旦敬介のレビュー一覧
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ネタバレフアナの読者層はまず非常に限られていた。読み書きができる知識人は、男性なら上流階級や聖職者にほぼ限られ、女性では修道女や裕福な女性くらいしかいなかった。批判の声を上げていたのも、保守的な修道院関係者や宗教指導者たちだ。つまり、彼女の作品はごく狭い修道院や宗教コミュニティ内で主に読まれており、読者の中心は修道女たちだったと考えられる。そんな中で、世俗を断ったはずの修道女フアナが、自らの修道院をサロンのように使っていると批判された。ところがフアナは、その批判の焦点を「女が学問をすること」一点にすり替えた。そして正当性の主張を展開し、キリスト賛美や美辞麗句で自らの主張を権威づけ、修辞・比喩・引用を駆使し、知的で教養ある人物としての姿を表現したのである。17世紀の修道女がこれほど強気な文章を書くこと自体が驚きだ。さらに彼女は女性の教育の必要性についても訴えている。当時、女性にとって正しい生き方とされたのは結婚・子育て・家事、あるいは修道院での奉仕であり、学問や創作は逸脱行為と見なされやすかった。それをフアナはおかしいと断言し、歴史や聖女たちの例を引きながら意義を説く。その逞しさと知性には驚かされる。
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著者は、ガルシアマルケスの息子で映画監督。 ガルシアマルケスが亡くなる直前から、彼の葬儀、著者の母が亡くなるまでを綴ったエッセイ。
記憶力が抜群で素晴らしい小説を書いたガルシアマルケスだが、晩年は認知症を患っていたということが意外だった。 病状は重度で、家族のことも認識できなかったらしい。最後はすべてを人の手で看病されていた。ノーベル賞を受けた文化人であっても、認知症には勝てない。 彼の最期は知らない方が良かったかもしれない。
彼の前半生の自伝は刊行されているが、後半生は書く気がなかったらしい。 彼にとっては有名になった後の人生は大して面白くなかったのだろう。ガルシアマルケスのプライベートなエピソードを知ることができる良いエッセイだと思った。
自分も人生を振り返ってみて、自分の身に起きた面白い出来事は、記憶があるうちにマメに書き留めておいた方が良いかなと思った。 -
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題名の『11分間』の意味は?
この小説の主人公は、ブラジルの若い女の子。
ひょんなきっかけからスイスに渡り、売春婦になる。
1年だけ。1年だけと決めて彼女は売春婦を続けるうち恋をしてしまう。
その恋の結末はイコール小説の結末なので書くのを控えるが、『11分間』というタイトルの意味は書こう。
その売春婦をしている彼女は言う。
一晩の彼女の相場は350スイスフラン。
いや、一晩は正しくない。一人のお客で350スイスフラン。
一晩というのは大袈裟だ。実際は45分で350スイスフラン。
服を脱いだり、親しげなそぶりをしてみせたり、他愛もないことを話したり、また服を着たりする時間を差し引けば正味の時間は11分くらい。11分で350スイスフラン。
11分。世界は、わずか11分しか、かからない出来事を中心として、そのまわりをぐるぐる回っているのだ(文中より引用)
この本の主題 それは、まさにセックスと愛なのだが、娼婦のような職業が彼女のような生温い態度で勤まるのかどうか疑問だし、簡単に足を洗える環境と本人の強い意志があるのかどうかもわからない。
けれど、コエーリョは、主人公を理知的な向学心のある女性として描こうとしているし、彼女は特殊な売春婦だったのかもしれない。
11分というのは、個人差があり、性差によっても意見は異なるのかもしれないが、
「11分の出来事を中心として世界は回っている」と書ききるコエーリョは潔い。
売春婦という職業は人の最古の職業のひとつとされている。
このブラジル娘は就業期間が短く高級娼館で働いているので、職業的悲壮感はあまり伝わってこない。
そのあたりコエーリョのペンの力なのだが、
この小説は、主人公の日記と挿入された文章によって構成され、その文章の方が日記のように感じるのはなぜだろう。
どちらにしても『11分間』という斬新な発想がこの小説の主題を貫いていることには間違いなく、愛の実在感は俗なるものを聖なる手触りに変化させる必然性をコエーリョは描きたかったのか。 -
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ブラジル人女性のマリーアが、11分間の営みから時間の使い方と自身の本当の欲望、本来の姿や愛について学んでいくお話。
主人公がアルケミストに影響されてるw
自分から進んで人生のジェットコースターに乗っていること、機械は制御されて安全を確保されているものということ。
魂の緊張を解きほぐす
ターミネーター型 自分の欲望に忠実で自意識過剰
プリティウーマン型 欲望を内に抑えつけている表面いい人
ゴッドファーザー型 フラットで線引きされたやりとり
純真な少女、運命の悪女、慈愛の聖母
本当のセックスとは
自分のことしか考えていない、世間のこうあるべき姿に従うだけ、誰かのために自分を犠牲にする、ただの性欲のはけ口、
本来はお金を払わなくても得られるもの
お互いを所有せず、自由に基づいて互いを捧げあう、ただの愛。
男性も、女性も関係なく、誰もが自身を探している。
本当の自分を知るためには一度無を知る必要があるのかもしれない。
暗闇の中の食事は五感を研ぎ澄まされるというが、それと似たものかもしれない。
考えずに感じる。
求めていたものに出会う
惹かれ、褒め称え、同じ時を過ごす
しかし自由で孤高な存在に恐れを覚える
いつか私を置いていくのではないかと
自分の届かない所まで行ってしまうのではないかと
恐れから孤独が生まれ、嫉妬し、束縛する
私だけのものであれと
そして愛するものに閉じ込められる悲劇
手に入れ、そして関心を失っていく
囚われた方も人生の意味を奪われやつれていく
なぜ惹かれたのか
それはありのままの姿に対するもの
その体ではなく、発されるエネルギー
閉じ込め、所有すると奪われる自由
いつでも帰ってこられるように、ただ手放す
すると自由な姿にまた惹かれる
目が見ないものを心は感じとる
所有されながら、所有しないでいる。
俗を知り、聖を知る
世の中は表裏一体
またも今の私に必要な本だった
アルケミストより難しかったけど
マリーアの言うことにわかりみしかない。
自分の欲望の実現の後回しよりも、大半を占めている中身の話が私にとっては重要だった。
私にとっては、すでにその罠から抜け出している話だったから。自分の時間は買い戻せない。
ある大きな決断をした時から、私はやめる必要がある時に切り上げられてきてる気がしてるのだけど、切り上げ時は思ってた以上に難しいことなのかもしれない。
意外と外国も性についての扱いは日本と大差ないところがあるのかもしれない。
11:11などエンジェルナンバーが続いていたが、やはりツインレイの魂のセックスの話だった。
女性は自分の思うままに突き抜けて行動していいのだ。
あともう少しで見えそうな世界。 -
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いやぁ~、読みごたえがありました。
百科事典じゃないんだから、もう。重すぎです!
・・・と文句言いつつ、この装丁、大好きなんですよね。
背表紙が特に好き。背表紙を横書きにして、絵まで入れちゃうなんて、この分厚さだから出来ること。
しかし、読んでいてけっこう頭が疲れた。
たくさんの登場人物にそれぞれの視点から見えたことをしゃべらせて、ゆっくりと全体像を浮かびあがらせていく形式の物語なんだけれども、そういうタイプの物語の常として、話の焦点が絞られてくるまでにすごく時間がかかる。通常の本ならともかく、このボリューム。半分くらい読んでも(すでに400ページ以上)、ただのギャングの抗争劇にしか見えなくて、かと言って「歌手」の狙われた理由もそれほどミステリーでもないし、いったいこの話、何が言いたいの? もしかして、私、話についていけてない?・・・などと3部あたりで非常に不安になった。
がしかーし、4部に入って、これまでの労力がどんどん回収されるかのように、「物語」が見え始め、トリスタン・フィリップスの独白部分でやっとカチリとパズルがはまった。
ああ、これはジャマイカという、とんでもなくどうしようもない国への愛の告白本なのか!
あの「歌手」は、あの国を、そしてあの国にいる人たちの気持ちを、今までで一番高く、それまでで一番遠くへ連れて行こうとした時代の象徴だったんだなあ。
「わかるか、希望ってのは、ピカピカしてて新鮮なときには、色までついてるんだぜ?」
「以前にカラーだったときがあるんだ、だがなくなっちまった。それがなんというか、ジャマイカらしい」
「なぜオレの国がこれからもいつも、失敗しないようにびくびくし続けることになるのか、その400年分の理由をまるごと全部書いてくれだなんて。笑えるだろ」
400年分どころか、たった15年分(1976年~1991年)でこのボリューム。(笑)
そりゃ400年分となると、トリスタン・フィリップスの言うとおり、「一冊の本にはデカすぎるかも」ですな・・・。
後半は、舞台がアメリカに移動するせいもあってか、ところどころで作者のジャマイカ愛が行間にあふれ出していて、今まで特に興味を惹かれたことはなかった国だったけど、ジャマイカに行ってみたくなった。っていうか、今日にでもジャマイカ料理が食べてみたくなった。最終章のジャマイカ料理の店での会話が素敵すぎる。
こういう、異郷の地で自国の料理について思いをはせる瞬間の気持ちって、全人類、全民族共通で、どこの国の話だろうと、心の奥にごんごんと響いてくる。
物語の大半はギャングの抗争に関することで、残虐な殺戮シーンもモノローグ形式だからか、実況中継風で、リアルじゃないリアル感(TVを見ているような感じ)で、凄惨なのにどこかユーモラスだったり哲学的だったりもして驚くのだけど、いわゆる普通の物語のシーン、つまり誰かと誰かの心がつながっていく過程などを描いても、この著者は芸術的にうまくて、ビックリした。(当たり前?)
特に、ドーカス・パーマーの章。この章だけで一つの小説として完成している。私的に、今まで読んだ記憶喪失ものの中でベスト。
ジョン=ジョン・Kの屈折した愛の告白も、殺伐とした現実との対比がたまらなかった。誰かを思うだけで、ひどい世の中が美しく見えてくる、って感じ。
この作家の、こういう感じのもっと短いシンプルな小説も読んでみたいと思った。
でも、「最新作はアフリカ版 "ゲーム・オブ・スローンズ" 」と書いてあったから、たぶん、この本以上に複雑長大かも・・・?
ボブ・マーリーの曲が出てくるとYouTubeで検索しまくりで、曲に詳しい人はもっとこの本を楽しめただろうになぁ、と彼の曲をほとんど知らないことを残念に思った。
しかし「No Woman, No Cry」はいつ聴いても名曲だなぁ。聴いてると優しい気持ちになる。
唯一プリンスだけYouTubeなしで脳内再生できた。姉がレコードを持っていたから。(盤面がどぎつい紫色だった)
当時は子供だったので、あのセクシーは全く理解できず、お笑いにしか見えなかったが、今は天才と分かります。この本のドーカスのアパートでプリンスを聴く場面、読んでいてすごく楽しかった。 -
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書店員を長く続けていると何度か立ち会う入荷した荷物の箱を開けた瞬間にビビっと感じる「これ面白そう!!!」。この本も目に入った時から危険なぐらい引き付けられた。ボブマーリー暗殺未遂事件!?刺激的なワードが躍る表紙はその文字以上に禍々しいほど極彩色なジャングルの情景。ジャマイカのぼんやりしたイメージが輪郭を伴ってゆく。判型からして凶悪。ずっしりとした重量感。思わず躊躇する価格。それでも手に取らずにはいられない1冊。
物語は1976年12月3日に始まる。日本では昭和51年。ロッキード事件が巷を賑わせていた年末に遠く離れた中米の地でレゲエ・スターにしてジャマイカの英雄ボブ・マーリーが襲撃された。真相が語られてこなかったこの事件を元として、襲撃したギャング、裏で操っていた政治家、暗躍するCIA工作員、傍観するアメリカ人記者、不幸にして事件を目撃してしまった女性、さらには亡霊までも含めおよそ70名以上の人物が闘い、血に塗れながら「己が見た真実」を語った怒涛の一冊。現実におこった事件をもとに、語られなかった歴史を音楽のように、呪詛のように解き明かす。(古川日出男っぽくもBLUEHARBっぽくもある味わい)それぞれが騙るおのおのの真実。決して簡潔では無い凶暴な如き厚さに慄く「七つの殺人に関する簡潔な記録」は全5章からなる壮大なドキュメント。時系列順にそれぞれの章で起こった1日の出来事を奏でる。rhyme とcrime 暴力的な文章が淀みなく畳み掛け ボーダーすれすれの罵詈雑言 言葉のリズムが身体中をぞわぞわ這い廻る 均衡取れず歪む視界 遮るのは誰だ
様々に語られる人物像 其々が騙る彼の真実 其々の歪んだエゴと愛 敬意が敵意になり 剥き出しになった狂気が暴力と共にページから臭い立つ リアルな差別 クリアな侮蔑 ページを捲る度に出てくる様々な人物達がゴリゴリのエゴイスティックな主観を呪詛のように吐き出し事件を彩る。
レストインピース 欠けたピースを探してライムは続く レストインピース 平和を求めて酒を煽る たっぷりのロックにラム 最後にライムを絞り出す 鳴り響くのは レストインピース どん底は底を知らなきゃ始まらない。ラストピース平和を作る最後の欠片
イメージだけの存在だった英雄の真実がクリアに浮かび上がる。
紙の本の重さ以上にヘビーなジャマイカ近現代史 -
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おちょくってるのか。簡潔な記録だと。A5版七百ページ二段組。厚さ五センチ。重さ一キログラム超。まさに凶器レヴェル。放ったらかしにしてあった妻の実家の庭の草刈りをした後で手にしたら、手首が震えて床に落としそうになった。『JR』以来、厚手の本を読むときいつもやるように、机の上に足を載せ、椅子を後ろに倒して膝の上に置いてページを繰った。久しぶりの大物である。しかし、長大さに恐れをなすことはない。一つ一つの章は確かに簡潔で要を得ている。
「ボブ・マーリィが逝っちゃった」と歌ったのは加川良だった。ボブ・マーリーが死んだのは一九八一年五月のことだから、おそらくその年の秋から冬にかけてのことだろう。町の小さな居酒屋の隅で額に汗を浮かべて歌っていた。当時、レゲエなる音楽には無縁でジャマイカが生んだ国民的歌手にして、カリスマ的な人気を誇るボブ・マーリーの曲を聞いたことはなかった。後にクラプトンがカバーした「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などを通じて、その独特のリズムと生々しい詩の世界を知ることになる。
本書は、そのボブ・マーリーが襲撃された実際の事件を核に、何かの理由で事件に関わることになった複数の人物の、当時とその後の人生を追ったものである。「七つの殺人に関する簡潔な記録」というタイトルは、ミック・ジャガーをスクープするよう『ローリング・ストーン』誌からジャマイカに派遣されたライター、アレックス・ピアスが、後に当時の関係者にインタビューして、ジャマイカ人関係者たちの動きを追った記事につけた題名である。
「アイ・ショット・ザ・シェリフ」という物騒な歌詞からも分かるように、ジャマイカのキングストンは緊張感に溢れていた。当時民衆の大半は貧しく、複数のギャングのボスが牛耳るゲットーに別れて暮らしていた。政治家がやくざを使って選挙民を操るというのは、何も現代の日本に限られたことでなく、低開発国ではよくあることだ。ジャマイカもご多聞に漏れず、社会主義的な現政権が率いるPNPと、より保守的なJLPが鎬を削っていた。
糞尿が下水を流れる劣悪な環境。身体を洗うためには共同で使う裏庭で衆人環視の中で水浴びせざるを得ない。政治家は自分たちに投票するゲットーだけに上下水道を配備、そうでない地域は無視するという、どこかの政府のような政策を露骨にとっていた。対立するゲットーのボスは配下のギャングたちを使い抗争に明け暮れていた、そんなとき、「歌手」がピース・コンサートを持ちかける。不毛な対立をやめ、力を合わせようというメッセージにボス二人は歩み寄りを見せる。
ところが、コンサートを二日後に控えた一九七六年五月三日。リハーサルに余念がない「歌手」の自宅がマシンガンやピストルを手にした集団に襲われるという事件が勃発する。不幸中の幸いで、弾丸はわずかに「歌手」の心臓を反れ、命は助かる。純然たるミステリなら、犯人は明かさないのが定石だが、本書は倒叙形式で書かれている。襲ったのはコペンハーゲン・シティのドン、ジョーズィ・ウェールズ、とその手下の若い者たちだ。
コペンハーゲン・シティを牛耳るドンはパパ=ローだったが、寄る年波には勝てず、対立するゲットー、エイト・レインズのドン、ショッタ・シェリフと獄中で和解し、ことを穏やかに進めようとしていた矢先だった。パパ=ローが右腕とも頼るジョーズィ・ウェールズはCIAから送り込まれたコンサルタントと気脈を通じ、パパ=ローを通さず勝手に事を起こそうと、薬漬けにした若手を鉄砲玉として送り込む。
麻薬の密輸ルートをめぐるギャングたちの勢力争いは、ジャマイカだけを見ているパパ=ローたちの頭上をはるかに越え、アメリカのマイアミ、ニューヨークまでその勢力圏を広げていた。同じ頃、アメリカは、ピッグス湾の失敗以来、キューバの勢力が強まり、カリブ海諸島の国々やラテン・アメリカ諸国の左傾化がドミノ倒しのように広がっていくことを恐れ、政府への露骨な介入を進めていた。また、その裏側ではCIAをはじめとする裏の機関が各種勢力と手を結びつつあった。
ケネディ暗殺に始まるアメリカの裏面史を麻薬の密輸をめぐって暗躍するマフィア、翻弄されるFBI職員、謀略を張り巡らせるFBI長官フーヴァーなどの実相を、これでもかというほど暴いて見せたのがジェイムズ・エルロイの「アンダー・ワールドUSA三部作」だった。これは、差し詰めそのジャマイカ版。暗黒描写もギャングたちの使う独特の言い回しも負けてはいない。しかし、過激な描写の裏に色濃く悲哀がのぞくエルロイとは異なって、この小説に哀歌は似合わない。
主要な登場人物として、先述のパパ=ロー、ジョーズィ・ウェールズ、同じくウィーパーやギャングの面々がいる。それぞれの目論見から、襲撃に加わったり、その後始末に追われたりする。その裏で、ジャマイカの社会主義化を阻もうと動くCIAジャマイカ支部チーフ、元調査官、コンサルタントなど、アメリカ側の男たち。さらに、「歌手」と一夜だけの関係を持ったことがあるニーナ・バージェスがいる。襲撃事件の現場で犯人と目を合わしたことで国にいられなくなり、アメリカに逃げるが、相手はどこまでも追ってくる。
事件の中心に位置するジョーズィ・ウェールズとCIAコンサルタントの対話や、擡頭してきた新勢力のユーピーの周りを読み解く冷静な分析はさすがに説得力がある。ただ、惜しむらくは人間的な魅力という点で、これら確信犯には迷いがなさすぎる。ジャマイカ脱出に賭けて身も世もあらず涙ぐましい奮闘ぶりを見せるニーナや、刑務所でカマを掘られて以来、自分の中に発見した性的嗜好と格闘しつつ、遂には身を亡ぼすことになるウィーパー(泣き虫)といった等身大の人物の方に共感したくなるからだ。
大部な作品だが、主要な人物からほんの脇役に至る多種多様な人物が、入れ代わり立ち代わり、多視点的に事件を語る。事件に関わった者は、その後の地獄のような復讐劇の顛末を。また、事件に至る経緯を知る関係者は、偶々現場に遭遇した第三者には知る由もない、麻薬ビジネスの裏表を語る。テープ・レコーダー片手に証言を求めて監獄を訪ねるのは、今は「ローリング・ストーン」誌を離れ、一ジャーナリストとして事件を追うアレックス・ピアス。このピアスやニーナといった偶然事件に巻き込まれることになる人物の視点を重視することで、小説のノワール色が薄まり、別種の読者を獲得することができたのではないか。二〇一五年マン・ブッカー賞受賞作。 -
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表紙を見たときに、何となくどこかで見たことの有る絵だな、と感じた。それもそのはず、本作は「翼の王国」に連載されていた作品をまとめた短編集だったのだ。表紙のイラストも、連載時と同じイラストレーターの作品だそうだ。僕は最近あまり青い方には乗ってないし、乗ったからと言っていつも翼の王国を読むわけではないけれど、それでもいくつかの作品は読んだことがあった。
元々作者がトラベルライターをしてた頃からよく読んでいたし(それでキューバに行こうとしたことも有る)、連載していたときから、心の奥底を旅立ちへ駆り立てるような文章には好感を持っていたのだけれど、改めてこうして一冊通して読んで、連載では判らない、この物語に隠されていたテーマをはじめて理解した。これは、ラテンアメリカ文学研究者で、翻訳者でもある作者、旦敬介の、ある種の私小説なのだと思う。人種も国籍も生まれ育った環境もすべて違う男と女と、その子供。本作において3人の関係は、時系列と場所をバラバラにしてちりばめられ、感情を抑えたような時間の経過を突然読み手の前にポンと出してくる。冒頭の一作である「世界で一番うまい肉を食べた日」は、その時にはじめて別の色に輝きはじめる。そして最後まで読み切って、漸くすべてが一つの物語として編み上がるのだ。
出てくる街もまたそれぞれが郷愁をそそる。いつか、この中のどこかへ向けて旅立てるだろうか。旅立ちたい、と言う想いを強くさせる一作。都会の夜に読んでも、旅の夜汽車の薄明かりで読んでも、良い時間が過ごせる一作。出来ればラムでも片手に。あ、でも腹が減ってるときは止めた方が良い、出てくる食べ物、うまそうなんだもの。
最後に本作の舞台となった国や街に敬意を表してリストアップ。
ローマ、フィレンツェ(以上イタリア)、ザンジバル(タンザニア)、ベリーズシティ(ベリーズ)、タンジェ(モロッコ)、バイーア(ブラジル)、ベラクルス(メキシコ)、マラバ(ケニア=ウガンダ国境)、マサイマラ(ケニア)、メリダ(メキシコ)、ハバナ(キューバ)、オポルト(ポルトガル)、ナイロビ(ケニア)、オレンセ、サマランカ(以上スペイン)、チュイ(ウルグアイ=ブラジル国境)、シエゴ・デ・アビラ(キューバ)、メキシコ・シティ(メキシコ)、ムコンゴーロ(ウガンダ)(順不同) -
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"アルケミスト""第五の山"などで知られる著書によるキリシタン文学。
平和で退屈な山奥の村ヴィスコスにやってきた外国人の旅人。村で唯一の宿で働くバーメイドのシャンタールは好奇心から彼にちょっかいを掛ける。思いもかけず旅人は彼女を誘い出し、彼の財宝と引き換えにある取引きを持ちかける。
一見善良な田舎の人々。彼らの奥底に眠る善と悪とを掘り起こそうとする旅人。キリシタンの教えが背景に流れ、ふわふわとした読後感です。
○人間の本性についてだ。われわれは誘惑に屈する機会を与えられれば、遅かれ早かれ必ず誘惑に屈する、というのが私の発見した真実だ。条件さえ整えば、地球上のすべての人間がよろこんで悪をなす。
○たとえばではなく、実に明確なことだ。ー『汝、殺すべからず』の戒めを犯してほしいのだ。君が今聞いたとおりのことだ。彼らに犯罪を犯してほしいんだ。期限は一週間だ。七日後までに町の誰かが死体となって現れたらーもう働けない老人であってもいいし、不治の病人でも、手がかかる心身障害者でも、被害者は誰でもいいー、この金は住民のものになり、私はわれわれすべてが悪なのだと結論を出せる。
○思いやりのある人間という役割を演じるのは、人生において決然とした態度をとるのを恐れている人たちのやることなのだ。自分が善人だと信じておくほうが、他の人に立ち向かって自分の権利のために戦うよりもいつでもずっと簡単なことなのだ。侮辱されてやり返さないでおくほうが、自分よりも強い相手と戦う勇気を発揮するよりも、いつでも簡単なのだ。