池上俊一のレビュー一覧
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ネタバレ東大名誉教授でヨーロッパ中世史がご専門の池上俊一氏によるシエナ本。
シエナの魅力を歴史や文化を深め・厚めに説明する旅行ガイド!?
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今年の初め、上の子と私ら夫婦でイタリアに旅行に行きました。
ローマが30%、フィレンツェ70%という日程配分でした。フィレンツェといっても中心部のみならずトスカーナの郊外にも足をのばしました。その際シエナにも行ったのですが、本当はそれまでに読んでおきたかった本。
結局古本しかなく、しかも値段がそこまで安くなく読まずに行きました。
で、帰ってきてから結局ほぼ同じくらいの値段で買うという。。。
相変わらず間抜けなことをやっております。
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シエナはですねえ、そうですね、すり鉢状のカンポ広場、兎に角古い銀行がある、パンフォルテ、ピチ、といったところを思い起こします。
街並みは確かに中世って感じで美しかった。
本作では、『シエナってそんなもんじゃないんですよ』ということを池上氏がアツく語ります。
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著者の意見は、実はシエナは深いんですよ、という話。
先ず力説しておきたい魅力として、中世の街並みが色濃く残るということ。そして、トスカーナの田園の恵みとシエナの街が充実して連結しているということ。
読んでいるとちょっと分からないかもしれませんが、フィレンツェからバスでシエナに行く際、なだらかな緑の丘陵がどこまでも続く光景、あれには心を奪われました。
周辺の田園部(コンタード)からとれる土や粘土、そして豊富な農産物、これらがあって初めて都市のシエナが形作られたという話。
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更に更に。
シエナの文化的バックボーンは、異教的・土着的要素も大いに包含しているという話。
通常はイタリアですからキリスト教、それもカトリックというものです。でも、パリオという地区対応競馬大会的な祝祭、これはかなり土着的な要素が多いそうです。勝ち馬は教会まで勝利を報告したり、レースの前に馬に聖水をかけたり。勝った地区(コントラーダ)の人々は勝利の雄たけびと共に街を練り歩くそう。
これを読んでいて、まさに「ハレの日」という日本的ワードがぴったりの印象を受けました。
ああ、次はぜひこのパリオというお祭りを生で見てみたい、と思うのでした。
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ということでシエナのあれこれを、やや文化史的に掘り下げた新書作品でした。
文化とか歴史とかがお好きなかたでシエナに旅行する予定がある方は、悪いことは言いません、是非読んでからお出かけください。 -
Posted by ブクログ
ヨーロッパでは、かつて動物裁判が真面目に行われて行われていたことを紹介し、なぜそのようなことが行われるようになったのか、著者が考察を加えた本。
人間に迷惑をかけた動植物が、訴訟され、裁判に呼ばれ、検察官や被告には弁護士まで登場したようだ。これを真顔でやってたなんて、信じられない話しだが、人間がアニミズムの世界から、合理的な世界に移行していくなかで、畏れていた神々が宿る動植物に対して裁きを行う上では、必要だと考えていた(ようだ)。
ナルホド。
以下は備忘録。
動物裁判は、ヨーロッパにおいて12世紀かそれ以前からみられ、13世紀以降本格化のきざしをみせ、14〜16世紀をピークとし18世紀まで続く。
中世・近世の人たちが法の掟に従属させたのは、動物だけでなく、植物や静物(鐘楼の鐘等)をも裁いた例が散見される。
なぜこのような人間ではないものの裁判が行われたのか?
擬人化したことは考えられるが、異教的アニミズムがその基底にあるとも考えられる。
アニミズムを悪魔化した教会のめざしたのは、動物にとり憑いた悪霊や人間の魂をキリスト教的祓魔式で祓う、という構図をおしつけることであり、そこに異教的慣習とキリスト教との衝突が現出したのだと。
かつては、特定の祭りなどの際には定期的に、「人身御供」が嫉妬深く怒りやすい神々に捧げられ、徐々に動物の犠牲にとってかわられた。そして神々の統括する神秘的な秩序や、秩序回復のための呪術的手段が実効性を失った後、人間世界を守りその条理を自然世界にまで貫徹するために、動植物まで人間同様の裁判にかけられ、処刑ないし破門されたと考えられる。
中世キリスト教にとっては、自然は人間が支配し制御するべきものだったが、動物裁判は、人間の世界を律する法・訴訟手続を自然に適用して、自然を人間の理性や文化の条理に無理矢理おしこむ装置だった。
ところでアニミズムは、神々が特定の自然物に居を構えているとするだけにとどまらず、それらの神々の統括下にある、あらゆる動物・植物・鉱物などにまで、霊が宿っていると考えられていた。
天地自然は、その霊によって生きていて、また一体化しているとされる。人間もその天地自然を統括する法則をまぬがれない。だから、人のほうから自然にはたらきかけるには、それを人間と同一視し、同一にあつかう必要があった。
人間の創造における卓越した地位は、神の法・神の正義の保証のもとに、人間の自然支配を正当化し、人間はその正義を、人と人との関係をすべているものと全く同一の諸原則に従って自然にも適用しなくてはならぬ、との議論を導いた。
動物裁判のうち教会裁判所での悪魔祓い、呪いの言葉を言うものは、アニミズムを前提とし、その神々・諸霊を悪魔化して祓いだすための儀式である、とした。
17・18世紀の科学的合理主義が機械論的自然観を徹底的におしすすめると、(人間の)理性と自然(身体と外界)の区別が、かえってゆるぎないものとなる。自然世界を人間世界に同化させる主観的人間中心主義は、客観的人間中心主義に姿をかえ、こうして、動物裁判は、当初それをささえた機械論的自然観の進展自体によって、消えてゆくのである。
動物裁判とは、正に自然界にたいする独善的な人間中心主義の風靡した時代(13世紀~17世紀)の産物だった。それをイデオロギー的に裏うちしたのは、権力と結びついた人文主義と合理主義である。またその具体的展開をゆるした社会的現実としては、自然を支配・搾取するための不断の戦いがあった、といえるだろう。
12.13世紀に発揚した「合理性」「刑罰」「正義」が、動物にまでやみくもに適用されたのが、動物裁判だったのであろう。 -
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中学生のころ、デュマの『ダルタニャン物語』にどハマりして、そこからフランス史に興味を抱いた。ジャンヌ・ダルクの奇跡を知ったのは、その頃だった。それから、専門書、一般書、漫画に小説、映画…多様なジャンルでジャンヌの物語に触れてきた。多くの人が私と同じような経験をしていることと思う。
本書はフィクションで描かれたジャンヌに飽き足りなくなって、ジャンヌの実像に迫りたいという方にとっては格好の一冊である。図版も多く、巻頭カラーの静謐なジャンヌ立像は想像をかき立てる。10代の少女がなぜ、と思わずにいられない。
一方で、ここからさらに深めたいという方にとっては、巻末の引用・参考文献が少なく、物足りないかもしれない。
それにしても、このシリーズ、なかなかおもしろそう。 -
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「パスタでたどるイタリア史」という題名だが、むしろ「イタリア史の中のパスタ」と言うべき本(パスタがメイン)。
パスタといえば、いまや日本を含め世界的な食であるが、それが発祥地であるイタリアにおいて、どのように民族・国民の歴史とともに歩み、発展していったかがわかる。
いまやパスタには欠かせないトマトや唐辛子は、大航海時代にイタリアにもたらされたことや、貧しい人々にとっては長らくパスタは贅沢品であったこと、イタリアではずっと愛されてきたと思っていたパスタが、迫害されていた時代もあったことなど、イタリアとパスタの関係に関して知らない事実を多く知ることができた。 -
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西欧文明における動物裁判の発祥を多角的に検討する一冊。動物裁判の生々しい様子は、興味深かった。
ただ、その考察に関しては、難解だった気がする。機械による自然の克服と宗教、哲学などが微妙に絡み合い、動物(自然)を人間の支配下に置こうとした、というのがおそらく主題だと思われる。近代以降は、動物裁判を野蛮なものとして克服し、動物保護の思想も定着したが、その反面、人間中心の動物・自然の支配という観念が生まれ、それが深刻な環境破壊の根深い要因になっている、というのが著者の主張なのだが、わかったようなわからないような、少ししっくりこないものが残った。 -
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本書は、著者晩年の研究成果のエッセンスを取りまとめた論考が収められている。「遺稿」と記された学会報告を書き起こした途中稿が最後に収録されており、もう少し著者の文章を読みたかったとの思いを強くする。
中世イタリアの海上商人と海賊が結び付いたものであったこと、ガレー船の形態と大型化の歴史、イタリア中世都市の有り様と市民・非市民の関係、職人や労働者の移動状況、文書から見える公証人の活動や役割等が論じられる。
最後に、都市にまつわる研究史、研究状況の現在が語られる。北ヨーロッパ都市に対する南ヨーロッパ都市、都市と農村の関係、こうした点について著者ならではの整理、分析がなされている。
小著ではあるが、興味深い視点、論点がたくさん含まれている好著だと思う。 -
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパにおいて、人びとのなかに息づいていた「狼男」「妖精」「若返りの泉」などのイメージはどのような社会の欲求から生まれ、根付いたのか。また、当時絶対的な力を奮っていたキリスト教会が民衆の想像力をいかに誘導してきたのか、「聖体の奇蹟」や「煉獄」のイメージが誕生した経緯を通じて考える。
タイトルからはファンタジーのネタ元を紹介するような本に思えるが、そうではなく、中世の人びとが共有していた空想的なイメージが当時の社会構造とどのように関わっていたのかという視点に常に帰っていく評論である。
第一章で扱われるのは狼男。機械宇宙論によって理性に馴致されるべきものとみなされた〈自然〉=本能を、人間のなかからも切り離そうとする(けど出来ない)という葛藤が狼男伝説を形成した、という視点が面白かった。この構造は産業革命後に二重人格やドッペルゲンガーのテーマが文学界で流行ったこととも重ねることができると思う。
第二章「聖体の奇蹟」と第三章「不思議の泉」の後半は共通テーマと言ってよく、最初はあくまでメタファーだった聖体が「キリストの体そのもの」と考えられるようになっていった過程を追う。ここで図示される「聖体の挽臼」や「神秘のブドウ圧搾機」のことは、前に小池寿子『内臓の発見』で初めて知り、そのグロテスクさに驚いたのをおぼえている。
個人的に、カトリックの教義のなかでも聖体の実体変化説とマリアの無原罪受胎説は異質な飲み込みづらさがある。大澤真幸は『〈世界史〉の哲学 中世篇』で、聖体についてはっきり「カニバリズム」と言っていたように思う。面白いのは、嬰児姿のキリストの体を食べ、十字架にかかったキリストの脇腹から血を啜る人びとのイメージは今日の目から見ると黒ミサそのものだが、これはカトリックの〈正統〉だったということだ。
第四章「他者の幻像」では、反ユダヤ主義が差別を正当化する構造を解いていく。煮詰まった共同体にユダヤ、イスラム、果ては病人といった〈部外者〉を作り出し、うっぷんを晴らしをするナショナリズム。その矛先はいずれ内部へも向き、魔女狩りを激化させた。
第五章「彼方への旅」はジャック・ルゴフの研究を元に、天国と地獄の中間地点である煉獄のイメージが生まれてきた背景を見ていく。煉獄の誕生によって、民衆の死生観が「現世と来世は生者と死者の人間関係で社会的につながっている」という認識に変化したというのが面白かった。教会は現世から働きかけることで死後の罪を浄化できると説き、免罪符などを流布させる素地を作り上げていったのだ。
中世という時代は〈文明〉対〈自然〉、〈精神〉対〈肉体〉、〈自己〉対〈他者〉の相剋関係において、〈文明・精神・自己〉が〈自然・肉体・他者〉を征服することを良しとし、正当化・合理化していった時代だといえるだろう。そしてキリスト教的な合理主義が完成すると同時に、西洋は〈制服すべき他者〉を求めて大航海時代に突入する。そのとき新大陸征服のために駆使された西洋的な整合性の考え方は、中世の一見幻想的なイメージのなかにあったのだとわかる一冊だった。