東畑さんの本って毎回面白いのだけど、今回は今まで読んだ中でも群を抜いて読みやすかった。それに今までの著作ではあまりそう感じたことはないのだけど、読んでいる途中にカウンセリングを受けているような?状態になったのか、夢見がすごいことになって、結構しんどかった笑。
自分としては冒険カウンセリングの方は、実存について向き合いたいと思っているので、カウンセリングルーム通って受けてみたいと思った。
以下、メモしたところ
…ヤングが面白いのは、エクスターナルな治療(問題を外在化する治療)はお互いが名前を知っているような狭い村落協働たいで機能しやすく、インターナルな治療(問題を内在化する治療)は互いを知らない大きな都市で機能しやすいと指摘していることです。…(近代になって)それぞれの人が自分の生活スタイルや人生コースを、習慣やしきたりによってではなく、自分で決めていかねばならない世界がやってくる。このとき、「私の心」という極小単位に問題や決定の根拠を見出し、それについて考えるための治療文化が必要になってくる。(p.68)
カウンセリングには二つのゴール・目的がある。「生存」と「実存」です。生存とは、困難な状況の中で、生き延びることを指します。…実存は、その人独自の生き方のことを指します。このままならない世界の中で、ままならない身体を抱えて、いかに生きるか。そこに価値観や人生観が関わってきますし、その人の歴史が反映される。カウンセイリングは実存に「も」取り組む。(p.167)
心のスキンケアですね。美容という意味ではなく、皮膚の感覚を取り戻すという意味でのスキンケア。ソマティックな介入もコグにティブな介入も自己や世界との接触面としての心を問題にしています。それはまさに、心の皮膚を整える作業だということです。(p.209)
実存は生存を前提とする。…だとすると、やはり実存の問題は「贅沢な悩み」だと言われてしまうのかもしれません。…にもかかわらず、やはり冒険としてのカウンセリングがどうしても必要になることがある。なぜか。
生活を守ることで、人生が死んでしまうことがある。
そう、生き延びるために、心の一部を殺さざるを得ないことがある。すると、自分の一部が死んだまま、生活が営まれることになる。そういうとき、生活は回っているけど、人生は行き詰まってしまいます。生きているけど、死んでいる。そこにはきわめて不自由にしか生きられない心がいる。
だから、臨床家として思う。これは「贅沢な悩み」なんかではなく、「切実な苦しみ」のはずだ、と。(p.245-6)
人生の脚本は反復される。
これこそが生育歴インタビューで謎解きすべきものであり、古傷が埋められしところです。…心の深いところに沁みついた人間関係のプロトタイプがあり、それが心そのものを構造化し、人生を不自由にしている。精神分析ではそのように考える。ですから、この脚本の詳細を明らかにし、いつもの反復とは違う展開を可能にすることが冒険としてのカウンセリングのミッションとなります。(p.283-4)
「精神分析は、セックスしないと決めた二人が、たがいに何をはなすことが可能なのかを問うものである」精神分析についての美しい定義です(レオ・ベルサーニ & アダム・フィリップス『親密性』) (p.299)
冒険としてのカウンセリングとは物語的営みであり、そこで生じるのは文学的変化である。(p.303)
たとえば、長く付き合った恋人との痛烈な別れは、古い自分が死に、新しい自分が生まれることにほかならないし、子どもの高校の卒業式でおいおいと泣くことは、中年だった自分が終わり、初老としての自分のはじまることかもしれません。
ちゃんと生きるとは、ときどき死んで、その都度新しく生まれることです。僕らの人生は節目節目で「死と再生」が挟み込まれています。…ここにあるものを「文学的変化」と呼びたい。なぜなら、そこで問題になっているのは物語であるからです。青年から中年になるとき、僕らの実存は変わります。それは物語が変わるということにほかなりません。ひとつの物語が終わり、別の物語がはじまる。…そして、どうしても古い物語を手放せず、古い物語が終わらないときに、僕らの人生は行き詰まり、ひどく不自由になるのでしょう。(p.337)
カウンセリングの帰り道には、ユーザーとカウンセラーは他人である、という根源的なさみしさがあります。
他人であることの根源的なさみしさ。
人はこのさみしさに極めて弱い、ということを真面目に考えてきたのが精神分析です。「分離」とか「離乳」という言葉を使って、このさみしさが人間の宿命的な苦しみであり、これをいかに受け入れたり、飲み込んだりしていくかに心の発達があることを見出しました。(p.349)
「終わりたい」とユーザーが言ってくれたことによって、密やかに進行していた危機が明るみに出て、ちゃんと取り組まれるものになる。(p.366)
重要な人との別れは、その人を喪失することだけを意味せず、その人と結びついている自分を喪失することでもあります。
古い物語を終わらせること。古い自分を喪失すること。小さく死ぬこと。これが心にとって一番難しいことです。古い物語は心にこびりついていて、何度も何度も反復し続けます。転移がまさにそれです。人生の古い脚本に、僕らは執着する。そこにかつての恐れがあり、そしてかつて渇望し、諦めきれない何かがあるからでしょう。(p.408)
僕らは古い物語を背負っていて、それに執着することで、行き詰まってしまう。そこには古い夢があり、古い幻想があります。そこには過去の大切な誰かからもらったものであったり、植え付けられたものだったり、一緒に作り上げたものだったりします。
だからこそ、古い物語を終わらせることには痛みがある。古い物語から離れるためには、その過去の誰かとの心理的な別れを経験しないといけないからです。そこには喪失があり、孤独がある。その痛みに持ちこたえるためには、他者とのつながりが必要です。(p.418)
神がいなくなり、王も貴族もいなくなる。僕らは自由な個人になった。その分、成果はひどく不確実になり、流動的になった。だからこそ、人は身分でも、宗教でもなく、自分の物語によって自分を証明することになり、人生行路を決めていくことになる。これが個人です。…この近代におけるありふれた、しかし必須の人間的営みが不全に陥ったときに、カウンセリングは姿を表す。僕はカウンセリングをそのような役割を背負った社会的営みだと考えています。(p.423)