著者は1982年の生まれらしいから、これを書いたのは34歳より前になる。
でも、34歳でこれって、ちょっと枯れすぎてない?w
人って。
生まれて、まずは両親や兄弟。次いで、祖父や祖母。さらに親戚や従兄弟と人間関係を広げていって。
歩き始めると、近所の同年代の子ども、そして幼稚園の友だち。
小学校に入り、学年が上がっていくにしたがって、学校の友だち…、つまり親や従兄弟等の血のつながりのある人間関係より、自分の世界で出会った人間関係のウェイトが高くなっていく。
とはいえ、小学生くらいまでは、まだ血のつながりのある人間関係のウェイトはまだまだ高い。
それがイコール、あるいは自分が出会った世界の人間関係の方が高くなっていくのは、中学の部活の人間関係や親友と呼べる友だちと出会えた時だろう。
高校だと、さらに血のつながった人間関係のウェイトは低くなって。
大概の人は、高校を卒業と同時に自分が出会った世界の人間関係が中心になっていくように思う(今だと、さらにネット上の知り合いというのもあるんだろう)。
従兄弟や親戚等血のつながった人たちと再び交流するようになるのは、それらの関係の人の不幸がきっかけだったりすることが多いのかな?
従兄弟等の結婚等慶事がきっかけになることもあるんだろうけど、従兄弟の年齢が比較的近いことを踏まえると、それらの時というのは、まだ若いから自分が出会った世界の人間関係の方を重視する傾向が強いし。
なにより、仕事や自分の家族、あるいは自分の家族をつくることで忙しいから、慶事がきっかけで従兄弟たちとの交流が再び活発になることは少ないように思う。
一方、不幸だと、自らの齢もそれなりになっていることが普通だから。
その頃だと、学生時代に獲得した人間関係が疎遠になっていたりする反面、仕事上の友人という、多くの場合、お互いに一歩引いた友人関係(出会った時の一歩引いた関係を引きずった人間関係?)のウェイトが高かったりする。
従兄弟等血のつながりのある人たちと再び交流するようになるのは、そんな風に自らの人間関係にちょっとした真空地帯がある状態の時に親戚の不幸がきっかけになることが多いような気がするのだ。
というか、少なくとも自分はそうだった(^^ゞ
つまり、これを読みながらそんなことを考えていたら、著者がこれを書いた34歳頃でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまったのだ。
34歳だと、このお話の故人の子ども世代の人生のあれやこれやって、まだ実感していないのが普通だろうし。
30代の人生観と、40代のそれは結構違うし。50代では全然違う。
というか、今だと30代で結婚・子どもという人が多いだろうから、30代も前半と後半でかなり違うはずだ。
にもかかわらず、通夜に集まった兄弟とその連れ合い、それらの子(従兄弟たち)や孫、それぞれの人と人のビミョーな関係の綾、あるいはそれに対する思いが巧みに表現されているなぁーと。
読んでいて、思わず「あるあるw」とクスッとしちゃって。
クスッとしちゃってから、あぁー、巧く見てるなぁーって感心しちゃうのだ(^^ゞ
34歳でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまうのは、読んでいて、なぁ〜んかすごく70年代っぽい!と思ったというのもある。
というのも、読んでいて頭の中に浮かんでくるのが「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”なんだもん(^^ゞ
ま、「ウナ・セラ・ディ東京」は1964年らしいけどさ(爆)←いい加減w
(ちなみに、自分が「ウナ・セラ・ディ東京」を初めて聴いたのは井上陽水のカバー)
一方で、これはちゃんと今っぽい豊かさも描かれているから、フォークは合わない。
でも、ニューミュージックだと新しすぎて(古すぎて?w)全然合わない。
シティポップなんて問題外!(Jポップだと、次元が3つくらい違うw)
70年代の中ばより、ちょっと前くらい?
そのくらいの歌謡曲が一番合う感じ?
お話の時代も、そのくらいみたいなーw
やっぱり、出てくる親戚が多いからかなぁー?
昔はそれが当たり前だったし。自分の親戚もこんな感じだったけどさ。
今、こんな風に、兄弟どの家も子どもが複数人いる一族ってあまりないように思うんだけど?
「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”が浮かんじゃったのは、故人の三女(?)の子である知花と美之の“あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な。新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいんだ”、でもこれは私が考えたことじゃなくて、テレビでそういうことを言っている人がいたのを見たんだけど。(中略)お母さんがああしろこうしろ言う時に、なんでって私が聞いても全然変な、変なっていうか全然納得出来ない理由しか言わなくてね、で、それは私のことじゃなくって、なんかこう、なんていうの、世間? 世間の? 世間の常識? みたいなもの? そういうものを信じて話してるんだなってわかったのね。そういうのって、もう、くっだらないくそったれじゃない。”
“でも、親ってのはたぶんだいたいそういうもんでさ。(中略)世の中、ていうか世界はどこ行ってもくそったればかりで、親だけじゃなくて、みんなくそったればかりで、お前の雑さに乗じて言わせてもらえば、世の中九分九厘くそったれだよ。”という二人語りの後。
その場にいない、故人の長男の息子であり、一族の厄介者とされていた寛の自らの生を振り返る一人語りが始まって。
その中で、寛が祖母(故人の奥さん)の葬式に行くのに電車で向かっている時に車窓を眺めながら、“さっき、川が現れた一瞬、心がぱっと開けるような、不安や心配が取り払われたような感じになった。また川が現れないかと窓の外を見て、もう一度川が見えたら、その瞬間の気持ちを絶対忘れないようにして、酒もやめて、ちゃんと生活する。仕事もする。家族を幸せにする。”と思ったのに川は現れなかったエピソードが語られる。
その後、今度は故人(通夜の主である祖父)と奥さんの二人語りが始まるのだが。
その中にある、“お前の頼りにならなくちゃいけない。本当はそんなに強いわけじゃないのに、そうやって思っていると、だんだんそういう風に、頼りになれているみたいに、自分が強いと思えてくるもんだから。”、“それでいいじゃない。じゅうぶん。”という5人(2人→1人→2人)の心模様に、人の後ろ姿が思い浮かんじゃうからだろう。
この知花と美之らの子世代、寛らの親世代、故人夫婦の祖父祖母世代、3世代の現在の人生観や世界観(自分が見知っている世界の範囲)や価値観を、3世代順番に書くことで、それらが巧ぁ〜く表現されているのみならず。
親戚の厄介者とされている寛も、その子たちからは「子どもには優しい父親だった」と言われているように、著者のそれら三世代への優しい眼差しが感じられて、ここは見事だなぁーと思った。
“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”
誰も、幸せなばかりじゃない。
寛なんて、結局家族に合わせる顔がなくなって、子どもを捨てて失踪してしまったくらいだ。
故人とその奥さんも、生前はそのことで心を痛めていたはずだ。
そんなみんなだけど、なんとか踏ん張って毎日を生きている(踏ん張って生きてきた)。
つまり、街を往く人々の後ろ姿の幸せというのは、知花や美之、寛、そして故人である祖父や祖母の後ろ姿を、彼ら彼女らを知らない赤の他人が何も知らずに羨んでいる風景でしかないんだろう。
自分も赤の他人からそう見られていると気づかずに。
森見登美彦の『きつねのはなし』の4話目「水神」も通夜に集まった親戚のお話だったけど。
これも、どこかそれに似た感触がある。
ただ、あっちは、やっぱり京都の夜なのに対して、こっちは都心から電車に乗ってウン十分の郊外の夜。
その特別っぽくないところがいいんだよね。
そこは郊外といっても、家が立ち並び碁盤の目のような道が通る住宅街ではなくて。
かつて農村だった頃の面影が多く残る、田んぼや畑、あるいは草ボウボウの空き地の中に住宅が点在しているような場所。
そんな中に道が通っていて、夜だから点々と街灯が灯っている。
「水神」の舞台は京都だから、たぶんこのお話の舞台より家が立ち並ぶところなんだろうけど、「水神」の夜の方が闇が深い気がする。
というより、こっちの夜は暗いと言っても、普通の夜の暗さのイメージと言ったほうがいいのかな?
ただ、マンションやアパートの建ち並ぶ郊外ではないから、夜の暗さが濃くて。かつ、夜の風景がその暗さに沈んだ感じなんだろう。
そんな夜の風景の中を通る道と、そこに点々と灯っている街灯の静けさ。
でも、そこはなんの変哲もない普通の夜だから、何が起こるわけもなく(ちょっとだけ変なことが起きるw)。
通夜に集まった一同に、夜は等しく優しい。
ホント、それだけのお話なんだけど、なぁ〜んかしみじみしちゃう(^^ゞ
そこがよかった。
「作家の読書道」を見ると、著者は子どもの頃、車好きで。中古車屋のチラシを見て、車の名前を全部おぼえてしまうような子どもだったらしい。
寝る前に父親がお話をしてくれていたらしいのだが、車好きだったこともあって。
例えば桃太郎のお話をしてもらうなら、「カローラに乗って犬がやってきて」といった話にしてもらってよろこんでいたということだけど、それって、実はそれなりの創作能力がないとそういうアレンジって出来ないんじゃないだろうか?
そう考えると、著者の創作の能力や意欲というのは父親から受け継いだものなのかな?なんて思った。
あと、ウィキペディアには、著者の奥さんはブックデザイナーで。
“フリーペーパーを書いていた頃に文章に「ひと読み惚れ」されたことで知り合った”とあるんだけど、「ひと読み惚れ」される文章ってどんななんだろう?
ていうか、文章を読んで「ひと読み惚れ」する人って、どんな人なんだろう?