【感想・ネタバレ】リアリティ+(プラス) 上 バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦のレビュー

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Posted by ブクログ 2023年08月20日

 バーチャルリアリティ(VR)に関する本となるといかにも自然科学主義・還元主義的なものを連想してしまうが、本書のテーマはなんと〈形而上学〉である。「この世界には我々に現前してくる以上のものが備わっている」という形而上学的テーマに、科学革命以降のパラダイムを存分に適用しながら丁寧に取り組んでいく。〈テ...続きを読むクノフィロソフィー(哲学はテクノロジーに関する新しい問いに光を当てるのを助け、テクノロジーは哲学に関する古い問いに光を当てるのを助ける)〉の理念のもと、VRを題材に昨今の思想界が敬して遠ざけてきた形而上学に真正面から取り組んだ意欲作である。

 本書のテーマが形而上学であるということは、議論の起点となるのがデカルト的懐疑論であることからもわかる。本書では、〈デカルト的(方法的)懐疑〉:「自分の周りの現実をどのようにして知るのか?現実が錯覚でないことをどうやって知るのか?」が、より現代的な〈シミュレーション(仮)説〉:「シミュレーションの中にいないことをどうして確認できるのか(ニック・ボストロム)」に変換して考察されているのだが、著者は、バーチャル世界に関する三つの問い、すなわち
1. 〈知識の問い〉:バーチャル世界にいるか否かを知ることができるか?(認識論)
2. 〈実在の問い〉:バーチャルの事物はリアルか?(形而上学)
3. 〈価値の問い〉:バーチャル世界で良い人生は送れるのか?(価値理論)
にそれぞれノー、イエス、イエスと答える。これはつまり「リアリティ」と「良き人生」が我々の認識とは独立だ、と言っていることになる。我々は世界をあるがままに認識できようができまいが(つまり自分がシミュレーション内存在であることを認識しようがしまいが)リアルで幸福な人生を送れる、ということになるのだ。

 〈知識の問い〉…自分がシミュレーションの中にいないことを証明できるか?著者の答えは「否」だ。なぜなら完全シミュレーションではどんな証拠もシミュレーションできてしまうから。カール・ポパーによれば反証可能性を持たないそのような仮説は科学的でないことになるが、例えそうでも〈シミュレーション仮説〉は我々の世界を考察する一助になるため考察するに値する、と著者はいう。
 それなら懐疑論、とりわけ外部世界の全てを疑う強力な〈デカルト的懐疑〉は克服不可能なのか。この懐疑論は「感覚はこれまでも主体を騙してきた。今は騙していないとどうして言えるのか?」と問う。この問いはヒラリー・パトナム〈水槽の中の脳〉やボストロムの〈シミュレーション説〉にそのままスライド適用され、より現代的な色彩を帯びて我々に迫る。これらは懐疑論の普遍的形式、〈マスターアーギュメント〉を形成しているからだ。
1. あなたは自分がシミュレーションの中にいないことは確かめられない。
2. シミュレーションの中にいないことを確かめられないならば、外部世界について何も知らない。
3. したがって、あなたは外部世界について何も知らない。
 デカルトは「我思う故に我あり」で主観的意識を知の拠り所とした。ではここから外部世界の知識をどうやって得るのだろうか。

 反懐疑論への最も有効な攻撃として、〈シミュレーション返し戦略〉なるものがある。外部世界知識を主張する者に対し「シミュレーション世界の住民もそのように主張するだろう」というものだ。これは上述のマスターアーギュメントの前提1を強力にサポートする。
 例えば、デカルトは外部世界の完全性を信じていた。神は完全であり人間が騙されることを許容しない。であるならばこの神を経由していれば人間の外部世界に関する知識は正しいはずだ。しかしこれもシミュレーション返し戦略で簡単に論駁されてしまう。人間の作ったシミュレーション内で「シム(シミュレーション世界の住人)」も同様の主張をするだろうからだ。
 バークリをはじめとする観念論的実在論、すなわち「見えが実在である」はどうか。観念論は観察を実在の前提とするが、では観察されない世界は実在しないのか。ここでもデカルト同様「神」の存在により実在性の担保が試みられるが、神ならぬコンピュータでも代役は可能だ。シミュレーション内の「シム・バークリ」は「シミュレーションは見えない、だから存在しない。認識が全てだ」と主張するだろうが、当然それは間違いである。
 カルナップをはじめとする「ウィーン学団」の主張する〈論理実証主義〉は「検証可能性」を科学的に有効な仮説の条件とする。彼らは懐疑論はこれを満たさないとして却下するが、シミュレーション仮説はどうか。完全シミュレーション内ではシミュレーションの存在を検証することは不可能であり、科学的に無意味であるということになるが、著者は科学的に検証不能であることと無意味であることは関係がない、という。感覚を通じて検証不能な命題であっても、有効な命題は数多あるからだ。他にもパトナムの「水槽の中の脳」やラッセルの「単純さ」を用いたシミュレーション仮説への攻撃も反駁可能だとする。
 さらに、知的生命体によるシミュレーション技術の広範な伝播を前提とすれば、この宇宙は無数のシミュレーション宇宙を内包するはずであり、我々は確率的にシミュレーション内のシムである可能性が高くなる(シミュレーション論証)。この前提を阻害する〈シムブロッカー〉はいくつか観念できるものの決定的な要因とはならない。想定されるシムブロッカーの種類は①「シムの作成は非実際的または不可能」、②「シムは作成可能だがそれを行う人間に似たノンシムはほとんどいない」、に大別されるが、これらが否定されるならば③「我々はシムである」が肯定されることになる。そして著者はボストロムの議論を引き合いに、①②が真である可能性よりも③が真である可能性が圧倒的に高い、すなわちシミュレーション説は正しいと結論づける。

 第3部はリアリティとは何かを問うていく。著者は〈シミュレーション実在論〉、ヴァーチャル・リアリティ(VR)をはじめとするシミュレーション内の事物は錯覚などではなくリアルなものだ、と主張する。シミュレーション内の事物は〈リアリティ・チェックリスト〉、すなわち「存在、因果的力、心からの独立、非錯覚、本物〉の要件を満たす。デジタルプロセスが事物の根底にあることをもって、それがリアルではないとは言えない。デカルトの悪魔のシナリオもパトナムの水槽の脳のシナリオも、そこには錯覚などなく主体の抱く信念はほぼ正しい、すなわちリアルなものなのだ〈非錯覚説〉。
 面白いのは、著者の議論がリアリティの本質を問う形而上学的説、すなわち誰がこの世界を作ったのかという創造説と接続していることだ。創造主に関する〈存在論的証明〉〈宇宙論的証明〉〈デザイン論証〉がいずれも超自然的な神に関するものであるのに対し、〈シミュレーション論証〉は〈自然主義〉、すなわち万物は自然の法則で説明できるとする立場と整合的だ。
 そしてその自然主義の立場からは、世界のあらゆるものは「ライフゲーム」におけるオートマトンと同じくビットのパターンでできている、とする〈ビットからイット説〉が生じる。〈意味情報〉(有意味な情報)はビットの連なりである〈構造情報〉により担われ、それが事実をコードするときに〈記号情報〉と呼ばれる。ここでは構造情報は物理的プロセスにより具体化されており、その意味で〈イットからビット〉が生じることとなり、これら2つを接続すると〈イットからビットそしてイット説〉が得られる。
 一方、これとは異なり、ビットこそが宇宙の基本的な構造をなすと主張する〈純粋ビットからイット説〉もあり、「物理的存在は数学用語で完全に記述でき、世界は数学的な構造情報を基礎として成立している」とする〈構造実在論〉につながっていく。
 このビットで構成された世界はシミュレーション説におけるリアリティを大きく補強する。〈ビットからイット創世説〉のもとではビット生成者と世界の創造者の仕事は同一視され、シミュレーション世界とそうでない世界におけるリアリティを区別する必要がなくなる。どちらも、イットでできたビットの配列がそれを感知する者に正しく知覚されるための調整、すなわち〈構造〉の整備を行うのだ。「物理学は構造、すなわち数学的方程式と観察結果に還元される」とする〈構造主義〉のもとでは、ある物理理論はその構造が世界に存在していれば真となる。そうであれば、実在の光子やクォークとシミュレーション世界における光子やクォークは、それらが数学的・観察的な役割を果たしているのであれば実在とみなせることになる(機能主義)。ここに著者はデカルト的懐疑の前提(リアルは感知出来ない)を突き崩す可能性を見出しているようだ。
 
 第4部はバーチャル・リアリティ(VR)への構造主義の適用を問う。没入・インタラクティブ・コンピュータ生成を要素とするVRにおけるリアリティ=実在とはどのようなものか?前章の〈ビットからイット説〉を引き合いに、VRの中の事物もそれに対応するビット構造を背後に持ち、「デジタル事物」として他のデジタル事物に対する因果的な力を及ぼすことができる。現実世界のいくつかの事物は「基体中立的(本質は何でできているかではなく、どのような結びつきでできているかで定まる)」であり、それらはVRでも完全に再現できる。VRの事物は先述のリアリティの5つの基準のうち4つないし5つを満たすのだ。
 そしてそのようなVR技術のさらなる進化を前提とすれば、我々はリアリティの概念を拡張すべきだという結論に至る。異なる複数のVRの内容の差異について、その相関性までも含めてリアリティとして受け入れる必要があるというのだが、これは必然的に高精度なディープフェイクにどう対処していくかという問題に直結する。シミュレーション仮説によれば、そのシミュレーション内ではリアリティの要件を満たすディープフェイクを我々は判別することが出来ないかもしれない。しかし、たとえば全メディアが一斉に関わるような大掛かりな陰謀論は往々にしてラッセルのいう「単純さ」を欠くため、多様かつ信頼に足る情報ソースを確保していればそのような企みに気づく確率は高くなる。
(下巻へ)

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