あらすじ
通夜が奇跡の一夜に。芥川賞受賞作
ある秋の日、大往生を遂げた男の通夜に親戚たちが集った。
子、孫、ひ孫三十人あまり。
縁者同士の一夜の何気ないふるまいが、死と生をめぐる一人一人の思考と記憶を呼び起こし、
重なり合う生の断片の中から、永遠の時間が現出する。
「傑作」と評された第154回芥川賞受賞作に、単行本未収録作「夜曲」を加える。
解説・津村記久子
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
不謹慎な時に湧き上がる非日常に対する高揚感、死者が突然この世からいなくなることへの違和感など、タブーとされてきたことをリアリティを伴って伝えている、文句なしの芥川賞受賞作
Posted by ブクログ
著者は1982年の生まれらしいから、これを書いたのは34歳より前になる。
でも、34歳でこれって、ちょっと枯れすぎてない?w
人って。
生まれて、まずは両親や兄弟。次いで、祖父や祖母。さらに親戚や従兄弟と人間関係を広げていって。
歩き始めると、近所の同年代の子ども、そして幼稚園の友だち。
小学校に入り、学年が上がっていくにしたがって、学校の友だち…、つまり親や従兄弟等の血のつながりのある人間関係より、自分の世界で出会った人間関係のウェイトが高くなっていく。
とはいえ、小学生くらいまでは、まだ血のつながりのある人間関係のウェイトはまだまだ高い。
それがイコール、あるいは自分が出会った世界の人間関係の方が高くなっていくのは、中学の部活の人間関係や親友と呼べる友だちと出会えた時だろう。
高校だと、さらに血のつながった人間関係のウェイトは低くなって。
大概の人は、高校を卒業と同時に自分が出会った世界の人間関係が中心になっていくように思う(今だと、さらにネット上の知り合いというのもあるんだろう)。
従兄弟や親戚等血のつながった人たちと再び交流するようになるのは、それらの関係の人の不幸がきっかけだったりすることが多いのかな?
従兄弟等の結婚等慶事がきっかけになることもあるんだろうけど、従兄弟の年齢が比較的近いことを踏まえると、それらの時というのは、まだ若いから自分が出会った世界の人間関係の方を重視する傾向が強いし。
なにより、仕事や自分の家族、あるいは自分の家族をつくることで忙しいから、慶事がきっかけで従兄弟たちとの交流が再び活発になることは少ないように思う。
一方、不幸だと、自らの齢もそれなりになっていることが普通だから。
その頃だと、学生時代に獲得した人間関係が疎遠になっていたりする反面、仕事上の友人という、多くの場合、お互いに一歩引いた友人関係(出会った時の一歩引いた関係を引きずった人間関係?)のウェイトが高かったりする。
従兄弟等血のつながりのある人たちと再び交流するようになるのは、そんな風に自らの人間関係にちょっとした真空地帯がある状態の時に親戚の不幸がきっかけになることが多いような気がするのだ。
というか、少なくとも自分はそうだった(^^ゞ
つまり、これを読みながらそんなことを考えていたら、著者がこれを書いた34歳頃でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまったのだ。
34歳だと、このお話の故人の子ども世代の人生のあれやこれやって、まだ実感していないのが普通だろうし。
30代の人生観と、40代のそれは結構違うし。50代では全然違う。
というか、今だと30代で結婚・子どもという人が多いだろうから、30代も前半と後半でかなり違うはずだ。
にもかかわらず、通夜に集まった兄弟とその連れ合い、それらの子(従兄弟たち)や孫、それぞれの人と人のビミョーな関係の綾、あるいはそれに対する思いが巧みに表現されているなぁーと。
読んでいて、思わず「あるあるw」とクスッとしちゃって。
クスッとしちゃってから、あぁー、巧く見てるなぁーって感心しちゃうのだ(^^ゞ
34歳でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまうのは、読んでいて、なぁ〜んかすごく70年代っぽい!と思ったというのもある。
というのも、読んでいて頭の中に浮かんでくるのが「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”なんだもん(^^ゞ
ま、「ウナ・セラ・ディ東京」は1964年らしいけどさ(爆)←いい加減w
(ちなみに、自分が「ウナ・セラ・ディ東京」を初めて聴いたのは井上陽水のカバー)
一方で、これはちゃんと今っぽい豊かさも描かれているから、フォークは合わない。
でも、ニューミュージックだと新しすぎて(古すぎて?w)全然合わない。
シティポップなんて問題外!(Jポップだと、次元が3つくらい違うw)
70年代の中ばより、ちょっと前くらい?
そのくらいの歌謡曲が一番合う感じ?
お話の時代も、そのくらいみたいなーw
やっぱり、出てくる親戚が多いからかなぁー?
昔はそれが当たり前だったし。自分の親戚もこんな感じだったけどさ。
今、こんな風に、兄弟どの家も子どもが複数人いる一族ってあまりないように思うんだけど?
「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”が浮かんじゃったのは、故人の三女(?)の子である知花と美之の“あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な。新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいんだ”、でもこれは私が考えたことじゃなくて、テレビでそういうことを言っている人がいたのを見たんだけど。(中略)お母さんがああしろこうしろ言う時に、なんでって私が聞いても全然変な、変なっていうか全然納得出来ない理由しか言わなくてね、で、それは私のことじゃなくって、なんかこう、なんていうの、世間? 世間の? 世間の常識? みたいなもの? そういうものを信じて話してるんだなってわかったのね。そういうのって、もう、くっだらないくそったれじゃない。”
“でも、親ってのはたぶんだいたいそういうもんでさ。(中略)世の中、ていうか世界はどこ行ってもくそったればかりで、親だけじゃなくて、みんなくそったればかりで、お前の雑さに乗じて言わせてもらえば、世の中九分九厘くそったれだよ。”という二人語りの後。
その場にいない、故人の長男の息子であり、一族の厄介者とされていた寛の自らの生を振り返る一人語りが始まって。
その中で、寛が祖母(故人の奥さん)の葬式に行くのに電車で向かっている時に車窓を眺めながら、“さっき、川が現れた一瞬、心がぱっと開けるような、不安や心配が取り払われたような感じになった。また川が現れないかと窓の外を見て、もう一度川が見えたら、その瞬間の気持ちを絶対忘れないようにして、酒もやめて、ちゃんと生活する。仕事もする。家族を幸せにする。”と思ったのに川は現れなかったエピソードが語られる。
その後、今度は故人(通夜の主である祖父)と奥さんの二人語りが始まるのだが。
その中にある、“お前の頼りにならなくちゃいけない。本当はそんなに強いわけじゃないのに、そうやって思っていると、だんだんそういう風に、頼りになれているみたいに、自分が強いと思えてくるもんだから。”、“それでいいじゃない。じゅうぶん。”という5人(2人→1人→2人)の心模様に、人の後ろ姿が思い浮かんじゃうからだろう。
この知花と美之らの子世代、寛らの親世代、故人夫婦の祖父祖母世代、3世代の現在の人生観や世界観(自分が見知っている世界の範囲)や価値観を、3世代順番に書くことで、それらが巧ぁ〜く表現されているのみならず。
親戚の厄介者とされている寛も、その子たちからは「子どもには優しい父親だった」と言われているように、著者のそれら三世代への優しい眼差しが感じられて、ここは見事だなぁーと思った。
“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”
誰も、幸せなばかりじゃない。
寛なんて、結局家族に合わせる顔がなくなって、子どもを捨てて失踪してしまったくらいだ。
故人とその奥さんも、生前はそのことで心を痛めていたはずだ。
そんなみんなだけど、なんとか踏ん張って毎日を生きている(踏ん張って生きてきた)。
つまり、街を往く人々の後ろ姿の幸せというのは、知花や美之、寛、そして故人である祖父や祖母の後ろ姿を、彼ら彼女らを知らない赤の他人が何も知らずに羨んでいる風景でしかないんだろう。
自分も赤の他人からそう見られていると気づかずに。
森見登美彦の『きつねのはなし』の4話目「水神」も通夜に集まった親戚のお話だったけど。
これも、どこかそれに似た感触がある。
ただ、あっちは、やっぱり京都の夜なのに対して、こっちは都心から電車に乗ってウン十分の郊外の夜。
その特別っぽくないところがいいんだよね。
そこは郊外といっても、家が立ち並び碁盤の目のような道が通る住宅街ではなくて。
かつて農村だった頃の面影が多く残る、田んぼや畑、あるいは草ボウボウの空き地の中に住宅が点在しているような場所。
そんな中に道が通っていて、夜だから点々と街灯が灯っている。
「水神」の舞台は京都だから、たぶんこのお話の舞台より家が立ち並ぶところなんだろうけど、「水神」の夜の方が闇が深い気がする。
というより、こっちの夜は暗いと言っても、普通の夜の暗さのイメージと言ったほうがいいのかな?
ただ、マンションやアパートの建ち並ぶ郊外ではないから、夜の暗さが濃くて。かつ、夜の風景がその暗さに沈んだ感じなんだろう。
そんな夜の風景の中を通る道と、そこに点々と灯っている街灯の静けさ。
でも、そこはなんの変哲もない普通の夜だから、何が起こるわけもなく(ちょっとだけ変なことが起きるw)。
通夜に集まった一同に、夜は等しく優しい。
ホント、それだけのお話なんだけど、なぁ〜んかしみじみしちゃう(^^ゞ
そこがよかった。
「作家の読書道」を見ると、著者は子どもの頃、車好きで。中古車屋のチラシを見て、車の名前を全部おぼえてしまうような子どもだったらしい。
寝る前に父親がお話をしてくれていたらしいのだが、車好きだったこともあって。
例えば桃太郎のお話をしてもらうなら、「カローラに乗って犬がやってきて」といった話にしてもらってよろこんでいたということだけど、それって、実はそれなりの創作能力がないとそういうアレンジって出来ないんじゃないだろうか?
そう考えると、著者の創作の能力や意欲というのは父親から受け継いだものなのかな?なんて思った。
あと、ウィキペディアには、著者の奥さんはブックデザイナーで。
“フリーペーパーを書いていた頃に文章に「ひと読み惚れ」されたことで知り合った”とあるんだけど、「ひと読み惚れ」される文章ってどんななんだろう?
ていうか、文章を読んで「ひと読み惚れ」する人って、どんな人なんだろう?
Posted by ブクログ
行間に、自分の記憶が浮き上がってくる
今はもう会えない祖父との二人だけの思い出、恋人と歩いた二人きりの道、そういうものはどちらかがいなくなったあとどこにいってしまうのだろうと考えて宇宙の塵になってしまうようでとても悲しくて涙が止まらなくなった日のことを思い出す
それぞれの人との記憶と、その周辺のためらい
わたしが大切にしたいと思っていたのにいつのまにか忘れてしまっているためらいのひとときがここには記されている、ように思う
今の自分をとりまく環境によって、読むたびに印象が変わりそう
Posted by ブクログ
久しぶりに大好きな小説を手に取った。3日で2回、1回目は音楽も流さずに気になるラインや凄いと思った箇所に付箋を立てつつ頁に直に書き込みもしながら、2回目はそこに流れている川のことやフィールドレコーディングするキャラクタのことも意識して水の流れる音からはじまるアルバム、吉村弘の「GREEN (SFX version)」を流しながら文章とエピソード、それに音楽が作る流れに乗って一気に読んだ。凄かった。素晴らしかった。どちらの読み方でも楽しんだ。やっぱり好きだな、と改めて思った。
気を抜くと口にしてしまいそうな、個人と世界の間に漂う、思考や記憶の表面に近い浅い部分。それでも普段は見ることの出来ないそれらが、分かったり分からなかったり、信じていたら嘘だったり、繋がったり離れたり、思い思われたりしながら折り重なって、その夜を、世界を、小説をかたち作っていく。そこには、本当に説明の出来ない、する必要のない不可思議な出来事も当然起こる。
思い出の輪郭、確定しているように語られる未来、現実と幻想の間を語りも視点も不確かに移ろいながら、そこにある、あったはずの思考と記憶、感情や振る舞いも心地の良い違和感と一緒に乗せて時間が押し流していく。そこにあるものも世界も理解することは出来ないけれど、それでもこれは小説が書くことの出来る世界のかたちだし、実際の世界もこうやって出来ているはず、と分かった気になれる。数々の人生、それがある世界が、よく読めばはっきりと記録されているのだ。
読むたびに同じようなことを思ったり分かった気になったり、なんかもう少しで分かりそうな気がしていたりするけれど、毎回それは新鮮に感じるし、少しづつだけれど深くなっている、いたら良いなと思う。世界の見方も見え方も、また少し変わった気がした。
高架線を走る電車のシートで読んでいたとき、少し伸びをしようと顔を上げると車窓から見える景色は大きな川を渡るところだった。同じようなシュチュエーションで登場人物が感じる「川が見えた一瞬、心が開けるような、不安や心配が取り払われたような感じ」が分かったような気がした。その後に「もう一度川が見えたら」という彼の願掛けのような思いはこの路線ではあっけなく叶ってしまうことには少し笑った。そんなシンクロしたと思い込みたいシュチュエーション、思いや気持ちとタイミング。そこでこの本を読んでいたことも、全部OKだなと思えた、そんなエピソード。
そもそも、この本をまた読もうと思ったのは「百年の孤独」がきっかけなのだった。2つの小説には構造や描かれ方にも色々と共通するものがあると思うのだけど、多くの血縁のある登場人物とその分からなさについては、10人の孫の関係性を説明された故人の幼馴染の放つ「誰が誰だか全然わかんねえよ」が代弁してくれていた気がしてしまったし、そんな気持ちも持ちながら小説を読んでも良いと思う。だって、世界ってそういうものだから。
小説は世界を分かりやすく書くものというよりも、その分からなさを書くのだと思っているんですよね。解決しない物語。
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この投稿をした後に、急に思い立って向かった先で思いがけず滝口さんの文章についての話が出来たのが嬉しかった。
あの、内と外、思索や記憶がその場の光景、会話にグラデーションしていったり、続いていた思考が最後には別のところに着地したりする、あるいは現実と妄想が判断出来なくなっていく感じには心地良い違和感を感じているけれど、それらは現実の世界では普通に起こっていたりすることでもあって。
考え事や思い出に浸っていても、周りでは世界は進み続けているし、ひとつのことに集中して考えているつもりでも、まったく別のことが思い浮かぶこともある。肉体的な行動と頭のなかで行われていることは必ずしも一致していない。この小説で鉤括弧が使われていないのは、そういう部分を効果的に表現するためかもしれない。これは今思いつきました。
世界をフィクション、小説として書き出すときには整えられて削られてしまうであろうそんな部分をそのまま書こうとしたら、きっとああいう文章になるのだろう、という気がしている。世界を読みやすく”整える“ことがフィクションたらしめる要因のひとつだとしたら、それはリアル過ぎるのかもしれないけれど、そんなリアリティのあるが故に違和感を感じる文章、小説が読みたい。そこにある違和感に心地良さを感じたい。そう思っているのでした。
Posted by ブクログ
【フレーズメモ帳】
あれこれ詮索されることが兄はうっとうしかった。もう少し正確に言えば、あれこれ詮索された時に返す言葉を持たぬことが自分でもわかっているから、わざわざ出ていってそんな目に遭いたくなかった。
父と母がいなくなった寂しさは、それらとはまったく別に、毎夜布団のなかのふたりを襲ってきた。そんな毎日の時間のことを誰も知らないから、みんな勝手なことを言う。
しかし医者や親戚たちは執拗にそれを精神疾患にしたがり、浩輝を憐れみたがった。いくら違うそうではないと言っても、自分ではそう思っていないだけだと言う。そんなに言うならそういうことでもいいが、結局それは俺のことを信じないということだから、俺もあいつらを信じない。
Posted by ブクログ
ある老人のお通夜に集まる親戚一同の
どこにでもあるような風景
親戚といっても知っているような
知らないような
わちゃわちゃとした感じが
すごく共感できた
それぞれの生き方であったり
思いであったり
いろいろな物語があって
いろいろなものが交差する
つい最近読んだ「100年の孤独」のような
一族というとてつもない繋がりを
感じる
そしてまた繋がっていく未来も見える
とかくめんどくさい親戚であっても
大きな繋がりのひとつであって
そこが途切れると自分の存在もまた
なくなってしまう
なんだか壮大な歴史の中で生きている
自分て小さいな‥
Posted by ブクログ
面白い、どんどんおもしろくなっていく。
葬式で集まる家族って、名前はしってるけどどんな人か知らない、死んだ人によって繋がってる関係、不思議な関係だよなあ。
美之の存在がいいし、従兄弟たちが酔っ払って行って深夜になっていって、不穏な感じと清々しい感じのバランスが読んだことない感じ。
Posted by ブクログ
当たり前のことだけど、人間ひとりひとりにそれぞれの思考があって。当たり前のことすぎて忘れがちだけど、ぜったいに忘れてはいけないことだとおもった。ひとの考えていることを知るのはたのしい
たばこの煙や水の流れにそって揺蕩う記憶たち。うつくしいです...
Posted by ブクログ
ある老人の通夜に集まった30人近くの遺族。彼らの間を語り手を次々と変えながら物語が進む。時には今誰が語り手なのか判らなくなることも。其々の語り手に憑依しながら物語の世界を漂っている様な不思議な感覚に陥った。
新たな光で照らす「生」
ヒトは、抗うことの出来ない結末に向かい、為す術もなく生きて行く。
そこには本来、物語は無いが、すべてを擬人化してしまう私たちは、物語を作り続ける。
他人事のように日常は進んで行く。
Posted by ブクログ
最初は、ある一族の人たちが
お通夜の1日にあったこと思ったことを
ダラダラ書いているだけだと思った。
しかし頑張って読み進めていくうちに
不思議な気分になってきた。
読みながら自分の経験したいろんなことを
思い出す。
すごく芥川賞っぽい小説だと思う。
Posted by ブクログ
わぁこの作家は私と同い年なのか。
はじめて読んだけど、めっちゃ書きたい内容だった。
前情報なく手に取って、
通夜の親戚の集まりを描いてるとわかってかなり身構えた。
私自身地方の出身で親戚付き合いが濃いもので、
自分の中の強固なリアリティがあるものだから
嘘っぽさとかがあると途端に引いてしまうだろうなと。
でも今作はそんな自分を次第にほぐして行って、
最終的にはなかなか遠くまで連れて行かれた。
まるで線香の煙のようにたゆたいながら
何人もの親戚たちの内側に入り込んでは
この親戚たちの関係性や複雑な思いを描きつつ、
型にはまらぬ家族のあり方をいくつも提示する。
特に後半はかなりドライブしてくる感覚があり、
フォークナーかと思うような流れる思考。
しかも死者と生者を巻き込んだ架空の会話が
そもそも鉤括弧使わない中に自然に挿入され、
鐘の音や歌やエンジン音とともに混沌としたまま
夜空へと消えていくような終わり方。
他の作品も読まざるを得ないね。
Posted by ブクログ
うわ!これ!大好きです!!!!語りは幽霊のように人びとの思考と記憶を辿り、それは声も身体も超えて、時間を自在に伸縮させる。そのなかで忘れがたく描かれる機微の愛しさ。敦賀の砂だったか石だったかのところかなり好き(好きといいながら砂だか石だかおぼえていないのだからまるで信用がならない)。
Posted by ブクログ
不思議な読後感。
印象的に描かれる川と音、または、闇と静寂。
視点や時間が連なり切り替わる様子は、さらさらと流れる川や広がる音に重ねられる。
どこにでもありそうな田舎の風景。
Posted by ブクログ
私は親戚付き合いがとにかく嫌いで、もう何年も集まりに参加してないし会ってもない。
本書は私がそうやって嫌厭してる「親戚たち」それぞれに人生があり、思考があり、血の繋がりへの向き合い方があることを気づかせてくれた。
Posted by ブクログ
滝口さん二作目。
茄子の輝きの、1話目のお茶汲み係を頑張って決める話くらい、第三者にわからせようとしていない、いや、正直そこはどうだっていい、それよりも、そんなことを整理したり考えている時間そのものの尊さを考えさせられる、不思議さ。
カギカッコを使わない冗長的な、客観的に影響を受けて動かされる感情のない情景。
忘れることと、忘れていないことの間のような、思い出すことと思い出さないことの間のような、死んでいない者と死んでいる者の間のような。
Posted by ブクログ
死んでいない者 滝口悠生
ある親族の通夜を描いた作品。
親族が多い一族であり、お互いのことを詳細に把握している訳ではない。そうした関係の者が通夜の1日を共に過ごす中で、お互いがお互いに対して思っていること、思ってきたことを想起している様が描かれている。
差して何かイベントが起きるわけではない。通夜という非日常を日常的に描写しているように感じられた。
祖父の死を契機に当刊行物の読書に入った
Posted by ブクログ
ある通夜から紡ぎ出す、死んでいない者たちが、故人を送る時に、何を感じるのか。死んでいない者たちの様々なストーリーが紡がれていく。
芥川賞を受賞した著者の代表作です。
登場人物が多いので、頭の中で整理するのが難しかったです。解説で、津村記久子さんが、「こんな大きな小説は読んだことがない。」と、言われていたので、ストーリーの壮大さと、親族間の人間関係にも注目してほしいです。誰にでも訪れる死、死を迎えた人と、迎える人たちの厳かな濃密な1日を、感じてほしいです。
Posted by ブクログ
一人の老人が亡くなりその葬儀に集まった親族達の様子を、それぞれの視点で何気ない一言や頭の中で考えていることが次々と描写されていく短編小説。
登場人物達自身も、葬式の場で久しぶりに会う面々でお互いに「誰の家族か、何て名前だったか」という状態のため、次々と視点の主が変わるので「今、誰が話の主なのか」が時折混乱してくる。しかしそこで描写される情景は、何気ない過去の記憶(なのになぜか良く覚えている)に飛んだり、発した言葉の一瞬のうちによぎった思いだったりが巧く表現されていて、「こんな感覚、たまにあるよなあ」と思わされる。
特に大きな事件が起こるわけでもない。全体的にゆったりと時が流れて行く話だが、そんな「たまにある感覚」を妙に楽しめる小説だった。
Posted by ブクログ
20220814
お盆の帰省の時期に読んだのがちょうどよかった。
テレサ・テン 時の流れに身をまかせ
親戚にはいろんな人がいるし、家族と同じで選べない。
ただ、距離を置こうと思えば置ける。
小さい頃からお互いを知ってるし、少しだけど変化するときの前兆もわかるはず。
相関図見ながら読んだ方がいい。
おじいちゃんと最後暮らした美之、兄弟知花との関係もいいし、いろいろ考えさせられる。
Posted by ブクログ
この作家の本を読むのは4冊目。若い世代の男性作家をあまり読まないのだが、『長い一日』がとても良かったし、これからどんな小説が読めるのか、楽しみだ。
亡くなった高齢の男性の一族が通夜に集まる、一夜の群像劇っぽい話。
でも描かれるのは、子供から孫にいたる多数の人々の内面と記憶、それが一夜の行動の中で代わる代わる書かれるだけなので、これを群像劇と読んで良いのか、分からない。
世間的には引きこもりと思われる孫と祖父(この話の中心である死者)の関わりが関係性としては一番重厚そうで意味があるように思うのだが、それは具体的には記されない。それぞれの想像を駆してまで書かれる部分と、まったく書かれない部分の区別が面白い。
失踪していて実際の場面には出て来ない人物の内面の吐露もあったりして、独特の表現は『長い一日』とも親和性を感じた。
Posted by ブクログ
2015年芥川賞(下期)受賞作
誰が主役?って話
知花?ダニエル?美之?亡くなったおじいちゃんの5人の子供、配偶者、子供、孫…。
でも葬式って、親族特に従兄弟、叔父、叔母なんてそんなもんかぁ〜なんて思いながら読んでたら終わっちゃったって感じ
Posted by ブクログ
ある老人の通夜に集ったり集わなかったりする親族たちの、過去と現在と未来が、混線しながら描かれた短編。
何か事件が起きるわけでもなく、これといった盛り上がりのない話なんだけど、長編小説を読んだような読後感。
Posted by ブクログ
※登録は文庫版ですが、読んだのは単行本なので、「夜曲」という短編が読めず残念でした。
「やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)」で気になっていた滝口さん。どの作品から読むか悩みましたが、本書にしてみました。
読み始めて「ん?」と思いました。これはあまり読んだことのないタイプだぞ、と。たくさんの人が出てくる群像劇だとか、相関図があった方がいいだとか、セリフが括弧で書かれていないとかそんなことではなく、何かうまく言えないけれど、読んだことのないタイプの本だと思いました。ちょっとググってみて、すごく納得。これは、芥川賞受賞作だったのですね。おそらく芥川賞受賞作なんて今まで読んだことありません。あ、嘘でした、今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」は読んでいました。端的にいうと、芥川賞受賞作はたぶん私には無理だろうという苦手意識があるのです。なので、非常に納得。本作も苦手なタイプでした。
亡くなった祖父(とにかくたくさんの親戚が出てくるので、誰目線で呼称してよいかわかりませんが、とりあえず)の通夜に集まった親戚一同の思い、行動、過去と現在、その他諸々という感じでした。親戚付き合いが少なく、兄弟姉妹が多い家系でない私には、誰だかわからな親戚がいたり、年の離れたいとこが複数人いるということ自体経験したことのないことで、名前を覚えることが苦手なこともあり、相関図を書こうかとなんども途中で思いましたが、そのままなぁなぁで読むことにしました。
これだけたくさんの親戚が集まると(故人にとってはひ孫にあたる小さい子までいる)、当然ですが色々な人がいるもので、蒸発してしまっている者、その蒸発してしまっている者は妻にも去られているので、両親ともに不在で暮らしてきている兄弟、中学から学校に行かなくなり、故人の晩年には庭のプレハブに住み込み、故人と共に暮らすことになった孫などもいて、ハッと興味のような意識を持っていかれることがありました。
何が起きるわけではなく、記述の中心になる人物はコロコロと入れ替わりますが、視点は何となく上からという印象がありました。
「死んで居ない者」を中心に「死んでいない者」がまるで日常から切り離されたような時間をともに過ごしながら、しかし、それぞれを生きている、ただそれだけと言ったらそれだけのストーリーです。そうなのですが、通夜という独特な時間、空間を見事に利用しているなぁ、と感じました。それと同時に、このなんてことのない人たちのなんてことのない人生がなんだかと尊く感じられました。
先述したように「苦手なタイプ」の本だったのです。ですが、なんか、よかったです。誰がついているのかわからない鐘の音を想像しながら、葬儀が終わったあと、日常へとそれぞれ戻っていく親戚一同が脳裏に浮かびました。
Posted by ブクログ
残された者たちの過去と現在が、取り止めのない会話と脳内思考で流れていく。いろんな人の脳内を覗き見て、高みの見物。カオスだけどありそうでなかった文体。
Posted by ブクログ
ある老人の葬式に集まった有象無象の親戚達。
何が起こる訳ではないけど、顔も良く覚えていない親戚とのなんとも言えないあの独特な空気感。
視点がコロコロ変わっていく手法も、群像劇らしくて良かった。
Posted by ブクログ
祖父のお葬式に集まった、知っているはずだけど知らない人のような親戚たち。
登場人物がやたら多く、理解しきれないまま、各々が、別々の会話をしているワチャワチャ感が押し寄せてくる。
本当にお葬式に行ったかのようで、子どもの頃の記憶の引き出しが勝手に次々に開けられる感じ。読後は人疲れと、なぜか郷愁。
Posted by ブクログ
友人のすすめで滝口氏を知る。
先日手始めに、と読んでみたアイオワ日記がとても良かったので、こちらも読んでみる。
お葬式に集まる、親族たちの世界。
日常と非日常の堺、家族と他人の堺、そういうものを描いた作品で、普段なんとなくみんなが感じることをうまく言葉にしてあるなと思った。
正直なところ、読後感は、うーん、まあ、悪くはなかったが、アイオワ日記のほうが単純に面白かった。
視点がよく動くので、なんのこっちゃと人間関係を把握するので必死だった。ストーリーはあまり無くて、そういう人間関係があり、そのなかで主役不在(故人だから仕方がない)の儀式を行う、厳かなおかしみを描いている。
もちろんこれは、故人に縁者が多く、かつ天寿をまっとうした死に方ゆえの円満お葬式の空気である。
親戚がけっこうたくさんいるなかで、だんだんと年齢と立場が逆点したりして、把握が複雑になる。
その中に2人ほど、集団から外れたメンバーがいたり、葬式でもなけりゃ会わないのが親戚だったり。
親族の絆より、姻族の「縁あってここにいるけど冷静に考えるとなんか不思議だよね感」が連帯しやすかったりする。
ああ、そういう、ね、わかるわかる、となった。
アイオワ日記に書かれたエピソードで、あなたはどうして本を書くの、と聞かれて、滝口氏が、もう存在しないものや時間を残すため、というような答えがあって、まさにこの話だなと思えた。
どうでもいいけど、女子高生の制服のスカートのポケットに、缶ビールなんか入るだろうか?入ったとしてもモソモソしてとても活動できないと思う。それも何度もスカートから出してくるので、そのたびに、えー?と思った。さすがに何本も入れているとは思わないけど。一本出してから、新たに一本入れてると思うけど。一本すら普通は入らないよ。それとも、私の思う制服とは全然別のものなのかな。
…そんなことばかり頭に残ってしまった。
これ、芥川賞だったのか、ちょっと驚き。
Posted by ブクログ
文芸春秋
滝口悠生 「死んでいない者」
芥川賞受賞作を読んでみた
葬祭の場で起きる 故人と親戚の追憶の物語。死から生を問うているようにも読めるし、親戚の滑稽さとしても読める
主人公は誰なのか、話し手は誰なのか 不明のまま、親戚(死んでいない者)が 次から次と出てきて 故人との記憶をたどる展開。私には読みにくいが、玄人好みなのかもしれない
最初の文章〜斎場からお通夜に至る悲しみの感情の変化の描写は見事だと思う。親戚たちについて「血のつながっていない配偶者たちもなぜかどこか似ている」というのも面白い
自分の死について、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいている、あるいは近づかれている〜生きるとは結局その渦中にある連続
Posted by ブクログ
死んでいない者
本文の中でも言われていたが親戚内でのとりとめのない会話がだらっと続いていく内容である
お世辞にも面白いとは言えない話だと思ったが、その場面、背景や心情には抵抗なく入り込めた
登場人物が非常に多く、それぞれ何をするでもなく現れては文章に流されていくのだが、読後に思い返してみると何となくその情景が浮かんでくるから不思議だ
しかし文章力があるのかと問われれば否、だろうか
鉤括弧を使わない会話なども含めて易しい文章のせいかすぐ読み終えてしまったためか、明瞭に記憶に残ることはないが、ふとした時にああ誰でもこんなふうに考えたりするんだろうなあなどと考えるのかも知れない
夜曲
短く読者の解釈の自由度が高いせいだろうか、こちらのほうが個人的に好みである
短さ故、一箇所の描写のみなのが良い
廃れた町に暮らす若いとも老いているとも言えぬ者たちの、これまたとりとめのない会話だが、他愛のない文章が眠りにつく前には丁度よい