bookfunさんのレビュー一覧
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一気読み
標題作と「十二月の都大路上下ル」の2作品、どちらも心に滋養を与えてくれるサプリメントのような作品でした。特に「十二月〜」は続きが読みたくなるほど、短編なのに登場人物が全員魅力的でキャラ立ちしていたので、長編小説として膨らませていただきたいほど、この世界観から離れるのが惜しい気がしていました。いずれの作品も読み始めたら止まりません。文章の読みやすさもさることながら、テンポ、ユーモア、エピソードのバランスも絶妙で、読後に地理や歴史を確認する楽しみも付加されてます。最近の直木賞作品は重厚骨太な作品が多いように感じていましたが、軽やかで爽やかな中に込められているメッセージは、読書離れと言われている時代...続きを読む
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恐怖からの自由
戦前と戦後社会の連続性について、この作品は描いている。この指摘や示唆は丸谷才一「笹まくら」が最も成功していると感じているけれど、「てんやわんや」で書き込まれているのは庶民感覚により近く、山口瞳が「卑怯者の弁」で絶唱に近い声で、戦争も殺し合いも絶対に拒否したいといったものと近似値である。いろんな自由が戦後憲法に書き込まれているが、恐怖からの自由がないのだという指摘は切実である。主人公は立派な人間ではなく、うまく立ち回ることを常に考えている小市民であるのでユーモアとシニカルが入り混じり、日本社会のシステムに翻弄される。巻き込まれタイプの典型であるので、志も決意も常にグラグラと揺れてしまう。あとがき...続きを読む
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文豪の耐えられない軽さ
保身と忖度がこれほど作品に二重写しになってしまうのかと、直木賞作家の値打ちにまで疑問符がついてしまう。この作品で描かれる菊池寛はナイーブで消極的に戦争へと巻き込まれたのだと印象づけようと必死だが、かなり無理がある。むしろ菊池寛は堂々と戦時下の日本が勝ち馬だとギャンブルを張って敗れたのではないのか。朝日新聞も文藝春秋も、当時の姿勢を真正面から受け止め、作家も真摯にそこを逃げないで書かないと、同じことを繰り返しますよと、言いたくないことを言ってしまう。文豪があまりに軽いので、次の100年に耐えられるのかと勝手に心配してしまう。
ちなみに、菊池寛の文章はどれも面白く、短編小説のハズレは少ないし、話の...続きを読む -
哀しいのは父性か女性か?
作者は戦前から終戦直後まで、甲子園口に住んでいたので、その土地勘を作中の舞台に活かしたのだと推察できる。大阪が重要だという要素は正直、あまり理解できないが、当たり前のように二号さんを持つという感覚を許す父性的なものが、女性たちを様々な意味で抑圧しているのが、物語の進展に応じてしっぺ返しを喰らう戦後社会の変化の兆しみたいなものは浮き上がってくる。次世代を代表する息子二人と娘、妾とそこで働く女中、あるいは妻たちがそれぞれの道を歩んでゆく姿に希望が見出せるようだ。また、作者は主人公に少年を選んでいるが、年上の女性が持つ独特の色気も隠そうとしない描写は興味深く、この小説では登場人物の企みは失敗している...続きを読む
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舞台は東京
藤澤作品には珍しく大阪は、主人公が出張で訪れるのみで、主要舞台は東京である。そのせいなのか、筋運びが冗漫であるように感じられた。どこかこなれていないものが随所に見受けられ、最後まで読み通すのを何度か諦めそうになった。とはいえ、発表年代が昭和33年であることを思うと、男女の恋愛事情は革命的な変化が生じたのだと、一種の証言記録でも読むつもりで、ページをめくった。結婚にまつわる貞操問題が、ここまで小説の題材になりうる時代があったのだと、それも一種の歴史的な記録であるように思えた。つくづく、時代に応じて読者が求める作家というのは多彩であり、小説は進化しているし、文体も変化していると実感できるテキストで...続きを読む
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婆子焼庵
タイトルをそのままとらえれば、仏が衆生を済度するために様々な形態で出現する時の姿を、登場人物に仮託していると思われる。出家しても俗なものから抜け出せないのは、男女ともに若い設定であるので、さもありなんと思わせられる。
通俗小説として切り捨てるには、作品の後半に出てくる婆子焼庵という言葉が意味深長に響いてくる。
当時、勝新太郎主演で映画化されたそうなので、いつかそちらも見てみたい。
また、随所に作者の博覧強記が披露されていて、天台のこと、仏教史のこと、寺門経営の内幕から近代絵画や河内・大阪文化に渡るまで、小説の合間に挿入される場面では、物語の本筋を忘れるほど興味深い。
特に尼寺の後継者問題の暴露...続きを読む -
爽やかな青春小説
藤澤桓夫は南海ホークスのファンだったらしい。大阪球場も懐かしいが、藤井寺球場が小説に出てくるのには郷愁をそそられる。アマチュアにプロ選手が指導することは野球の世界ではどれほど厳密であったかについて、この小説では高野連の神経質と狭心を引き合いにして作家は憤りを示している。珍しいことであるが、春夏の甲子園という大舞台に純真な気持ちで挑む高校球児に群がる邪な大人の経済論理に家族や周囲まで巻き込まれてしまうことを、作家は苦々しく観察していたのだと推察する。結末はもう少し書いて欲しかった気もするし、昭和39年に刊行された作品とのことだが、藤澤桓夫の他の野球小説も読んでみたくなった。