あらすじ
★紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞!
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一生に一度はこういう本を書いてみたいと感じるような書でした。――星野智幸さん
この本は、奇妙な「外部」に読者を連れていく。
大冒険ではない。奇妙に断片的なシーンの集まりとしての社会。一瞬きらめく違和感。
それらを映画的につないでいく著者の編集技術には、ズルさを感じもする。美しすぎる。 ――千葉雅也さん
これはまず第一に、無類に面白い書物である。(…)
語る人たちに、共感ではなく理解をベースにひたすら寄り添おうとするスタンスは、
著者が本物の「社会学者」であることを端的に伝えている。─―佐々木敦さん(北海道新聞)
読み進めてすぐに、作者の物事と出来事の捉え方に、すっかり魅せられた。――唯川恵さん(読売新聞)
社会は、断片が断片のまま尊重されるほど複雑でうつくしい輝きを放つと
教わった。─―平松洋子さん(東京人)
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「この本は何も教えてはくれない。
ただ深く豊かに惑うだけだ。
そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。
小石や犬のように。
私はこの本を必要としている」――星野智幸さん
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どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、胸をかきむしられるような気持ちになる。
梅田の繁華街ですれちがう厖大な数の人びとが、それぞれに「何事もない、普通の」物語を生きている。
小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。それらはただそこにある。[…]
社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。(本文より)
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Posted by ブクログ
お粗末な言い方になるけれど、この社会には、ほんとうに様々な人々がそれぞれの人生を生きている。その人生たちには個別性、独自性、唯一性がもちろんあり、それらについては忘れがちだったりする。本書はそういった人間、人生の、唯一性のある断片を、著者の主観(人を完全な客観で見ることはできない)から不完全なままのかたちで綴っている。
本書を読み進めるうち、僕は自分の生きる世界の狭さ、他者への料簡の狭さを痛烈に感じさせられることになった。他者に気を配り、他者の気持ちを想像をして生きている自負がこれまで少しはあったのだけれど、いかに自己中心に、自分の世界に閉じこもって生きてきているか、ということ突き付けられてしまった。
他者を知らないこと。他者を想像することの貧困性。不幸もアクシデントも、見舞われる当人にとっては、身も心も削られたり切られたりする苦しみや痛みに満ちたものが多いだろうけれど(でもまたそうではなく、そういった困難にもあっけらかんとしている人だったり、通り抜ける風のように位置づける人だったりもいるんだということも、僕自身の理解が届かなかったり考え方と齟齬が生じるという不都合のため、あるいはごく少数の例しか知らないため、僕の脳内で無いものとしてしまっていたことだったけれど、それを再確認することができた)その混み入った内容の濃さだけでいえば、とても豊かだった。
そういったエッセイが本書。良質でよみやすいタイプの純文学を読んでいるかのような読書体験だった。もう10年ほど前に出版された作品なのでほんとうに「遅ればせながら」になるのだけれど、「おすすめ」とさせていただく。
では以下、引用を三つほどして終わります。
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私たちは、つらい状況におちいったとき、ひたすらそのことに苦しみ、我慢し、歯を食いしばって耐える。そうすることで私たちは、「被害者」のようなものになっていく。
あるいはまた、私たちは、正面から闘い、異議申し立てをおこない、あらゆる手段に訴えて、なんとかその状況を覆そうとする。そのとき私たちは、「抵抗者」になっている。
しかし私たちは、そうしたいくつかの選択肢から逃れることもできる。どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの、ひとつの象徴的なあらわれである。そしてそういう自由は、被害者の苦しみのなかにも、抵抗する者の勇気ある闘いのなかにも存在する(p100)
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→我慢し、耐えること。そういうことを「オトナ」になることとするならば、「オトナ」になることとは、被害者のようなものになることなのかもしれない。繰り返しみたいになるけれど、「オトナになれよ」なんて言い方を今一度思い出してほしい。引用部分を踏まえると、「オトナになれよ」は自ら被害者になってみるんだよ、という意味に意訳できてしまう。これは、社会の末端部であるのが個人であり、その個人に受け止めさせる論理でもある。それが、美学として価値化されているということだろうか。社会はこうして安定する。自己責任とする論理と似ていはしないか。
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むしろ、私たちの人生は、何度も書いているように、何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、そういう人生である。私たちのほとんどは、裏切られた人生を生きている。私たちの自己というものは、その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。(p197-198)
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→ゆえに、夢や期待を膨らませずに無難な人生を選び、うまく軌道に乗ることができる人もいる。それはそれで否定されることではないのだけれど、こうした数々の「裏切られた人生」の積み重ねのなかに、「裏切られずに成就した人生」も確率的にでてくる。そういった人生が、社会や他の人々に恩恵をもたらしたりもする。この引用部分の章には、人生は無意味だからこそ捨てられる(賭けることができる)というような箇所がある。人生は大切なものだけれど、固執して保護しすぎるのはまた違うということなのだろう。
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しかし、たとえ牛や豚を食べていても、イルカや鯨を殺すことに「反対を表明する」ことはできる。いまどきそんなものは誰も食べないし、鯨肉の場合は在庫も余っているらしいし、わざわざ殺さなくてもよいと思う。
それは確かに完全な論理ではないが、私たちはそれが不完全な意見であることを理解したうえで、それでもやはり自分の意見を表明する権利がある。
そしてもちろんそれは、批判されることになる。(p210)
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→「意見や批判をするときにはちゃんと論理的に筋が通っていて、対案を持っていて、建設的な意見が込みでないと、社会に意見してはならない」とするような風潮は一部にあると思う。そこまで頭が働かないのならば沈黙せよ、と言われているみたいなものである。この引用では、そうではなく、不完全な意見であることを自分でわきまえた上で表明する「権利」がある、と言ってくれている。もちろん、批判にさらされるのだけれど、この「権利」はとっても価値のあるものだと僕は思う。
Posted by ブクログ
岸さんの着眼点が印象的
こんな風に物事を断片的にとらえていることってあるよなあ その理由はわからないしわからないまんまでいいのかもな 空気感が好き 岸さんのポットキャストも聴いてみたら本と同じような空気感だった
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わりと気軽に読めるエッセイだった。
筆者に鉢植えを渡し続ける近所のおばさんの話と、タクシー運転手を辞めて、路上でギターの弾き語りを続けるおじいさんの身の上話がお気に入り。
Posted by ブクログ
・四角い紙の本は、それがそのまま世界に開いている扉だ。
・居場所が問題になるのは、失われたか、手に入れられないときだ。
・私たちは、つらい状況に陥ったとき、ひたすらその事に苦しみ、我慢し、歯を食いしばって耐える。そうすることで私たちは「被害者」のようなものになっていく。
あるいはまた、私たちは、正面から闘い、異議申し立てをおこない、あらゆる手段に訴えて、なんとかその状況を覆そうとする。そのとき私たちは、「抵抗者」になっている。
しかしわたしたちは、そうしたいくつかの選択肢から逃れることもできる。どうしても逃れられない運命のただ中でふと漏らされる、不謹慎な笑いは、人間の自由というものの一つの象徴的なあらわれだ。
・一般的にいいと言われているものは、そこに含まれる人と、含まれない人の区別を作り出してしまう。
・どんなにごくわずかでも、そもそも何者かになろうとしなければ、何者かになることはできない。何者かになれるかどうかは、なろうとした時にはまだ決定されていない。なろうとする前に、なれるかどうかを知ることはできない。それは賭けである。
・賭けに勝ったときに手に入れるのは「なにものかになれた人生」である。そして負けたときに差し出すのは、「何ものにもなれなかった人生」そのものである。
もしこのとき、人生そのものが、とてつもなく素晴らしい、この上なく価値のある、本当にかけがえの無いものであったら、どうなるだろう。
誰もそれを、捨てようとはしない。
・「天才」がたくさん生まれる社会とは、自らの人生を差し出すものが多い社会だ。
一人の手塚治虫は、何百万人もの、安定した確実な道を捨てて漫画の世界に人生を捧げるものがいて、はじめて生まれるのである。
・私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。
・私たちは何かを擬人化することが好きだ。それは多分、私たちを取り囲む世界と「つながっている」気分にさせてくれるから。
世界が私たちの言葉を通じさせないものならば、孤独だ。
・私たちは、無理強いされた選択肢の中から何かを選んだというだけで、自分でそれを選んだのだから自分で責任を取りなさい、と言われる。
・不思議なことに、この社会では、人を尊重するということと、人と距離を置くということが、一緒になっている。
・ひとを理解することも、自分が理解されることもあきらめる、ということが、お互いを尊重することであるかのように言われる。
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分析しきれない、生活の断片たち。
きっと、そこには人が言葉にできない想いが集まっている。
それを愛しみ、面白がり、ときに苦さを味わうことこそ、生きるってことなのかもしれない。
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「普通」という言葉のもつ暴力性。これ読んで真っ先に朝井リョウの「正欲」を思い浮かべた。ものごとの考え方、見方に少なからず影響を与える本だと思う。「多様性」という言葉は善意から語られることが多いと思うけど、同時にその言葉自体がラベリングをつくりだしてるという現状にはあまり目を向けられていない。どんな人にも何かしら刺さる言葉、逆に救いとなる言葉がたくさんある本だと思いました。
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先に『調査する人生』を読んでしまっていたがこちらもとても印象に残るインパクトのある一冊だった。特に後半の「普通であることの意思」や「自分を差し出す」が印象的だった。
マイノリティの話題で在日コリアンを例に社会にある「普通」とは何かをとても考えさせられる。
「一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人びとがいるのである。」
もしかしたら気づき考えることから始めることで、普通から一歩脱しているのかもしれない。
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・大晦日に屋台で花を売るバイトをしていて、余った花を持ってきてくれたのだった。
・誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの
・人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。
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実際に存在するけど、それを気に留め書き留める人がほとんどいないようなことを書き連ねていて、不思議な吸引力がある一冊。
著者のいう「断片的なもの」とは、「ストーリーにまとめられず」「解釈や理解をすり抜けてしまう」出来事である。
とはいえ、社会学者の習い性というか、解釈してしまっている話題もある。実際のところ、本当に解釈や理解を寄せ付けないシュールレアリスムなことを書いているわけではない。比較的寄せ付けない、ということだ。
だからこそ、それなりに多くの読者を惹きつけられているのだと思う。
そういう意味もあって「普通であることへの意志」は特によかった。著者が解釈して説明しなければ見過ごされてしまうような出来事を書き留めているので。
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事実を寄り集めて共通項を見いだせば
理解はたやすくなるけれど
触れた事実すべてに向き合ってみたい
だから何になるとかじゃなくて
見聞きする人生はみんな社会の一部
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なんとなく、これから何度か読み返すことがあるような気がした。聖書なんて読んだことないけど、救いを求めて聖書を読む感覚ににてるのではないかとか思った。
Posted by ブクログ
大学で習った社会学とは違って、断片的で、ありのままで、でも語りの奥にその人の生活は続いていることが感じられた。中学も卒業せず風俗のキャッチをはじめ、最高級のクラブのホステスになって一流大学をでた人やブ人の話が面白かった。開店資金を出してもらったり、あるいはもっとストレートに愛人になる道を選ぶ人が多いが、一流大学をでた人やブラックカードを持つ人の相手をするうちに自分もそっち側の人間になろうと、思ったらしい。
確かに女子学生は綺麗なウエディングドレスを着てみんなにおめでとうと言ってもらえる結婚というものに憧れがある人が多いみたいだし、結婚式は幸せなものだというイメージがあるし、結婚式では一日でも早く元気な赤ちゃんをと、セットで言われる。
でもそれが、同時にそうでないひと=幸せではないという構造を作り出してしまっている一種の暴力であるということに感心した。
私がいままで思っていたモヤモヤが晴れた感じがした。もう妻がいて夫がいて健康な子どもがいることが絶対的な幸せだと位置付けるのをやめたらどうかと思う。
学生を釜ヶ崎に連れて行った話が面白かった。女子学生は怖いという印象を持ってしまったし、路上のおじさんは見せ物にされていると怒った。マジョリティは国家に守られているため問題は個人のものと考える。
でもマジョリティマイノリティ関係なくお互い欠けているもの同士出会いを喜ぶべきである。
アメリカでロックスターになるために大学をドロップアウトした学生の話が面白かった。
文化が盛んな社会はいい社会であるが、人生を捨ててなにかに賭けるものが多ければ多いほど、天才が生まれる確率が高くなる。
龍谷で教えられていたこともあったんだ。今は京大にいらっしゃるよう。
Posted by ブクログ
久々にこんなに面白い本を読んだ。
社会学者として、インタビューしてきた無数の人々の語りを「分析すること」の暴力性に言及した上で、「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」事象について、散文的、あるいは映画的に描写している。安易な物語を回避して、偶然の中に意味を捉えず、そのものに近づこうとする。
この本を読んで何か得られるわけではない。ただ、意味や教訓はないがかけがえもなく、無数に存在する「普通」の面白さに触れた。
Posted by ブクログ
人生、幸せ、価値観、自由、人との距離感など日常を生きる中での断片的なものごとについて考える作品。
綺麗事を並べた人生観ではなく、自分の人生は自分のものでしかないし、無意味だと思っても生きるしかないんだ。どんな人でも人生は選べないし生まれればいつか死んでいく、それは当たり前の事だなと考えたら少し息が軽くなるような感覚がした。人の数だけ人生があって、生活があって家族がいて、沢山の人の人生のお話に触れてちょっと旅をしたそんな気持ちになれて満足。
人生や価値観について悩んだ時に読みたくなる作品です。
Posted by ブクログ
とても面白かった!
社会は人びとの断片的な生活によって構成されていて、社会全体を考察することと個人の生活にフォーカスして「語り」に耳を傾けることは直結しているのだろうなと思った。
一見無意味に思える(本質的にも無意味である)自分の人生の部品ひとつひとつを愛していければ良いし、それが自分の苦しみをとりのぞく、あるいは「まっとうに苦しむ」ことにも通じれば良いと思った。
「相手の判断に干渉しない」「相手の意思を尊重する」ことが最も相手を思いやった行動であることは不自然だ、という作者の指摘は腹落ちした。面倒臭さや他者への本来的な恐怖がそうさせるのだと思うが、もう少しオープンに他者に関われるよう、すこしの努力をしてみたい。
Posted by ブクログ
どこにも記録に残らないような、でもちょっと心に引っかかったようなものの記録。
深く考えさせられるような、センチメンタルのような気持ちになりかけたところで、変な方向に行く話に、この文才がほしいと思う。
人間っておもしろいな。多様で予想外で。
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スーッと入り込むエピソードもあれば、そうでないエピソードもあったり。プツンとエピソードが終わってしまうのが残念なんだけれども、それが社会学の一面なのかな。
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何者でもない者達の名状し難い物語。
筆者 岸政彦はそこに意味を見出したり、見出さなかったり、無意味性を感じたり、感じなかったりする。
ふと考える。何者にもなれない人が圧倒的多数を占めているこの社会で個人として意味ある人生を送るにはどうしたらいいのだろうか。答えはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。本書でも明確な答えは提示されない。
それでも人生に絶望せず、かと言って過度な期待も持たず、ありのままを見つめよう、そう思える1冊だ。
Posted by ブクログ
先輩からのおすすめで。
私は文学畑の人間だが、社会学とは文学の対極に位置する学問なのではないかと思っている。個々の人間の「物語」を一般化する社会学の学問対象は文字通り「社会」、社会全体がどうすればより良いものになるのかを思考する学問で、(本著で岸政彦も述べているように)そこには暴力が伴う。インタビューは一人一人の人生に土足で踏み入る行為だし、かつ研究ではそこにある些末な感情などは捨象されうる。だから私は、社会学をやるような上等な国民には下層の人間のことなんかわかりっこない、ただの数字やデータに置き換えられるだけ、といつも感情的になってしまう。文学は多くを語らない、そこがいい。文学は学問であるようで学問ではない(文学学は別だが)ので、私たちの苦しみにそっと寄り添う、だから好きだ。
岸政彦氏が大阪の人ということもあって、語りは気さくで、書き口も衒いがなく、全体的に非常に読みやすくい本に仕上がっている。印象的なのは、彼が常に公平の目線で物事を語ろうとすること。Aという考え方を語る、「しかし」「ただし」Bという視点があることを忘れるなと、読者に注意喚起するように、あるいは自らの公平性をアピールするかのように、はたまた自身に常にかくあれと言い聞かせるように、繰り返される。どの価値観に対しても是非はもちろん断定せずに、章末には「〜というのもある」「〜なだけだ」とただ言い添える。あらゆる批判に対して先回りしているみたい、マイノリティとか多方面に配慮しすぎ、優等生すぎ!ここが社会学者らしくてとても面白い。あとエッセイだから当然といえば当然だが、そんで結局?何が言いたいの?と思ってしまう話も少なくない。
もちろん心に響いた話もあって、「笑いと自由」なんかは今の個人的な精神状態とも相まってとても気持ちが揺さぶられた。処々に挟まれる偉人の名言の引用や比喩表現なんかも、著者に教養がうかがえて良い。とまれ、大阪に帰りたくなる一冊だった。
Posted by ブクログ
ショートエッセイ的な構成でしたが、一つ一つのストーリーが濃厚で面白かったです。社会学は難しいイメージでしたが、日常風景から展開され、人々の人生に触れた中で社会を考える、優しい本だったと思います。
Posted by ブクログ
・意味のないようなセンテンスがたびたび出てくるが、それ自体が社会の断片であるのかも
・マジョリティと言われている人々の語りももっと聞きたかった
・他者への関わり方(最終的にはその人がよければいいのでは)、人それぞれに流れている時間の違いについて、特に覚えている。
ありのまま世界を観察
筆者の人となり、もしくは社会学者としての態度のようなモノが現れている感じがした。
筆者のことはコノ本で知った。
世界のあらゆる物事は表裏一体で有ることを再認識できたような感覚を覚えた。
・善/悪
・暑/冷
・温和/暴力
何か、変なレビューになってしまいましたが
僕は面白かった。
Posted by ブクログ
作者が色々な老若男女問わず、方々で取材したことを題材に、人や社会との関わりに関する見解を述べているエッセイ。
1つの章に対して場面展開が激しく(色々な人の体験談が多い)、個人的には理解しにくかったが、筆者が伝えたいことは何となく分かった気がする。
現代は人と仲良くしようとすればするほど、個人を尊重する(見守ろう、1歩引こう)風潮があり、矛盾しているのではないか、という描写は確かにと感じた。
Posted by ブクログ
10年ぶりに再読。つかみのどころのない本だけど、道端で、SNS上で、どこかですれ違ってきた人にも、その人の人生がある。10年ぶりに再読しても、覚えていたエピソードもあった。この本の感想を書くのは難しいのだけれども、人に興味がある人には、ぜひ読んでみてほしい。
Posted by ブクログ
断片的なものとは何か。
それぞれのストーリー。
「寄せ鍋理論」は面白かった。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。鍋が間にあるから、私たちは鍋を見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。
誕生日についての「ただその日に生まれただけ」も言いたいことはわかるのだけど‥記念日ってそんなもんだと思うしな。
「本人がよければそれでよい」は確かに理屈づけて逃げてるのかなと思った。止めることができないことを正当化しているようにも感じる。
Posted by ブクログ
初めの方の文章は少し堅苦しくて論文を読んでいるような気分もあったのが、期間的にわずかな時間なのだろうが、後半になるほど読みやすく理解しやすい構文になってきて驚きました。
使われている写真が素敵です。
Posted by ブクログ
意味づけや解釈から解放された、ただそこに偶然あるものとして事物をみたいという気持ちがずっとあったので安らぎになるような話は多かった
けどこの作者さんはかすかに希望を持たせるスタイルなので、そこが少し私とはズレていた
「だからどうした、ということではないが、ただそれでも、そういうことがある、ということはできる」
いうことができてどうなるのと諦めてしまう反抗期がまだ残存しているので。
それでも心地よさはある
私たちの人生はいくつものストーリーが重なってできており、意味を成す流れが先に存在しそこに矛盾しないように整えられる側面も大きいが、そのストーリーの手中から漏れる無意味のかけらが、そこにただ在るものとして感じられる。
凄惨な経験について語る時、その反応によって被害者や抵抗者という何か決まった役になってしまうのが常だが、演者になりきらず行き場をなくした感情が乾いた笑いとしてでてくることもあり、それもまた、ただ在るものとして存在する無意味のカケラなのではないかと。ストーリーからの解放、ナラティブに収まりきらない断片が自由として現れている。
p106手のひらのスイッチの内容は何度も何度も考えてきたこと。世の中にはそれと明言されているわけじゃないが、自ずと、「みんな」が共通認識として基盤に据えている良し悪しの価値判断が透けて見える表現が溢れている。ある人が、あまりにマジョリティど真ん中であるためにマジョリティであることの自覚すらなく発する言葉が、マジョリティ/マイノリティの境界線、その人が柔らかく保護されている結界のようなものの存在を、受け手に強く意識させることがある。そういう柔らかな膜の存在すらわからないように、全ての価値判断語の主語を自分に据えればいいんじゃないか。そう閃くが、世間一般ではどうかという周りの風景から目隠しをして自分を主語にした場合、「ーしたい」「ーが好き」という文の穴埋めが困難になる。結局それぞれの価値観を大事にしようなんていう多様性は一人一人が独立して絶対的な位置感覚を持つ生き物ならシンプルだが、自分以外と自分の境界が滲んでいてどこまでが自分なのかすらそもそも曖昧な状況においては機能しないと思う
水彩画で色彩が滲みあってさまざまなグラデーションに満ちた世界が形作られていき、私たちはその中のどこかに位置しているようなものだと思う。私たちそれぞれの位置する色をみて、何を混ぜればドンピシャでこれを作り出せるのだろう?それすらよくわからず生活している。かといって全ての色に対して、これは何かと何かの混合物とかではなく、もともとこういう色として、色の三元色くらい絶対的なものとして存在していたよね、と名前をあてがっていくのなら、その作業は途方もない。自分と似た色彩の美しさを無意識に誇る姿に疑問を感じるのも不遜な気がしてしまう
自分の疎外感を改善しようとすればするほど、自然に溶け合った価値観を強く自覚して辛いのに、別の時にはその当たり前の存在に助けられていることもまたやはり辛くて、結局全てをそのまま受け入れようと諦めてしまう
根本的にやはり1人だからこそ、土偶や鉢植えや鍋といった何気ない媒介で生活史を共有できた時に、1人であることが自覚される寂しさや、否応なく侵入された瞬間の意外な心地よさが、身に染みるんだろうか
Posted by ブクログ
社会学者の氏がさまざまな調査を通じて見聞した、断片的なエピソードたち。印象的だったものを書き留めておこう。「父親が収監され、母親が蒸発し、子どもたちが施設に預けられ、無人となったその部屋だが、その後も悪臭や害虫の苦情が何度もくり返され、マンションの管理会社の立ち会いのもとで、自治会の方が合鍵でその部屋の扉を開いた。そこで見たのは、家具も何もない、からっぽの、きれいな部屋だったという」「真っ暗な路地裏で、ひとりの老人が近寄ってくるのが見えた。すぐ目の前に来たときに気付いたのだが、その老人は全裸だった。手に小さな風呂桶を持っていた。全裸で銭湯にいくことは、これ以上ないほど合理的なことなのだが、そのときは心臓が止まりそうになった。あのときは、もう少しで、どこかへ連れていかれて二度と戻れないのではないかと、わりと本気で感じた」「このブログは、この社会のなかでひとりの異性装者が試みた、ささやかな夢の実現なのだ。ここには、異性装との出会いの語りや、アイデンティティの称揚、抑圧的な社会への批判、そういうものが一切ない。彼女は誰とも、何とも闘ってはいない。そうした闘いを飛び越えて、最初からそういうしんどい闘いが存在していなかった世界を、自分だけの小さな箱庭で実現しているのである」「犬の死に際を見てやれなかった、ということをいつまでも気にやんでいると、あるひとが私に、あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけているあいだに先に逝ったんだよ、と言った。私は怒って否定した。そのような安易な気休めにすがることは、ひとりで死んだ彼女の孤独や、子どものころからの私の彼女への愛情を、まったく台無しにしてしまうことになるとしか思えなかった」「壊れてしまった時計を捨てた。壊れたなりにしっかりと秒を刻んでいるままの時計を捨てるときに、かすかに、生きている動物を捨てるような気持ちになった。それはゴミ箱のなかでもしっかりと時を刻んでいただろう。そして火曜日のゴミの日になり、それはゴミ袋のなかに入れられる。やがて清掃局の車がそれを回収にくる。そのときでもそれは、何も知らずにずっと時を刻んでいる。車はやがて焼却炉に到着し、他の大量のゴミとともに、それは炎のなかに投げ入れられる。それはいつまで動いていただろうか。焼却炉の高温の炎で焼かれて、やがて死んでしまうとき、痛みを感じただろうか」。小さなエピソードたちが、胸をえぐってくる。だが余計な意味づけは無用。エピソードのまま、あるがままを味わっておきたい。
Posted by ブクログ
なんとなくの再読。またしてもなんとなくの雰囲気で読んでしまったような気がする。感想があんまりまとまらない。
2人のインタビュー(演歌の弾き語りのおじいさん、北九州出身の女性)は、人生のいろいろさ、世の中は多様な断片の集積であることを感じる事ができた。
あとは幾分もやもやした点がある。多様であることを最重要視しながらも、社会が要請する価値観に無意識のうちに従って考える事が、多様性に対する暴力になりうるところで、著者は止まってしまう記述が複数回登場し、そこに正直もやっとした。筆者はマイノリティに対する暴力の可能性を繊細に考えているにも関わらず、アウティングの部分ももやもやした。うまく言葉にできないが、両方とも筆者や書かれている内容というより、それが変な受け止められ方をする可能性にもやもやしているのかもしれない。
再読だけどほぼ忘れており、特に、それで終わるんか!の最後の最後に驚愕した。