お粗末な言い方になるけれど、この社会には、ほんとうに様々な人々がそれぞれの人生を生きている。その人生たちには個別性、独自性、唯一性がもちろんあり、それらについては忘れがちだったりする。本書はそういった人間、人生の、唯一性のある断片を、著者の主観(人を完全な客観で見ることはできない)から不完全なままのかたちで綴っている。
本書を読み進めるうち、僕は自分の生きる世界の狭さ、他者への料簡の狭さを痛烈に感じさせられることになった。他者に気を配り、他者の気持ちを想像をして生きている自負がこれまで少しはあったのだけれど、いかに自己中心に、自分の世界に閉じこもって生きてきているか、ということ突き付けられてしまった。
他者を知らないこと。他者を想像することの貧困性。不幸もアクシデントも、見舞われる当人にとっては、身も心も削られたり切られたりする苦しみや痛みに満ちたものが多いだろうけれど(でもまたそうではなく、そういった困難にもあっけらかんとしている人だったり、通り抜ける風のように位置づける人だったりもいるんだということも、僕自身の理解が届かなかったり考え方と齟齬が生じるという不都合のため、あるいはごく少数の例しか知らないため、僕の脳内で無いものとしてしまっていたことだったけれど、それを再確認することができた)その混み入った内容の濃さだけでいえば、とても豊かだった。
そういったエッセイが本書。良質でよみやすいタイプの純文学を読んでいるかのような読書体験だった。もう10年ほど前に出版された作品なのでほんとうに「遅ればせながら」になるのだけれど、「おすすめ」とさせていただく。
では以下、引用を三つほどして終わります。
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私たちは、つらい状況におちいったとき、ひたすらそのことに苦しみ、我慢し、歯を食いしばって耐える。そうすることで私たちは、「被害者」のようなものになっていく。
あるいはまた、私たちは、正面から闘い、異議申し立てをおこない、あらゆる手段に訴えて、なんとかその状況を覆そうとする。そのとき私たちは、「抵抗者」になっている。
しかし私たちは、そうしたいくつかの選択肢から逃れることもできる。どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの、ひとつの象徴的なあらわれである。そしてそういう自由は、被害者の苦しみのなかにも、抵抗する者の勇気ある闘いのなかにも存在する(p100)
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→我慢し、耐えること。そういうことを「オトナ」になることとするならば、「オトナ」になることとは、被害者のようなものになることなのかもしれない。繰り返しみたいになるけれど、「オトナになれよ」なんて言い方を今一度思い出してほしい。引用部分を踏まえると、「オトナになれよ」は自ら被害者になってみるんだよ、という意味に意訳できてしまう。これは、社会の末端部であるのが個人であり、その個人に受け止めさせる論理でもある。それが、美学として価値化されているということだろうか。社会はこうして安定する。自己責任とする論理と似ていはしないか。
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むしろ、私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。(p197-198)
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→ゆえに、夢や期待を膨らませずに無難な人生を選び、うまく軌道に乗ることができる人もいる。それはそれで否定されることではないのだけれど、こうした数々の「裏切られた人生」の積み重ねのなかに、「裏切られずに成就した人生」も確率的にでてくる。そういった人生が、社会や他の人々に恩恵をもたらしたりもする。この引用部分の章には、人生は無意味だからこそ捨てられる(賭けることができる)というような箇所がある。人生は大切なものだけれど、固執して保護しすぎるのはまた違うということなのだろう。
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しかし、たとえ牛や豚を食べていても、イルカや鯨を殺すことに「反対を表明する」ことはできる。いまどきそんなものは誰も食べないし、鯨肉の場合は在庫も余っているらしいし、わざわざ殺さなくてもよいと思う。
それは確かに完全な論理ではないが、私たちはそれが不完全な意見であることを理解したうえで、それでもやはり自分の意見を表明する権利がある。
そしてもちろんそれは、批判されることになる。(p210)
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→「意見や批判をするときにはちゃんと論理的に筋が通っていて、対案を持っていて、建設的な意見が込みでないと、社会に意見してはならない」とするような風潮は一部にあると思う。そこまで頭が働かないのならば沈黙せよ、と言われているみたいなものである。この引用では、そうではなく、不完全な意見であることを自分でわきまえた上で表明する「権利」がある、と言ってくれている。もちろん、批判にさらされるのだけれど、この「権利」はとっても価値のあるものだと僕は思う。