高橋則明のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
いかにもアメリカ人らしい、テンポの良い、たたみかけるような論調で、読みやすい本でした。
著者は、物理学で博士をとったようですが、言葉の使い方が社会学者っぽい印象を受けました。
もしかしたら、翻訳者の影響なんでしょうか。
ちなみに、僕が今、一番気になっているFREEは、高校の授業料の無償化。
これにより、私立高校から公立高校へと流れる受験生が増えそうな気配があるようです。
これまでと負担額の差は同じなのに、公立高校の授業料が実質タダになると聞いた途端に公立高校へと受験生(の親)が流れる現象は、この本の中で述べられている現象の具体例の一つだと思います。
ただ、すべての業界においてFREEが有効なのかどうかは、よく考える必要があると思います。
とりあえず、自分の会社でFREEを利用できる商品やサービスがあるかどうか考えてみたいと思っています。 -
Posted by ブクログ
面白〜い!
以下、興味深かったところのメモ。
・シンギュラリティ(特異点)は、数学と物理学で使われる言葉で、他と同じようなルールが適用できなくなる点を意味する
(この言葉を作ったのが作者らしい!)
・1956年にスタンフォード大学教授のマッカーシーの呼びかけで研究会が行われた。この研究会に備えて、マッカーシーは、人工知能と呼ぶことを提案した
・AIは言葉の意味を、文法規則の本や辞書からではなく、実際に使われている文脈から学ぶ。例えば、ジャムを食べる、ギターのジャム(即興演奏)の使い方を文脈で学ぶ。AIの学習法は、私たちが言葉を学ぶのと全く同じ。
・googolゴーゴルは、1の次に0が100個も続く桁数を意味する(あのインターネット企業はこの単語のスペルを間違えた)、
(と記載されてるけど、わざとだと思ってた。でも、この作者、ここで働いてたんだよね?だから、正しい情報なのかな?( ºロº))
・2040年代初めには、ナノロボットが人間の脳の中に入って、その人のデータ全てをコピーできるだろう。あなた2号の登場だ。
(これが日本の内閣府が目指してるムーンショット計画のアバターの作り方なのかな?どうやるのかとずっと不思議に思ってたんだけど。)
・ひとたび人類が太陽光などの安価なエネルギーを得て、AIロボットを開発したら、多くのものがコピーできるようになるので、それらを暴力で奪い取ることは馬鹿らしくなるだろう。情報テクノロジーの進歩は社会に大きな前身をもたらすだろう。
・2020年代後半には3Dプリンターで衣服や日常品がプリントでき、コストは1ポンド辺り数ペニーにまで安くなるだろう
(7–18 yen per kgかな?)
・寿命を、大きく延長するものは、私たちの本質的な部分をバックアップする能力。デジタルの脳は私たちの思考の全てをバックアップできる。シンギュラリティに近づく2040年代半ばに現実になるだろう
(万博落合陽一さんnullnullと繋がる!!)
・最終目標は、いつまで生きるのかを自分で決めること。
・進行中の社会的転換を楽観視する最も重要な理由は、物質的な豊かさが増せば、暴力に走る動機が弱くなることにある。
・2030年代にはブレイン・コンピューター・インターフェースが実現するだろうが、機械で増強した人間が意思決定をするときに、「人間の管理」における「人間」とは、最終的に何を意味するのかが問題になるだろう
(攻殻機動隊みたい( ºロº)) -
Posted by ブクログ
2045年「シンギラリティー」を迎えるような時代には、AIの進化で3Dプリンティング・ロボティクスによるあらゆる製造業、建設業、諸々の「ものつくり」に影響を与える事は間違いなく、さらに医療でのバイオ・ナノテクノロジーによる変革は様々な難病でさえ完治、治療され寿命がさらに伸びることは間違いない。ここにあるブレイン・コンピュター・インタフェイスにおいては人間の脳との融合技術で人間そのものの存在意義など問われる可能性もある。一番のポイントは技術革新によるパフォーマンス(時間とコスト)が極端に短く安く、AIエージェントが作る、動くことで仮想と現実環境で人間はどのように対応すればいいのか予測できない。
「人間は良いことよりも悪いことに強く反応する、得よりも損に対して強く反応する」かのように技術革新は「悪質な利用」も当然出現することで人間を管理監督(人間がAIを頼り過ぎて)することさえ可能となると見ている。その大きな課題は兵器への技術転用と運用だ。「グレイグー」と言う自己複製マシンでコピーを量産する体制が確立すると、自らが「富と権力を増やし、貪欲への進化する」可能性があり、さらに「人間の管理」から「人間を管理」する機能と知能の進化は恐ろしい世界を見ることになるのは間違いない。 -
Posted by ブクログ
チューリングテストに合格するのは2029年と予測
シンギュラリティ=現在の人間の知能では理解できない時代の到来
小脳=固定的行動パターンの遺伝
大脳新皮質=学習による解決案 200億以上のニューロン 抽象的思考
脳の階層構造 親指の存在
ディープラーニング 大規模言語モデルへ
1000億以上のパラメーター 意味でプロンプトを理解 言語を扱えるようになる
マルチモダリティ 言葉と画像の関係を理解 Google リンク集からAIへ
いまAIに足りないもの:文脈記憶 常識 社会的相互作用
意識
自分の内側の考えと、それとは異なる外の世界との両方を知っている能力
チューリングテストに合格したAIに意識とその権利を与える法制化するか?
レプリカント 脳にあった情報からの再現 情報を形成する構造の再現ではない
緊急性のあることは悪いこと ニュースになりやすい 現実は着実に良くなっている
臨床試験からシミュレーションへ
医療用ナノロボット 病原体を殺す 臓器の代わりをする 本質的バックアップ
食料価格が労働や天然資源に依存する割合が減っていく
生産性が伸びていない理由
情報製品の多くは無料 20世紀のモノの価値≒価格 だった
同じ価格で20年前の何万倍以上の計算ができるようになった
売上げ よりも価値 ※GDPに現れない価値や豊かさ
FBのアメリカでの売上げ 80億ドル FBに費やす時間価値 2300億ドル以上
ウィキペディアはGDP貢献ゼロ
2030年代 安価に今は贅沢な生活が可能に
生産人口減少 10代高学歴化、高齢者の労働参加増加と自動化による失業
地下経済=暗号通貨・新たな稼ぎ方(アプリ、ギグワーク、インフルエンサー
公共の利益に貢献 機会と選択の増加
スキル向上=学習への投資 +スマホが脳の一部に
セーフティネットの支出増加(医療、食糧、住居)→AIにより安価になる
労働敗者の増加 -
Posted by ブクログ
情報テクノロジーの指数関数的な成長と「収穫加速の法則(the law of accelerating returns)」によりシンギュラリティを達成、ナノロボットなどのデバイスを用いた原子レベルでの世界の再構築、現時点で120歳とされる生命の限界を超えた寿命の延長(寿命脱出速度に達する)、脳をクラウドに接続することによる知性の拡大化、すべての産業におけるイノベーションの推進による貧困や暴力の減少など、私たちの幸福のあらゆる側面を向上させる指数関数的なテクノロジーの成長、再生可能エネルギーと3Dプリンティングの成長など多岐にわたる進化を予測している。リスクについても1章を設けて説明しているが、やや楽観的には思える。
【原題】
The Singularity is Nearer
【目次】
イントロダクション
第1章 人類は六つのステージのどこにいるのか?
第2章 知能をつくり直す
第3章 私は誰?
第4章 生活は指数関数的に向上する
第5章 仕事の未来:よくなるか悪くなるか?
第6章 今後三十年の健康と幸福
第7章 危険
第8章 カサンドラとの対話
謝辞
日本語版解説
訳者あとがき
付録(「コンピュータの価格性能比の根拠について」)
出典/参考文献/追加資料 -
Posted by ブクログ
カーツワイル氏が、持論を改めて展開している書籍。
今のところ、彼の思ったとおりに技術と社会が進展しているような気がする。
彼は以前から2029年にはAIがチューリングテストに合格しほとんどの面で人間を上回るようになると言っているが、正に昨今の生成AIの発展を考えると彼の予言とおりになっている。
一方で、意識の問題に関しては踏み込み不足というか、「汎原心論」をとりあえず(根拠もなく)イチオシに置いているが、なぜその立場をとるのかの説明不足だし、特に主観的経験のメカニズムや存在要件についてはもっと深堀を期待したが、それは科学的課題ではなく哲学的課題であるということで終了。少し消化不良だった。
未来社会に関しては引き続きカーツワイル節爆発という感じ。ナノテクノロジーがあらゆる物質的な価値をコモディティ化し実質無料であらゆる物質的欲求を充足させられるようになるということで、もはや人類が生きるために必要とされる「人間による労働」は不要になる未来見えた。一方で、生きがいとしての仕事がなくなるかどうかに関しては、技術革新が新たな仕事を生み出すことのほか、特に知能が圧倒的に強化された人間は、現在では想像できないような豊かで深い体験が得られることを挙げ、楽観的な未来像が描かれていたが、概ね同感。
長寿の実現、脳のクラウドへのアップロード実現も確かに早晩起こるだろう。
リスクでは、ナノテクノロジーの「グレイグー」が炭素原子を用いた自己増殖をする技術が暴走する危険性を指摘しており、戦慄が走った(対策として、通信制御や「ブルーグー」配置などが記載されていた)。
総じて、変化が指数関数的に起こること(なのに多くの人々は直線的な変化しか想定できていないこと)、全ての領域の進歩が正のフィードバックをもたらし全分野で進歩が進むこと、AIと人間がデカップリングされて対決構図になるのではなく、人間がAI融合し強化されていく(すでに強化され始めている)こと、が説得力をもって語られており、力強い言説で、星5つ❗ -
Posted by ブクログ
(上巻より)
第5部はいよいよ本書の核心とも言える「心と意識」の問題に分け入っていく。まず著者は、VRではデカルト二元論が成立する可能性を指摘する。VR環境下のユーザーはバーチャルな身体を持つが、その脳は身体とは分離されVRの外にある。つまりVRでは事物を支配する物理学と、行動を支配する心理学の2つのプロセスが並走しているのだ。エリザベト女王はデカルトに宛てた書簡の中で、「物質でない心がどうやって物体を動かすことができるのか」という素朴だが厄介な質問には、神経科学による究明が進んだ今日では唯物論的な説明が当然に持ち出されるところだろう。しかし、バーチャル世界内の生物にとっては物理的世界は演算エンジンによる単純化された物理学に支配されているものの脳はバーチャル世界外にあり、階層が一つ上の物理学(量子力学や相対性理論を含む)により支配されている。そうすると、バーチャル世界内の視点からは、物質的でない何らかの意思が存在するように感じられるのだ。逆に、シミュレーション外の我々がシミュレーション内部と相互作用すると(これはつまり非純正シミュレーション的状況を指す)、シミュレーション内部ではデカルト的二元論(内部の身体と外部の心の区別)が成立しているのを知る。
この二元論で分たれた心身を調和させるには、バーチャルの体をバーチャルの外と中から同時に制御する必要がある。これは外から見ると唯物論でしかないが、内部から見るとこれはまさに「形而上学的」なもの、物理的には知覚できない何かに由来する認知システムに他ならない。超自然的であると目されがちなデカルト的二元論が、シミュレーションを導入することで自然主義の内部で処理できるというのが面白い。
それではシミュレーションのようなデジタルシステム内の存在は意識を持てるのだろうか。これは、人間の心を脳からデジタルコンピュータに転送する〈精神アップロード〉によりアップロードされた心は、元の心と同一なのか、という問いと等価である。著者は「意識」とは主観的経験であるとするが、その主観的経験がいかなる物理的プロセスにより生ずるのかはいまだにわかっていない。客観的な振る舞いである「知能」を解明する〈イージープロブレム〉に比べ、主観的経験である「意識」を扱う〈ハードプロブレム〉は格段にトリッキーな問題なのだ。トマス・ネーゲルによれば意識とは、「そのようなシステムであるとはどのようなことか」と言える何かが存在することと等価である。フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーの部屋」で指摘される通り、赤い色の刺激が生じるプロセスは解明できても、赤いという意識体験がなぜ生じるかはわからない。振る舞いの説明と振る舞いが生じる理由の説明は異なるのだ。著者はこの「意識」を自然主義的に説明するには、既存の基礎的性質に何かを加える必要があると主張する。その一つが〈汎心論(自然のあらゆる物理系に何らかの意識の要素が備わっている)〉だ。では汎心論のもとならば機械も意識を持つことができるのだろうか。
〈他我問題〉は他者が意識を持っているかどうかは確かめられない、というジレンマだが、著者はこれを「他者が哲学的ゾンビ(外見上は通常の人間と変わらないが意識体験のみを欠く存在)でないことをどのようにして知るのか」へと変換する。現実の我々に意識があるということは、我々の世界はゾンビのそれとは異なり物理的構造の一段上に何かがある世界であること、つまりシミュレーション説が正である可能性を排除しえない世界であることを意味する。とすれば、〈フェーディング・クオリア(徐々に機械にアップロードされる脳)〉の思考実験からも、シミュレーション内存在すなわち機械も意識を持ちうると主張できることになる。
第6部ではテクノロジーの観点から捉え直した「倫理」がテーマとなる。バーチャル世界で良き生を送ることができるのか?ロバート・ノージックの〈経験機械〉の思考実験はVRは錯覚であるとしてノーの答えを出すが、バーチャルにも実物と等価のリアリティを認める著者の答えは、もちろんイエスだ。では何が良き生をもたらしているのだろう。著者は良き生の基礎として「快楽主義(ヘドニズム)」「欲求充足」「ウブントゥ(人とのつながり)」「客観的リスト」などを挙げ、これらはVR世界でも損なわれずに保たれていると主張する。バーチャルが欠く代表的な現実世界の事物である「身体性」「誕生と死」についてすら、著者はいずれ技術的に解決されバーチャル世界にもたらされるはずだという。著者のこの視点は「全ての価値の源は我々の〈意識〉にあり、そうであるならば意識が現実世界と同様に保たれるバーチャル世界でも価値ある生は可能だ」という信念に基づいている。
では「正しさ」についてはどうか。トロッコ問題の状況下、シムを殺すことは同義的に許されるのか。一般的には功利主義など、行為の結果に着目する〈帰結主義〉と、カントの定言命法に代表される、従うべきルールを重視する〈義務論〉が対立軸を構成するが、エリザベス・アンスコムは両方を批判したうえでアリストテレスの〈徳〉に回帰すべきと主張する。「正しさ」という概念は曖昧で役に立たないため、道徳的評価としては「不公平な」「勇敢な」「優しい」などの具体的・個別的表現を用いるべきである、と。これを踏まえ著者は、価値の源は〈意識〉であり、フルスケールのシミュレーションであればシムにも意識があるはずなのだからシムにも守られるべき道徳的身分を認めるべき、とする。そもそもシム、引いてはシミュレーションを作ることの道義性については、カントの定言命法第二定式「人間性の定理」に従い、それらを目的達成の手段ではなく目的自体として扱うべきだとする。つまり著者に従えば、科学技術などの目的でシミュレーションを行うことは道徳的に受け入れられないことになる。またバーチャル世界では資源の希少性が解消されるため、分配の観点からは平等をもたらすものの、参加者間の抑圧関係がなくならない限り、社会的平等は解消されないだろうとも説く。
最終の第7部はバーチャル世界のいわば各論。個人的にはこの章が最も刺激的だった。まずは言語について。バーチャル内部と外部を隔てるものは、それを説明する言語に起因するという著者の主張のもと、分析哲学の方法論を用いてバーチャル世界の言語の意味について考察を重ねて行く。言語の意味は頭の中にあるとするフレーゲ/ラッセルの立場とは異なり、クリプキ/パトナムの提唱する〈外在主義〉、すなわち言語は周囲の環境等の外的要因によって決定されるとする立場を採用し、バーチャル世界の言語もそれが使われる原因となった対象を指示している限り正しい語の使用に従っているとする。パトナムの〈水槽の中の脳〉が「自分は水槽の中の脳ではない」というとき、彼が指示するのはノンバーチャルの「脳」ではありえず、バーチャル世界のビットでできたバーチャルな水槽の中の「脳」を指示しており、その環境にある存在を示指示していることになるため、その言説は正しい事態を表していると言える。しかし一方で外在主義は意味が環境に依存しない言葉、「人」「行動」「コンピュータ」には適用されないため、「私はコンピュータ・シミュレーションの中にいる」というシミュレーションは常に/全面的に正しい可能性が出てくる。本物の「脳」とシミュレーションの「脳」はよく似た構造的役割を担っているからだ。
つまり適用されるべきは〈構造主義〉なのだ、と著者はいう。コンピュータ・シミュレーション内では各要素が微調整された因果関係の複雑なパターン、すなわちアルゴリズムを形成しており、この因果関係こそがノンバーチャルな物理的世界に比肩するほどのリアリズムを創出しているのだ。この考え方はグレッグ・イーガン、J・R・サールやパトナムの「物理的システムがアルゴリズムを実行するかどうかは客観的問題ではなく、見る人の目の中にある(=因果関係は単なる相関または規則性である)」とするヒューム的な見方と対照をなす。イーガンの「塵理論」の塵のような任意の物理的システムは必ずしもアルゴリズムを創出する因果関係を持っていないのだ。著者によれば、アルゴリズムを物理的システムが実装するにはその「因果構造」が計算の形式構造を備え、かつ「反事実的条件文的構造(実際に起きていない事実からの推論を可能にする構造)」を具備していなければならない。シミュレーションを行うためには、その基礎となるシステムが因果構造を持っており、それがシミュレーションに反映されなければならないのだ。
となると、「実在の背後には因果構造=数学的構造がある」というよりは、むしろ「実在とは数学的構造に他ならない」ということになる。これは〈科学的実在論〉と呼ばれる立場の中でもとりわけ論理学と数学による記述を重視する〈構造実在論〉に近い。この構造実在論は、数学的構造が物理的世界の全てであるとする〈存在論的構造実在論〉と、物理的世界の根底には数学的構造を超えた何かがあるとする〈認識論的構造実在論〉に大別されるが、前者は〈純粋ビットからイット説〉に、後者は〈イットからビットそしてイット説〉にそれぞれ対応している。特に後者は〈シミュレーション説〉と整合的であると言える(結局のところ、完全シミュレーションの内部からはそこでの物理学の基礎にある構造を知ることができないから)。
ただし、数学的構造のみが実在の根拠であるとすることはできない。数学は因果構造を持っていないので反事実的条件を意味のある形では記述できない。そこには因果構造=自然法則を記述できる物理理論が必要なのだ。さらに物理理論には大きな強みがある。それは外部世界を単に記述するだけでなく、外部世界と我々の経験や観察との結びつきを可能にする。逆にいえば、因果構造を持ち観察を可能にするのでなければその物理理論は〈構造的理論(数学的法則で因果構造と観察との結びつきを明記する)〉とはいえないことになる。つまりこの理論をシミュレーションが備えているのであれば、それはノンシム=現実世界と同一の理論を備えていることになり、したがってシム世界でも物理理論は真であることになるのだ。
では完全シミュレーションで不可知であった物理構造の基礎(イット)とはなんだろう。著者はそれが「意識」ではないかという。〈メアリーの部屋〉の思考実験でわかるように、構造だけでは意識体験を捉えることはできない。この見方は〈カント的謙抑(物自体は不可知)〉と通底している。カントによれば、我々は時間と空間、因果関係といった「もの同士の外在的関係」は認識できるが、「ものの内在的性質(他のものとの関係性から独立の性質)」は認識できない。つまり現象として認識できる領域は関係の広いネットワークすなわち〈構造〉であり、著者はそれが「意識」と関係があると考えているようだ。
我々が「見た通りのものが実在する」と信じていた〈エデンの園〉と異なり、科学革命以降は「実在は見た目以上のものである」と我々は信じている。この見方はシミュレーション内部にいる時と同じだ。では前者〈マニフェスト・イメージ〉と後者〈科学的イメージ〉は何が違い、どのように調和されるべきなのか。
著者は、後者をもとにして前者の概念を作り変える〈再構築〉を提唱する。我々は科学革命後、〈原始主義〉から現象をその役割や働きから理解しようとする〈機能主義〉に移行したのであり、そこでは構造主義と同じく因果構造が重視される。経験論者ジョン・ロックがいうように、赤色は原始的・客観的な第一性質ではなく、正常な知覚者の内部で固有の感覚経験を引き起こす「因果的な力」となる。同様に、空間も科学革命後は内在的に実質を持つものというよりは、派生的・付随的に supervene するものとして、主にその機能面から捉えられるようになる。
そうしてみると、これはバーチャル空間での色や空間の捉え方と同じであることがわかる。それらは〈エデンの園〉における意味では存在しないが、機能的な意味ではノンバーチャル空間と同様に存在している。そこでは全ては見た目通りではない。相対性理論や量子力学、ひも理論が我々の直感と相反するのと同じように。しかし一旦機能主義を採用してしまえば、バーチャル空間や相対性理論の世界における経験も実在と同様に理解できることになるのだ。
それでは「全ては錯覚だ」ということになるのだろうか。エデンの園のマニフェスト・イメージは正確な外部世界の反映ではないかもしれないが、それでも現実を生きるためのガイドとしては十分実用に足るものだ。しかしそれを実在と考えてしまうと即座にデカルト的懐疑に直面する。やはり空間や色は外部世界に直接備わるものではなく、その様な機能を我々の側に生じさせる因果的構造なのだと考えるべきだという。つまり全ては錯覚であり錯覚ではないのだ。認知学者ドナルド・ホフマンは、我々の認知が正しいかどうか、つまりインターフェースは進化の面からすれば副次的な問題であり、重要なのは環境に適応し子孫を残せるかどうか、つまり機能面や因果構造面だという。だとすれば、エデンの園における我々の知覚もインターフェースとしては十分実用的だが、外部世界の忠実な反映である必要はないのだ。
スラヴォイ・ジェクはこの状況を反転させて、むしろすでに通常の物理的世界の方がバーチャル化しているのだという。そもそも物理世界も機能主義的な構造の世界なのだ。著者はこの立場を〈不完全実在論〉と呼ぶ。自由意志も善悪も、人間から完全に独立した絶対的ななにものかは存在しないが、機能的にそれらと同等の役割を果たすものであれば存在する。錯覚であり錯覚ではないのだ。そして意識も錯覚ではあるが、我々が色・時間・時間の特質を構造化するためのプラットフォームとして実在していると言える。エデンの園を追放されてプラトンのイデア界へのアクセスを絶たれた我々は、意識を通じてそれらと同等の特質を経験できるのだ。
終章では再度デカルト的懐疑に戻る。究極のグローバル懐疑論とも言える〈ボルツマン脳〉説を採用すると、我々は外部世界の知覚と付随する科学的推論を否定することになる。そうすると、ボルツマン脳の成立根拠となる物理理論をも否定せざるを得ない。したがって著者はグローバル懐疑論は否定されるべきなのだという。我々の経験法則を説明不可能にするようなボルツマン脳などの〈カオス説〉は、驚くほどの偶然に頼ることになるので、確率的に真ではあり得えず、我々はそのシナリオ内にいないことが確かめられることになる。つまりまずデカルトの〈知識の問い〉にはイエス(外部世界は「知覚できる」)と答えられ、さらに外部世界が知覚できるのであれば何らかの構造があるはずであり、つまり〈実在の問い〉にもイエス(外部世界は「存在する」〉と言える。つまり「説明(知覚)」が「構造」を生み、「構造」が「実在」を生むのだ。
自身が認めている通り、著者の見方は〈認識論的構造実在論〉者としてのカントに近く、カントの観念論にある程度の親しみを持つ自分にとっては本書の主張には肯じえる点が多かった。 -
Posted by ブクログ
バーチャルリアリティ(VR)に関する本となるといかにも自然科学主義・還元主義的なものを連想してしまうが、本書のテーマはなんと〈形而上学〉である。「この世界には我々に現前してくる以上のものが備わっている」という形而上学的テーマに、科学革命以降のパラダイムを存分に適用しながら丁寧に取り組んでいく。〈テクノフィロソフィー〉(哲学はテクノロジーに関する新しい問いに光を当てるのを助け、テクノロジーは哲学に関する古い問いに光を当てるのを助ける)の理念のもと、VRを題材に昨今の思想界が敬して遠ざけてきた形而上学に真正面から取り組んだ意欲作と言える。
本書のメインテーマが形而上学であるということは、議論の起点となるのがデカルト的懐疑論であることからも明らかだ。本書では、〈デカルト的(方法的)懐疑〉、すなわち「自分の周りの現実をどのようにして知るのか?現実が錯覚でないことをどうやって知るのか?」という問いが、より現代的な〈シミュレーション(仮)説〉、つまり「シミュレーションの中にいないことをどうして確認できるのか(ニック・ボストロム)」に変換されている。その上で著者は、バーチャル世界に関する三つの問い、すなわち
1. 〈知識の問い〉:バーチャル世界にいるか否かを知ることができるか?(認識論)
2. 〈実在の問い〉:バーチャルの事物はリアルか?(形而上学)
3. 〈価値の問い〉:バーチャル世界で良い人生は送れるのか?(価値理論)
にそれぞれノー、イエス、イエスと答える。これはつまり「リアリティ」と「良き人生」が我々の認識とは独立だ、と言っていることになる。我々は世界をあるがままに認識できようができまいが(つまり自分がシミュレーション内存在であることを認識しようがしまいが)リアルで幸福な人生を送れる、ということになるのだ。
〈知識の問い〉…自分がシミュレーションの中にいないことを証明できるか?著者の答えは「否」だ。なぜなら完全シミュレーションではどんな証拠もシミュレーションできてしまうから。カール・ポパーに言わせれば反証可能性を持たないそのような仮説は科学的でないことになるが、例えそうでも〈シミュレーション仮説〉は我々の世界を考察する一助になる、と著者はいう。
それなら懐疑論、とりわけ外部世界の全てを疑う強力な〈デカルト的懐疑〉は克服不可能なのか。この懐疑論は「感覚はこれまでも主体を騙してきた。今は騙していないとどうして言えるのか?」と問う。この問いはヒラリー・パトナム〈水槽の中の脳〉やボストロムの〈シミュレーション説〉にそのままスライド適用され、より現代的な色彩を帯びて我々に迫る。これらは懐疑論の普遍的形式、〈マスターアーギュメント〉を形成しているからだ。
1. あなたは自分がシミュレーションの中にいないことは確かめられない。
2. シミュレーションの中にいないことを確かめられないならば、外部世界について何も知らない。
3. したがって、あなたは外部世界について何も知らない。
デカルトは「我思う故に我あり」で主観的意識を知の拠り所とした。では我々はどうすれば外部世界の知識を得ることが出来るのだろうか?
反懐疑論への最も有効な攻撃として、〈シミュレーション返し戦略〉なるものがある。外部世界知識を主張する者に対し「シミュレーション世界の住民もそのように主張するだろう」というものだ。これは上述のマスターアーギュメントの前提1を強力にサポートする。
例えば、デカルトは外部世界の完全性を信じていた。神は完全であり人間が騙されることを許容しない。であるならばこの神を経由していれば人間の外部世界に関する知識は正しいはずだ。しかしこれもシミュレーション返し戦略で簡単に論駁されてしまう。人間の作ったシミュレーション内で「シム(シミュレーション世界の住人)」も同様の主張をするだろうからだ。
バークリをはじめとする観念論的実在論、すなわち「見えが実在である」はどうか。観念論は観察を実在の前提とするが、では観察されない世界は実在しないのか。ここでもデカルト同様「神」の存在により実在性の担保が試みられるが、神ならぬコンピュータでも代役は可能だ。シミュレーション内の「シム・バークリ」は「シミュレーションは見えない、だから存在しない。認識が全てだ」と主張するだろうが、当然それは間違いである。
カルナップをはじめとする「ウィーン学団」の主張する〈論理実証主義〉は「検証可能性」を科学的に有効な仮説の条件とする。彼らは懐疑論はこれを満たさないとして却下するが、シミュレーション仮説はどうか。完全シミュレーション内ではシミュレーションの存在を検証することは不可能であり、科学的に無意味であるということになるが、著者は「科学的に検証不能であることと無意味であることは関係がない」という。感覚を通じて検証不能な命題であっても、有効な命題は数多あるからだ。他にもパトナムの「水槽の中の脳」やラッセルの「単純さ」を用いたシミュレーション仮説への攻撃も反駁可能だとする。
さらに、知的生命体によるシミュレーション技術の広範な伝播を前提とすれば、この宇宙は無数のシミュレーション宇宙を内包するはずであり、我々は確率的にシミュレーション内のシムである可能性が高くなる(シミュレーション論証)。この前提を阻害する〈シムブロッカー〉はいくつか観念できるものの決定的な要因とはならない。想定されるシムブロッカーの種類は①「シムの作成は非実際的または不可能」、②「シムは作成可能だがそれを行う人間に似たノンシムはほとんどいない」、に大別されるが、これらが否定されるならば③「我々はシムである」が肯定されることになる。そして著者はボストロムの議論を引き合いに、①②が真である可能性よりも③が真である可能性が圧倒的に高い、すなわちシミュレーション説は正しいと結論づける。
第3部はリアリティとは何かを問うていく。著者は〈シミュレーション実在論〉、すなわち「ヴァーチャル・リアリティ(VR)をはじめとするシミュレーション内の事物は錯覚などではなくリアルなものだ」と主張する。シミュレーション内の事物は〈リアリティ・チェックリスト〉、すなわち「存在、因果的力、心からの独立、非錯覚、本物〉の要件を満たす。デジタルプロセスが事物の根底にあることをもって、それがリアルではないとは言えない。デカルトの悪魔のシナリオもパトナムの水槽の脳のシナリオも、そこには錯覚などなく主体の抱く信念はほぼ正しい、すなわちリアルなものなのだ〈非錯覚説〉。
面白いのは、著者の議論がリアリティの本質を問う形而上学的説、すなわち誰がこの世界を作ったのかという創造説と接続していることだ。創造主に関する〈存在論的証明〉〈宇宙論的証明〉〈デザイン論証〉がいずれも超自然的な神に関するものであるのに対し、〈シミュレーション論証〉は〈自然主義〉、すなわち万物は自然の法則で説明できるとする立場と整合的だ。
そしてその自然主義の立場からは、世界のあらゆるものは「ライフゲーム」におけるオートマトンと同じくビットのパターンでできている、とする〈ビットからイット説〉が生じる。〈意味情報〉(有意味な情報)はビットの連なりである〈構造情報〉により担われ、それが事実をコードするときに〈記号情報〉と呼ばれる。ここでは構造情報は物理的プロセスにより具体化されており、その意味で〈イットからビット〉が生じることとなり、これら2つを接続すると〈イットからビットそしてイット説〉が得られる。
一方、これとは異なり、ビットこそが宇宙の基本的な構造をなすと主張する〈純粋ビットからイット説〉もあり、「物理的存在は数学用語で完全に記述でき、世界は数学的な構造情報を基礎として成立している」とする〈構造実在論〉につながっていく。
このビットで構成された世界はシミュレーション説におけるリアリティを大きく補強する。〈ビットからイット創世説〉のもとではビット生成者と世界の創造者の仕事は同一視され、シミュレーション世界とそうでない世界におけるリアリティを区別する必要がなくなる。どちらも、イットでできたビットの配列がそれを感知する者に正しく知覚されるための調整、すなわち〈構造〉の整備を行うのだ。「物理学は構造、すなわち数学的方程式と観察結果に還元される」とする〈構造主義〉のもとでは、ある物理理論はその構造が世界に存在していれば真となる。そうであれば、実在の光子やクォークとシミュレーション世界における光子やクォークは、それらが数学的・観察的な役割を果たしているのであればどちらも実在とみなせることになる(機能主義)。ここに著者はデカルト的懐疑の前提(リアルは感知出来ない)を突き崩す可能性を見出しているようだ。
第4部はバーチャル・リアリティ(VR)への構造主義の適用を問う。没入・インタラクティブ・コンピュータ生成を要素とするVRにおけるリアリティ=実在とはどのようなものか?前章の〈ビットからイット説〉を引き合いに、VRの中の事物もそれに対応するビット構造を背後に持ち、「デジタル事物」として他のデジタル事物に対する因果的な力を及ぼすことができることが示される。現実世界のいくつかの事物は「基体中立的(本質は何でできているかではなく、どのような結びつきでできているかで定まる)」であり、それらはVRでも完全に再現できる。VRの事物は先述のリアリティの5つの基準のうち4つないし5つを満たすのだ。
そしてそのようなVR技術のさらなる進化を前提とすれば、我々はリアリティの概念を拡張すべきだという結論に至る。異なる複数のVRの内容の差異について、その相関性までも含めてリアリティとして受け入れる必要があるというのだが、これは必然的に高精度なディープフェイクにどう対処していくかという問題に直結する。シミュレーション仮説によれば、そのシミュレーション内ではリアリティの要件を満たすディープフェイクを我々は判別することが出来ないかもしれない。しかし、たとえば全メディアが一斉に関わるような大掛かりな陰謀論は往々にしてラッセルのいう「単純さ」を欠くため、多様かつ信頼に足る情報ソースを確保していればそのような企みに気づく確率は高くなる、と説く。
(下巻へ) -
Posted by ブクログ
シンプルであるべきか、複雑であるべきか。シンプルであることは誰が見ても正しいように思えるのに、いざ自ら行動すると簡単に複雑な道へそれてしまう。「複雑」というものは、とても魅力的なのだ。
あらゆるデザイン、あらゆるオプション、あらゆる価格帯の統一性のない型番の商品の中からひとつの製品を選ばなければならないというのは、考えただけで重い作業であるけれども、iPhoneを選ぶなら、もしくはMacBookを選ぶなら、考えることはとても少ない。これほどユーザーに親切な商品は、作る側に立つと不思議となかなか作れない。
『Think Simple』では、シンプルを貫くということがいかに難しいかということを延々と語ってくれる。「シンプル」というのは生易しいものではなく、どんなときでもシンプルであることが求められるからだ。気まぐれのようにシンプルを選んだり、誰かの真似のようにシンプルを使っても、その恩恵を受けることはできない。これは信仰にも似たものだと、著者は時折語っている。
そんな厳しい「シンプル」の申し子がスティーブ・ジョブズだった。スティーブ・ジョブズの振るうシンプルの杖に、私も叩かれてみたいと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレアップルという会社に「シンプル」というマインドがいかに根付いているかが、数々のスティーブジョブスの逸話にそって描かれています。
「シンプルであることは複雑であることを圧倒するが、シンプルで居続けるのは難しい」
この本で強く訴えられているのは、この点です。
読んで、印象に残ったエピソードを挙げていきたいと思います。
Think Brutal(容赦なく伝える)より
「アカウント(取引先担当)で働いてます」と伝えると、スティーブ・ジョブズは、
「そうか、オーバーヘッド(圧縮削減が可能なムダな処理)だな」と。 と言う会話。
よくある話ですが、会社が大きくなると会社の付加価値に貢献しない部門や役割が増えてきます。企業として成り立つためには必要ではあるものの必要最低限に抑え込まないといけないのですが、気をぬくとどんどん増殖します。優秀な経営者でも複雑さに毒されていき会社は付加価値を生まない部門で溢れかえります。
個人としてもシンプルに自分がやるべき事を考え続ける必要があることを気付かされます。
Think Small(少人数で取り組む)より
スティーブ・ジョブズの話ではありませんが、ある経営者が会議に参加しているメンバーを見渡し、そこに出席しているメンバーに対し「君たちはここで何をしている?」と問いかけ、
「さあ、わかりません。呼ばれたからきました」とメンバーは答える。
その経営者は「そんなことをほざいているやつは、ここに座っているべきじゃない。他で建設的なことをしろ」と伝える。
会議にやたら多くの人間が出席しているのは、メンバーそれぞれに能力が欠けていると言うこと。プロジェクトを強力に進めるために必要な素質を持った少数のメンバーで構成されていること。
「念のために」と呼ばれる会議に対しては、なぜ自分が必要かを問いかけ、本当に自分ができるべきかを考えるようにしてますが、それでもなんだかわからないうちに巻き込まれる会議ってあるんですよね〜。気を引き締めなくては。
Think Minimal(ミニマルに徹する)より
一つのCMで4〜5個の特徴を伝えたいスティーブ・ジョブズを、1個に絞りたい広告代理店がとったやり取り。
「スティーブ、キャッチしてくれ」と1つの紙の玉を投げ、それをキャッチするスティーブ。
「これがいい広告だ」
「スティーブ、もう1回キャッチしてくれ」と今度は5つの紙の玉を投げ、1つもキャッチできないスティーブ。
「これが悪い広告だよ」
アップルの広告が優れているのは、スティーブ・ジョブスが完璧にシンプルだったからではないんですね。
Think Motion(動かし続ける)より
初期のiPhoneは、「アプリ」をサポートしてなかったが、その後の製品とOSの更新でアプリケーションを追加できるようなり、その魅力は革命的に増したと思います。
iPhoneはその後も毎年なんからのアップデートがくりかえされ、今も続いてます。
Think Iconic(イメージを利用する)より
ボタンがたくさんある従来のスマートフォンに対し、iPhoneは1つのホームボタンで挑み、そして勝ち残ったことはシンプルの勝利と言えるでしょう。
なお著者はそのうちボタンは0になるかも知れないと書いてますが、iPhone Xで、まさにそうなりました。
Think Phrasal(フレーズを決める)より
「iMac」は「Macman」になっていたかもしれないというエピソード。
ステイーブが推していた「Macman」は、ソニーの「Walkman」からインスパイアされたそうですが、もしそのネーミングだったらあそこまで売れなかったでしょうね~。
「iMac」を粘り強く推した広告代理店の人(=著者)の勝利ですね。
もう1つ、「ファイナルカット」というアップルの動画編集のソフトウエアの開発のエピソード。
通常版とプレミアム版の2種類を発売したいと言う開発テームに対しスティーブ・ジョブスは「1つに絞り込む」ように指示を出したという。
このエピソードを読んで思ったのは、今のiPhoneのラインナップ。
「11、11Pro、11ProMax」はスティーブの目にはどう写るのかな...。
Think Casual(カジュアルに話し合う)より
前提条件からスタートするプレゼンはハッキリいってムダ。
事前にインプット資料を配布し、プレゼンではコアな部分のみに絞って議論すべきだと思います。
シンプルさはせっかちです。
Think Human(人間を中心にする)より
アップルの「Think different」キャンペーンで流れたCM 「The crazy ones」より。
クレージーな人たちがいる
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に 丸い杭を打ちこむように
物事をまるで違う目で見る人たち
彼らは規則を嫌う 彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心をうたれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰もできない
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた
彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから
Think Simpleの中では、これはまさにスティーブ・ジョブズの事を表した内容だと書かれています。
確かに、、、反逆者で、クレイジーで、世界を変えて。
そして「死」がスティーブ・ジョブズを更にシンプルな高みに押し上げます。
晩年は禅にもハマり、シンプルさを更に追求していき、アップルという企業とブランド価値、そして生み出すプロダクトの質を高めていきます。
そして根底にあるのは、プロダクトやサービスの質ではなく、それを使う人間がどう感じるか。
例えば、こんな商品出しました。こんな凄いスペックの沢山の機能がついていて素晴らしいですよ。
ではなく、この商品で、貴方はこんな素晴らしい体験ができます。
最近は後者のような商品フレーズを見かけることは多くなりましたが、初めたのはアップルでしょう。
そういった意味でアップルの人間を中心に考えたシンプルな考え方の勝利と言えるでしょう。
シンプル、奥が深い、、。
Think Skeptic(不可能を疑う)より
ある検討案件で、スティーブ・ジョブスに「それは不可能です」と言い切ったが、その後可能にする方法があることがジョブスに知れてしまって、、、というエピソード。
普段の仕事でもありますよね。ただ相手がスティーブ・ジョブスだと思うとおそろしい…。
「できない」を「可能」にする方法はあるが、今のご時世、優先的地位の濫用、パワーハラスメントといった落とし穴もあるので程々にしなくていけませんが、安易な不可能ですは創造的な発想をストップさせることになると思ってます。
出来ない理由ではなく、出来る方法を考えよう。
Think War(戦いを挑む)より
アップルは、マイクロソフト、デルといったPCソフト、PCメーカーとの闘いを続けてきました。
また、サムスン電子やファーウェイといったスマホメーカーとも戦ってます。
平和が一番ですが、競争相手が居ないと、そこでイノベーションは止まります。
我々も日常生活で色々と「競争」をしています。
仕事上のライバル、恋のライバル、などなど。
相手を貶めるような策略をとるのではなく、お互いに高めあう様な関係を築き上げたりするのも良いだろうし、自分なりの強みを尖らせて相手と違う面で勝つのもありだと思います。
戦いから逃げず立ち向かうことで自分は成長できると思います。