あらすじ
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令……13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
891
236P
ヨーロッパって日本は辿らない歴史辿ってて面白いなと思う。動物裁判でモグラとか毛虫に裁判かけてるってギャグとしか思えないことが本当にあったからな。中世の世界史とか全然知らない所とかめちゃくちゃあってほんと教養が無くてつらい。
中世の世界史とか全然知らない所とかあって、中学受験でもしてればもっと教養があったんだろうなと思う。ほんと付け焼き刃な勉強しかしてこなかったことを後悔してる。中学受験しないと勉強に目覚めるのが遅くなるからね。
池上俊一
1956年、愛知県に生まれる。1983年、東京大学大学院西洋史学科博士課程中退。1986〜88年、フランス国立社会科学高等研究院留学。現在、東京大学教養学部助教授。専攻は西洋中世史。主な著書に、『歴史としての身体』──柏書房、『狼男伝説』──朝日選書、『魔女狩り』(監訳)──創元社、『中世の夢』(訳)──名古屋大学出版会など。講談社現代新書にも、『魔女と聖女』がある。
動物裁判(どうぶつさいばん)・・・中世ヨーロッパなどにおいて行われた、人間に危害を加えるなどした動物の法的責任を問うために行われた裁判手続を指す。世俗法に基づく刑事裁判のほかにも、教会法に基づく裁判がある。
動物裁判 (講談社現代新書)
by 池上俊一
ついで、あるいはそれらといっしょに、今度は昆虫や動物を悪魔や悪霊などの悪の世界の手先ないし化身とみなし、祓魔の儀式をおこない、呪いの言葉を発する、という段どりがある。 このような神の慈悲にすがる儀式と悪魔祓いの儀式は、裁判の開始に先だっておこなわれるのが普通だったと思われるが、裁判の途中でそれらの実施が決定され、それがうまくゆかないときに、破門宣告をくだす、という手はずになることも多かった。
裁判のなかでブタの所有者は、子供は恐怖のあまりショック死したのだと指摘し、ブタは、自発的に襲いかかったのではなく、子供の叫びにひきよせられてそのまわりにあつまっただけだ、と主張した。そこで、裁判官のバイイの刑事代行官は検死を命じた。検死にあたった外科医は、子供の身体になんら切断のあとをみとめなかった。ゆえに、子供はショックで熱にうかされて死んだのであり、ブタたちはなにひとつ悪事をはたらかなかったのだとして、無罪とされ、所有者にかえされるべきことが宣言された。
しかし斬新なのは、刑吏が、ブタに人間の衣服をまとわせたことである。ブタの鼻面は切りおとされて、その鮮血あふれる生傷の上に人面を装着され、同様に腕を切りおとし、その後、胴体に上着、前足に白手袋、そして後足には半ズボンをはかせられた。このような格好をさせられたあと、ブタは綱で絞首台に引きあげられたのである。 この奇妙な変装は、いったい、どんなわけがあってなされたのであろうか。まずブタが鼻面と腕(脚) を切りおとされたのは、ブタの犯した罪と同等の罰をくわえる「目には目を歯には歯を」の、反座法(同害報復) の原則にのっとったものだということができよう。
すなわち、獄中に動物をかこっておいた費用として六ソル(パリ貨)。パリから四八キロはなれたムランに処刑のため出向した刑吏に五四ソル(パリ貨)。車で雌ブタを刑場まではこぶ費用として六ソル(パリ貨)。ブタをむすび引きあげる縄の費用として二ソル八ドニエ(パリ貨)。手袋(刑吏が病気あるいは不浄・伝染予防のためにはめる) 代二ドニエ(パリ貨)。そして、それらを裁判費用とあわせて、総計六九ソル八ドニエ(パリ貨)、という莫大な額が、犯人の動物所有者に請求されたのだという。 かくて、ファレーズでは裁判・処刑は公の出費であったのに、ムランでは犯人=被告の所有者に請求されている。あるいはむしろ、ファレーズにおいても、国王あるいは領主はあらためて必要経費を動物所有者に請求した、と考えるほうが妥当かもしれない。
一五世紀にはいっても、ブタの受難はまだまだつづく。とくにブルゴーニュ地方とロレーヌ地方では、一五・一六世紀に各地の領主裁判所やプレヴォ裁判所もしくはバイイ裁判所、あるいは(ディジョンの) 地方最高法院で、子供を食べたり圧殺したりしたブタが、数多く裁かれ、刑場に散っている。すべてを紹介できないのが残念である。
さらに、一七五〇年九月には、パリの南に接するヴァンヴで、雌ロバが、主人とともに獣姦で裁判にかけられたが、無罪となった。というのは、証人たちが口をそろえて、そのロバは、きわめて品行方正で、スキャンダルなどおこしえない有徳の動物であり、かれは主人に一方的に強姦され、けっして自らすすんで罪を犯したのではない、と主張、それが確認されたからである。ちかくの修道院の院長は、ロバの品行につき、証明書までかいたという。
ドイツ文化圏も、この性的逸脱による動物の犠牲をみずにはすまなかった。三件のみあげておく。 一六八一年五月、シュレジエン地方(今はポーランドに属するが、かつてハプスブルク家支配下にあった) のヴュンシェルブルクで、グレーハウンド犬・雌ウシ・雌ブタ・雌ウマ・雌ヒツジとつぎつぎと交わった男が、雌ウマとともに生きながら焼き殺された。
獣姦は、人間と文明の尊厳をおびやかすこのうえなくおぞましい罪であり、当局が禁圧に 躍起 になっていたのは当然である。しかし、性行為の相手である動物も法廷に召喚されて「責任」を追及され、数多く火刑台の灰と消えていったのはどうしてか。やはり動物にも、「意思」を仮託していたのであろうか。
獣姦が、いかに嫌悪されていたかは、盗みや殺人の罪で処刑されることになった犯人たちが、獣姦の犯人といっしょには処刑しないように請求して、みとめられることがあったというエピソードが、如実にかたっている。
ブタ以外に、他の家畜、ウシやウマ、イヌやネコ、ヤギやヒツジ、あるいはロバやラバも犯罪者名簿に名前をみせることは、紹介してきたとおりである。獣姦の共犯では、ブタやウシよりもイヌ・ヤギ・ロバ・ラバが、むしろ多い。また、処刑のしかたは、絞首刑(扼殺ののち絞足刑) がもっとも普及していたが、その他、火刑・撲殺・生き埋め・溺死刑など、何種類かあった。とりわけ獣姦や魔術で裁かれる獣にたいしては、火刑が大半であったことはすでに述べた。
さて、ヨーロッパ中世・近世の人たちが、法の掟に従属させたのは、じつは動物だけではない。なんと、植物や静物をも、人間が裁いた例が散見されるのである……。
中世のアルザス地方のホーフェンとビューレンちかくのヘッツェルホルツの森で、殺人が犯されたが、その犯人をみつけだすことはできなかった。ストラスブールのプファルツ(市庁舎) 裁判所は、やむなく森の死刑を宣告し、その森の大樹林は伐り倒され、 藪 と 灌木 しかのこらなかった、という。 これはどう考えられるだろうか。殺人犯が森ではなく、姿をくらました人間であることはだれにとってもあきらかだったはずだ。それでも森を犯人にしたてたのは、罪が犯された事実にたいし、だれかが落とし前をつけねばならぬ、それには、殺人に場を提供し、殺人を手をこまねいてみまもっていた森以上にふさわしいものはいない、と擬人化して考えられたのであろうか。
一四七九年、南仏ニームの司教代理判事裁判所は、ネズミとモグラに破門警告の召喚状を発した。 同年、ローザンヌ司教代理の前で、ベルン(共和国) の尚書長の要請により、毛虫にたいする裁判がおこなわれた。公選弁護士となったのは、著名な法学者、フライブルクのジャン・ペロテであった。 一四八〇年五月、ミュシーとペルナン両村の住民を救うため、オータン司教アントワーヌ゠ド゠シャロンの総代理により宣せられた命令は、毛虫にたいして、主任司祭たちが断罪・威嚇の文面を教会でよみあげ、また効果が歴然とあらわれるまで「破門宣告」をくりかえすようさだめている。
一五八七年四月、サヴォワ地方のサン゠ジャン゠ド゠モーリエンヌちかくのサン゠ジュリアン村で、ブドウ園を荒らしたため緑色のゾウムシが告訴された。
また一六世紀には、レマン湖の大発生したウナギにたいし、ジュネーヴとその近隣の住民は、司教にたのんで破門宣告をくだしてもらい、それが効を奏して、ウナギの害から解放された、という。 一六七〇年五月、クレルモンのセネシャル刑事総代行官と裁判所付き弁護士は、呪いと破門の判決を、原告の住民の果樹園を荒らす毛虫や幼虫・ミミズのような小虫に宣告するため、司教代理判事に請願を提出した。審理がはじまり、原告と被告双方の代訟人の弁論がおこなわれた。毛虫は未成年者とみなされ、補佐人と弁護士もつけられた。司教代理判事は、判決をだし、六日以内にその地域から撤退するよう破門で威嚇することを命じた。
一七世紀末ないし一八世紀初頭、オーヴェルニュ地方のポン゠デュ゠シャトーちかくのブドウ園を荒らすナメクジや毛虫に手を焼く住民が、クレルモン司教の総代理に提訴した。かれらは、虫たちが侵入地からただちにたちさるように裁判請求をしたのだが、総代理ははじめからその請求にしたがう必要をみとめず、まず、祈禱と聖水散布を命じることで満足した。
一七六〇~七〇年のあいだ、フランス東部フランシュ゠コンテ地方のブザンソン付近で毛虫(青虫) が激増し、農民らを底知れぬ不安におとしいれた。不安は的中し、翌年、うんかのごときチョウの大群がとびたつのがみられた。司祭は、イエズス会の説得もあり、これらのシロチョウは悪魔の化身にほかならない、と確信し、それにたちうちするには霊的武器にすがるのがよい、と悟った。
これまで、フランスに焦点をあて、スイスにも目くばりしながら、破門の例を通覧してきた。以上が知られているすべての事例であるわけではもちろんなく、とりわけ、フランスでは、上に紹介しなかった地方、たとえば、ノルマンディー地方・ブルターニュ地方・リヨネ地方などにも昆虫や環形動物・軟体動物の破門がみられ、ほとんど国土全域に普及した慣行であったことがうかがわれる。
そうした状況において、まず初期の、動物裁判に興味をいだいた者、そして部分的には今日でもなお通俗的・啓蒙的な見解を奉じている人たちは、つぎのように動物裁判を理由づけている。すなわち、中世という時代は、暗黒時代であり、そのように、精神もぶあつい暗雲におおわれ、いまだ開明の光に照らされていなかった。だから人々は、愚劣な迷信のとりことなりつづけ、種々の野蛮な慣行にどっぷりと漬かりきっていたのであり、そうした愚行のひとつとして動物裁判があったのだ、とそのように説かれてきた。 しかしながら今日では、このように簡単にかたづける研究者は、ヨーロッパ中世を暗黒時代とするのが時代おくれであるのと同様、劣勢である。中世暗黒説が否定されるのとおなじ勢いで、動物裁判=迷信・愚行説は背後に退き、なんらかの正当なる「根拠」をさぐる試みが、いくつかなされてきた。
いずれにせよ、擬人化説の最大の弱点は、つぎのことであろう。文学・神学や美術には、擬人化は、中世の非常に早い時期からあらわれ、そればかりか、中世が模範としたのがギリシャやローマにさかのぼる寓話や説話であったことから明瞭なように、すでに古代からさかんに擬人化動物は造型されてきた。別様のかたちではあれ、それは、古今東西、世界中、いつでもどこでもみられる傾向である、ということさえできる。
それは、わたしが動物裁判を論ずるモチーフともかかわっている。わたしは、別段、錯乱や怪奇現象に興味があって、この主題にのめりこんでいるわけではない。そうではなく、歴史の神髄は、しばしば一見ささいな、とるにたりない、しかし不思議でちょっと気になる現象のなかにこそあると、考えるからである。 「鳥の視点」と「虫の視点」をあわせもちつつ、その秘密をよみ解くことは、はじめから感情の微細なひだや情念のうねりを排除したところに成立した実証主義の近代歴史学の方法よりも、ずっとなまなましく過去の魂を呼びもどすことができる、と信じている。その意図の当否、あるいはその実践の成否は、本書を最後までよみすすまれた読者のきめられることである。それでは、具体的個別的事例を点検した「虫の視点」をはなれ、今度は、動物裁判の盛行した時代とそれを前後する時代の人間・文化と自然の関係について、より大きな文脈、「鳥の視点」から考えてみようと思う。
一三世紀のアリストテレス主義は、プラトンのイデア論や宇宙論をきびしくこばみ、別種の自然像を提示した。アリストテレスの自然界においては、すべてはそれぞれ質料から形相へとむかううごきのなかにある。そしてうごきの主体としての運動体は、かならず分割可能な一定の大きさをもつものでなければならなかった。また霊魂は、自然的で可能的に生命をもつものにしかないと考えられ、プラトン主義のように、宇宙・自然全体にはたらく宇宙的原理とみなす説は、退けられた。
宇宙や自然の謎は、天体から人間の心身や動植物とそれらの器官、そして極小の四元素にいたるまで、各レベルでその組織・組成の一般法則、作用と分類が、質料・形相論をもちいて解明される。そして、存在と有機体の機能にかんして、目的論的見解が採用される。くわえて、観察・実験・数学の利用も、この時代に最初の跳躍をみせる。
騎士道文学においては、森は一種の「異空間」として、普通の人間には容易にちかづけない場であった。そこでは、都市の法・国家の正義も、王の権威や宮廷・都市・農村の社会関係も、効力を発揮しない。うすぐらく深い森は、隠者のほかに、法や秩序にみすてられ、あるいは自ら世をすてたアウトローや、狂人・盗人、そして遍歴騎士のすみかとなった。
動物裁判をめぐるわたしたちの考察も、おわりにちかづいてきた。動物裁判は、ヨーロッパ固有の現象であり、日本、あるいは東洋には存在しなかった。いや存在しないどころか、動物裁判などという発想は、東洋人には、さかだちしたって浮かんでこないだろう。このちがいは、なにがもたらしたのであろうか。
古来、東洋人と西洋人の自然にたいする態度には大きなへだたりがあった。その相違は、皮相なものではなく、文化の核心にふれる根深いものである。だからここで、東洋人、とくに日本人の自然へのかかわりを比較のためにもちだすのは、西洋人と自然との関係、ひいては西洋文明にひそむ大きな問題を白日のもとにさらすとともに、動物裁判のもつ深い文化史的意義をいっそう際だてるのに役だつと思う。日本人の自然との関係全体を論ずるわけにもゆかないので、彼我の相違が一目瞭然にみてとれる、「動物観」と「植物観」に的をしぼって観察してみよう。
Posted by ブクログ
中世の時代、人間は自然を自分達のシステムの中に押し込めようとした。その結果の一つとして、動物裁判が行われたのだ。
現代から見れば滑稽無糖な風習も、本質を探っていけば当時の人々の価値観や思想が垣間見得る。
歴史的事象からその時代の本質的部分を探っていくことが、歴史を学ぶ楽しさの一つであると知った。
Posted by ブクログ
13~18世紀の西欧で実際に行われていた奇異な「動物裁判」をモチーフに、アナール派的史観によるアプローチによって、アニミズムの駆逐とキリスト教社会成立を背景にして、当時の法が対象にしていたものや社会風俗などが描かれています。ただ、Reviewerの方が指摘されているように、説明の方向性や主張が曖昧な部分も否定できませんので、新書というフォーマットの性質上、あくまでも読み物あるいは西欧中世の社会史の導入書という位置付けですね。
Posted by ブクログ
わかりやすい。動物裁判から入って中世の自然観を説き、その後動物裁判を問い直すという、何とも私好みの本でした。それにまた、図版が可愛いの何の。表紙では、ウサギさんが聖書(のような本)を読んでいますよ。これはもしかして獣の聖地巡礼ですか? とりあえず、動物裁判という現代から見たら、とても非合理的で無意味なものも、中世の暗闇から(今ではこの言葉は古いですね)の産物ではなくむしろ、啓蒙主義から来たものだったということがわかったわけですね。
Posted by ブクログ
中世、主にフランスで頻繁に行われていた動物裁判。全く知らなかったことなので大変面白かった(ノートルダムの鐘のあれはそうだったのか!という気づき)自然というものをどう捉えるか、その土地に根ざした宗教観はどういったものなのか、それによってこのような事象が成り立つ/成り立たないのが興味深い。
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパの自然に対する態度の変遷についてが、著者の主に書きたいことに思えるのだけれど、
自然に畏怖していた時代から支配する時代になる過渡期の時に動物裁判はあったと理解しました
個人的に読んでて思ったのは
ただ、民衆が権威に対する嫌がらせのような意味合いで裁判してたのではないかと、、
その考えは浅はかか
Posted by ブクログ
13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判について書かれた本。
本書は2部構成。第1部は史料に基づいて動物裁判の様子が書かれています。第2部では、なぜ中世ヨーロッパで動物裁判が行われていたのかを検証しています。
動物や昆虫を被告とした動物裁判が行われた背景には、中世ヨーロッパの自然観・人間観が関係しているかもしれません。
Posted by ブクログ
大変興味深い内容でした。まずそもそも動物が裁判???なんで???という内容の突飛さに引かれて手に取ったのですが、ブタやウシ、ウマ、イヌ、ネコ、どころか虫や氷河に森まで対象とは驚きました。きちんと記録も残っている通り実際に起こったことなんですね。ここで昔の人のやることはよく分からないなぁと突き放してしまうのは簡単ですが、この本はそこから踏み込んで「動物裁判は何故起こったのか?」「当時の人にとってどういう意義があったのか?」を探り始めます。中世というのがどのような時代であったのか、開墾とキリスト教の背景を元に、中世に変容した人々の自然に対する態度を様々な面から検証し、それが如何にして動物裁判へと結びついたのかを非常にわかりやすく解説してくれています。無知なもので色々と提示される情報全てが新鮮に写り、大変勉強になりました。また、人間の観念の移り変わり、それをどう検証すればいいのかという手法論としても参考になりそうだと感じました。絵画や文学、当時の思想論に見られるイメージや観念から何を読み取るのか、どのように考えるべきか、大変詳細に解説いただいているのでとても分かりやすかったです。西洋以外の思想等に着いて考える時にもこの本の内容が参考になりそうだと感じました。
総じて非常に興味深く勉強になる本でした。最後の日本と西洋の対比は少々論拠というか説得力に欠ける感じはありましたが、動物裁判に関しての本文のボリュームと内容は大満足でしたし、そして後書きに置ける現代への警鐘は、人文学の持つ意義を再確認出来るものだと感じました。面白かったです。
Posted by ブクログ
いや豚処刑されすぎ!
前半は動物裁判の事例が書かれていてヨーロッパでは行われていたみたいだ。
なぜ日本では浸透しなかったのか、それは日本では動物、引いては自然は共生するものだという認識があったからだということ(西洋はどちらかというと支配するものという認識)。
しおりに書かれていた言葉が印象的だったのでメモ
実用書は「生活が強制する本」、娯楽書は「生活から連れ出す本」であるとすれば、教養書は「生活を高める本」である。 清水幾太郎(本はどう読むか)
Posted by ブクログ
人を殺した親豚は死刑、仔豚は嫌疑不十分で無罪、だとか、虫を破門するとか、トンデモネタを笑う本かと一瞬思うけれど、実はヨーロッパの自然観と宗教観の話。日本を対比してみると、自然が悪魔か神か、という発想が見え隠れして面白い。
Posted by ブクログ
立花・佐藤のブックガイドから。中世ヨーロッパの動物に対する人間の裁判についての本。結構おもしろかった。パロディのような感じで。新書だから仕方がないけど、かなり短い印象を受けた。
Posted by ブクログ
前半は中世ヨーロッパで行われた動物裁判の実例を、後半はそのような裁判が行われた背景を中世ヨーロッパの自然観やキリスト教の影響を踏まえつつ分析している。本書のことばを借りると、前半が虫の目で見た個別事案、後半が鳥の目で俯瞰的に見た分析である。
前半はトリビアルな知識として誰でも読めると思うが、後半は著者独特の文体も相まって、すこし読みづらいかもしれない。難解ということはないが、前半との比較だと難しく感じる。
Posted by ブクログ
ヨーロッパでは、かつて動物裁判が真面目に行われて行われていたことを紹介し、なぜそのようなことが行われるようになったのか、著者が考察を加えた本。
人間に迷惑をかけた動植物が、訴訟され、裁判に呼ばれ、検察官や被告には弁護士まで登場したようだ。これを真顔でやってたなんて、信じられない話しだが、人間がアニミズムの世界から、合理的な世界に移行していくなかで、畏れていた神々が宿る動植物に対して裁きを行う上では、必要だと考えていた(ようだ)。
ナルホド。
以下は備忘録。
動物裁判は、ヨーロッパにおいて12世紀かそれ以前からみられ、13世紀以降本格化のきざしをみせ、14〜16世紀をピークとし18世紀まで続く。
中世・近世の人たちが法の掟に従属させたのは、動物だけでなく、植物や静物(鐘楼の鐘等)をも裁いた例が散見される。
なぜこのような人間ではないものの裁判が行われたのか?
擬人化したことは考えられるが、異教的アニミズムがその基底にあるとも考えられる。
アニミズムを悪魔化した教会のめざしたのは、動物にとり憑いた悪霊や人間の魂をキリスト教的祓魔式で祓う、という構図をおしつけることであり、そこに異教的慣習とキリスト教との衝突が現出したのだと。
かつては、特定の祭りなどの際には定期的に、「人身御供」が嫉妬深く怒りやすい神々に捧げられ、徐々に動物の犠牲にとってかわられた。そして神々の統括する神秘的な秩序や、秩序回復のための呪術的手段が実効性を失った後、人間世界を守りその条理を自然世界にまで貫徹するために、動植物まで人間同様の裁判にかけられ、処刑ないし破門されたと考えられる。
中世キリスト教にとっては、自然は人間が支配し制御するべきものだったが、動物裁判は、人間の世界を律する法・訴訟手続を自然に適用して、自然を人間の理性や文化の条理に無理矢理おしこむ装置だった。
ところでアニミズムは、神々が特定の自然物に居を構えているとするだけにとどまらず、それらの神々の統括下にある、あらゆる動物・植物・鉱物などにまで、霊が宿っていると考えられていた。
天地自然は、その霊によって生きていて、また一体化しているとされる。人間もその天地自然を統括する法則をまぬがれない。だから、人のほうから自然にはたらきかけるには、それを人間と同一視し、同一にあつかう必要があった。
人間の創造における卓越した地位は、神の法・神の正義の保証のもとに、人間の自然支配を正当化し、人間はその正義を、人と人との関係をすべているものと全く同一の諸原則に従って自然にも適用しなくてはならぬ、との議論を導いた。
動物裁判のうち教会裁判所での悪魔祓い、呪いの言葉を言うものは、アニミズムを前提とし、その神々・諸霊を悪魔化して祓いだすための儀式である、とした。
17・18世紀の科学的合理主義が機械論的自然観を徹底的におしすすめると、(人間の)理性と自然(身体と外界)の区別が、かえってゆるぎないものとなる。自然世界を人間世界に同化させる主観的人間中心主義は、客観的人間中心主義に姿をかえ、こうして、動物裁判は、当初それをささえた機械論的自然観の進展自体によって、消えてゆくのである。
動物裁判とは、正に自然界にたいする独善的な人間中心主義の風靡した時代(13世紀~17世紀)の産物だった。それをイデオロギー的に裏うちしたのは、権力と結びついた人文主義と合理主義である。またその具体的展開をゆるした社会的現実としては、自然を支配・搾取するための不断の戦いがあった、といえるだろう。
12.13世紀に発揚した「合理性」「刑罰」「正義」が、動物にまでやみくもに適用されたのが、動物裁判だったのであろう。
Posted by ブクログ
西欧文明における動物裁判の発祥を多角的に検討する一冊。動物裁判の生々しい様子は、興味深かった。
ただ、その考察に関しては、難解だった気がする。機械による自然の克服と宗教、哲学などが微妙に絡み合い、動物(自然)を人間の支配下に置こうとした、というのがおそらく主題だと思われる。近代以降は、動物裁判を野蛮なものとして克服し、動物保護の思想も定着したが、その反面、人間中心の動物・自然の支配という観念が生まれ、それが深刻な環境破壊の根深い要因になっている、というのが著者の主張なのだが、わかったようなわからないような、少ししっくりこないものが残った。
Posted by ブクログ
現代人から見ると奇異に見える中世ヨーロッパで広く行われていた動物裁判について、その実態や、なぜそのような裁判が行われたかを詳細に解説していて面白かった。
Posted by ブクログ
シブ知2・6
かかった時間 マジで不明
講談社現代新書の、白い表紙に緑の四角がある表紙のやつを読んだが、バーコードを読んで旧カバーを見て納得。まさにそっち系。
動物裁判という奇妙な習慣をとおして、中世の自然観や法、宗教についての価値観の変容を考察した著作。
前半はケースの集約、後半はそれを支える価値観の考察で、前半は娯楽読み物として、後半は知的読み物としておもしろかった。一方で、個人的には後半部分についてもう少し丁寧に説明があればうれしいとも思った。初版1990年?らしいが、まあ単純に、30年前の読者のレベルではそれでよくて、わたし世代?わたし?の読者としてのレベルがやや残念なんだろうと思うが。
もちろん、ひとつの事象から立ち上がるダイナミックな考察、という姿勢はエキサイティングで、歴史のうねり?推移?みたいなことも感じられ、よかった。
これをスラスラ読めるくらいになりたいなあー。
Posted by ブクログ
どの本だか忘れたが、読んだ中で裁判の事例が紹介されていて興味があって入手した一冊。
ブタやバッタ、ネズミなどの動物を裁判にかけられた事例を解説した上で、それら事実を元に中世の人々の考え方や宗教観、人々が置かれた環境などを考察していくのだが、これがなかなか説得力がある。
鐘という非生物も裁判にかけられる点、森の神秘性や魔物としての捉え方など含め、色々な角度から解明を試みているので、動物の裁判という点だけでなく、裁判という法制度そのものについても言及していく。
またエリートと民衆の関係など、当時の二分化された人々の認識についてなど「動物裁判から見た中世」といった感じでちょっと変わった歴史書で面白かった。
Posted by ブクログ
中世ヨーロッパでは動物を裁判にかけていた、その動物には所有者に対する責任という観点はそれほど多くなく、人間が自然界を支配するという文脈が強めなのが意外であり面白い。
Posted by ブクログ
中世の動物裁判について書かれた本。魔女狩りなどとも関連が深い。中世独特の法の原点ともいえる考え方から、人間と同じように権利を持った動物を裁く行為に至る。 しかし無機物にまで権利与えるってすごいな。
Posted by ブクログ
被告席にて裁きを待つのは、容疑者ならぬ容疑動物。
裁くは人間、広がる光景は今の私たちの常識からは異様なもの。法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権。出廷しない鼠たちの事情を真面目に弁護する弁護人!
13世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパに広く見られた、動物裁判のお話。
「裁く」というニーズについて考察が深まるかなぁと思って手にとったんですが、西洋の歴史についての考察でした。
普遍的法の存在、人間中心主義・・・とまぁ法学部生でなくても一度は触れた西洋の歴史のキーワードがぽこぽこ出てきます。
問題は、「なぜ一時代にのみこのような事象が発生したか」という、歴史的固有性。この部分、筆者もあんまり自信もってないんじゃなかろうかと思うぐらいまとまり悪いです。
ので、全体的には「事例集」としての色が強いのが物足りないところですが、「ほーう、こんなことがあったんか」と教養としては面白いかと。行われていたこと自体は、だいぶショッキングだけれど。どうにも血なまぐさいですね、西洋に限らず・・・「裁く」手段が身体的に遠隔化されてなかった時代の話は。
読後、日本では確かにありえなかっただろうなぁ、と納得しました。一緒に「日本人の法感覚」もどうぞ。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令…。
13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?
自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。
[ 目次 ]
第1部 動物裁判とはなにか(被告席の動物たち;処刑される家畜たち;破門される昆虫と小動物;なぜ動物を裁くのか)
第2部 動物裁判の風景―ヨーロッパ中世の自然と文化(自然の征服;異教とキリスト教の葛藤;自然にたいする感受性の変容;自然の観念とイメージ;合理主義の中世;日本に動物裁判はありえたか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]