ソルフアナっていう1600年代のメキシコに生まれたアメリカ大陸初のフェミニストの本超感動した。フェミニズム系の本で初めて感動した。私が不良少女から勉強に目覚めた時の思いがそのまま書かれてて鳥肌たった。
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス Sor Juana Inés De La Cruz
生年:1651年
没年:1695年
メキシコの詩人、修道女。世界に版図を広げたスペイン・ハプスブルク帝国の末期、植民地に生まれた、同時代のスペイン文学最大の作家。結婚せず学問を修めたいがために修道女となり、恋愛の機微や女性の生き方、男性批判などの個人的主題を文学にもちこんで恐れなく明快に表現した。現在、そ...続きを読む の肖像はメキシコの200ペソ紙幣で使われている。
300年前のメキシコに社会の規範や道徳と闘った女性がいた! 詩こそが最高の文学だった17世紀末。ソル・フアナはそんな時代に世界で最も愛された詩人だ。美貌の修道女でありながら、恋愛、女性の権利、学問への欲求、抑圧的な社会への抗議などをテーマとした作品を残した。彼女の思想を明快に表現した詩と2通の手紙を、詳細な解説とともにまとめたわが国初の試み。
知への賛歌 修道女フアナの手紙 (光文社古典新訳文庫)
by ソル・フアナ、旦 敬介
ソル・フアナはアメリカ大陸最初のフェミニストである、と言われるのはそのためだ。
92 番について 『カスタリアの氾濫』より。ソル・フアナのもっとも有名な作品のひとつで、アメリカ大陸におけるフェミニズム意識の最初のあらわれとされる。レドンディーリャという八音節の四行詩の形式。何連でも続けることができる。各連では一行目と四行目、二行目と三行目の末尾が子音まで含めて脚韻を踏むことが求められる。
また、手紙の末尾では、自分が今後何かを書くことがあれば、かならず「あなた」の校閲を受けるようにする、と述べているが、この手紙の翌年、一六九二年にはふたたびスペインで彼女の作品集第二巻が出版されており、この手紙が書かれた時点では、すでにその出版準備が始まっていたと考えられる。そこには主に、ラグーナ侯爵夫妻が帰国した一六八八年以降に書かれた作品が収められ、「アテネー書簡」も収録された。この第二巻も好評を博してすぐに再版されている。つまり、ソル・フアナは八九年から九二年ぐらいの時期に、世俗的な作家としてのキャリアの絶頂にあったといってよい。この手紙は、その時期のものである。しかし、「ソル・フィロテア」の叱責の序文以後、ソル・フアナは、明らかに作家としての活動を低下させていき、やがて一切の世俗的文筆を断ったとされるが、フィロテアの叱責がそのきっかけだったとも、他の何が原因だったとも、正確には断定できない。(訳者)
つまり、言えないことがらは、言えないのだということだけでも言っておく必要があるのです。そうしないと、黙っているのが、何も言うことがないのではなく、言わなければならないことがあまりにも多くてことばの中に収まりきらないのだ、ということを人に理解してもらえないからです。
なぜなら、中傷する人たち自身の判断にもある通り、私には博識でなければならない義務もなければ、的を射るだけの能力もないのですから。それゆえ、たとえ私が誤ったことを言っても、それは罪でも不面目でもないのです。罪でないのは、私にはその義務がないからで、不面目でないのは、もともと的を射る可能性が私にはないからであり、要するに「誰にも不可能事をなしとげる義務はない」からです。それに本当のところを言えば、私は強いられて無理やり、他の人を喜ばせるために文を書いたことしかないのです。自分としての愉悦などなかったばかりか、むしろはっきりと不快をおぼえながら書いていたわけで、それというのも、私自身、自分に文芸の才能や、書き物をする人の責務として求められる機知があると判断したことはないからです。というわけで、しきりに注文してくる人に対する私の返事はいつも、そしてそれが宗教的主題に関してであればなおさら、次のようなものなのです──「私にはどんな知力があるというのですか、どんな学問、どんな題材が私にあるでしょう? そんなことに必要な知識もなく、あるのは表面的な駄弁ばかりなのですから。
その話はちゃんとわかっている方にやってもらってください、私は宗教裁判所とのごたごたはお断わりですし、無知な私は響きの悪い文を口にしてしまったり、本物の知性の持ち主のことばを歪めてしまったりするのが怖くて震え上がってしまうのですから。私は物を書くために勉強しているのではなく、ましてや教えるためではなく(それは私の場合、途方もない傲慢となるでしょう)、ただ単に、勉強すれば少しでも無知が減るものかどうか見てみたくてやっているだけなのですから」。このように私はいつも返答し、たしかにそのように感じているのです。
私の性向に関する話を続けますと──これについてはすっかりお知らせしておきたいのです──、私が三歳になる前のことですが、母が私の姉のひとりを「アミーガス( 13)」と呼ばれているものに通わせて、字を読めるよう学ばせにやっていたところ、私は親愛と悪戯心から姉の後ろにくっついて出かけていったのです。そこで姉が授業を受けているのを見ると、私は自分も読めるようになりたいという欲求に一気に燃えあがり、先生を騙して(騙しているつもりで)、私にも教えるようにと母が命じている、と先生に言ったのです。先生は信じませんでした、とても信じられることではなかったからです。それでも彼女は、私の思いを満足させるために授業をしてくれました。そこで私はその後も教室に通い続け、先生は私に教え続けたのですが、もう冗談半分ではありませんでした、というのも、経験から彼女にはすぐにわかったからです。私はごく短い期間で字が読めるようになり、母が気づいたときにはもうすっかり文が読めるようになっていました。先生は母には突然知らせて喜ばせ、ふたり一緒に褒めてもらおうと考えて隠していたのです。一方、私もまた黙っていたのは、言われていないことを勝手にやったと言ってぶたれると思ったからでした。私を教えたこの先生はまだ存命であり(神のご加護を)、その通りだと証言してくれるはずです。
そのころの自分のことで覚えているのは、おいしいものに目がないのはその年代の子として普通だったのに、チーズを食べるのをやめていたことです。チーズを食べると馬鹿になるという話を聞いたからでした。子供において食欲は強力なものであるにもかかわらず、私にとっては、知りたいという欲望のほうが食べる欲望にまさっていたわけです。その後、六歳か七歳ぐらいになって、すでに読み書きはでき、家事や裁縫など女が習う仕事も全部できるようになっていたころに、私はメキシコ市には大学や学校といって諸科学を勉強できる場所があることを聞き知りました。それを聞くや否や、私は無理な願いを母に言いつのって悩ませはじめました──服を取りかえて[男装して]、メキシコ市に送ってくれ、勉強して大学に入るために親戚の家に住まわせてくれ、と。母はそんなことは望まず、それは正しい判断でした。しかし、私は祖父が持っていた多岐にわたる多数の本を読むことでその欲望を満たしていき、それをやめさせようとする罰も叱責も役には立ちませんでした。そのため、私が実際にメキシコ市に出てきたとき、人々が驚いて目を見張ったのは、頭の良さというよりも、かろうじて話ができるようになる程度の時間しか生きていない年齢にしてすでに、貯えもっていた記憶と知識の量のほうだったのです。
私はラテン語を習いはじめましたが、受けた授業は二十回に満たなかったと思います。私の熱意は非常に強いものだったため、女にとって──それも花咲く年ごろであればなおさら──髪の毛は自然の飾りとしてとても価値があるものとされているにもかかわらず、私は指四本ないし六本分( 14) ほど自分で髪を切り、切る前にどこまであったかを計っておいて、今度そこまで伸びてきたときに、それまでに自分で学ぶと決めたあれこれのことがまだわかっていなければ、自分の馬鹿さの罰としてまた髪を切…
というのも、髪が伸びるのは早く、私が学ぶのは遅かったからで、実際に私は馬鹿さの罰として髪を切りました。こんなにも知識がなくて丸裸な頭が髪の毛を着ているなんて理不尽に思えたからです…
私が修道院に入ったのは、修道女という身分には私の性向にとって不快なこと(公式なことがらではなく、付随的なことがらのことです)がたくさん含まれているのはわかっていたにもかかわらず、それを考慮しても、結婚というものに対して全面的な拒絶を抱いていた私にとっては、それがもっとも不適切さの度合いが低い選択肢だったからであり…
この[勉強好きという]性向という形で、私は自分自身を引き連れてきていただけでなく、自分の最大の敵も同時に引き連れてきていたわけで、天がそれを私にあたえたのは褒美としてなのか罰としてなのか私には判断できませんが、この性向は宗教生活にともなうさまざまな活動によってつぶされたり阻害されたりするにつけ、火薬のように破裂して、「欠乏は欲望の原因なり」を私の中で実証することになったのです。
こうして私は、本を読んでまたさらに読むという勉学の仕事に復帰しました(いや、これは間違った言い方です、やめたことは一度もなかったのですから)。継続したのです、書物そのもの以外には先生がいないままに、勉強して、また勉強する、という仕事を(これは私にとっては、義務を終えたあとの余った時間のすべてをあてる休息に他ならなかったのですが)。魂のない文字だけで、先生の生きた声と説明なしで勉強するのがどれほど辛いことかはすぐにわかります。
私はこのようにして進んでいきました。すでに述べたように、常に勉学の歩みを聖なる神学という頂に向けていました。でも、そこまで到達するには、人間の科学と芸術という階段をのぼっていく必要があると私には思われました。なぜなら、「諸科学の女王」[神学]の文体を、その従僕の文体すら知らない人が理解できるはずがあるでしょうか? 論理学を知ることなしに、聖書に書かれている全般的な、個別的なさまざまな論法を知ることなどできるでしょうか?
ヨブ記の中では、神がヨブにこう言います──「あなたはプレイアデスを鎖で結び、オリオンの綱を外せるか。かの星々をその時に引き出し、また熊と彼女の子らを導ける( 21)」。こうした言い方は、天文学の知識がなければ理解するのは不可能です。こうした高貴な学問ばかりではありません。工芸的な技芸ですら、そこ[聖書]で述べられていないものはひとつとしてないのです。すると結局のところ、他のすべての書物を包括している書物[聖書]、他のすべての学問を含みこんでいる学問[神学]は、どうやったら理解できるのでしょうか? それを理解するには、他のすべての書物と学問が役立つのではないのでしょうか? それらをすべて知ったあとでも(それが容易なことではなく、可能でもないことはすぐにわかりますが)、これまでに述べたものに加えて、さらにもうひとつ別の状況が必要になります。
もしアリストテレスが料理をする人であったなら、もっと多くのことを書けたはずだ、と。さてそこで、私の中での思弁のありようについて続けるならば、これは私においては絶え間のないことであって、本など必要ないほどなのです。ある機会に、おなかのひどい事故があったせいで、お医者さんたちに勉強を禁止されたことがあり、私は数日間その通りにして過ごしたあとで、彼らにこう言ったほどです
寡婦ブレシラも同じ称賛を彼から受けています。そして、名高い処女エウストキウムもまた同様です。どちらもこの聖女の娘たちですが、二人目のほうは、その学識から「この世の驚異」と呼ばれたほどだったのです。ローマのファビオラ(*) もまた、聖書についてこのうえなく博学でした。ローマの女性、プロバ・ファルコニア(*) は、ウェルギリウス(*) の詩文の寄せ集めを使って、我らの聖なる信仰の神秘について優美な本を一冊書きあげました。
この点はいかにも正当であって、一般に愚かであると考えられている女たちにだけあてはまるわけでなく、男であるというだけで賢者であると思っている男たちにも同様にあてはまるのであり、聖書の解釈は、博学で有徳でない者、素直で善良な傾きの知性を持たない者にはもとから禁止すべきだったのです。なぜなら、そうしなかったことから、私の考えでは、これほど多くの分派が出てしまったのであり、こんなにも多くの異端が生じてしまったのですから。というのも、無知になるために勉強する人は多く、とくに、横柄で、不穏で、尊大な精神の持ち主や、法の定めの中に新奇なものを持ちこむのが好きな人たちがそうなのです(法は本来、新奇なものを拒絶するものなのですが)。
知がもたらす害のほうが、無知がもたらす害よりも大きいのです。ある分別ある人の言によれば、人はラテン語を知らないからといってまったくの馬鹿者だということになるわけではないが、ラテン語を知っていれば、それはまったくの馬鹿者になる資格を得たということである、とのことです。それにつけ加えて私なら、少しばかりの哲学と神学を学び、少しばかり外国語の知識を得ることによってこそ、馬鹿者は完成されるとでも言っておきたいところ
こういう人たちにとっては、話をもとにもどしますが、勉強することは害になります、なぜならそれは、狂っている人の手に刀を持たせることだからです。身を守るためのこのうえなく高貴な道具であるものが、その人の手の中では、自らの死と他の多くの人の死に他なりません。
博識が彼らにおいては害をなしたわけですが、その理由は、博識が魂にとっては最良の養分であり命であるにもかかわらず、ちょうど、調子をこわして悪い熱気をもった胃袋が、よい食物を受け入れるほど、より不毛で腐敗した 禍々しい液体を生み出すというのと同じように、こうした悪辣な人たちは、勉強をすればするほど、よりひどい見解を生み出すことになるからです。
彼らにおいては理解力が、まさにその養分となるべきものによって阻害されてしまっているわけで、たくさん勉強しても少ししか消化できないのは、自分の理解力の限られた容積に合わせて調節しないからです。これに関して、使徒はこう言っています──「私に与えられた恵みによって、あなたがたのうちにいるすべての者に私は言うが、適切である以上に賢くあってはならない。
私がアリストテレスや聖アウグスティヌスと同等かそれ以上に知りたいと望んだところで、もし私に、聖アウグスティヌスやアリストテレスの能力がなければ、そのふたりよりも多く私が勉強したところで、それを成し遂げることなどできないだけでなく、私は自分の貧弱な理解力の働きを、不釣り合いな目標によって、さらに弱め、鈍らせることになるのです。
文法的な面に限っても、単数形のかわりに複数形になっていたり、二人称から三人称に移り変わったりしていることなどがあり、まさに「雅歌」にその例が見られるのではありませんか?──「彼の口のくちづけで、彼が私にくちづけしてくれたら。あなたの愛は、葡萄酒よりもずっといい( 72)」。形容詞を、対格にすべきなのに属格にした例、「救いの杯を私は挙げよう」というのはどうでしょうか( 73)? また、女性形を男性形のかわりに使ったり、反対に、あらゆる罪を姦淫と呼びならわしたりした例がないでしょうか?
つまり、私たちのカトリック教会は詩文を軽んじていないどころか、むしろそれを教会の讃歌に利用しており、聖アンブロジウスや聖トマス、聖イシドルスその他の詩文を朗唱しているのです。聖ボナヴェントゥーラ(*) は詩文に対して非常に愛着をもっていたため、彼の著作で詩が出てこないページはほとんどないほどです。聖パウロも詩を勉強したことがはっきりと見てとれます、というのも、詩をよく引用していますし、アラートスの作品──「われわれは神のうちに生き、動き、存在する( 82)」──を翻訳したほか、パルメニデスの作品──「クレタ人はいつも噓つき、悪しき獣、怠けた食い道楽( 83)」──に言及しています。
これはわが父、聖ヒエロニムスが「良きことばは秘密を必要としない( 89)」と言い、聖アンブロジウスが「隠れるのは 邪 な意識に特有なことである」と言っている通りです。
喝采はしばしば、自分のものではないものを自分のものと勘違いさせてしまうものなので、人は大いに用心する必要があり、心の中に使徒の次のことば──「あなたの持っているもので、もらったものでないものがあるか? もしもらったものであるのなら、なぜもらっていないような顔をして誇るのか?」( 91) ──を書きつけて、称賛の刃先をはね返す盾として使わなければならないのです。称賛はたしかに槍であり、称賛とは神に対する称賛であることを見落としてしまった瞬間から、私たちの命を奪うものとなり、私たちを神の誉れをかすめ取る泥棒に変えてしまい、私たちに一時的に預けられたものである才能と、貸与されたものである能力を、それゆえきわめて厳密に管理しなければならないはずのものを、勝手に着服する横領者に変えてしまうのです。
ですから、修道女様、私は中傷よりも、称賛を恐れるのです。なぜなら前者は、辛抱という単純な行為だけで有用なものに転換されるのに対して、後者が害とならないようにするためには、謙虚であるとか、自分自身を知るといった自省的行為が大いに必要だからです。
十六世紀初めから十九世紀初めまでのおよそ三百年におよぶアメリカ大陸の植民地時代の全体を通じて、最も現代的で、最も魅力的な作家をひとりあげるとなると、十七世紀後半のメキシコ市に生きた修道女ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス(一六五一~九五年)をおいて他にない。これは英語圏・ポルトガル語圏・フランス語圏などを含めて考えてもまず変わらないだろう。ソル・フアナはハプスブルク家がスペインの王家であった時代の一番最後、いわばスペインの絶頂期の末尾に、新大陸で最も繁栄していたヌエバ・エスパーニャ副王領の首府の宮廷社会に彗星のようにあらわれ、十数年間の短い間ながらも、スペイン本国と植民地の全スペイン語世界に華々しく文名を響かせたのち、二百年ほど続くことになる忘却の中へと去っていったスターだった。
そのような保守的な時代のさなか、貴族の端くれでも何でもない一介の賃貸農園に生まれた平民の子供で、それも出身地すら明らかでない怪しげな苗字の持ち主を父親とする私生児で、おまけにスペインには一生涯一度も足を踏み入れたことがない 植民地人 で、しかもそれは女で、なおかつ修道女である、という幾重にもおよぶ不利な立場の絡みあいの中から、奇跡のように、同時代のスペイン文学最大の作家が生まれることになったのだった。
そのような土地柄にあっては、修道女が恋愛の機微を詩に歌うというのは相当に常識外れでリスキーなことであり、そんな女が、正式に神学を修めることを認められていないにもかかわらず、神学論文を出版するともなれば、激しい非難が巻き起こり、異端の声すらあがりかねないことは、おそらく誰にでも予想ができた。しかし、その両方を実際にやってのけた彼女を受け入れるだけの許容量が、奇跡のように、歴史の中の一瞬、この世界にはたしかにあったのだった(一方、ヨーロッパでは、彼女の全集が宗教的な批判に曝されることなくくりかえし再版されたのだったし、ポルトガルの一部の女子修道院にはソル・フアナの詩のファンクラブのようなものができて、彼女に作品を依頼してその写本を作り、複数の修道院間のネットワークの中で回し読みされるといったことがあった)。
けれども彼女の作品の場合、単なる表現の巧みさということ自体よりも、作品の内容の現代的な意味での面白さ、つまり、自己主張の強さが際立っていて、そこに凄みがあるのだ。作品の技術的な巧みさと、作者の主張やキャラクターの興味深さとが両立しているのだ。ゴンゴラの亜流・模倣がなおも横行するメキシコで、ソル・フアナには技巧はたしかにあったのだが、それ以上に彼女には、徹頭徹尾、読み手に訴えたい個人的テーマがあったのである。それゆえ、彼女は技巧だけに還元されなかった。バロック詩は様式美だけに陥りがちなのだが、彼女には自分のテーマ、すなわちお決まりの様式から溢れてしまうものが明確にあったがゆえに、単なる様式美から逃れることができたのだった。これが彼女の最も突出したところであり、ロマン主義以降の文学観(作者の個性だとか主張だとか、理性の束縛を越えた自然なエモーションの発露だとかに価値を見出す文学観)の中に生きているわれわれにも彼女の作品が意味をもって響いてくる源泉なのだ。彼女はバロック文学を最初に脱出した人だったのだ。
こうしたテーマは、現代でも賛否両論を巻き起こしうるものだろうが、彼女の時代には今以上に先鋭的な政治的テーマだった。そして、これほど政治的なテーマを詩においても散文においても、彼女ほど明快に、恐れなく表現した文筆家は同時代にひとりとしていなかったと言ってよい。
しかし彼女は、言いたいことを言うときには驚くほどフランクに口にすることができる 類 い 稀 な勇気の持ち主だった。いわば彼女は、作家としてこれらのテーマを取り扱うために修道女になった人だったのだ。彼女には、スペイン文学に多くあらわれた神秘主義文学の宗教人作家たちのような宗教的霊感などなかった。彼女は宗教的な動機で修道女になった人ではなかった。彼女は、はっきりと割り切れた世俗的な動機で修道女になった人だった。
ちなみに彼女は松尾芭蕉とまったくの同時代人で
本書に収められた手紙で語られているところによれば、フアナは姉が通う寺子屋的な私塾に同行しているうちに、五歳ぐらいまでに読み書きを覚えてしまい、以後、祖父の書斎など手近なところにある本を読みあさることで知的な好奇心を満たす早熟な少女だったようだ。八歳ごろには、メキシコ市に「大学」というものがあることを知り、女は入学できないことを聞かされると、男装して行かせてほしいと言い募って母を困らせた。当時の大学では、法学などの若干の例外分野をのぞけば、基本的には学者は神学者すなわち聖職者であり、したがって聖職者になる道がまったくない女には学問を修める必要はないとされ、高等教育はもとより、中等教育を受けられる機関も存在しなかった。裕福な家では家庭教師をつける場合があったが、フアナの場合は結局、私塾以後、独学以外の勉強をする機会を得ることはなかった(十代半ばの一時期には、ラテン語の家庭教師に数回レッスンを受けたという)。
結婚というものに対して抱いていた全面的な拒絶」を貫徹できる唯一の場所であるがゆえに修道院に入ることを選んだのだ、と。この「結婚生活に対する拒絶」という表現と、作品の中に見られる同性に対するかなりエロティックな表現の内容から、ソル・フアナは同性愛だったのではないか、という憶測も広くされており、まったく根拠がないわけでもないように見える。
同時代のスペインで最も裕福な女性のひとりだったとされるが、美貌で知られ、詩心もあった。このマリア・ルイサ(副王妃の名前)とソル・フアナの関係は、誕生日を祝福する詩を贈りあったりするところから発展して、やがて互いに相手の美しさを称賛する詩や肖像を交換したりするようになり、ソル・フアナは、ほとんど男から女にあてた恋愛詩とも読めるようなエロティックな傾きをもった作品をいくつも書き送った。マリア・ルイサの側では、その地位と富を利用してソル・フアナを支え、擁護し、非難から守り、詩作を注文したり報酬を払ったりして作品作りを刺激した。
ふたりの間の結びつきはこのように、友情と恋愛感情、宮廷人としての上下関係、アーティストとパトロンの関係などが入りまじった複雑なもので、それに刺激されてソル・フアナは世俗的な詩と戯曲の制作に激しく打ちこむことになった。一六八〇年代の彼女の作品としては、私小説的な恋愛詩と判断せざるをえないものが少なからず生まれることになり、その傍らで、高まる名声と、それとセットになった中傷に対する苦慮や、知的探求への願望、男女間の不平等への批判など、これまた彼女の大きな特徴となる知的な、批評的な主題群が形作られていった。ソル・フアナとマリア・ルイサの間のあまりにも濃密な関係はさまざまな想像をかきたてるものだが、彼女との出会い、そして庇護がなければ、ソル・フアナが、時代と身分の拘束を抜け出して、後世に残るアーティストとして自らを成就することがなかったのはほぼ確実だと思われる。
十七世紀末のメキシコで、宗教的な抑圧社会のただ中で、こんな表現がありえたんだ、そんな生き生きとした人の存在が許され、社会的にも歓迎されたのだ、ということを多くのひとに知ってもらいたい、それによって、ステレオタイプを超えてメキシコという国を知り直してもらいたい、ラテンアメリカの植民地社会に対するイメージを修正してもらいたい、というのが僕にとってこの本を作る動機となった。というのも、僕が偏愛するキューバの作家レサマ=リマが説いていたように、文学の大事な機能のひとつは、大人になるとともに社会によってつぶされてしまうのが当たり前だと見なされている幼児性のようなもの、反社会的で天真爛漫なものが、実はすべての人の中に生き続けているのだと証し立てて、それに表現をあたえることだと確信しているからだ。
ソル・フアナはきわめて明晰な文章を書くが、分かりにくいところも多い。それには、わざともってまわった表現によって曖昧化しているケースもあれば、ことばの遊びや機知として、わざとことばを多義的に使っているケースもある。古文としてのむずかしさもさることながら、この意図的なむずかしさがバロック文学の中枢にはあり、翻訳者泣かせの部分である。それを翻訳において的確に実現するのは不可能に近いが、一方、やはり翻訳することによって、原語の読者でも意識しづらいもの、発見しづらいものを発見し、確定できるという側面もたしかにあった。今回の翻訳においても、少なくともひとつは、通常、了解されている以上に鮮明な意味をソル・フアナの詩の中に見出し、訳出できたところがある。それが虚栄( vanidades)という語をめぐる一篇である。