作品一覧

  • クラシック音楽の大疑問  角川選書ビギナーズ

    角川選書ビギナーズ

    ビジネス・実用

    5.0
    1~8巻1,540~2,200円 (税込)
    指揮者は何のためにいるんですか? どうして曲が長いんですか? 国ごとに個性があるんですか? 初めて聴くならどの作曲家がいいですか? クラシック音楽が生まれたのはどんな時代ですか? そもそも、音と音楽の違いは何ですか? 専門家に素朴な疑問を投げかけたら、音楽そのものの「本質」がみえてきました。クラシック音楽に原点をもつポップス、ジャズ、現代音楽まで、新しい音楽の聴き方に出会える入門書。
  • 一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》

    一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ《聖マタイの召命》

    ビジネス・実用

    4.2
    1巻1,023円 (税込)
    バロックを代表する画家カラヴァッジョの名画《聖マタイの召命》。この謎の多い絵画に込められた豊かなメッセージを受け取ろう。美術をみる目を助ける基礎的かつ普遍的な知識を紹介し西洋美術史の豊かな世界に誘う一冊。
  • ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~

    ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~

    ビジネス・実用

    4.2
    1巻924円 (税込)
    20世紀を代表する美術家であるアンディ・ウォーホル(1928-1987)は、生前における多方面にわたる活躍やメディアへの頻繁な露出から、これまで様々な流言飛語に曇らされ、毀誉褒貶に包まれていた。「孤独なトリックスター」の実像とは――。本書は、日本での大規模なウォーホル回顧展にも関わった美術史家が、ウォーホル芸術の意味と本質に迫り、それを広く美術史の中に位置づけた画期的論考である。
  • 〈オールカラー版〉美術の誘惑

    〈オールカラー版〉美術の誘惑

    ビジネス・実用

    3.5
    1巻1,034円 (税込)
    美術作品も、人と同じく一期一会で、出会う時期というものがあるにちがいない。私が病気の娘を案じているときに出会ったシャルダンも、娘を供養すべく東北に見に行った供養絵額も、娘の死後の絶望の中で見入った中国の山水画も、みな出会うべきときに出会ったのだと思っている。それらは、二度と同じ心境では見ることができないものだ。(エピローグより)美の原点に触れる、一期一会の物語。【図版125点収録】
  • 〈オールカラー版〉欲望の美術史
    値引きあり

    〈オールカラー版〉欲望の美術史

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻249円 (税込)
    本書は、美術を生み出し、求めるときの様々な欲望に光を当て、美術というものをいろいろな観点から眺めたエッセイ集である。扱った作品は、世界的な名作から、通常は美術とは目されない特殊なものまで様々だが、いずれも美術史上の重要な問題につながると思っている。(「まえがき」より)「欲望とモラル」「美術の原点」「自己と他者」「信仰、破壊、創造」という四つの観点から、「美が生まれる瞬間」を探る。<オールカラー>
  • カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇

    カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇

    ビジネス・実用

    3.9
    1巻1,496円 (税込)
    レンブラント、ベラスケス、フェルメールら一七世紀のほとんどすべての芸術家に大きな影響を与えた巨匠、カラヴァッジョ。殺人を犯し、逃亡の末に果てた破滅の生涯と、革新的なバロック美術の傑作を読み解く。
  • しぐさで読む美術史

    しぐさで読む美術史

    ビジネス・実用

    3.7
    1巻836円 (税込)
    西洋美術を鑑賞するには、人物の身振りやそこに込められた意味について知っておくことが重要だ。有名な《最後の晩餐》や《受胎告知》も、よく観察すると、描かれた個々の人物の異なる身振りがそれぞれ別の感情を表すことに気づく。知らないと見過ごしてしまうこれらの身振りや動作に注目すると、絵の中の「物語」が鮮明に見えてくる。古今東西の美術作品200点以上、カラー図版多数。
  • 聖母の美術全史 ――信仰を育んだイメージ

    聖母の美術全史 ――信仰を育んだイメージ

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,342円 (税込)
    2020年4月、一枚の聖母像の前でフランシスコ教皇は、新型コロナと戦う連帯を全世界に呼びかけるミサを行った。今も昔も、悩み苦しむ人びとが求めるのは、「母なるもの」のイメージなのだろう。イコンをその源に持つ聖母は「受胎告知」「ピエタ」「無原罪の御宿り」など様々な主題を生み、祈りの対象としてのみならず、西洋美術史を強く牽引した。聖母像の起源から、ルネサンス、バロック、日本の南蛮美術やお掛け絵、現代美術に至るまで、その大潮流を追いかける比類なき美術史。
  • 戦争の美術史

    戦争の美術史

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻1,496円 (税込)
    戦場という,神なき終末世界を作ったのは人間に他ならない.画家の眼は戦争の真実をどのように捉えて表現に結びつけたのか.そしてそれらはなぜ私たちの心を打つのか.絵画,写真,彫刻,慰霊碑など200点超の戦争美術をカラー図版で紹介し,ゴヤやピカソ,フジタらによる名品の意味に迫る.戦争と美術の歴史を一望する.

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  • 食べる西洋美術史~「最後の晩餐」から読む~

    食べる西洋美術史~「最後の晩餐」から読む~

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,320円 (税込)
    西洋、とくに地中海諸国は古来、食べることに貪欲であり、食にかける情熱はしばしば料理を芸術の域にまで高めた。また、食べ物や食事は西洋美術においては常に中心的なテーマであった。本書では、食事あるいは食物の美術表現を振り返り、その意味を考えることによって、西洋美術史を別の角度から照らし出す。ダ・ヴィンチ、カラヴァッジョ、ゴッホ、ブリューゲル、レンブラント、ダリ、マネ、ウォーホルなど絵画121点ともに解説。
  • 日本の裸体芸術 ――刺青からヌードへ

    日本の裸体芸術 ――刺青からヌードへ

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,397円 (税込)
    幕末に来日した外国人たちがこぞって驚くほど、日本には裸が溢れていた。理想化されない自然な身体イメージを享受してきた日本人は、江戸末期に初めて西洋の理想的身体であるヌードに出会い、近代化の過程で葛藤と苦難を体験する。本書は生人形や淫靡な錦絵を生んだ幕末の驚くべき想像力、日本という環境で日本女性を描こうとした洋画家たちの苦悩、戦後日本中に乱立したヌードの公共彫刻、海外で高く評価される日本独自の身体芸術・刺青など、さまざまなテーマを横断し、裸体への視線と表現の近代化をたどる異色の美術史。文庫化に際し大幅な加筆を行った増補版。
  • バロック美術 西洋文化の爛熟

    バロック美術 西洋文化の爛熟

    ビジネス・実用

    3.0
    1巻1,375円 (税込)
    西洋文化の頂点、バロック様式。17世紀を中心に花開いたバロックの建築・彫刻・絵画は、ルネサンス期の端正で調和のとれた古典主義に対し、豪華絢爛で躍動感あふれる表現を特徴とする。本書は、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベルニーニ、ベラスケス、レンブラント、フェルメールらの代表的名作を網羅。美術史上の位置づけ、聖俗の権力がせめぎ合う時代背景など、バロック美術の本質を読み解く。カラー写真200点以上。
  • 美術の力~表現の原点を辿る~

    美術の力~表現の原点を辿る~

    ビジネス・実用

    4.1
    1巻1,078円 (税込)
    私は30年以上にわたって毎年のように西洋の美術作品を巡って歩いてきたが、美術作品も、それが位置する場所の力と相まってオーラをまとうようである。(中略)無数の眼差しが注がれてきた美術作品は、巡礼者の信仰を吸収した聖遺物と同じく、膨大な人々の情熱と歴史を宿し、あるべき場所で輝きを放っているのである(「まえがき」より)。イスラエルで訪ね歩いたキリストの事蹟から津軽の供養人形まで、本質を見つめ続けた全35編。
  • 美術は宗教を超えるか

    美術は宗教を超えるか

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻2,400円 (税込)
    【複数色を使用したコンテンツです。モノクロ端末では一部読みづらい場合がございます】聖画に神は宿るのか――。西洋美術作品はもともと「読む聖書」として普及された。その後、偶像崇拝が禁止される歴史がある一方で、美術作品として広く鑑賞されるものに変わった面もある。作品を理解することは信仰や祈りに通じるだろうか。美術と宗教のあいだにある本質を歴史と信仰から探究する対談。「宗教は信仰する人にとって絶対的なものであり、美術よりも強力だといえるが、言葉によらない美術は個々の宗教を超えた普遍性を持っており、より広く開かれている。美術は誰にでも親しめるものだが、それを支えているのが宗教である。」(はじめに――宮下規久朗より)「イコンそのものを崇拝する、聖書のテキスト、あるいはそこから派生した理論的に精緻な神学を崇拝することは、キリスト教が厳しく禁じる偶像崇拝だ。美術や神学を通して、その背後に確実に存在する神を想うことが、キリスト教的に正しいアプローチなのだ。」(おわりに――佐藤優より)
  • 名画の生まれるとき~美術の力II~

    名画の生まれるとき~美術の力II~

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,320円 (税込)
    元来、美術というものは歌謡曲や映画とちがって、すぐに誰にでも入ってくるような安易なものではない。言語と同じく、ある程度の素養が必要であり、センスや好き嫌いではなく、前提となる知識があってはじめて理解でき、感じることができるものなのだ。こうした知識は日本の学校教育では得られないが、美術館に足を運び、適切な美術書を読むことによって培うことができる。(「まえがき」)美術史家と読む美術の本質に迫る55話。
  • 名画の力

    名画の力

    ビジネス・実用

    4.5
    1巻1,320円 (税込)
    名画の力とは、現場で作品に向き合ったときこそ発揮されるものだ――。前著『欲望の美術史』『美術の誘惑』『美術の力』『名画の生まれるとき』と同様、『産経新聞』夕刊に毎月連載されている「欲望の美術史」の記事を中心に、別の媒体に載せた記事や新たに書き下ろした原稿を加えて大幅に再構成した一冊。伝統の力から現代美術、美術館まで。博覧強記の美術史家による、美術の魅力をより深く味わうための、極上の美術史エッセイ。
  • モチーフで読む美術史

    モチーフで読む美術史

    ビジネス・実用

    3.9
    1~2巻902~968円 (税込)
    たとえばあなたが実際に美術館に出かけて目にした、これまで見たことのない中世の西洋絵画を即座に読み解くにはどうすればいいだろうか。本書は、絵画に描かれた代表的な「モチーフ」を手掛かりに美術を読み解く、画期的な名画鑑賞の入門書である。西洋絵画だけでなく、日本を含む東洋の美術や現代美術にも言及している。人気の新聞連載に加筆し、カラー図版150点を収録した文庫オリジナル。
  • ヴェネツィア 美の都の一千年

    ヴェネツィア 美の都の一千年

    ビジネス・実用

    4.0
    1巻1,210円 (税込)
    水の都ヴェネツィアは、たぐい稀な「美の都」でもある。千年以上にわたり独立を保ち「アドリア海の女王」と呼ばれた都市国家は、ティツィアーノらの天才画家を生み、ヨーロッパ中から一流芸術家が集まった。町のあちこちに息づき、いまも新しさを加えている建築や美術を切り口に、ヴェネツィアの歴史と魅力を存分に紹介する。(カラー写真多数)

ユーザーレビュー

  • 〈オールカラー版〉欲望の美術史

    Posted by ブクログ

    宮下 規久朗
    (みやした きくろう、1963年8月16日 - )は、日本の美術史家、神戸大学大学院人文学研究科教授。専門は、イタリア17世紀バロック美術。ただし、イタリアルネサンス美術はもちろん、近現代美術についても造詣が深い。愛知県名古屋市生まれ[1]。愛知県立旭丘高等学校を経て、東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了[2]。この間、1988年3月から9月までシエナ大学(イタリア)に留学。1989年に兵庫県立近代美術館学芸員[2]、1992年東京都現代美術館学芸員(1995年開館)[2]。東京都現代美術館時代には、開館展で荒木経惟の担当となり、『アンディ・ウォーホル 1956-86:時代の鏡』展の企画に参加(1996年開催。企画のみで、開催時点には現代美術館を辞していた)。1995年、神戸大学文学部助教授[2]、2007年から同大学院人文科学研究科准教授、2013年から教授。この間、1998年3月から翌年1月まで文部省在外研修員としてローマ大学美術史研究所に留学。


    「人は美しい自然に囲まれると落ち着くものだ。とくに、都会人は余暇に海や山に行ったり、公園を散歩したり、自然とふれあうことに安らぎを見出す。美術も、美しい自然を写して人を喜ばせるという機能をもってきた。風景画は、絵画ジャンルのうちでもっとも人気のあるものであろう。  中国では、山水画は紀元前の漢時代から存在しており、水墨画の技法とともに室町時代に日本にも流入し、現在まで受け継がれている。それらは、神仙世界や文人の理想を自然に仮託するものであり、ありのままの自然を写すものではなかったが、自然のうちに理想世界を夢見て、そこに隠遁したいという文人の理想が表現されていた。  人物画が中心であり続けた西洋では、独立したジャンルとして風景画が成立したのは意外に遅く、ようやくルネサンスの終わる頃であったが、続く十七世紀は風景画の黄金時代となった。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「十九世紀末にフランスで印象派が発生したのも、ひとつには普仏戦争後に燃え上がった愛国心や郷土愛のためであった。一八七四年の第一回印象派展に出品されて印象派の名前の由来となったクロード・モネの《印象・日の出》は、ルアーヴル港の景色を描いたものだが、普仏戦争後の祖国の再建を日の出になぞらえたものであるという説がある。  また、モネが繰り返し《積みわら》を描いたのは、それが農業国フランスの誇る豊かさを示すからであり、ルーアン大聖堂の連作を描いたのも、ゴシックというフランスの偉大な文化的伝統を示すためであったという見方がある。身近な風景を描いた印象派の背景には、政治的状況が影を落としているのである。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「こうした需要も後押しして自画像制作がさかんになり、生涯に百点近くも自画像を描いたレンブラントのような画家が生まれたのである。  自画像は、自己の存在を他人にアピールする看板でもあった。自分の姿をよく見せようと虚勢を張ったり、美化したりすることはあたりまえであったし、様々な趣向をこらしたり、奇をてらったりすることも多かった。画家というより王侯貴族のように着飾ったもの、学者のように知性や威厳を感じさせるもの、孤高の芸術家のように深刻な表情をしたもの、女性画家にとくに顕著だが、実際よりかなり若く見せるものなど、画家の自負や理想像が表れているのだ。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「かたくなに自画像を描かなかった画家もいる一方、レンブラントやゴッホのように、生涯に数多くの自画像を描いた画家もいる。彼らの自画像を見ると、彼らの人生や芸術観がそのまま読み取れるような気がする。  レンブラントの自画像は、長い人生におけるそのときどきの境遇や心境が、日記のように表されているようだ。財産や家族を失った晩年の自画像群は、飾り気のない孤独な姿を写しており、何らの気負いもてらいもなく、人生を達観したような憔悴の表情が分厚い絵具の奥から垣間見える。同じオランダの画家ゴッホは、短期間のうちに多くの自画像を生み出したが、いずれも激しいタッチによって、焦燥にも似た創造への熱気を感じさせる。  とはいえ、自画像を文学的な伝記や私小説のように読解してしまうことは危険である。わが国で自画像を論じた本の多くが文学者によるものであったが、そのほとんどは画家の伝記的事実と絵画表現とを安易に結びつける陥穽を免れなかった。造形芸術は必ずそれ自体の様式や伝統に縛られており、歴史的な枠組み、つまり様式展開や類似作品との関連の中でとらえる必要があるのだ。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「二〇一一年の夏、須磨海水浴場の人出が過去最低になった。神戸市が、刺青(入れ墨、タトゥー)の露出を禁止する条例を発したためだという。それで入場者が激減するとは、いかに多くの者がタトゥーを入れているかという証左であろう。また、翌年には大阪市の橋下徹市長が職員の刺青を禁じて、全職員に刺青の有無について尋ねる調査をしたため、人権侵害ではないかと話題をよんだのも記憶に新しい。  人間には自分の外見を飾りたいという欲望があり、太古から化粧や装身、様々な身体加工が行われてきた。中でも刺青は人類最古の身体装飾であり、太古から世界中で行われてきた習俗である。  現在、アメリカの若者の実に半数近くがタトゥーを入れているという報告があり、日本でも近年、タトゥーを入れる若者が目立ってきた。しかし、同じ身体加工でも、ピアスや美容整形はすっかり市民権を得ているのに、タトゥーのみがいまだに強い偏見の下にさらされている。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「刺青は現在も社会の最下層の者や囚人にまで広く行きわたっているが、逆に、芸術を享受するような階層には敬遠される傾向にあり、社会階層と結びついた民衆芸術であるといえよう。ただし、日本では本来、刺青は単なる身体装飾にとどまらぬ重要な芸術表現であった。  日本の刺青は、一八二七年に歌川国芳が中国の伝奇小説『水滸伝』の英雄たちを描いた《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》を出版したことを機に大流行し、侠客や博徒だけでなく、職人たちが競って刺青を彫った。具体的な絵柄が全身に展開する大規模な刺青は、世界でも類を見ないものである。それらが往来にあふれ、日に照り輝いていた。しかし、明治政府は一八七二年以降、刺青を禁止する。戦後ようやく合法となっても、一般人が入れることは少なくなり、いつしか裏社会やアウトローの刻印となってしまった。  全身に刺青を入れた人間は、自分の刺青の全容を見ることはできないが、他人に見られることによってそれを意識し、その人間性も刺青の文様と一体化させようとする。水滸伝の豪傑を背負った者はそれになりきり、龍を彫った者は天上雄飛の気概を示した。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「しかし、芸術にとってオリジナリティは大事であるにしても、過去の遺産と断絶したところからは真の創造性は生まれない。そのため、あえて前衛に背を向け、保守的・復古的な道を選ぶ芸術家も登場する。  さらに、一人の画家の中でも、前衛の行きすぎを反省し、伝統のうちに助けを求めるという現象も見られた。  その最たるものがピカソである。彼は、二十世紀の初頭に事物を多視点によって平面上に再構成する斬新なキュビスムの実験を展開し、ルネサンス以来の遠近法や明暗法を破壊してしまった。これは美術界に大きな衝撃を与え、ピカソは前衛芸術のヒーローとなった。  ところが彼はその後イタリアを旅行し、ラファエロをはじめとするルネサンスの美に打たれ、母子像のような古典主義的な人物像を描いたのである。  周囲には、このことは受け入れ難く、ピカソは退化したと受け取られた。ほどなくしてピカソは再び古典主義を捨てて《ゲルニカ》などの名作を描くが、一時期でも伝統に立ちかえることによって新たな創作意欲と創造性を獲得したのである。こうした画風変化を恐れなかったことに、ピカソの偉大さと強靭さがあった。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「保守と前衛は本来、対立するものではなく、コインの裏表なのだ。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「このように、芸術破壊のほとんどは宗教的な動機によるものだが、そうでないものもある。美術館に飾られている名作は、盗難だけでなく、しばしば攻撃にさらされてきた。たとえば一九一四年、ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるベラスケスの名作《鏡を見るヴィーナス》は、過激な婦人参政権論者によって刃物で切り裂かれた。  また、アムステルダム国立美術館にあるオランダの国民的大画家レンブラントの最高傑作《夜警》は、一九一一年、七五年、九〇年と、二十世紀になって三度も攻撃された。無名の画家が自分の絵が売れないことの腹いせにナイフで切りつけたり、精神を病んだ観客が硫酸をかけたりしたのだが、幸いにしていずれも元通りに修復されている。  絶対的に権威があり、また誰もが称賛してきたような作品に対しては、必ず反発を抱く人間がおり、ときにそれを破壊したくなる衝動が生まれるのだ。それが、たまたま宗教やイデオロギーの口実を得ると、民衆の鬱憤のはけ口にもなり、イコノクラスムという大規模な破壊運動に発展してしまうのである。それゆえ、芸術破壊はあらゆる社会に起こりうるものであり、悲しいことだが、今後も絶えることはないだろう。」

    —『〈オールカラー版〉欲望の美術史 (光文社新書)』宮下 規久朗著

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    2026年07月08日
  • ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~

    Posted by ブクログ

    アンディーウォーホルはチェコ移民で熱心なカトリックでホモ

    アンディーウォーホルって男性経験も女性経験もないゲイらしい。でもそういう同性愛者も居ると思う。

    ケネディの奥さんのジャクリーンの作品

    分かった。ウォーホルはチェコ系移民の熱心なカトリックだったから同性との性交経験がなく、女性に興味無いから生涯独身だったのか。

    有名な抽象画家って旧共産圏もしくはその影響を受けてただったロシアとか東欧、ドイツ出身が多いのが興味深い。神は死んだと言ったニーチェもドイツ人だし。ということは、抽象画自体が神との決別的なアートなのかな?と思うようになった。ルーブル美術館通い続けてると色々な気づきを得るな。

    「いずれのウォーホル像も正しく、またいずれのイメージも彼の全体をカバーすることはできない。彼がこうしたすべての解釈を包含するほどの巨人であったというよりも、あらゆるイメージを許容してしまうキメラ、つまり鵺的存在であり、まさに鏡のような体質をもっていたためである。ウォーホル自身、自分のイメージをひとつに特定されるのを意図的に避けていたきらいがあり、一通りには総括できない玉虫色のウォーホルが真実のウォーホル像というほかないのである。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「1996年の展覧会のとき、私はかなり長いカタログ論文を書いた。そのときは、ウォーホルについてずっと考え、その真実に迫ろうと悪戦苦闘して、ウォーホル作品に見られる死、宗教、政治といった要素を抽出してそれなりの深刻なウォーホル像を探り当てたつもりになったのだが、すんなりと当てはまるのがかえって不気味であり、もしや計算ずくのウォーホルの術中にはまったのではと不安になったものである。今にして思えば、ウォーホルを分析するつもりが、ウォーホルという鏡に映し返された自分を分析していたにすぎなかったかもしれない。彼を深刻な美術史の俎上に載せることはたやすいが、ウォーホルには、つねにそうした真面目な言説をはぐらかす不真面目さや遊戯性が見え隠れするのだ。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「アンディ・ウォーホルは、 1928年、ピッツバーグで 3人兄弟の末子として生まれた。  本名はアンドリュー・ウォーホラ。アメリカ北東部ペンシルヴァニア州の都市・ピッツバーグは 19世紀末から 20世紀初頭にかけて鉄鋼生産の中心地として繁栄して人口が激増し、大量の東欧移民を受け入れた。ウォーホルの両親もスロヴァキアのメドジラボルツェ地方のミコヴァからのウクライナ系の移民であった。  ウォーホル一家は東欧の熱心な東方カトリック教徒の集まる地区に住み、日曜日ごとに一家で近くのセント・ジョン・クリソストム教会に通うことを欠かさなかった。  父アンドレイは建設労働者だったが、アンディが 14歳のとき病気で亡くなった。父はアンディに大学教育を受けさせるように遺言していたという。母ジュリアはパートで清掃人をするほか、ブリキや色紙で造花を作ったり、イースター・エッグを作ったりして家計を助け、 3人の息子を育てあげた。アンディは、ノイローゼ、舞踏病、猩紅熱と、いつも病気がちで家族の心配の種となっており、母親に溺愛されて育つ。  小学校では飛び級するほど知能に優れ、母親譲りで絵を好んだ彼は、土曜日にカーネギー美術館で開かれていた無料の絵画教室に通った。高校生の頃に自宅の居間を描いた水彩画が残っているが、暖炉の上に十字架が見える(図 2)。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「当初、ウォーホルは、貧窮に苦しみながらひたすら商業的アーティストとしての仕事に励んだ。自作のデッサンやイラストを雑誌社やアートディレクターのもとに持ち込んでは仕事を開拓していく。当時は新聞や雑誌の広告の主体はまだ写真ではなく、イラストであった。  やがて彼の描く素朴で繊細なイラストは徐々に好評を博し、『グラマー』誌のイラストを皮切りに、『ヴォーグ』『マドモアゼル』『ハーパーズ・バザー』といったファッション誌や新聞、商品の広告にまでおよんだ。  彼のイラストは、ペンで描いた絵を別の紙に押し当て、にじんだ線の効果を出したもので、素朴でありながら洗練された雰囲気をもっていた。この「ブロッテド・ライン(にじみ線)」の技法は、学生時代にベン・シャーンやクレーの絵から発想したものである。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「母との共同生活は母の死の前年の 1971年まで続く。ウォーホルは生涯独身であったが、それはホモ・セクシュアルであったということのほかに、一種のマザコンであったせいであろう。母親の影響は彼の一生に及ぶのである。また彼は、つねに他人に囲まれている生活を好んだが、なぜか特定の男女と精神的にも肉体的にも深い関係になることは決してなかった。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「こうした仕事によって、ウォーホルはイラストレーターとして有名になった。住居も、友人やダンサーたちとの共同生活から広いアパート暮らしに移る。さらに、容姿のコンプレックスを克服すべく鼻を整形手術し、鬘を着用するようになる。移民の子アンドリュー・ウォーホラではなく、ニューヨーカーのアンディ・ウォーホルとなり、それまでの弱い自分と決別して、自信をつけたのだった。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「もともとネオ・ダダに影響を与えたのは、 20世紀の前衛芸術の創始者のひとりであるフランスの芸術家マルセル・デュシャンである。彼は 1917年、男性用便器にサインをし、《泉》というタイトルをつけて展覧会に出品しようとした。これは、既成の日用品(レディメイド)でも芸術家が選んで展示すればそれだけで美術作品になるという思想によって芸術と非芸術の境界を問い、美術に対する概念を揺さぶるものだった。こうした状況のうちに絵画はその特権性を失い、ひとつの物体になってしまったのである。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルの基本理念は、 1963年にジーン・スウェンソンが行った彼へのインタビューでの有名な発言によく表れている。  ぼくは誰もが機械になるべきだと思う。誰もが誰もを好きになるべきだと思う。  ……誰もがいつもクリエイティヴなんだ。…実際のところみんなもう上手すぎるんだ。  ……どうしてあるスタイルが他のスタイルよりよいなんて言えるのかな。……誰かが、ぼくのかわりにぼくの絵を全部できるようになるべきだと思う。今までぼくは、一枚目と同じようにきれいで単純なものを作れたためしがないんだ。  ……もしアーティストがもうできないと思ったらやめちゃえばいいだけなんだ。アーティストは後ろめたい思いなんかしなくてもスタイルを変えられるべきなんだ。……リキテンスタインは、あと 1、 2年もしたら漫画の絵はやっていないかもしれないって言ってたそうだけど、スタイルを変えられるっていうのはとってもすばらしいことだと思う。今起こりつつあるのはそういうことで、まったく新しい世界になるんだ。それがぼくがシルクスクリーンを使う理由のひとつだろうな。もっと多くの人がシルクスクリーンをやるようになって、ぼくの絵が自分のものなのか誰かのものなのかわからなくなったら、とってもすてきだと思う。……ぼくがこんなやり方で描いているのは、機械になりたいからで、何でも機械みたいにやることが、ぼくがやりたいことだって感じてるんだ。(商業美術はもっと機械的でしたかという質問に対して)いや、そんなことはなかった。それでお金をもらってたんだし、何でも言われる通りにやったよ。靴を描けと言われれば描いたし、直せと言われれば直した。何でも言われたとおりにして、修正して注文どおりにしたよ。創らなきゃ( invent)いけなかったのだけど、今は違う。さんざん修正した後でも商業的なイラストにはフィーリングがあったし、スタイルがあった。……(注文主たちは)自分のほしいものを正確に理解していて、主張があった。とても感情的になることもあったしね。商業美術は、作る過程は機械的だったけど、その姿勢にはフィーリングがあったんだ。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルは同性愛者だが、女優のことも好きだった。しかし、女優の肉体には興味がなかったのではなかろうか。プレスリーの場合は全身像を作品にしているし、 1977年には男性の下半身の写真を用いた《トルソ》というシリーズを作っており、男性の肉体には惹かれていたようだ。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「モンロー・スマイルという用語があるそうだ。これは、モンローの蠱惑的でセクシーな笑顔を指すのではなく、複雑な家庭環境に育った子供がもつ印象的な笑顔のことで、こういう子供は周囲の大人に気に入られようとして可愛らしい笑顔を身につけることが多いという。幼少時に無視されたり虐待を受けたりした子供で、適応能力の高い子供は、自分の身を守るために周囲の顔色をうかがうことが身につき、愛嬌や気遣いにあふれた人間になるという。そしてそういう人の多くは空想上のアイデンティティを作り上げるため、芝居や映画の世界にひきつけられるという。   20回以上も施設や養家をたらい回しにされたモンローはまさにそうであった。つねに記者やファンを気遣い、過剰にサービスし、魅力的な笑顔を振りまいて人気者になっただけでなく、演技の勉強に精進し、演技派女優となる努力を惜しまなかった。ただ、こうした人たちは悲観的で自分自身を好きになれず、心の中をまともに直視できないと感じているという。彼女の笑顔は表面的なもので、少女時代の悲惨な体験から努力して身につけたものだったのである。  ウォーホルの選んだモンローの写真は、ほかのどのモンローの写真よりもそのことを感じさせる。笑顔でありながら視線はうつろで寂し気にも見え、空虚さを感じさせる。ウォーホルはモンローの抱えていた孤独や不幸を本能的に感じ取って、この写真を選んだのではなかろうか。まさにモンロー・スマイルの肖像であった。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著


    「ステーブル画廊での個展ではいくつかのマリリン作品が出品されたが、もっとも観客の目を引いたのが《黄金のマリリン》であった(図 28)。  建築家フィリップ・ジョンソンが購入し、現在ニューヨーク近代美術館に展示されているこの作品は、大きな金地の中央にひとつだけマリリンの顔がある作品で、金地に浮かぶ顔ということでビザンチンの聖母のイコン(聖画)を想起させる(図 29)。ウォーホルが最初に認識した美術は、日曜ごとに家族とともに行った教会で目にするイコンであったろう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルは新聞や雑誌に掲載される写真だけではなく、写真配給会社や警察署で交通事故の写真を入手して、それを使った。それだけでなく、周囲の誰にでも、自然災害や交通事故や自殺の、なるべく恐ろしくて残虐な写真を譲ってほしいと頼んでいたという。  当時『ライフ』誌の仕事をしていたデイヴィッド・ブルドンは、友人のウォーホルに自動車事故の写真を提供したと言っている。そういった写真は死体や血が写っており、生々しいためにふつうは滅多に人目にふれないものもあった。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「やはりマスメディアの写真を用いて描いたドイツの画家ゲルハルト・リヒターは、「写真は恐怖を呼び起こすが、絵画は哀悼を喚起する」と述べている。写真を直接目にすると、その凄惨さに目が奪われるばかりだが、カンヴァスに転写されたものは、その生々しさがやや緩和され、悲しみを感じさせるといえよう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「また、これらの作品はそれぞれ、ユダヤ人、黒人、イタリア移民といった人種問題に関わるものであった。貧しい東欧移民の子であり、英語も満足に話せない母と同居していたウォーホルは、こうした人種差別の問題には敏感であったのではなかろうか。《エルヴィス》の元になった写真は、インディアンとの混血児の悲劇的物語である『燃える平原児』のものであったし、晩年の 1980年代にはインディアンの首長の肖像の連作を作っている。  ウォーホル自身はしかし、ジャーナリストに、《電気椅子》や《人種暴動》が社会批判的かと尋ねられると、「意味はない、意味はない」と否定するのがつねであった。  しかし、ウォーホルの友人エミール・デ・アントニオはこう言っている。「アンディの政治性は画面に表れてるよ。やつは政治的でないように装ってるってことさ……本人は否定するけどね。でも彼は政治性を持ってる。チェコ移民の子で、父親が肉体労働者で、ピッツバーグに住んでいて、そんな環境で政治的な思考を持たないで育つなんてとても考えられないと思うよ」。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルはかつて、ニューヨークの「ル・クラブ」という店でエレガントな黒いドレスをまとったジャッキーを見たと書いているが、ケネディの暗殺以前から注目していたようである。また、ウォーホルは、いつ購入したかさだかではないが、アメリカの人気大衆画家ノーマン・ロックウェルが 1963年に描いたジャッキーの肖像画も所持していた。  ジャクリーン・リー・ブーヴィエは、マリリン・モンローとは対照的に恵まれた環境で生まれ育った。裕福なフランス系の株式仲買人の父とアイルランド系の銀行頭取の娘を母として 1929年に生まれ、上流階級の子女として教育を受け、パリ留学を経て新聞社に就職。 53年に上院議員だったジョン・ F・ケネディと結婚し、 4人の子供をもうけた(うち 2人は死産し、娘と息子のみが育った)。 60年にケネディが大統領に当選し、翌年大統領となると、米国史上最年少のファースト・レディとなった。彼女はケネディとともに人気を集め、そのファッションが模倣され、流行した。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルもリヒターも、現代社会に潜む暴力や死をテーマにし、そのイメージの解釈を観者にゆだねているが、それによって暴力や死について考えさせ、さらに社会に氾濫するイメージが私たちの意識に大きな影響力を及ぼしている様をも示しているのである。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「生涯を通じて熱心なカトリックであったウォーホルはヴァチカンのパヴィリオンを訪れてこの像を見たにちがいない。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「レオ・キャステリ画廊の個展(図 92)では、大きな《花》からその半分の大きさの花、さらにひとつの壁面を埋め尽くした小さな《花》というように変化をつけて展示し、非常な好評を博した。批評家には、モネの睡蓮にたとえられたり、またマチスの切り紙絵と比べられたりした。個々の作品がほとんど隙間なく空間を埋め尽くす様子は、ニューヨーク近代美術館にあるマチスの切り紙絵のように装飾的であり、以前、マチスになりたいと言ったウォーホルの願望が達成されたものと見ることができよう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「《花》はウォーホルにとってもっとも成功した作品であり、著名なコレクターたちも購入した。それはどこに飾っても見栄えがし、また現代的で装飾的であったため、都会の部屋のインテリアには最適であった。ウォーホルとその助手たちは、ファクトリーで確立していた大量生産の方式を十分に生かして、翌年にかけてせっせとこの絵を作り続けた。  一方、《自動車事故》や《指名手配犯》の絵はほとんど売れなかったという。そういう絵を個人の居間に飾りたいという人が少ないのは十分理解できよう。当時のファクトリーの様子を写した写真を見ると、《指名手配犯》の一枚が飾られているが、社会のはみ出し者の集うこの空間に、アンチ・ヒーローたる指名手配犯の肖像が似つかわしいと思われたためかもしれないが、実際は売れなかったためにそのままファクトリーに置かれたものだろう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルは 74年に来日したとき、日本の生け花に興味があり、日本の菊の花が美しいと述べていることから、このひな菊はウォーホルが日本をイメージしたものであったのだろう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルがピッツバーグの熱狂的なカトリック地区で生まれ、敬虔なカトリック家庭に育ち、母親の影響もあって生涯にわたって熱心な東方カトリック教徒であったこと、死の直前まで週に何回も自宅の近所にあるセント・ヴィンセント・フェラー教会に立ち寄り、必要以上の回数のミサを受けていたこと、さらに避難所に来るホームレスに食事を与える手伝いをしていたことを明かした。  こうした活動をウォーホルはプライヴェートなこととして内密にしていたが、最晩年に制作された《最後の晩餐》にいたってようやく制作上に表面化したと述べた。この弔辞は、名声と富に包まれた華やかな世界に生き、ドラッグやゲイなど反社会的な文化の中心にいると思われていたウォーホルの知られざる一面をはじめて明らかにしたものであった。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「こうした状況は、ウォーホルの理想とした「ビジネス・アート」のあり方であった。そのためには、作者は透明で無名の存在であり続けるわけにはいかず、デザイナーと同じように有名人になる必要があった。美術以外の活動に力を入れ、ファクトリーを開放して取り巻きを増やし、様々なパーティに出没し、積極的にマスメディアに露出することで結果的に彼はそれをなしとげた。作品の表面からは作者の痕跡や個性を消し去ろうとしたにもかかわらず、作者の名前や存在を世間にアピールして有名人となってしまったのだが、中性的でとらえどころのない彼の印象は、クールな作品のイメージと見事に一致したのだった。  ウォーホルはかたくなに作品制作における自我や精神性を拒否し、クールな外観の作品を機械的な手法で大量に制作し、自らの創造力の源泉や制作方法を他者や社会に求め、さらに作品の解釈や受容をそれらに全面的に委ねた。こうして作品を社会に拡散させ、自らも世俗にまみれるほど、作り手の個性は空洞化し、世間に流通する作品の存在感が増したといえるだろう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルの個性否定や自己の無化は、ある意味、こうしたキリスト教の隠修士的態度に通じるようだ。彼が自らを無にして委ねようとしたものは、特定の他者というよりは、彼が愛してやまなかったアメリカ社会や時代、さらに、運命、あるいはまさに神と称してもよいものであったのではなかろうか。  大量生産の商品のような作品とブラックホールのような作者。それはまさにビジネス・アートであり、イコンに通じる作者否定の思想の表れでもあった。その結果、彼の芸術は徹底的に俗のうちにありながらも聖なるものに転じることになったのである。そして、近代という枠組を超え、時代を超えた普遍的な価値を持つにいたったといえよう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ウォーホルの個性否定や自己の無化は、ある意味、こうしたキリスト教の隠修士的態度に通じるようだ。彼が自らを無にして委ねようとしたものは、特定の他者というよりは、彼が愛してやまなかったアメリカ社会や時代、さらに、運命、あるいはまさに神と称してもよいものであったのではなかろうか。  大量生産の商品のような作品とブラックホールのような作者。それはまさにビジネス・アートであり、イコンに通じる作者否定の思想の表れでもあった。その結果、彼の芸術は徹底的に俗のうちにありながらも聖なるものに転じることになったのである。そして、近代という枠組を超え、時代を超えた普遍的な価値を持つにいたったといえよう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 冒頭で述べたように、ウォーホルは多面的でとらえどころがなく、一面的な解釈を拒む鵺的存在である。しかし、その不可思議な人間性はともかく、遺された作品が放つ魅力と力強さだけは美術史的に捉えられるはずだと思って執筆した。  しかし、書き終わってみると、やはりウォーホルという鏡に映し返された自分の美術史ばかりを語ってしまったのではないかという不安を感じる。美術史的には、アメリカの即物的な写実主義の伝統との関係やポストモダンのアートシーンに与えた影響など、まだ論ずべきことは多いが、長年ウォーホルの絵に向き合い、愛好してきた経験から、 60年代の重要な作品と好きなテーマに偏ってしまったようだ。ただ、こうした玉虫色の芸術だからこそ、ウォーホルは時代を超えて誰にでも受け入れられ、愛され続けるのだろう。」

    —『ウォーホルの芸術~20世紀を映した鏡~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

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    2026年05月28日
  • 美術の力~表現の原点を辿る~

    Posted by ブクログ

    描くことは祈り

    アンディーウォーホルってチェコ系移民なんだ

    美術を学ぶ=宗教を学ぶだから、昔から宗教について学び続けてるけど、宗教はどの学問より歴史長いし奥深いよね。

    ゴッホとか昔の芸術家にとって描くことは神への祈りの行為だったって話が凄い出てくるけど、祈りレベルに利他的な行為だからこそ自我が消せて良い作品に仕上がるのかなと思った。

    受験して入った学校のコミュニケーションの楽さとか自分を理解して貰いやすさみたいなのが公立に比べて天地の差で、逆に不気味だったな。人生で一番楽しかったし。でも世の中って基本公立みたいなカオスなんだと思うし、アメリカのお金持ちが敢えて公立に行かせる理由分かるわ。明らかに人間関係で脳味噌使いまくったのは公立だったし。

    宮下 規久朗
    (みやした きくろう、1963年8月16日 - )は、日本の美術史家、神戸大学大学院人文学研究科教授。専門は、イタリア17世紀バロック美術。ただし、イタリアルネサンス美術はもちろん、近現代美術についても造詣が深い。愛知県名古屋市生まれ[1]。愛知県立旭丘高等学校を経て、東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院人文科学研究科修了[2]。この間、1988年3月から9月までシエナ大学(イタリア)に留学。1989年に兵庫県立近代美術館学芸員[2]、1992年東京都現代美術館学芸員(1995年開館)[2]。東京都現代美術館時代には、開館展で荒木経惟の担当となり、『アンディ・ウォーホル 1956-86:時代の鏡』展の企画に参加(1996年開催。企画のみで、開催時点には現代美術館を辞していた)。1995年、神戸大学文学部助教授[2]、2007年から同大学院人文科学研究科准教授、2013年から教授。この間、1998年3月から翌年1月まで文部省在外研修員としてローマ大学美術史研究所に留学。

    「イスラエルでキリストの生涯をたどりながら、なぜか自分の今までの美術行脚が思い出された。  私は三十年以上にわたって毎年のように西洋の美術作品を巡って歩いてきたが、美術作品も、それが位置する場所の力と相まってオーラをまとうようである。  もちろん、作品自体の質はどこに移動しても変わることはないが、出開帳や展覧会では決して味わえない要素がある。寺社でも美術館でも、その作品が本来置かれてきた場こそが作品に生命力を与えるのだ。作品からこうした場の引力や属性を剥ぎ取って、他の作品とともにニュートラルな空間に並べることによって、作品の純粋な造形的な特質をあきらかにするという信念が近代的な美術館や展示という制度を支えてきたのだが、それによって失われるものも大きいのだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ヴェネツィアの生み出した絵画は、いずれも色彩豊かで華麗である。水に浮かぶこの町は、空と海が近接し、どこもかしこも水の反射によって非常に明るく、色彩もきわめて鮮明に映る。  一方、水蒸気は逆に色彩を吸収することもあり、とくに冬はすべての光景をモノクロームに還元してしまう。湿潤な空気のうちに不断に移ろうこうした視覚体験から、色彩に敏感な感性が育まれ、線描よりも色彩を重視するヴェネツィア絵画が生まれたのだという説がある。たしかに、色彩と変化にあふれたこの町を歩くと、誰しもが景観への関心を呼び覚まされ、視覚の喜びに浸ることができるのだ。  もともとビザンツ帝国とのつながりによって繁栄したヴェネツィアは、その影響によってサン・マルコ大聖堂に見られるような見事なモザイク芸術を生み出した。十三世紀初め、十字軍に便乗して宗主国であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領すると、そこから膨大な富と美術品がもたらされ、ヴェネツィア経済と文化は繁栄をきわめる。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ミラノに生まれ、画家であった父に絵を学んだアルチンボルドは、当初は宗教画を描いていたが、やがて神聖ローマ皇帝に招かれ、ウィーンとプラハの宮廷で二十五年間を過ごした。  当時そこは、西洋中の才能ある芸術家や科学者、世界中の珍奇な事物が集まっており、知と芸術の中心地であった。彼はそこで様々な刺激を受け、宮廷の植物園や「驚異の部屋」に集められた草花や生物を観察して描写し、さらにそれらを合成して人物画に仕立てた。《水》には六十種類もの水生生物が描かれているという。彼の作品は、単に意外さや新奇さをねらうものではなく、最新の博物学の成果を示すものでもあったのだ。  絵画制作だけでなく、婚礼や騎馬試合といった祝祭行事の演出や衣装デザインも手がけたことが、記録やデッサンからわかる。宮廷の総合プロデューサーのような多彩な活躍をした彼は、その才能を愛した皇帝ルドルフ二世から貴族の称号まで与えられた。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「つまり彼は、時代から孤立した異端の画家ではなく、十六世紀イタリアの自然主義を代表する巨匠であり、いわばレオナルドとカラヴァッジョをつなぐ存在であったのだ。展覧会には、レオナルドのデッサンや十六世紀ミラノの画家たちの作品も出品され、こうしたつながりがあきらかにされている。  アルチンボルドの芸術は、静物画や近代科学が登場しつつあった転換期の生んだ結晶であり、それゆえ現代になって新たな人気を獲得することになったのかもしれない。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「この過程でカラヴァッジョが梅毒に感染し、鉛中毒だったこと、日射病にかかっていたことを示す痕跡も見つかったという。画家は鉛白でできた白絵具を使うため、鉛中毒にかかりやすかった。興味深い結果だが、やはり眉唾であった。そして、遺骨がもし本人のものだったとしても、それによって美術史学に寄与するものではない。  カラヴァッジョの名声は二十一世紀になってからますます上昇しており、毎年のように世界のどこかで展覧会が開かれるようになったのだが、作品数は限られており、教会の祭壇画のような大作はほとんど出品されない。日本での二度の展覧会でも、祭壇画の出品はかなわなかった。ローマやシチリアにカラヴァッジョ巡礼に行くに越したことはないのだが、世界中のカラヴァッジョファンの好奇心に応えるように、こうしたニュースがときどき世をにぎわすのである。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「二十世紀イタリアの静物画家、ジョルジョ・モランディは、故郷ボローニャからほとんど出ることなく、世界の目まぐるしい美術運動の変動とも無縁に、生涯独身で、ひっそりと地味な静物画ばかりを描き続けた孤高の画家である。時代に左右されないその芸術は時とともに評価され、イタリアを中心に世界中で人気が高まっている。日本では、一九八九年から九〇年、二〇一五年から一六年の二度大きな展覧会が開催され、全国を巡回したことから、愛好者は増え続けているようだ。  ボローニャはフィレンツェやローマほど観光客は来ないが、イタリア最大の美術とグルメの街である。その一角に、ボローニャ近代美術館の中にあるモランディ美術館と、「カーサ・ディ・ジョルジョ・モランディ」として二〇〇九年より一般公開されているモランディのアトリエがあり、その静謐な制作環境とともに作品の数々を味わうことができる。きわめて快適で美術品にあふれたこの静かな古都から動かなかったゆえに、彼は自らの芸術を五十年にわたって追求することができたのだろう。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 いわば、当時ようやく再発見されたばかりのイタリア美術の最良の伝統を注意深く抽出し、小型の画面に凝縮して丁寧に塗り込めたのである。そのため彼の芸術はきわめてイタリア的に見え、同時代からイタリアの批評家や美術史家に熱烈に支持されたのであった。長らく西洋美術の中心であったイタリアは、十九世紀以降フランスに水をあけられたが、その偉大な伝統を継承し発展させたという点で、モランディは二十世紀イタリア最大の巨匠と目されている。  もっとも、こうしたことを知らなくとも、その画面は誰しも惹きつけてやまず、近くに寄って眺めても、いつまでも見飽きることがない。わずかなモチーフによる地味な静物画がなぜこれほどの表現力をもつのだろうか。それこそがまさに絵画という芸術の神秘であり、絵画というメディアが今なお衰えずに生き続けている理由であるといってよい。  絵画とは何か、絵を見るとはいかなることなのかということまで考えさせてくれる。どの作品も一見寂しげで孤独を感じさせるが、じっと見ているといつしか温かいものがこみ上げてくる。いつも一人でじっくり見ていたい作品群だ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「四国の金刀比羅宮は、こんぴらさんとよばれ、長らく庶民信仰の中心地であった。江戸期以降はこんぴら参りがお伊勢参りと並ぶほど人気を博し、今も年間四百万人もの参詣客を集めるという。しかし、伊勢や出雲とちがって、この神社が全国でも屈指の美術の宝庫であることはそれほど知られていない。  二〇〇七年から〇八年に朝日新聞社等が主催し、東京藝術大学大学美術館、三重県立美術館、そしてパリのギメ東洋美術館にも巡回した「金刀比羅宮書院の美」という展覧会があり、また二〇一五年には大阪のあべのハルカス美術館で「昔も今も、こんぴらさん。 ~金刀比羅宮のたからもの ~」展が開かれた。これらの展覧会は、金刀比羅宮の誇る名品が惜しげもなく出品されていて見ごたえがあった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「金刀比羅宮を飾る美術の見所は、金刀比羅宮の奥書院を飾る伊藤若冲の《花丸図》襖絵(図 43)と、円山応挙による表書院の「山水の間」「虎の間」「鶴の間」「七賢の間」の四室の襖絵である。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「近年の研究では、春画は庶民だけでなく上流階級も享受しており、男女を問わず楽しんだということがあきらかになっている。春画は時を超え、誰にでも楽しめる芸術であると認識させられた。  いまだに春画は偏見にさらされているが、こうした試みを重ねることによって、やがては日本を代表する一大芸術であると正当に評価される日が来るにちがいない。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「木下氏はその後、東京大学に移り、文化資源学という新たな学問を立ち上げ、写真や城郭や銅像などについて刺激的な著書を発表している。男性裸体像の性器表現を扱った最近の『股間若衆』(新潮社)も痛快で、タイトルとともに本人が楽しんで書いているのがわかる。自分がおもしろいと思えることにこだわることこそが学問の原点であることを、彼からはいつも教えられるのだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「西洋において絵画は、水彩やデッサンや版画など紙を支持体にする作品をグラフィックあるいは紙の作品とよび、油彩画やテンペラ画のように、カンヴァスや板など堅固な支持体に描くものをペインティングあるいはタブローとよぶ。素材や技法ではなく、支持体によって区別されており、前者は後者の習作や前段階として下位に置かれてきた。  十七世紀にパステルが発明されたが、当初は素描や習作のように補助的な手段であった。しかし、十八世紀にはパステルを主要手段とするパステル画家たちが登場し、パステルの地位が向上する。その最初の巨匠であるヴェネツィアの女性画家ロザルバ・カリエーラは、十八世紀初頭にパステルによる肖像画を描いて人気を博し、各国の王侯貴族に注文された。パリでその影響を受けたモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールは、《ポンパドール夫人》(図 56)のような全身像の大画面の肖像画も制作。スイスの画家ジャン・エティエンヌ・リオタールも肖像画家として活躍し、東方趣味にあふれる風俗画も描いた。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「藤田嗣治は、近年、ようやくその作品を目にする機会に恵まれるようになった。  しかし、この画家はいまだに日本の近代美術史に位置づけにくい。初期から壮年期までをパリで過ごして日本の画壇と関係を持たず、しかも西洋の芸術潮流ともあまり関係がないように見えるからである。フランスで名声を得た藤田は帰国後、戦争画の旗手として大活躍する。しかし、戦後はその責任を問われて再び渡仏、フランスに帰化して没した。日本でもフランスでも派手な言動によってつねに話題を集めた彼は、美術界のトリックスターとなって正当な評価を遅らせてしまったようである。  藤田は一九三一年から二年間、中南米を旅行しているが、このときメキシコの壁画運動に接して、壁画の力や公共性について再認識した。帰国後、彼はさかんに壁画を描くようになる。一九三五年に銀座の洋菓子店コロンバンのために天井画を制作。それらはフランスのロココ風の田園風俗画だが、彼の名声を確立させた乳白色の地色や黒い線描は見られない。この六点の壁画は一九七四年、持ち主のコロンバンによって赤坂の迎賓館に寄贈され、公開されて見ることができるようになったのは喜ばしいことである。  藤田がその後まもなく軍部の委嘱で戦争記録画を描いたのは、壁画のような大画面や公共性を求めたためでもあったろう。当初、彼にとっては表現内容は二の次であったにちがいない。西洋で公共的な壁画芸術を見て学んでいた藤田にとっては、戦争記録画は自らの本領を発揮できるまたとない舞台であった。  ところが、一九四三年に《アッツ島玉砕》を描いたころから、次第に戦争の記録や大義よりも人間の極限状況や殺戮という主題に熱中していく。それは全国に巡回して多くの民衆を感動させ、藤田は、自分の芸術がはじめて広く日本国民に受け入れられたことに感激した。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「しかし、戦後これらを描いたことを糾弾された彼は深く傷つき、日本を後にする。フランスでカトリックに入信したのも、戦争画で暴いてしまった生と死の深淵と虚無を埋めるためだったのではなかろうか。そして、「黙示録」挿絵のうちに緻密に描いた地獄の情景(図 62)は、彼にとっては戦争画の延長であったように思われる。そこには、断罪された者たちの阿鼻叫喚が執拗に描写されている。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「このような事例は古代から数多く記録されており、中国にも、うっかり紙に落とした墨の点を修正して見事な蠅に変えた画家の伝承があった。欧米の美術館を飾っている名作にも、画面の片隅に蠅が描かれているものは実に多いのだ。人間にとって嫌われものの蠅は、実は古今東西を問わずさかんに描かれてきたのである。  また、草を刈り取る農機具である鎌は収穫の象徴であり、「夏」の擬人像の持物でもあった。西洋では農作業の風俗画によく登場する。鎌はまた、命を刈り取るという点で死や時間の擬人像の持物となった。  新約聖書の「黙示録」には、鎌を手にした天使たちが出てきて熟した葡萄を刈り取るという記述があるが、これは終末のときにおける裁きを意味するとされる。この情景を描いた 14世紀ヴェネツィアの画家ヤコベッロ・アルベレーニョの作品(図 69)では、大きな鎌を両手で持った天使が、葡萄を刈り取ろうと身をかがめている。農業を象徴する鎌は、工業を表すハンマーとともにソ連の国旗にも登場するが、アンディ・ウォーホルはそれを作品化している。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「また、人物のしぐさや身振り、ポーズや動作も重要である。西洋美術は人体を中心とし、人体の動きによって意味を伝えてきた。西洋人は身振りやジェスチュアが大きいが、これは異なる言語の入り乱れる地域ならではの習慣であった。日本は単一の言語体系の島国に生きていたので、身振り言語を必要とせず、それゆえに他人の身振りにもすっかり鈍感になっている。そのため、西洋美術を見るときは身振りに注目することが必要なのだ。  たとえば、第 1章の「フィレンツェの美女たち」の項目でも述べたが、キリスト教美術でもっとも親しまれた「受胎告知」という主題がある。登場人物は聖母マリアと大天使ガブリエルだけのシンプルな画面だが、マリアの身振りによって、受胎告知のうちのどの段階かがわかるのだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「美術というものは古今東西を問わず、どんな天才的作品でも必ず過去の作品と密接な関係をもっており、時間と空間の制約の中からしか生まれないものであって、芸術家の天分や創意工夫などといったものはごくわずかな要素にすぎないのだ。  こうしたモチーフやしぐさの意味をいくつかでも知っていれば、美術作品を深く味わえるし、知らなければ見過ごしてしまうことも多い。美術を見るということは、感性だけの営為ではなく、非常に知的な行為なのだ。知識があればあるほど作品の意味や機能、作者や注文者の意図がわかって深く鑑賞できる。知識があって鑑賞の邪魔になることはありえないし、知識を軽視して、自分の感性や好き嫌いだけで見ても、ほとんどの美術作品は何も語りかけてくれないだろう。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「アメリカの中西部ミシガン州の都市デトロイトは、世界の自動車産業を牽引してきた産業都市であったが、徐々に衰退し、深刻な財政危機に陥ってついに二〇一三年に破綻した。負債額は百八十億ドルにのぼる。  この町には一八八五年に設立された米国屈指の大美術館があり、六万五千点以上の収蔵品を誇っていた。この所蔵品を売却して債務返済にあてる計画も提起されて検討され、売却額の見積もりは百億ドルとなった。だが、長く美術館に親しんできた市民たちや国内外の人々による反対運動によってかろうじて阻止された。かわりに作品を世界に巡回させて利益を得ることにし、二〇一六年、日本での巡回展にいたったのである。  この美術館は、一九八九年にも日本で所蔵品の展覧会をしたことがあったが、そのときはこのような危機に陥るとは誰も思わなかった。カラヴァッジョの《マルタとマグダラのマリア》など、この美術館が誇るオールド・マスターも出品されたが、二〇一六年の展覧会は近代美術に絞ったものであった。出品作は五十二点と数は少ないが、質が高い作品ばかりで見ごたえがあった。モネやルノワールらの印象派に始まり、ゴッホやセザンヌらのポスト印象派を経て二十世紀のマティスやピカソにいたるフランスの近代絵画は、西洋のモダニズムの主流であり、日本にも大きな影響を与えて親しまれてきた。その中で、日本であまり目にする機会のないドイツ表現主義が大きく取り上げられているのが注目された。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ドイツは、西洋美術史においてはフランスやイタリアのような輝かしい歴史はなく、むしろ美術の後進国に甘んじてきたが、中世のゴシック以来の伝統があり、ルネサンス期には西洋ではじめて風景画が誕生したのであった(図 89)。  二十世紀初頭には、フランスのモダニズム絵画の影響を受けつつも、それに反発するドイツ表現主義が生まれた。色彩の調和や美よりも強烈な色彩や大胆な筆触によって精神性や感情表現を重視するこの流派は、当時の一般的な美意識とは相容れないため批判も受け、とくにナチス政権下では「退廃芸術」という烙印を押されて厳しく迫害された。しかし、それらは自然の中に神を見出すゲルマン的な伝統に連なるものであり、それを新たに蘇らせたものであった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「自動車産業で成功したフォード家のような大富豪から、名もない一般の美術ファンにいたるまで、数多くの市民が百年以上にわたって育み、支えてきたこの美術館の底力を感じさせた。  アメリカには、このレベルの充実した美術館が多い。中西部に限っても、シカゴ、クリーヴランド、ミネアポリス、セントルイス、カンザスシティなど、主な都市はいずれもデトロイト美術館と同じか、それ以上の大美術館を持っている。それらはみな十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、市民たちがコレクションや基金を寄付して成立し、徐々に拡張されてきたものである。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 森村泰昌は、一九八五年にゴッホの自画像に扮したセルフポートレイト写真を発表して以来、一貫して名画や歴史上の偉人に扮した自画像を発表してきた。  一九八九年、全米を巡回した日本現代美術展「アゲインスト・ネーチャー」展にも出品し、国際的にも注目を集めた。その年から美術館に勤め始めた私は、彼の作品が注目されて話題になっている現場にいたが、なんとなく反発をおぼえ、一種の大阪らしい一発ギャグのようなものにすぎないと決めつけてしまった。  しかし彼はその後も名画だけでなく、日本画や写真や有名人など様々なバリエーションに挑み、いつも見事な完成度と意外性を示して新作を発表してきた。当初、単なる名画のパロディのようにしか見えなかったのだが、次第に美術史や歴史的事件への再解釈に向かうようになり、深化していった。また、彼の書く文章は、いつも美術家の余技を超えるレベルを示していた。こうして私の中で彼は、受けをねらう大阪の軽い芸人的な作家ではなく、もっと骨太でシリアスな堂々たる現代アーティストに成長してきたのである。  二〇一六年に国立国際美術館で開催された個展(図 84、図 85)は、彼の三十年間の表現の集大成となるものであり、彼の故郷にして制作現場である大阪での初めての回顧展となった。このとき、一時間を超える長編映像作品によって、美術史や自画像に対する彼の意図や解釈が打ち出され、それだけでも非常に見ごたえがあった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 森村泰昌は、一九八五年にゴッホの自画像に扮したセルフポートレイト写真を発表して以来、一貫して名画や歴史上の偉人に扮した自画像を発表してきた。  一九八九年、全米を巡回した日本現代美術展「アゲインスト・ネーチャー」展にも出品し、国際的にも注目を集めた。その年から美術館に勤め始めた私は、彼の作品が注目されて話題になっている現場にいたが、なんとなく反発をおぼえ、一種の大阪らしい一発ギャグのようなものにすぎないと決めつけてしまった。  しかし彼はその後も名画だけでなく、日本画や写真や有名人など様々なバリエーションに挑み、いつも見事な完成度と意外性を示して新作を発表してきた。当初、単なる名画のパロディのようにしか見えなかったのだが、次第に美術史や歴史的事件への再解釈に向かうようになり、深化していった。また、彼の書く文章は、いつも美術家の余技を超えるレベルを示していた。こうして私の中で彼は、受けをねらう大阪の軽い芸人的な作家ではなく、もっと骨太でシリアスな堂々たる現代アーティストに成長してきたのである。  二〇一六年に国立国際美術館で開催された個展(図 84、図 85)は、彼の三十年間の表現の集大成となるものであり、彼の故郷にして制作現場である大阪での初めての回顧展となった。このとき、一時間を超える長編映像作品によって、美術史や自画像に対する彼の意図や解釈が打ち出され、それだけでも非常に見ごたえがあった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「新作展でとりあげられた美術家や作品は、忘却とはまったく逆に、歴史の風雪に耐えて記憶されてきた有名なものばかりである。しかし、それらは単に保存されることではなく、新たに解釈されることによって命脈を保ち、生き直されるのである。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 二〇一七年は宗教改革五百周年に当たり、世界各地で記念行事が開かれた。東京の国立西洋美術館と大阪の国立国際美術館で開かれたクラーナハ展もその一環であった。宗教改革の創始者マルティン・ルターの親友であったドイツ・ルネサンス美術の巨匠の日本初の展覧会であり、よく知られたルターの肖像(図 88)も出品された。  ドイツで起こった宗教改革は、その直前に起こったルネサンスとともに近代の幕開けを告げる大事件であった。日本の歴史教育では、宗教改革とは、腐敗したローマ教皇や教会に対してルターら勇気ある聖職者たちが敢然と立ち上がり、キリスト教を本来の純粋な姿に取り戻したという、正義に満ちた運動であったかのように記述され、日本社会にもそのような通念が蔓延しているが、それは一面的な見方にすぎない。日本の西洋史学がドイツに起源をもち、教育がアメリカの影響下にあったために、そのような偏りが植えつけられてしまったのである。  実際には、宗教改革は不寛容な原理主義という面を持ち、多くの美術作品を破壊した恐ろしく野蛮な運動であったのだ。悪名高い魔女狩りや魔女裁判は宗教改革以前には見られず、ほとんどが宗教改革後のプロテスタント圏で起こっているのだが、それは、宗教美術を破壊するのと同根の異常なまでの偏狭さや不寛容の生み出したものであった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「実際には、宗教改革は不寛容な原理主義という面を持ち、多くの美術作品を破壊した恐ろしく野蛮な運動であったのだ。悪名高い魔女狩りや魔女裁判は宗教改革以前には見られず、ほとんどが宗教改革後のプロテスタント圏で起こっているのだが、それは、宗教美術を破壊するのと同根の異常なまでの偏狭さや不寛容の生み出したものであった。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「日本にはイタリア美術で見るべき作品はほとんどない。もっとも、美術における日本とイタリアとの関係は深い。明治初頭、日本にはじめて西洋の絵画彫刻や建築の技法を伝えたのは、工部美術学校に招かれたイタリアの美術家たちであった。そして、何人かの日本人はイタリアに留学し、本格的な技術を習得した。  しかし、やがて洋画家の多くはフランスに留学し、その地の前衛美術を範と仰ぐようになる。松方コレクションや大原美術館の収集品の大半もフランスの近代美術であった。前者を母体として開館した東京の国立西洋美術館は、その欠を補うため、イタリアの美術作品も収集してきたが、代表作や名作は集まらなかった。日本にある西洋美術は実に偏っているのだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「 どんな宗教でも、信仰を維持するための物体を必要とする。画像や彫刻でなくとも、数珠やお守りなど、人間は神にすがるとき、何かを持ちたいのだ。まして、信仰が禁じられ、公に礼拝できなくなった状況では、どんな小さなものでも信じるための確証が求められたであろう。南蛮時代の画像はわずかしか残っていないが、小型のメダイやクルスは数多く残っている。  映画には、現在、長崎の二十六聖人記念館に保存されている《雪のサンタ・マリア》とよばれる絵をはじめ、実在する聖画や踏絵が登場したが、とくに踏絵は重要な役割を与えられていた。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「人類のあらゆる芸術の源は宗教である。とくに、造形表現のほとんどは洞窟壁画以降、信仰や呪術から生まれたものであり、いつの時代でも宗教と美術とは切り離せなかった。どんな文化圏においても、宗教芸術こそが芸術の中心であり、古い宗教は必ずや優れた芸術を伴っている。日本美術でもっとも完成度の高いのは仏教美術であり、西洋ではキリスト教と結びついて大きく発展してきた。具象的な造形を禁じたイスラム教圏でも、モスクの建築や装飾のうちに瞠目すべき芸術を達成している。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「牧師を志していたゴッホにとって、芸術は自らの宗教観や信仰の表現にほかならなかった。彼の作品は伝統的なキリスト教主題を扱っていなくとも、すべてキリスト教美術として見ることができる。  ゴーギャンはブルターニュの素朴な農民信仰に触発されて、《説教の後の幻影(ヤコブと天使の戦い)》や《黄色いキリスト》のように、大胆な色面による革新的な絵画を描く。  また、タヒチにおける西洋と異なるキリスト教の信仰の姿を《イア・オラナ・マリア(われマリアを拝す)》(図 98)に描いたほか、自らをキリストに重ね合わせた自画像によって、世間から孤絶した芸術家の苦悩を表現した。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「しかし、シャガールと同じくロシア系のユダヤ人の移民の子として生まれたアメリカの抽象表現主義の画家マーク・ロスコは、シャガールのように神や預言者の姿を描くことはなく、茫漠とした色面のみによる大画面の抽象絵画によって、超越的な存在や人間の悲劇的感情を表現しようとした。  ユダヤ教では、神の姿や聖書の情景を描くことを禁止していたが、ロスコの作品は、特定のモチーフを表現していないがゆえに普遍的な宗教性を感じさせる。  ロスコは一九六四年から六七年にかけて、ヒューストンのロスコ・チャペル(図 101)の装飾に従事したが、それはマティスのロザリオ礼拝堂とともに、二十世紀の教会装飾の双璧をなすものとなった。フィリップ・ジョンソンの設計による八角形の空間に、微妙な色面のみによる壁画で構成された内部は、訪れる人を瞑想に誘わずにはいない。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ロスコが毛嫌いした画家が、一九六〇年代初頭、商品やスターなど大量消費社会のイメージを作品とするポップアートを生み出したアンディ・ウォーホルであった。戦後アメリカ美術の旗手となったウォーホルも、その芸術の根底には深いキリスト教信仰があった。チェコの移民の息子として敬虔な典礼派カトリックの家庭に育った彼は、生涯にわたって熱心な信仰を保ち続け、その作品もキリスト教と関連して読み取ることができる。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「真に優れた美術はつねに宗教的であり、美術と宗教とは実は同じものなのだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「世界中のカトリック教会は基本的にいつでも誰にでも開かれている。信仰の有無にかかわらず、人間にとって瞑想する時間は必要である。静寂の中で自らの内面と向き合い、この世を超えた存在に思いを馳せることができるのだ。イタリアやスペインなどカトリック国を旅行するときには、疲れると教会に入って休み、内部の祭壇画や彫刻を鑑賞することができる。カトリックは、こうした祈りの場の重要性をよく認識しており、それがゆえに、世界最大の人口を擁する普遍的な宗教になっているのではなかろうか。  日本でもっとも多いプロテスタントの教会は、礼拝のときをのぞいて気軽に入ることができないのが問題である。基本的に信者の礼拝以外の用途や一般人の立ち入りを想定していないのだ。日本中どこにでもある神社には誰もが入ることができるが、それは基本的に屋外であり、座る場所がない。柏手を打って祈るだけであり、立ったまま瞑想するのは難しいだろう。ただ、どんな神社でも気楽に立ち寄って参拝できるのはすばらしいことである。仏教寺院には拝観料を払って入ることができる名刹もあるが、基本的に檀家以外には閉じられている。訪問すれば親切に見せてもらえることも多いのだが、気軽に入れないのはたしかだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「京都の龍安寺は、京都の代表的な観光名所としていつも大勢の観光客でにぎわっているが、枯山水の石庭をぼーっと眺めながら座っている人が絶えることがない。戦後まもない日本を訪れたアメリカのアーティスト、アンディ・ウォーホルも龍安寺を訪れて長時間座ったが、その経験が、後にカメラを固定して長時間撮り続けた「エンパイア」などの前衛的な映画を制作する着想につながったという。  そういう特殊な名所よりも、日常的な生活圏にも祈りの場があったほうがよいと思う。私はもう二十年あまり、出勤途上に職場の近くにある六甲カトリック教会に立ち寄っている。ほとんどの場合、私以外は誰もいない空間で心おきなく祈り、いつまでも瞑想することができる。上京したときに時間があるときは四谷のイグナチオ教会、京都では三条カトリック教会に寄って祈ることにしている。これらの空間には、私にとっては濃密な時間や様々な記憶が堆積しており、ときにはあの世への入口にも思える。こうした時間と空間を大切にしたいものだ。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「ヴェルフリの芸術は、もっとも純粋なアール・ブリュットを体現しているといってよいが、そうした狭いジャンルを超えて、今やパウル・クレーと並ぶスイス最大の巨匠と目されている。社会から抹殺された不遇な人生を誇大な妄想によって生き直し、絵と文字によって紙の上に昇華させたその作品群は、人間の創造力の神秘を開示しているといえよう。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

    「死刑と美術。一見関係がなさそうだが、実は深い関係がある。死刑囚が制作した作品だけでなく、死刑場面を描いた作品も多く、また特殊なものだが、死刑囚に悔悛を促して見せていた宗教画もあった。私はそれらについて一文を発表したこともあり(『裏側からみた美術史』所収)、電気椅子を重要なテーマにしたアンディ・ウォーホルをめぐっても、死刑と美術について論じた(『ウォーホルの芸術』参照)。  近年、死刑囚の描いた絵画が立て続けに展示されるようになり、私も何度か目にすることができた。まず、二〇一三年に広島の鞆の津ミュージアムで「極限芸術〜死刑囚の表現〜」展として三十七人の死刑囚による約三百点の作品が展示された。それらは同年と翌年に渋谷区文化総合センター大和田でも展示され、大勢の観客を集めた。二〇一六年には福山のクシノテラス、二〇一七年にはクシノテラスと東京のアツコバルーで「極限芸術〜死刑囚は描く〜」展が開催された。」

    —『美術の力~表現の原点を辿る~ (光文社新書)』宮下 規久朗著

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    2026年05月22日
  • 美術は宗教を超えるか

    Posted by ブクログ

    数年の積読。
    発売当時は難しくて読めなかったが、今読むととても面白い。
    こんな学識厚く、かつ熱心なキリスト教信者二人が揃い、宗教と美術の歴史について語る企画、と言うのは二度とはないだろう。
    さらにカラヴァッジョをはじめカラーページも多く、充実した内容だ。

    全編にわたって、カトリック・プロテスタント・東方正教の比較が随所に出てくるの
    で、個人的には、
    少なくともマックス・ヴェーバー著『プロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)』は読み終えて、
    カトリックとプロテスタントの違いが頭に入った状態で読んだ方が、理解が早いと思う。

    後半になるにつれて、佐藤優氏からプロテスタントに批判的ととれる発言が見られた。
    彼自身がプロテスタントの信徒らしいので、自省の意味なのだろうか。

    キリスト教史と美術史がすんなり頭に入ってくるので、興味のある方には是非おすすめしたい一冊です。

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    2026年05月17日
  • 食べる西洋美術史~「最後の晩餐」から読む~

    Posted by ブクログ

     タイトルの『食べる西洋美術史 最後の晩餐から読む』と言うタイトルに惹かれて飲み始めた。私の拙い知識からは、日本画にはない特徴として、西洋美術の中では食事が様々な場面で取り上げられていると思う。なぜ日本の美術の中には食事の場面が少ないのかと言う事は疑問に感じていた。
     西洋美術の中では、キリスト教の影響が強く、それにより食事の場面が多く取り上げられていると言う事。しかしそれが時代とともに食物を題材とした静物画や、レストランや戸外での飲食の場面が増えていったこと、これらを歴史的な背景から理解することができた
     食事はコミュニケーションの最大の手段であり、宗教と芸術につながる文化であった。食べるという事は、人間の生の証であり、宗教にも通ずるものであった。その意味において、食事と美術はさらに宗教も含め一直線につながっていると言うことが理解した。
     最も心に残ったのは、エピローグの中にあるマラソン選手、円谷幸吉さんの有名な遺書であった。 すれは単に食事に対する感謝ではなく、食事を提供してくださった方々への感謝の気持ちが綴られ、それが読む者の心に響いた。

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    2026年05月05日

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