松沢裕作のレビュー一覧
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これからの社会をよりよくするためのヒントとして、一人一人が考えていかなければならないテーマを4人の著者が解説した本。取り上げられているテーマは、GDP,勤労、時代の分け方、多数決、社会運動、私、公正、信頼、等々全12項目。
できるだけ平易に書いてくれているのだとは思うが、それでも筆者にとってはまだ難解な個所が多かった。
そもそも本書カバーのイラストが田中圭一だったので、内容もそれなりにやわらかいものだと期待してしまったのが間違いだった。田中圭一の作品を知っている人には、カバーイラストは明らかにミスリーディング。
著者達、あるいは出版社側は確信犯なのか、それとも偶然なのか、田中圭一の起用に至るまでの経緯も本書の内容とは別に興味深いものがある。 -
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GDPに代わるもの=HDI(ヒューマンデベロップメントインデックス)。概してGDPに比例する。
国民総幸福量=GNH。
功利主義基準(全員の効用の足し算)、ナッシュ基準(掛け算)、マクミラン基準(最低のレベルに着目)。
どの基準が幸福の算定にいいか注意する。
日本人には「働かざるもの食うべからず」という背景があるため、生活保護や貧困対策よりも、公共投資による勤労のチャンスを用意することが大事だ、と考えるようになった。
日本の政治は、特定の誰かの利益、の寄せ集めになっている。教育の無償化、医療の無料化などみんなの利益となる分野が少ない。
選挙は決め方次第で結果が変わる。決戦投票方式やぼづだールールで結果が変わる。
政治的な運動は、多数決という意思決定では救済されない意思を実現するルート。ただし、運動を支える正当性が必要。なければ単なるエゴになってしまう。
古代バビロニアタルムードでは、二人の争いの分け方が違う。
日本は信頼社会ではなく、安全社会。身内だからこそ安全だと思うが、他者は信頼がおけないと考える。欧米は身内の概念がないため、信頼社会でないと成り立たなかったため、信頼が強くなった。
税金は取られるもの、ではなく社会全体への貯えと考えられないか。
常陸大宮市の医療法人博仁会の取り組み=育児休暇や保育園の併設など。医療や介護の従事者のほうが出生率が高い。 -
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<目次>
はじめに
第1章 戊辰戦後デモクラシー
第2章 建白と結社
第3章 「私立国会」への道
第4章 与えられた舞台
第5章 暴力の行方
終章 自由民権運動の終焉
<内容>
「おわりに」に著者が書くように、大変クールな自由民権運動の本。ただ教科書よりもリアルな話がうまく盛り込まれていて、読んでいて違和感を感じなかった。板垣退助や後藤象二郎の民権運動への目論見(「わりこむ運動」と表記)。博徒や下層民の民権運動への幻想(「終章」の最後に書かれた秋田県のエピソードが哀しい…)。江戸時代からわずか10年程度しかたっていない中、今の我々が考えるような「民主主義」が日本に根付いていたわけがなく、農民層は農民層の士族層は士族層の、淡い憧れから民権運動は動いていた感じがよくわかった。これを授業に組み込むのはなかなか難しいが、少しずつ反映させられたらいいかな?! -
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本書では、明治の町村合併こそが、日本において「近代」社会を成立させたと主張されている。
著者の考える近代社会とは、境界を持たない世界(=市場)と境界を持つ権力(=国民国家)が併存する社会である。境界を持つ権力である国民国家、あるいはその下部の単位(府県、市町村)は、人びとの暮らしが市場という無境界的な結びつきに委ねられているということを前提にしたうえで便宜的に境界を設け、それぞれの持ち場として便宜的に管理するシステムだという。その便宜的な線を引き、日本において市町村―府県―国家という同心円状の世界を完成させたのが町村合併であったとする。
江戸時代までの日本には、現代の我々が考えるような「地方自治体」はなく、当時の村は「地縁的・職業的身分共同体」であり、一定の領域に様々な藩などの領地が入り混じるモザイク状の世界であった。江戸時代の村は、年貢の村請などによって構成員にとって切実な意味を持つ単位だった。それが明治になり、地租改正などを経て、町村合併によって切実な意味を持たない同心円状の世界に再編されていく。これが本書の本論部分の大筋である。
本書を読み、市町村―都道府県―国という同心円状の世界は、決して自明のものではなく、江戸時代や明治前半にはまた違った「地方」の姿があったということを再認識させられた。「明確な境界線は切実な意味がないからこそ引ける」という本書の指摘は印象的である。現代の地方自治体の住民にとっての意味を再考するきっかけとなる指摘であると思う。
ただ、国民国家という「境界」と、市場経済という「無境界」の相互依存性などを主張する結論部分は、論理の飛躍があるのではないかと感じられた。本論部分で、市場との関係について触れた部分はそれほどなかったようにも思われる。また、本論部分の具体性に比べ、結論部分は議論が少し抽象的に過ぎるとも感じた。