場所と場所を移動し、時間と時間を繋げて、ディテールまでこだわり、多層で豊穣な物語にするにはこれくらいないと中途半端になってしまうでしょう。
     他の小説家もこのくらい長いのを読者無視して書きたいのでしょうが、編集やら出版社やらに反対されて折れてしまったりするはずです。そこをかいくぐってこのボリュームで出版されたことに拍手です。映画でいうと濱口竜介「ハッピーアワー」どころかタル・ベーラ「サタンタンゴ」くらいの重厚作品、皆さんたじろがずチャレンジしてください。本気で面白いです。

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    2019年11月04日
  • 七つの殺人に関する簡潔な記録

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    ある「歌手」の暗殺未遂事件について、様々な立場の人物の視点から真相を探ってゆく。
    膝の上に乗せるのにちょうどよい分厚さ。

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    2019年09月08日
  • ラ・カテドラルでの対話 (上)

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    ネタバレ

    いつも沖縄に出張にいくときにラテンアメリカの文庫を携えるようにしているが、最初、上巻だけ持って行った。
    面喰らいながら書いたメモが、以下。

    @
    複数の会話が入り乱れる。時間の混乱。しかし似たトピックを話していたり、連想的に響きあったりすることもある。
    地の文においては、彼がいうのだった、と人称の妙。
    地の文は会話文で中断されなければ原則的に改行なし。
    おまえは何々だったなサンティアーゴ。と、作者の声なのか、サンティアーゴの自問自答なのか、も地の文に紛れ込む。
    地の文においても、たとえば208ページ、もちろん構わないのよ、いいことだと思っているのだった。と、直接話法?と間接話法?が入り混じる。

    自分(そして国)はダメになってしまった、遡ればいつからだったか?あのときだったのだろうか、と話しながら度々考えている。
    全体小説を書きたいと思った時、こういう文体と形式を選ばざるを得なかった。ボヴァリー夫人なんかは単純で純朴だ。
    ところで、アンブローシオが坊ちゃんに話しかけるだけでなく、旦那さんにも話しかけているが、誰?=たぶんフェルミン>108p。

    ※もっと分析を頑張るならば、地の文でこういう話、そこに混入するのは誰と誰の会話でどういう内容か、まで。
    また、各人物ごとにエクセルなどで時系列のマトリックスを作るのもおもしろいかも。
    @

    上巻を読み終えてから下巻の訳者解説を読んで、面喰うのも無理はないと納得した次第。
    読み終え、各章ごとのあらすじをまとめ、登場人物の表(B5にたっぷり!)を作り、もっと分析したいと思いつつも果たせないので、いったんここで感想を書くことにする。

    ざっくり言えば、過去を悔いている(自分は、そして国は、いつから駄目になってしまったのだろう、という問いへの執着ぶりが独特)青年が、かつての実家の使用人と再会し、ラ・カテドラルという酒場で飲みながら対話する、という大枠。
    四方山話噂話過去話などなどが入り乱れ入り混じり読者は渦に巻き込まれていくが、中心にあるのは「(息子にとっての)父を巡る謎」。

    視点人物であるサンティアーゴの父は、政治にどっぷりの商人だが、ある種のセクシャリティを隠しており、ある殺人事件を機に息子が探り合ってしまう。(「間抜けのふりをするのはやめてくれ」「二人で率直に、ムーサについて、父さんについて、話をしようじゃないか。彼に命令されたのか?父さんだったのか?」という序盤の台詞が、後半に効いてくる)
    次の視点人物であるアンブローシオの父は、ムショ帰り。青春期の息子がいる家に帰り、息子の性格を曲げてしまう。
    さらに政治的重要人物であるカヨも、禿鷲と綽名される金貸しの父を持つがゆえ、独特なセクシャリティを持つ。

    というように、父ー息子ー政治や権力ー性、というテーマがあり、そこにアンブローシオの妻となる使用人のアマーリアや、差別意識の強いサンティアーゴの母や、カヨが囲う愛人のオルテンシア(=ムーサ)やが緊密に絡んでくる。もちろん性がかかわれば男女両面ひっつくのは当然なのだが。
    政治劇と個人劇がつながるのが性、というのは、下衆だが、吉本隆明や埴谷雄高を連想したりもした。

    ネットで感想を漁っていると、火サスをタランティーノやゴッドファーザーPART2っぽく書きました、という例えがあって、膝を打つ。
    「緑の家」と較べるとスケールの小ささは否めないが、むしろ日本の学生運動を連想したり、家庭の権力性を考えたり、と、自身に引き付けて考えるきっかけになるのは、こちらかなと思ったりもした。

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    2018年12月05日
  • ラ・カテドラルでの対話 (下)

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    ネタバレ

    いつも沖縄に出張にいくときにラテンアメリカの文庫を携えるようにしているが、最初、上巻だけ持って行った。
    面喰らいながら書いたメモが、以下。

    @
    複数の会話が入り乱れる。時間の混乱。しかし似たトピックを話していたり、連想的に響きあったりすることもある。
    地の文においては、彼がいうのだった、と人称の妙。
    地の文は会話文で中断されなければ原則的に改行なし。
    おまえは何々だったなサンティアーゴ。と、作者の声なのか、サンティアーゴの自問自答なのか、も地の文に紛れ込む。
    地の文においても、たとえば208ページ、もちろん構わないのよ、いいことだと思っているのだった。と、直接話法?と間接話法?が入り混じる。

    自分(そして国)はダメになってしまった、遡ればいつからだったか?あのときだったのだろうか、と話しながら度々考えている。
    全体小説を書きたいと思った時、こういう文体と形式を選ばざるを得なかった。ボヴァリー夫人なんかは単純で純朴だ。
    ところで、アンブローシオが坊ちゃんに話しかけるだけでなく、旦那さんにも話しかけているが、誰?=たぶんフェルミン>108p。

    ※もっと分析を頑張るならば、地の文でこういう話、そこに混入するのは誰と誰の会話でどういう内容か、まで。
    また、各人物ごとにエクセルなどで時系列のマトリックスを作るのもおもしろいかも。
    @

    上巻を読み終えてから下巻の訳者解説を読んで、面喰うのも無理はないと納得した次第。
    読み終え、各章ごとのあらすじをまとめ、登場人物の表(B5にたっぷり!)を作り、もっと分析したいと思いつつも果たせないので、いったんここで感想を書くことにする。

    ざっくり言えば、過去を悔いている(自分は、そして国は、いつから駄目になってしまったのだろう、という問いへの執着ぶりが独特)青年が、かつての実家の使用人と再会し、ラ・カテドラルという酒場で飲みながら対話する、という大枠。
    四方山話噂話過去話などなどが入り乱れ入り混じり読者は渦に巻き込まれていくが、中心にあるのは「(息子にとっての)父を巡る謎」。

    視点人物であるサンティアーゴの父は、政治にどっぷりの商人だが、ある種のセクシャリティを隠しており、ある殺人事件を機に息子が探り合ってしまう。(「間抜けのふりをするのはやめてくれ」「二人で率直に、ムーサについて、父さんについて、話をしようじゃないか。彼に命令されたのか?父さんだったのか?」という序盤の台詞が、後半に効いてくる)
    次の視点人物であるアンブローシオの父は、ムショ帰り。青春期の息子がいる家に帰り、息子の性格を曲げてしまう。
    さらに政治的重要人物であるカヨも、禿鷲と綽名される金貸しの父を持つがゆえ、独特なセクシャリティを持つ。

    というように、父ー息子ー政治や権力ー性、というテーマがあり、そこにアンブローシオの妻となる使用人のアマーリアや、差別意識の強いサンティアーゴの母や、カヨが囲う愛人のオルテンシア(=ムーサ)やが緊密に絡んでくる。もちろん性がかかわれば男女両面ひっつくのは当然なのだが。
    政治劇と個人劇がつながるのが性、というのは、下衆だが、吉本隆明や埴谷雄高を連想したりもした。

    ネットで感想を漁っていると、火サスをタランティーノやゴッドファーザーPART2っぽく書きました、という例えがあって、膝を打つ。
    「緑の家」と較べるとスケールの小ささは否めないが、むしろ日本の学生運動を連想したり、家庭の権力性を考えたり、と、自身に引き付けて考えるきっかけになるのは、こちらかなと思ったりもした。

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    2018年12月05日
  • 悪魔とプリン嬢

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    パウロ・コエーリョ作品の中では訳文も比較的読みやすく、世界観も超俗的なスピリチュアル・メッセージを含むものというよりはむしろ限りなく人間の悪という俗世間に近い内容を描き出している。悪とはなにか、を知りたい人はぜひ。

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    2015年08月02日
  • 知への賛歌 修道女フアナの手紙

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    ネタバレ

    【本の内容】
    詩こそが最高の文学だった17世紀末。

    ソル・フアナはそんな時代に世界で最も愛された詩人だ。

    美貌の修道女でありながら、恋愛や抑圧的な社会への抗議をテーマとした作品を残した。

    彼女の思想を明快に表現した詩と2通の手紙を、詳細な解説とともにまとめたわが国初の試み。

    [ 目次 ]
    詩のアンソロジー
    告解師への手紙

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    [ 関連図書 ]


    [ 参考となる書評 ]

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    2015年01月18日