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236P
ヨーロッパって日本は辿らない歴史辿ってて面白いなと思う。動物裁判でモグラとか毛虫に裁判かけてるってギャグとしか思えないことが本当にあったからな。中世の世界史とか全然知らない所とかめちゃくちゃあってほんと教養が無くてつらい。
中世の世界史とか全然知らない所とかあって、中学受験でもしてればもっと教養があったんだろうなと思う。ほんと付け焼き刃な勉強しかしてこなかったことを後悔してる。中学受験しないと勉強に目覚めるのが遅くなるからね。
池上俊一
1956年、愛知県に生まれる。1983年、東京大学大学院西洋史学科博士課程中退。1986〜88年、フランス国立社会科学高等研究院留学。現在、東京大学教養学部助教授。専攻は西洋中世史。主な著書に、『歴史としての身体』──柏書房、『狼男伝説』──朝日選書、『魔女狩り』(監訳)──創元社、『中世の夢』(訳)──名古屋大学出版会など。講談社現代新書にも、『魔女と聖女』がある。
動物裁判(どうぶつさいばん)・・・中世ヨーロッパなどにおいて行われた、人間に危害を加えるなどした動物の法的責任を問うために行われた裁判手続を指す。世俗法に基づく刑事裁判のほかにも、教会法に基づく裁判がある。
動物裁判 (講談社現代新書)
by 池上俊一
ついで、あるいはそれらといっしょに、今度は昆虫や動物を悪魔や悪霊などの悪の世界の手先ないし化身とみなし、祓魔の儀式をおこない、呪いの言葉を発する、という段どりがある。 このような神の慈悲にすがる儀式と悪魔祓いの儀式は、裁判の開始に先だっておこなわれるのが普通だったと思われるが、裁判の途中でそれらの実施が決定され、それがうまくゆかないときに、破門宣告をくだす、という手はずになることも多かった。
裁判のなかでブタの所有者は、子供は恐怖のあまりショック死したのだと指摘し、ブタは、自発的に襲いかかったのではなく、子供の叫びにひきよせられてそのまわりにあつまっただけだ、と主張した。そこで、裁判官のバイイの刑事代行官は検死を命じた。検死にあたった外科医は、子供の身体になんら切断のあとをみとめなかった。ゆえに、子供はショックで熱にうかされて死んだのであり、ブタたちはなにひとつ悪事をはたらかなかったのだとして、無罪とされ、所有者にかえされるべきことが宣言された。
しかし斬新なのは、刑吏が、ブタに人間の衣服をまとわせたことである。ブタの鼻面は切りおとされて、その鮮血あふれる生傷の上に人面を装着され、同様に腕を切りおとし、その後、胴体に上着、前足に白手袋、そして後足には半ズボンをはかせられた。このような格好をさせられたあと、ブタは綱で絞首台に引きあげられたのである。 この奇妙な変装は、いったい、どんなわけがあってなされたのであろうか。まずブタが鼻面と腕(脚) を切りおとされたのは、ブタの犯した罪と同等の罰をくわえる「目には目を歯には歯を」の、反座法(同害報復) の原則にのっとったものだということができよう。
すなわち、獄中に動物をかこっておいた費用として六ソル(パリ貨)。パリから四八キロはなれたムランに処刑のため出向した刑吏に五四ソル(パリ貨)。車で雌ブタを刑場まではこぶ費用として六ソル(パリ貨)。ブタをむすび引きあげる縄の費用として二ソル八ドニエ(パリ貨)。手袋(刑吏が病気あるいは不浄・伝染予防のためにはめる) 代二ドニエ(パリ貨)。そして、それらを裁判費用とあわせて、総計六九ソル八ドニエ(パリ貨)、という莫大な額が、犯人の動物所有者に請求されたのだという。 かくて、ファレーズでは裁判・処刑は公の出費であったのに、ムランでは犯人=被告の所有者に請求されている。あるいはむしろ、ファレーズにおいても、国王あるいは領主はあらためて必要経費を動物所有者に請求した、と考えるほうが妥当かもしれない。
一五世紀にはいっても、ブタの受難はまだまだつづく。とくにブルゴーニュ地方とロレーヌ地方では、一五・一六世紀に各地の領主裁判所やプレヴォ裁判所もしくはバイイ裁判所、あるいは(ディジョンの) 地方最高法院で、子供を食べたり圧殺したりしたブタが、数多く裁かれ、刑場に散っている。すべてを紹介できないのが残念である。
さらに、一七五〇年九月には、パリの南に接するヴァンヴで、雌ロバが、主人とともに獣姦で裁判にかけられたが、無罪となった。というのは、証人たちが口をそろえて、そのロバは、きわめて品行方正で、スキャンダルなどおこしえない有徳の動物であり、かれは主人に一方的に強姦され、けっして自らすすんで罪を犯したのではない、と主張、それが確認されたからである。ちかくの修道院の院長は、ロバの品行につき、証明書までかいたという。
ドイツ文化圏も、この性的逸脱による動物の犠牲をみずにはすまなかった。三件のみあげておく。 一六八一年五月、シュレジエン地方(今はポーランドに属するが、かつてハプスブルク家支配下にあった) のヴュンシェルブルクで、グレーハウンド犬・雌ウシ・雌ブタ・雌ウマ・雌ヒツジとつぎつぎと交わった男が、雌ウマとともに生きながら焼き殺された。
獣姦は、人間と文明の尊厳をおびやかすこのうえなくおぞましい罪であり、当局が禁圧に 躍起 になっていたのは当然である。しかし、性行為の相手である動物も法廷に召喚されて「責任」を追及され、数多く火刑台の灰と消えていったのはどうしてか。やはり動物にも、「意思」を仮託していたのであろうか。
獣姦が、いかに嫌悪されていたかは、盗みや殺人の罪で処刑されることになった犯人たちが、獣姦の犯人といっしょには処刑しないように請求して、みとめられることがあったというエピソードが、如実にかたっている。
ブタ以外に、他の家畜、ウシやウマ、イヌやネコ、ヤギやヒツジ、あるいはロバやラバも犯罪者名簿に名前をみせることは、紹介してきたとおりである。獣姦の共犯では、ブタやウシよりもイヌ・ヤギ・ロバ・ラバが、むしろ多い。また、処刑のしかたは、絞首刑(扼殺ののち絞足刑) がもっとも普及していたが、その他、火刑・撲殺・生き埋め・溺死刑など、何種類かあった。とりわけ獣姦や魔術で裁かれる獣にたいしては、火刑が大半であったことはすでに述べた。
さて、ヨーロッパ中世・近世の人たちが、法の掟に従属させたのは、じつは動物だけではない。なんと、植物や静物をも、人間が裁いた例が散見されるのである……。
中世のアルザス地方のホーフェンとビューレンちかくのヘッツェルホルツの森で、殺人が犯されたが、その犯人をみつけだすことはできなかった。ストラスブールのプファルツ(市庁舎) 裁判所は、やむなく森の死刑を宣告し、その森の大樹林は伐り倒され、 藪 と 灌木 しかのこらなかった、という。 これはどう考えられるだろうか。殺人犯が森ではなく、姿をくらました人間であることはだれにとってもあきらかだったはずだ。それでも森を犯人にしたてたのは、罪が犯された事実にたいし、だれかが落とし前をつけねばならぬ、それには、殺人に場を提供し、殺人を手をこまねいてみまもっていた森以上にふさわしいものはいない、と擬人化して考えられたのであろうか。
一四七九年、南仏ニームの司教代理判事裁判所は、ネズミとモグラに破門警告の召喚状を発した。 同年、ローザンヌ司教代理の前で、ベルン(共和国) の尚書長の要請により、毛虫にたいする裁判がおこなわれた。公選弁護士となったのは、著名な法学者、フライブルクのジャン・ペロテであった。 一四八〇年五月、ミュシーとペルナン両村の住民を救うため、オータン司教アントワーヌ゠ド゠シャロンの総代理により宣せられた命令は、毛虫にたいして、主任司祭たちが断罪・威嚇の文面を教会でよみあげ、また効果が歴然とあらわれるまで「破門宣告」をくりかえすようさだめている。
一五八七年四月、サヴォワ地方のサン゠ジャン゠ド゠モーリエンヌちかくのサン゠ジュリアン村で、ブドウ園を荒らしたため緑色のゾウムシが告訴された。
また一六世紀には、レマン湖の大発生したウナギにたいし、ジュネーヴとその近隣の住民は、司教にたのんで破門宣告をくだしてもらい、それが効を奏して、ウナギの害から解放された、という。 一六七〇年五月、クレルモンのセネシャル刑事総代行官と裁判所付き弁護士は、呪いと破門の判決を、原告の住民の果樹園を荒らす毛虫や幼虫・ミミズのような小虫に宣告するため、司教代理判事に請願を提出した。審理がはじまり、原告と被告双方の代訟人の弁論がおこなわれた。毛虫は未成年者とみなされ、補佐人と弁護士もつけられた。司教代理判事は、判決をだし、六日以内にその地域から撤退するよう破門で威嚇することを命じた。
一七世紀末ないし一八世紀初頭、オーヴェルニュ地方のポン゠デュ゠シャトーちかくのブドウ園を荒らすナメクジや毛虫に手を焼く住民が、クレルモン司教の総代理に提訴した。かれらは、虫たちが侵入地からただちにたちさるように裁判請求をしたのだが、総代理ははじめからその請求にしたがう必要をみとめず、まず、祈禱と聖水散布を命じることで満足した。
一七六〇~七〇年のあいだ、フランス東部フランシュ゠コンテ地方のブザンソン付近で毛虫(青虫) が激増し、農民らを底知れぬ不安におとしいれた。不安は的中し、翌年、うんかのごときチョウの大群がとびたつのがみられた。司祭は、イエズス会の説得もあり、これらのシロチョウは悪魔の化身にほかならない、と確信し、それにたちうちするには霊的武器にすがるのがよい、と悟った。
これまで、フランスに焦点をあて、スイスにも目くばりしながら、破門の例を通覧してきた。以上が知られているすべての事例であるわけではもちろんなく、とりわけ、フランスでは、上に紹介しなかった地方、たとえば、ノルマンディー地方・ブルターニュ地方・リヨネ地方などにも昆虫や環形動物・軟体動物の破門がみられ、ほとんど国土全域に普及した慣行であったことがうかがわれる。
そうした状況において、まず初期の、動物裁判に興味をいだいた者、そして部分的には今日でもなお通俗的・啓蒙的な見解を奉じている人たちは、つぎのように動物裁判を理由づけている。すなわち、中世という時代は、暗黒時代であり、そのように、精神もぶあつい暗雲におおわれ、いまだ開明の光に照らされていなかった。だから人々は、愚劣な迷信のとりことなりつづけ、種々の野蛮な慣行にどっぷりと漬かりきっていたのであり、そうした愚行のひとつとして動物裁判があったのだ、とそのように説かれてきた。 しかしながら今日では、このように簡単にかたづける研究者は、ヨーロッパ中世を暗黒時代とするのが時代おくれであるのと同様、劣勢である。中世暗黒説が否定されるのとおなじ勢いで、動物裁判=迷信・愚行説は背後に退き、なんらかの正当なる「根拠」をさぐる試みが、いくつかなされてきた。
いずれにせよ、擬人化説の最大の弱点は、つぎのことであろう。文学・神学や美術には、擬人化は、中世の非常に早い時期からあらわれ、そればかりか、中世が模範としたのがギリシャやローマにさかのぼる寓話や説話であったことから明瞭なように、すでに古代からさかんに擬人化動物は造型されてきた。別様のかたちではあれ、それは、古今東西、世界中、いつでもどこでもみられる傾向である、ということさえできる。
それは、わたしが動物裁判を論ずるモチーフともかかわっている。わたしは、別段、錯乱や怪奇現象に興味があって、この主題にのめりこんでいるわけではない。そうではなく、歴史の神髄は、しばしば一見ささいな、とるにたりない、しかし不思議でちょっと気になる現象のなかにこそあると、考えるからである。 「鳥の視点」と「虫の視点」をあわせもちつつ、その秘密をよみ解くことは、はじめから感情の微細なひだや情念のうねりを排除したところに成立した実証主義の近代歴史学の方法よりも、ずっとなまなましく過去の魂を呼びもどすことができる、と信じている。その意図の当否、あるいはその実践の成否は、本書を最後までよみすすまれた読者のきめられることである。それでは、具体的個別的事例を点検した「虫の視点」をはなれ、今度は、動物裁判の盛行した時代とそれを前後する時代の人間・文化と自然の関係について、より大きな文脈、「鳥の視点」から考えてみようと思う。
一三世紀のアリストテレス主義は、プラトンのイデア論や宇宙論をきびしくこばみ、別種の自然像を提示した。アリストテレスの自然界においては、すべてはそれぞれ質料から形相へとむかううごきのなかにある。そしてうごきの主体としての運動体は、かならず分割可能な一定の大きさをもつものでなければならなかった。また霊魂は、自然的で可能的に生命をもつものにしかないと考えられ、プラトン主義のように、宇宙・自然全体にはたらく宇宙的原理とみなす説は、退けられた。
宇宙や自然の謎は、天体から人間の心身や動植物とそれらの器官、そして極小の四元素にいたるまで、各レベルでその組織・組成の一般法則、作用と分類が、質料・形相論をもちいて解明される。そして、存在と有機体の機能にかんして、目的論的見解が採用される。くわえて、観察・実験・数学の利用も、この時代に最初の跳躍をみせる。
騎士道文学においては、森は一種の「異空間」として、普通の人間には容易にちかづけない場であった。そこでは、都市の法・国家の正義も、王の権威や宮廷・都市・農村の社会関係も、効力を発揮しない。うすぐらく深い森は、隠者のほかに、法や秩序にみすてられ、あるいは自ら世をすてたアウトローや、狂人・盗人、そして遍歴騎士のすみかとなった。
動物裁判をめぐるわたしたちの考察も、おわりにちかづいてきた。動物裁判は、ヨーロッパ固有の現象であり、日本、あるいは東洋には存在しなかった。いや存在しないどころか、動物裁判などという発想は、東洋人には、さかだちしたって浮かんでこないだろう。このちがいは、なにがもたらしたのであろうか。
古来、東洋人と西洋人の自然にたいする態度には大きなへだたりがあった。その相違は、皮相なものではなく、文化の核心にふれる根深いものである。だからここで、東洋人、とくに日本人の自然へのかかわりを比較のためにもちだすのは、西洋人と自然との関係、ひいては西洋文明にひそむ大きな問題を白日のもとにさらすとともに、動物裁判のもつ深い文化史的意義をいっそう際だてるのに役だつと思う。日本人の自然との関係全体を論ずるわけにもゆかないので、彼我の相違が一目瞭然にみてとれる、「動物観」と「植物観」に的をしぼって観察してみよう。