薬丸岳さん「告解」
「告解」、自分は高校の約3年間を米国オレゴン州でホームステイしながらクリスチャンハイスクールに通っていた。クリスチャンではないため学校そのものや英語という言語、その異文化異宗教に戸惑ってばかりだったが、貴重な体験だったしその米国での3年間は精神的に自分の今の財産になっていることが多い。
その当時、学校や教会に「Confession Room」という場所があった。日本語に訳すと告解室、自分は入ったことはなかったが。
カトリックでは罪の告解、懺悔することを一つの儀式としている事を学んだ。
罪を告解することで自分自身と正直に向き合う事ができ、しっかりとした意識を得る事が目的なのだろうと感じた。
「罪の告白」=「神の赦し」=「利己利他への意識」
まずこのタイトルを観てその事を思い出した。
今回の物語はそれがメインテーマにある。
飲酒運転の末、老女を跳ねてしまい逃走した主人公。罪に対しての罰として懲役刑を処されたがそれが贖罪になるわけではない。
加害者である主人公翔太の罪の向き合い方と被害者遺族に対しての向き合い方が描かれていく物語。
まず感想として他人事ではないなという感想。飲酒こそしないが自分の仕事の時間帯や仕入れの都合上、毎日車を使わざるをえない。
いつかこういう事件を起こしてしまうかもしれない。自分に置き換えながら読み進めるとかなりの感情移入ができてしまい恐ろしさをだいぶ感じた。
もし自分が死亡事故を起こしてしまったら、被害者や被害者遺族の方々に謝って許してもらいたいと心の片隅では思うだろうが、それ以上の事をしてしまっているため本当の所どうしていいのかわからない。
自分で自分がどこまでも許せないだろうし、絶対に許されてはいけない人間だと思うに違いない。
思考が極論を生み自殺まであるかもしれない。結局のところ、自分の罪に対してある一定のラインを超えてしまえば自分で自分のけつを拭けない。
その事を痛感させられると共に被害者遺族の無念さも相まって罪とは深く重いものだと潜考させられてしまう。
贖罪って詰まるところ死を持って償う事しかないのではないのだろうか?
それ以外のものは必ずどこかで妥協して得ている「生」の様な気がする。
被害者遺族の言い表せない感情の数々に対して罪という一側面方向からの贖罪の言葉なら誠意と届くかもしれないが、他の側面や総合的な感情に関しての償いは絶対に無理だ。そうならば贖罪として核心をそもそもがついていないに違いない。
なんとも言えないテーマである…
今の段階では加害者にも被害者にもならない様に気をつけ祈るしかない。