松沢裕作のレビュー一覧
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「自由民権運動」は、学校で習うイメージで言えば、西南戦争の後に言論の力で戦い、議会開設という民主主義の果実を得たという、現代的な、崇高なもののように思える。とりわけ、昭和に入って戦争に突き進んだ歴史を闇とすれば光として描かれやすい歴史である。
しかし、実際はどうか。著者は、板垣・星といった運動エリートではなく、地方で展開された集会の議論をベースにこのような民権運動像を描き出す。そもそも著者は、民主化・近代化に果たした自由民権運動の役割をそれほど評価していない。あくまで、政府の必要というかなりドライな見方をする。そして、著者は、運動の中に先進的な思想ではなく、身分制度復活という復古理想的なものを取りだす。自由民権運動に関わった人々はごろつきであり、暴動を一つの手段として、経済的利益を求めたのである。
運動とは理想の元に一枚岩なのではなく、むしろ現世的な利害のもとでより多くの人をどう巻き込んでいくかにかかっていることを示す一冊。 -
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歴史学者が、歴史的事実をあつかった論文をどのように執筆し、どのように読んでいるのかということを、具体例にそくして解説している本です。
本書で具体例としてとりあげられている論文は、著者自身の「逓信省における女性の雇員と判任官」と、政治史、経済史、社会史の立場にもとづいて書かれた論文三編です。まず著者の論文では、史料批判のしかたが具体的に解説されており、史料によってなにがわかり、なにがわからないのかということを厳密に考えながら叙述が展開されているところに、歴史学の立場だということが明らかにされます。
つづく三つの論文は、それぞれの執筆者のいだいている歴史的な関心や、その背景をなしていると考えられる共通の問題意識などが明示化されたうえで、どのように史料が読まれ、どのようなしかたで論証がおこなわれているのかということが、ここでも非常に具体的に説明されています。
ただし著者は、それぞれの論文が執筆者の関心にもとづいて書かれており、それぞれの関心におうじて異なる歴史の描像が現われるという立場にくみしているわけではありません。むしろ著者は、たとえ問題関心が異なっていても、史料批判にもとづいて論証が組み立てられている以上、史料はさまざまなしかたで「使えてしまう」という点に目を向けています。このことが正しく把握されていないことが、かえって歴史をめぐる恣意的な言説が生まれる温床でもあります。
著者は、歴史にかんする言説から学問的な史料批判をくぐり抜けていないものを排除することが、かならずしも望ましいかどうかわからないと、慎重な態度をとっています。ただそれでも、歴史の認識をめぐる問題が生じたとき、人びとが立ち返るべき史料の読みかたについておおまかではあっても理解をもちあわせていることで、混乱に巻き込まれずにすむということはできるかもしれません。 -
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著者が近年発表してきた歴史学概論あるいは史学史的な論考を集成した本。いずれの論考も、著者いわく、「歴史学の営為と、「(不条理な抑圧が存在する社会という)立方体の外」を夢見ることとの関係をめぐって書かれている」。
いずれの論考も、含蓄に富んでおり、学生時代に歴史学を学んでいた者として、考えを深めさせられるものだった。
特に、表題ともなっている「歴史学は世界を変えることができるか」が印象的だった。社会における「不条理な抑圧」を減少させることに寄与するという著者が提示する歴史学像は、著者も断っているように歴史学全体に通底するものとはいえないと思うが、歴史学の一つの可能性を示したものとしては十分に理解できるものである。社会における抑圧を発見し、その抑圧の構造を解明するということ、言い換えれば、社会における抑圧の来歴について説明する言葉を付与することは、まさに歴史学の本領発揮といえることだと考える。そして、もう一つ指摘されている「解放幻想を理解する作業」について、敷衍して、実現しなかった過去における社会の可能性、「夢」を掘り起こし、明らかにすることだと考えると、それも歴史学だからこそできることであり、そして、それは現代の社会にも大いに示唆を与える可能性のある営為だと思われる。 -
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歴史学とは、資料を正しく読み解き、論文等に知見をまとめていくだけかと思っていたが、自分が想像していた以上に緻密で繊細なプロセスを経ていることに驚いた。
本書はいわゆる歴史家の方が実践しているスキルの紹介に留まらない、知的解釈の困難さが読み取れるが、さすが専門家とも言うべきほどに内容はやや難解である。歴史に触れる機会が少ない自分のような読者にあっては、少々内容に入るまでに骨が折れることも多かったように感じる。しかし、難しいだけではなく、興味深いトピックを選び抜く筆者の審美眼と文章力は確かなものであり、最後まで読ませる楽しさをあわせ持つ点は素晴らしいの一言である。
再度、歴史や周辺知識を身に付けた上で挑戦したい一冊だ。 -
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生きづらい明治社会が現代にも通ずるところがたくさんあるというのが驚きでした。著者が一貫して主張していたことは明治の人たちが陥っていた「通俗道徳のわな」というものです。それは「貧困とは怠けてるお前が悪い/努力が足りない/自業自得だ」です。成功した人はもちろん努力をした人なのでしょうが、貧困層は努力をしなかったかというとそうではない。色んな要因があってそこから抜け出せないほどの環境下にいることもあるんだよということ。今のSNSやネットでも同じような光景が垣間見えます。(例えば就職氷河期世代に対する考えとか)
人間なんて数十年しか生きないのだから150年前と同じような考えを持つ人が多くてもなんら不思議ないのだけれど、じゃあ僕らはいつまでも変わらないままなのかと言われるとそれも虚しいなと感じました。若い世代はぜひ読んでみてほしい一冊だと思いました。 -
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内容的には、近代史を分析するのにあたって、歴史家はどう考えてどう資料を使うのか、政治史、経済史、社会史という観点から論文を分析して解説したもの。勉強にはなった。
【目次】
はじめに――歴史家は何をしているのか
第一章 歴史家にとって「史料」とは何か
1 根拠としての史料
2 記録を残す
3 記録を使う
4 歴史学と文書館
第二章 史料はどのように読めているか
1 史料の引用と敷衍――史料批判の前に
2 逓信次官照会を読む――「史料があること」が「何かがおこなわれたこと」を示す場合
3 新聞記事を読む――史料に書いてあることをどの程度疑うか
4 御成敗式目を読む――史料の書き手と歴史家の距離
第三章 論文はどのように組み立てられているか(1)―― 政治史の論文の例
1 歴史学の論文と歴史研究の諸分野
2 政治史の叙述――高橋秀直「征韓論政変の政治過程」
3 政治史叙述の条件
第四章 論文はどのように組み立てられているか(2)――経済史の論文の例
1 マルクス主義的経済史
2 経済史の叙述――石井寛治「座繰製糸業の発展過程」
第五章 論文はどのように組み立てられているか(3) ―― 社会史の論文の例
1 社会史のなかの運動史
2 社会史の叙述―― 鶴巻孝雄「民衆運動の社会的願望」
第六章 上からの近代・下からの近代 ―― 「歴史についての考え方」の一例
1 歴史についての考え方と時代区分
2 「近代」、このやっかいなもの
3 歴史研究との向き合い方 -
Posted by ブクログ
・タイトル通り、働く大人が社会の問題点を考えるときの土台を教えてくれる本でした。
多分学生時代に社会で習ったことも多くあると思いますが、ピンときていないから覚えていないんですよね。
同じことを学んでも社会に出て経験を重ねることによって「あれは、こういうことだったんだな」と理解出来ることが多くあると思います。
そういうことが学べる本です。
・「労働の義務」ではなく憲法27条「勤労の義務」(まじめに労働にいそしむ)
を定めているのは日本だけ。
勤労の義務は25条「すべての国民は文化的で最低限度の生活を営む権利を有する(生存権)」と結びついている。
勤労の義務を果たしていなければ、生存権は保障されない(働かざる者食うべからず)
・経済成長していれば勤労国家・日本はうまくまわるが、停滞すれば不安定になる。自己責任論、生きづらさ。
・多数決は万能ではない。
選挙などの多数決をうまく使うためには、「私たち」にとって望ましい選択をするということを有権者の目的として共有することが必要。「私」にとってではダメ。
しかし、現在の日本では問題が個別化し、私たちが不在になってしまっている。
・多数決が万能ではないため、ずれが生じる。
それを埋めるために運動はなくてはならない。
・日本はアメリカと比べて、他人を信頼しない。
日本は歴史的に「安心社会」だったのが原因。
安心社会は、個人が特定の集団に長期にわたって関与し、集団のメンバーとして認知される社会。終身雇用など。
メンバー内は信頼するが、メンバー外は信頼しない。
アメリカは自分の目で信頼できるか判断していく「信頼社会」
ある程度信頼しないと新たな行動できないので、信頼しやすい社会。
日本の安心社会はなくなりつつあるが、信頼社会にはうまく適応できずにいる。
個人主義的な生き方をしたいと思っているが、まわりが依然として集団に対する同調志向を維持しているため、自分だけが突出するわけにもいかないと思っている人が多い。
・他の国との比較、なぜそうなったかが歴史からひもとかれていてがおもしろかった。
・高度成長期をへて、ある程度豊かになり停滞している現代日本。
日本人共通の目標がなくなってきているので、「私たち」の共通のニーズがなくなり、「私」が個別化し、民主主義がうまくいかなくなってきているというのがよく分かりました。