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通夜が奇跡の一夜に。芥川賞受賞作 ある秋の日、大往生を遂げた男の通夜に親戚たちが集った。 子、孫、ひ孫三十人あまり。 縁者同士の一夜の何気ないふるまいが、死と生をめぐる一人一人の思考と記憶を呼び起こし、 重なり合う生の断片の中から、永遠の時間が現出する。 「傑作」と評された第154回芥川賞受賞作に、単行本未収録作「夜曲」を加える。 解説・津村記久子
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Posted by ブクログ
不謹慎な時に湧き上がる非日常に対する高揚感、死者が突然この世からいなくなることへの違和感など、タブーとされてきたことをリアリティを伴って伝えている、文句なしの芥川賞受賞作
著者は1982年の生まれらしいから、これを書いたのは34歳より前になる。 でも、34歳でこれって、ちょっと枯れすぎてない?w 人って。 生まれて、まずは両親や兄弟。次いで、祖父や祖母。さらに親戚や従兄弟と人間関係を広げていって。 歩き始めると、近所の同年代の子ども、そして幼稚園の友だち。 小学校に...続きを読む入り、学年が上がっていくにしたがって、学校の友だち…、つまり親や従兄弟等の血のつながりのある人間関係より、自分の世界で出会った人間関係のウェイトが高くなっていく。 とはいえ、小学生くらいまでは、まだ血のつながりのある人間関係のウェイトはまだまだ高い。 それがイコール、あるいは自分が出会った世界の人間関係の方が高くなっていくのは、中学の部活の人間関係や親友と呼べる友だちと出会えた時だろう。 高校だと、さらに血のつながった人間関係のウェイトは低くなって。 大概の人は、高校を卒業と同時に自分が出会った世界の人間関係が中心になっていくように思う(今だと、さらにネット上の知り合いというのもあるんだろう)。 従兄弟や親戚等血のつながった人たちと再び交流するようになるのは、それらの関係の人の不幸がきっかけだったりすることが多いのかな? 従兄弟等の結婚等慶事がきっかけになることもあるんだろうけど、従兄弟の年齢が比較的近いことを踏まえると、それらの時というのは、まだ若いから自分が出会った世界の人間関係の方を重視する傾向が強いし。 なにより、仕事や自分の家族、あるいは自分の家族をつくることで忙しいから、慶事がきっかけで従兄弟たちとの交流が再び活発になることは少ないように思う。 一方、不幸だと、自らの齢もそれなりになっていることが普通だから。 その頃だと、学生時代に獲得した人間関係が疎遠になっていたりする反面、仕事上の友人という、多くの場合、お互いに一歩引いた友人関係(出会った時の一歩引いた関係を引きずった人間関係?)のウェイトが高かったりする。 従兄弟等血のつながりのある人たちと再び交流するようになるのは、そんな風に自らの人間関係にちょっとした真空地帯がある状態の時に親戚の不幸がきっかけになることが多いような気がするのだ。 というか、少なくとも自分はそうだった(^^ゞ つまり、これを読みながらそんなことを考えていたら、著者がこれを書いた34歳頃でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまったのだ。 34歳だと、このお話の故人の子ども世代の人生のあれやこれやって、まだ実感していないのが普通だろうし。 30代の人生観と、40代のそれは結構違うし。50代では全然違う。 というか、今だと30代で結婚・子どもという人が多いだろうから、30代も前半と後半でかなり違うはずだ。 にもかかわらず、通夜に集まった兄弟とその連れ合い、それらの子(従兄弟たち)や孫、それぞれの人と人のビミョーな関係の綾、あるいはそれに対する思いが巧みに表現されているなぁーと。 読んでいて、思わず「あるあるw」とクスッとしちゃって。 クスッとしちゃってから、あぁー、巧く見てるなぁーって感心しちゃうのだ(^^ゞ 34歳でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまうのは、読んでいて、なぁ〜んかすごく70年代っぽい!と思ったというのもある。 というのも、読んでいて頭の中に浮かんでくるのが「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”なんだもん(^^ゞ ま、「ウナ・セラ・ディ東京」は1964年らしいけどさ(爆)←いい加減w (ちなみに、自分が「ウナ・セラ・ディ東京」を初めて聴いたのは井上陽水のカバー) 一方で、これはちゃんと今っぽい豊かさも描かれているから、フォークは合わない。 でも、ニューミュージックだと新しすぎて(古すぎて?w)全然合わない。 シティポップなんて問題外!(Jポップだと、次元が3つくらい違うw) 70年代の中ばより、ちょっと前くらい? そのくらいの歌謡曲が一番合う感じ? お話の時代も、そのくらいみたいなーw やっぱり、出てくる親戚が多いからかなぁー? 昔はそれが当たり前だったし。自分の親戚もこんな感じだったけどさ。 今、こんな風に、兄弟どの家も子どもが複数人いる一族ってあまりないように思うんだけど? 「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”が浮かんじゃったのは、故人の三女(?)の子である知花と美之の“あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な。新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいんだ”、でもこれは私が考えたことじゃなくて、テレビでそういうことを言っている人がいたのを見たんだけど。(中略)お母さんがああしろこうしろ言う時に、なんでって私が聞いても全然変な、変なっていうか全然納得出来ない理由しか言わなくてね、で、それは私のことじゃなくって、なんかこう、なんていうの、世間? 世間の? 世間の常識? みたいなもの? そういうものを信じて話してるんだなってわかったのね。そういうのって、もう、くっだらないくそったれじゃない。” “でも、親ってのはたぶんだいたいそういうもんでさ。(中略)世の中、ていうか世界はどこ行ってもくそったればかりで、親だけじゃなくて、みんなくそったればかりで、お前の雑さに乗じて言わせてもらえば、世の中九分九厘くそったれだよ。”という二人語りの後。 その場にいない、故人の長男の息子であり、一族の厄介者とされていた寛の自らの生を振り返る一人語りが始まって。 その中で、寛が祖母(故人の奥さん)の葬式に行くのに電車で向かっている時に車窓を眺めながら、“さっき、川が現れた一瞬、心がぱっと開けるような、不安や心配が取り払われたような感じになった。また川が現れないかと窓の外を見て、もう一度川が見えたら、その瞬間の気持ちを絶対忘れないようにして、酒もやめて、ちゃんと生活する。仕事もする。家族を幸せにする。”と思ったのに川は現れなかったエピソードが語られる。 その後、今度は故人(通夜の主である祖父)と奥さんの二人語りが始まるのだが。 その中にある、“お前の頼りにならなくちゃいけない。本当はそんなに強いわけじゃないのに、そうやって思っていると、だんだんそういう風に、頼りになれているみたいに、自分が強いと思えてくるもんだから。”、“それでいいじゃない。じゅうぶん。”という5人(2人→1人→2人)の心模様に、人の後ろ姿が思い浮かんじゃうからだろう。 この知花と美之らの子世代、寛らの親世代、故人夫婦の祖父祖母世代、3世代の現在の人生観や世界観(自分が見知っている世界の範囲)や価値観を、3世代順番に書くことで、それらが巧ぁ〜く表現されているのみならず。 親戚の厄介者とされている寛も、その子たちからは「子どもには優しい父親だった」と言われているように、著者のそれら三世代への優しい眼差しが感じられて、ここは見事だなぁーと思った。 “まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜” 誰も、幸せなばかりじゃない。 寛なんて、結局家族に合わせる顔がなくなって、子どもを捨てて失踪してしまったくらいだ。 故人とその奥さんも、生前はそのことで心を痛めていたはずだ。 そんなみんなだけど、なんとか踏ん張って毎日を生きている(踏ん張って生きてきた)。 つまり、街を往く人々の後ろ姿の幸せというのは、知花や美之、寛、そして故人である祖父や祖母の後ろ姿を、彼ら彼女らを知らない赤の他人が何も知らずに羨んでいる風景でしかないんだろう。 自分も赤の他人からそう見られていると気づかずに。 森見登美彦の『きつねのはなし』の4話目「水神」も通夜に集まった親戚のお話だったけど。 これも、どこかそれに似た感触がある。 ただ、あっちは、やっぱり京都の夜なのに対して、こっちは都心から電車に乗ってウン十分の郊外の夜。 その特別っぽくないところがいいんだよね。 そこは郊外といっても、家が立ち並び碁盤の目のような道が通る住宅街ではなくて。 かつて農村だった頃の面影が多く残る、田んぼや畑、あるいは草ボウボウの空き地の中に住宅が点在しているような場所。 そんな中に道が通っていて、夜だから点々と街灯が灯っている。 「水神」の舞台は京都だから、たぶんこのお話の舞台より家が立ち並ぶところなんだろうけど、「水神」の夜の方が闇が深い気がする。 というより、こっちの夜は暗いと言っても、普通の夜の暗さのイメージと言ったほうがいいのかな? ただ、マンションやアパートの建ち並ぶ郊外ではないから、夜の暗さが濃くて。かつ、夜の風景がその暗さに沈んだ感じなんだろう。 そんな夜の風景の中を通る道と、そこに点々と灯っている街灯の静けさ。 でも、そこはなんの変哲もない普通の夜だから、何が起こるわけもなく(ちょっとだけ変なことが起きるw)。 通夜に集まった一同に、夜は等しく優しい。 ホント、それだけのお話なんだけど、なぁ〜んかしみじみしちゃう(^^ゞ そこがよかった。 「作家の読書道」を見ると、著者は子どもの頃、車好きで。中古車屋のチラシを見て、車の名前を全部おぼえてしまうような子どもだったらしい。 寝る前に父親がお話をしてくれていたらしいのだが、車好きだったこともあって。 例えば桃太郎のお話をしてもらうなら、「カローラに乗って犬がやってきて」といった話にしてもらってよろこんでいたということだけど、それって、実はそれなりの創作能力がないとそういうアレンジって出来ないんじゃないだろうか? そう考えると、著者の創作の能力や意欲というのは父親から受け継いだものなのかな?なんて思った。 あと、ウィキペディアには、著者の奥さんはブックデザイナーで。 “フリーペーパーを書いていた頃に文章に「ひと読み惚れ」されたことで知り合った”とあるんだけど、「ひと読み惚れ」される文章ってどんななんだろう? ていうか、文章を読んで「ひと読み惚れ」する人って、どんな人なんだろう?
行間に、自分の記憶が浮き上がってくる 今はもう会えない祖父との二人だけの思い出、恋人と歩いた二人きりの道、そういうものはどちらかがいなくなったあとどこにいってしまうのだろうと考えて宇宙の塵になってしまうようでとても悲しくて涙が止まらなくなった日のことを思い出す それぞれの人との記憶と、その周辺のた...続きを読むめらい わたしが大切にしたいと思っていたのにいつのまにか忘れてしまっているためらいのひとときがここには記されている、ように思う 今の自分をとりまく環境によって、読むたびに印象が変わりそう
久しぶりに大好きな小説を手に取った。3日で2回、1回目は音楽も流さずに気になるラインや凄いと思った箇所に付箋を立てつつ頁に直に書き込みもしながら、2回目はそこに流れている川のことやフィールドレコーディングするキャラクタのことも意識して水の流れる音からはじまるアルバム、吉村弘の「GR...続きを読むEEN (SFX version)」を流しながら文章とエピソード、それに音楽が作る流れに乗って一気に読んだ。凄かった。素晴らしかった。どちらの読み方でも楽しんだ。やっぱり好きだな、と改めて思った。 気を抜くと口にしてしまいそうな、個人と世界の間に漂う、思考や記憶の表面に近い浅い部分。それでも普段は見ることの出来ないそれらが、分かったり分からなかったり、信じていたら嘘だったり、繋がったり離れたり、思い思われたりしながら折り重なって、その夜を、世界を、小説をかたち作っていく。そこには、本当に説明の出来ない、する必要のない不可思議な出来事も当然起こる。 思い出の輪郭、確定しているように語られる未来、現実と幻想の間を語りも視点も不確かに移ろいながら、そこにある、あったはずの思考と記憶、感情や振る舞いも心地の良い違和感と一緒に乗せて時間が押し流していく。そこにあるものも世界も理解することは出来ないけれど、それでもこれは小説が書くことの出来る世界のかたちだし、実際の世界もこうやって出来ているはず、と分かった気になれる。数々の人生、それがある世界が、よく読めばはっきりと記録されているのだ。 読むたびに同じようなことを思ったり分かった気になったり、なんかもう少しで分かりそうな気がしていたりするけれど、毎回それは新鮮に感じるし、少しづつだけれど深くなっている、いたら良いなと思う。世界の見方も見え方も、また少し変わった気がした。 高架線を走る電車のシートで読んでいたとき、少し伸びをしようと顔を上げると車窓から見える景色は大きな川を渡るところだった。同じようなシュチュエーションで登場人物が感じる「川が見えた一瞬、心が開けるような、不安や心配が取り払われたような感じ」が分かったような気がした。その後に「もう一度川が見えたら」という彼の願掛けのような思いはこの路線ではあっけなく叶ってしまうことには少し笑った。そんなシンクロしたと思い込みたいシュチュエーション、思いや気持ちとタイミング。そこでこの本を読んでいたことも、全部OKだなと思えた、そんなエピソード。 そもそも、この本をまた読もうと思ったのは「百年の孤独」がきっかけなのだった。2つの小説には構造や描かれ方にも色々と共通するものがあると思うのだけど、多くの血縁のある登場人物とその分からなさについては、10人の孫の関係性を説明された故人の幼馴染の放つ「誰が誰だか全然わかんねえよ」が代弁してくれていた気がしてしまったし、そんな気持ちも持ちながら小説を読んでも良いと思う。だって、世界ってそういうものだから。 小説は世界を分かりやすく書くものというよりも、その分からなさを書くのだと思っているんですよね。解決しない物語。 --- この投稿をした後に、急に思い立って向かった先で思いがけず滝口さんの文章についての話が出来たのが嬉しかった。 あの、内と外、思索や記憶がその場の光景、会話にグラデーションしていったり、続いていた思考が最後には別のところに着地したりする、あるいは現実と妄想が判断出来なくなっていく感じには心地良い違和感を感じているけれど、それらは現実の世界では普通に起こっていたりすることでもあって。 考え事や思い出に浸っていても、周りでは世界は進み続けているし、ひとつのことに集中して考えているつもりでも、まったく別のことが思い浮かぶこともある。肉体的な行動と頭のなかで行われていることは必ずしも一致していない。この小説で鉤括弧が使われていないのは、そういう部分を効果的に表現するためかもしれない。これは今思いつきました。 世界をフィクション、小説として書き出すときには整えられて削られてしまうであろうそんな部分をそのまま書こうとしたら、きっとああいう文章になるのだろう、という気がしている。世界を読みやすく”整える“ことがフィクションたらしめる要因のひとつだとしたら、それはリアル過ぎるのかもしれないけれど、そんなリアリティのあるが故に違和感を感じる文章、小説が読みたい。そこにある違和感に心地良さを感じたい。そう思っているのでした。
【フレーズメモ帳】 あれこれ詮索されることが兄はうっとうしかった。もう少し正確に言えば、あれこれ詮索された時に返す言葉を持たぬことが自分でもわかっているから、わざわざ出ていってそんな目に遭いたくなかった。 父と母がいなくなった寂しさは、それらとはまったく別に、毎夜布団のなかのふたりを襲ってきた。そ...続きを読むんな毎日の時間のことを誰も知らないから、みんな勝手なことを言う。 しかし医者や親戚たちは執拗にそれを精神疾患にしたがり、浩輝を憐れみたがった。いくら違うそうではないと言っても、自分ではそう思っていないだけだと言う。そんなに言うならそういうことでもいいが、結局それは俺のことを信じないということだから、俺もあいつらを信じない。
ある老人のお通夜に集まる親戚一同の どこにでもあるような風景 親戚といっても知っているような 知らないような わちゃわちゃとした感じが すごく共感できた それぞれの生き方であったり 思いであったり いろいろな物語があって いろいろなものが交差する つい最近読んだ「100年の孤独」のような 一族とい...続きを読むうとてつもない繋がりを 感じる そしてまた繋がっていく未来も見える とかくめんどくさい親戚であっても 大きな繋がりのひとつであって そこが途切れると自分の存在もまた なくなってしまう なんだか壮大な歴史の中で生きている 自分て小さいな‥
面白い、どんどんおもしろくなっていく。 葬式で集まる家族って、名前はしってるけどどんな人か知らない、死んだ人によって繋がってる関係、不思議な関係だよなあ。 美之の存在がいいし、従兄弟たちが酔っ払って行って深夜になっていって、不穏な感じと清々しい感じのバランスが読んだことない感じ。
当たり前のことだけど、人間ひとりひとりにそれぞれの思考があって。当たり前のことすぎて忘れがちだけど、ぜったいに忘れてはいけないことだとおもった。ひとの考えていることを知るのはたのしい たばこの煙や水の流れにそって揺蕩う記憶たち。うつくしいです...
ある老人の通夜に集まった30人近くの遺族。彼らの間を語り手を次々と変えながら物語が進む。時には今誰が語り手なのか判らなくなることも。其々の語り手に憑依しながら物語の世界を漂っている様な不思議な感覚に陥った。
新たな光で照らす「生」
ヒトは、抗うことの出来ない結末に向かい、為す術もなく生きて行く。 そこには本来、物語は無いが、すべてを擬人化してしまう私たちは、物語を作り続ける。 他人事のように日常は進んで行く。
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