【感想・ネタバレ】美術は宗教を超えるかのレビュー

あらすじ

【複数色を使用したコンテンツです。モノクロ端末では一部読みづらい場合がございます】聖画に神は宿るのか――。西洋美術作品はもともと「読む聖書」として普及された。その後、偶像崇拝が禁止される歴史がある一方で、美術作品として広く鑑賞されるものに変わった面もある。作品を理解することは信仰や祈りに通じるだろうか。美術と宗教のあいだにある本質を歴史と信仰から探究する対談。「宗教は信仰する人にとって絶対的なものであり、美術よりも強力だといえるが、言葉によらない美術は個々の宗教を超えた普遍性を持っており、より広く開かれている。美術は誰にでも親しめるものだが、それを支えているのが宗教である。」(はじめに――宮下規久朗より)「イコンそのものを崇拝する、聖書のテキスト、あるいはそこから派生した理論的に精緻な神学を崇拝することは、キリスト教が厳しく禁じる偶像崇拝だ。美術や神学を通して、その背後に確実に存在する神を想うことが、キリスト教的に正しいアプローチなのだ。」(おわりに――佐藤優より)

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★再読
2026/10/09

そもそもプロテスタントはグーテンベルクの活版印刷が発明されて聖書が大衆に読まれる様になった結果生まれたもので、基本的に読書が出来る層しか相手にしてないというか、聖書と言葉の理解を重視する宗教文化に、知的能力を求められるような窮屈さを感じるんだよね。別に信者ではないけど好き嫌いで言うと、カトリックの入口の豊かさが好きだな。

「《サルヴァトール・ムンディ》は《モナ・リザ》を凌ぐ傑作である、と私は見ています。しかし残念ながら、前述の個人蔵のため実物を見ることはかなわない。アラブのアブダビにルーブル美術館の分館ができた際、目玉作品にしようとルーブル側が積極的に動いたものの、先方が貸し出しに応じず、展示できませんでした。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「宮下  かつて、六世紀のローマ教皇グレゴリウス一世は「絵画は文盲の聖書である」と語りました。ヨーロッパの識字率の低さから、聖書を読めない人やキリスト教の教義がわからない人に対し、絵画は目の前に聖書の情景を思い起こさせるメディアです。  聖書に記された物語の理解を視覚イメージに訴えると同時に、文字以上に印象や記憶に定着するメリットがありました。神の行ないを忘れないようにする、という点で、美術は宗教にとって有用この上ないものであり、信仰のための貴重な道具でした。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「美術の鑑賞は、実際に展示された空間へ行って見ないとわからないことが多々あります。読者の方々には、新型コロナウイルス感染が終息した暁にはぜひ一度、現地でご覧になることをお勧めします。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「 《聖マタイの召命》の解釈に関しても、カトリックとプロテスタントでは異なるものになります。まず、キリストがレビを指して呼び掛け、レビは自分の意志で召命に応じます。  これを自由意志によるものとするのがカトリック。予定説によるものとするのがプロテスタントです。自由意志説は、自力で悔い改め、善行を積めば救われるという立場を取ります。したがって「キリストのほうを見て自らを指し、立ち上がろうとする中央の髭の紳士こそがマタイである」と考える。  ところがその半面、カトリックの見方は「誰もが救済されうる」というものです。したがって若者であろうが、画中の他の四人であろうが、全員が召命を受けて救われる可能性があるのです。強いていえば一見、最も救いから遠いと見られる若者ではないか、と考える。浄土真宗の悪人正機説に近い考え方ですね。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「美術にせよ文学にせよ、メディアは著者に対して安易に狙いを聞きすぎるし、作家もサービス精神で答えすぎる。もう一つは日本独特の座談会文化で、同じ分野の作家や評論家が頻繁に会いすぎる。  ロシアの場合、雑誌やテレビで座談会のようなものは滅多にやりません。とくに同じジャンルの作家や評論家は距離を置くのが普通です。  理由を聞くと、仮に人間的に波長が合わない作家でも、書いたものがよければ自分は評価できる。しかし日ごろの付き合いで人間関係があると、駄作を書いたときに批判できない、という。互いの作品を正当に評価するには相手の人格を知らず、テキストだけを通じた関係がよい、と考えるのです。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「その点、神道は文字すらありませんからね。日本人は目に見えない神道的な部分を、精神のどこかに宿している。初詣に代表されるお参りや、お祭りなど特定の日に特定の場へ出かける習慣が根強く、パワースポット巡礼がブームになる国柄でもあります。たしかに名刹・古刹があるような山に行くと、ただならぬ霊気を感じることがあります。  キリスト教における教会の役割の一つも、皆が一堂に会して祈り、賛美歌を歌うことで「場の空気を共有する」ことにあります。言葉にし難い「気」を感じることが、目に見えない宗教の本質ではないでしょうか。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「じつはワシントンのナショナル・ギャラリーの名だたる作品は、もともとロシアのエルミタージュ美術館の所蔵品が多い。現在のエルミタージュは、じつは名品が買いたたかれた後の倉庫のようなものになってしまった。ロシアの革命政府はお金がないので叩き売りをしたからです。その主な売却先が二十世紀のアメリカであり、富のあるところに名作が集まる事実を証明しています。  二十世紀には映画館も誕生し、大衆の関心はアートからシネマへ流れていきました。「動かない絵」から「動く絵」に満足を覚える人びとの流れには抗しがたく、芸術を崇める文化は主に富裕層へとシフトしていきました。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「佐藤  フェルメールの作品が日本で人気があるのはなぜでしょうか。宮下  「キリスト教臭が薄い」と思っていることが大きい、と思います。日本人の多くは、美術にキリスト教の文脈が絡むと苦手意識を覚えがちです。印象派が好きなのも同じ理由で、ルノワールやモネの絵にはキリスト教の題材がほとんど出てきません。  フェルメールも《牛乳を注ぐ女》など、日常的な光景で題材が親しみやすい。王侯貴族も出てこないし、キリスト教を知らなくても理解できる、ということで皆が飛びついたのではないでしょうか。絵のサイズがコンパクトなのも大きい。日本人は往々にして、壁画のような巨大な作品より、小さめの作品を好む傾向があります。このように、フェルメールはあらゆる点で日本人好みなのです。  付言すれば、フェルメールは印象派の画家よりも単純に絵がうまい(笑)。昔と比べて日本人の鑑賞眼も成熟し、モネやルノワールの印象派だけでは満足できず、オールド・マスターと呼ばれる十八世紀以前の西洋絵画の源流への関心が芽生えてきたのだと思います。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「宮下  しかし、かといってフェルメールの絵画に「宗教色がない」と考えるのは誤解です。たとえば《天秤を持つ女》(図 46)は、キリスト教の「最後の審判」を念頭に描いた作品です。まず天秤を手に立つ女性の背後に画中画があり、最後の審判の様子が描かれている。そして審判者キリストの下、女性が天秤を持ち、大天使ミカエルのごとく「魂の計量」を行なう、という寓意です。  このように、西洋美術はキリスト教と分ち難く結びついています。日本でも仏画はもとより、水墨画も禅宗の教えが背後にある。わずかな墨を用い、限られた紙の上に真理を表現する、という信仰に根差した美のスタイルがあります。芸術には多かれ少なかれ宗教的要素が含まれており、両者は不可分です。美術がたんに色や線の面白さだけで成立している、と考えるなら、やはり作品の価値を十分に味わっているとはいえません。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「しばしば「プロテスタントは美術を排除する」といわれます。しかし例外はルター派で、キリストの教えを説く際に絵も像も用います。  偶像崇拝に関して、「パンと葡萄酒」をめぐる聖餐論争があります。パンと葡萄酒がキリストの血肉として実体化する、と考えるローマ・カトリック以来のルター派の「実体変質説」に対し、改革派(ツヴィングリ派とカルヴァン派)はパンと葡萄酒を基本的に象徴と捉える象徴説を主張しました。実体変質説の考え方をカルヴァンやツヴィングリの系統は偶像崇拝である、として排除したのです。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「スイスのジュネーブやスコットランドでカルヴァン派の教会に入ると、見事なまでに殺風景で、まるで会議場のようにしか見えません。極端なところでは、十字架さえ見当たらない。そういう人びとは、美術はおろか、スポーツにも関心がありません。娯楽全般に関心が薄いのです。  では何に関心があるのか、といえば「自分の仕事」です。プロテスタントの考え方では、個人の適性は神によって選ばれており、天職があらかじめ与えられている。したがって趣味の世界には関心をもたず、労働者として勤勉であることが善とされます。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「宮下  私は講義でよく「美術 =宗教である」といいます。一見、宗教と無縁の現代アートでさえ、背後には「目に見えないもの」の存在がある。代表的な例が、ポップアートの第一人者アンディ・ウォーホルの作品。工業製品や俳優を題材にしたシルクスクリーンの複製物であるにもかかわらず、作品が醸し出す不思議な雰囲気があります。  ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンは、それを「アウラ」という言葉で表現しました。作品の目の前に立ったときに感じるアウラは、たとえ複製であっても聖性を失わないイコンが与える効果と同じです。佐藤  つまり、目に見えない聖霊の働きが作用している。宮下  それはまさに宗教的な体験に近いものがあります。美術鑑賞とはベンヤミンがいう「アウラ」を感じる精神的な営みであり、いわば宗教行為の一つです。また私はよく、美術作品との出会いは一期一会だといいます。作品を見る機会は、じつは一生に一回しかない。二回目に見たときの印象は、最初と必ず異なるからです。その場で目にしたものは、二度と同じ状態では見られない。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「加えて、美術にはセラピー(治療)的効果があるといわれます。過去の経験で負ったトラウマ(心的外傷)を解消させる絵画セラピーが、アメリカを中心に研究、実践されている。「場」との関連でいうと、美術館で絵を無心に見るうちに心が穏やかになり、苦しみが慰められる、という経験をした方もいるはずです。美術鑑賞は、神社という空間で手を合わせて心が清められるとか、教会で何も考えず椅子に座っているだけで気分が落ち着く、という行為と似た作用がある。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

「宮下先生は、自らとキリスト教の関係について語っていないが、日本キリスト教会に所属するプロテスタントのキリスト教徒だ。日本キリスト教会は、改革長老派(カルヴァン派)の伝統に立つ教会だ。本書で詳しく論じられているようにカルヴァン派は、イコノクラスム(聖画像破壊)を行なった。その関係もあり、改革長老派系の神学者は、美術に対する関心があまり高くないように思える。本書でわれわれは美術の意義を神学的に位置づけるという大胆な冒険に挑んだ。」

—『美術は宗教を超えるか』宮下 規久朗, 佐藤 優著

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2026年10月10日

Posted by ブクログ

数年の積読。
発売当時は難しくて読めなかったが、今読むととても面白い。
こんな学識厚く、かつ熱心なキリスト教信者二人が揃い、宗教と美術の歴史について語る企画、と言うのは二度とはないだろう。
さらにカラヴァッジョをはじめカラーページも多く、充実した内容だ。

全編にわたって、カトリック・プロテスタント・東方正教の比較が随所に出てくるの
で、個人的には、
少なくともマックス・ヴェーバー著『プロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)』は読み終えて、
カトリックとプロテスタントの違いが頭に入った状態で読んだ方が、理解が早いと思う。

後半になるにつれて、佐藤優氏からプロテスタントに批判的ととれる発言が見られた。
彼自身がプロテスタントの信徒らしいので、自省の意味なのだろうか。

キリスト教史と美術史がすんなり頭に入ってくるので、興味のある方には是非おすすめしたい一冊です。

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2026年05月17日

Posted by ブクログ

美術と宗教を考察するという意味でこれ以上ない優良書。お二方の優れた古今東西の宗教と宗教絵画解説、それにあわせた的確な挿入作品の美しさで貪るように拝読させていただいた。美術鑑賞は宗教行為であり、見えざる神との対話の窓であることがよく理解できた。

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2021年07月03日

Posted by ブクログ

Windowsとアップルがカトリック思想からきているとは宗教に関心の低い日本人からすると、驚きです。

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2021年06月17日

Posted by ブクログ

・ルネサンス概念の変遷
・佐藤優氏の”日本は仏教、儒教の土壌があったから、キリスト教の本質を理解することができた”という趣旨の『日本基督教の精神的伝統』(魚木忠一著)からの引用が興味深い。
・カトリックとプロテスタントの違いに敏感になれる記述。

☆3.5

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2023年11月22日

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