(上巻より)
第5部はいよいよ本書の核心とも言える「心と意識」の問題に分け入っていく。まず著者は、VRではデカルト二元論が成立する可能性を指摘する。VR環境下のユーザーはバーチャルな身体を持つが、その脳は身体とは分離されVRの外にある。つまりVRでは事物を支配する物理学と、行動を支配する心理学の2つのプロセスが並走しているのだ。エリザベト女王はデカルトに宛てた書簡の中で、「物質でない心がどうやって物体を動かすことができるのか」という素朴だが厄介な質問をぶつけているが、無論、神経科学による究明が進んだ今日では唯物論がこの疑問を解消する。しかし、バーチャル世界を前提とすると様相が異なる。バーチャル世界内の生物にとって物理的世界は演算エンジンによる単純化された物理学に支配されているが、脳はバーチャル世界外にあり、階層が一つ上の物理学(量子力学や相対性理論を含む)により支配されている。そうすると、バーチャル世界内の視点からは、物質的でない何らかの意思が存在するように感じられるのだ。逆に、シミュレーション外の我々がシミュレーション内部と相互作用すると(これはつまり非純正シミュレーション的状況を指す)、シミュレーション内部ではデカルト的二元論(内部の身体と外部の心の区別)が成立しているのを知る。
この二元論で分たれた心身を調和させるには、バーチャルの体をバーチャルの外と中から同時に制御する必要がある。これは外から見ると唯物論でしかないが、内部から見るとこれはまさに「形而上学的」なもの、物理的には知覚できない何かに由来する認知システムに他ならない。超自然的であると目されがちなデカルト的二元論が、シミュレーションを導入することで自然主義の内部で処理できるというのが面白い。
それではシミュレーションのようなデジタルシステム内の存在は意識を持てるのだろうか。これは、人間の心を脳からデジタルコンピュータに転送する〈精神アップロード〉によりアップロードされた心は、元の心と同一なのか、という問いと等価である。著者は「意識」とは主観的経験であるとするが、その主観的経験がいかなる物理的プロセスにより生ずるのかはいまだにわかっていない。客観的な振る舞いである「知能」を解明する〈イージープロブレム〉に比べ、主観的経験である「意識」を扱う〈ハードプロブレム〉は格段にトリッキーな問題なのだ。トマス・ネーゲルによれば意識とは、「そのようなシステムであるとはどのようなことか」と言える何かが存在することと等価である。フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーの部屋」で指摘される通り、赤い色の刺激が生じるプロセスは解明できても、赤いという意識体験がなぜ生じるかはわからない。振る舞いの説明と振る舞いが生じる理由の説明は異なるのだ。著者はこの「意識」を自然主義的に説明するには、既存の基礎的性質に何かを加える必要があると主張する。その一つが〈汎心論(自然のあらゆる物理系に何らかの意識の要素が備わっている)〉だ。では汎心論のもとならば機械も意識を持つことができるのだろうか。
〈他我問題〉は他者が意識を持っているかどうかは確かめられない、というジレンマだが、著者はこれを「他者が哲学的ゾンビ(外見上は通常の人間と変わらないが意識体験のみを欠く存在)でないことをどのようにして知るのか」へと変換する。現実の我々に意識があるということは、我々の世界はゾンビのそれとは異なり物理的構造の一段上に何かがある世界であること、つまりシミュレーション説が正である可能性を排除しえない世界であることになる。だとすれば〈フェーディング・クオリア(徐々に機械にアップロードされる脳)〉の思考実験からも、シミュレーション内存在すなわち機械も意識を持ちうると主張できることになる。
第6部ではテクノロジーの観点から捉え直した「倫理」がテーマとなる。バーチャル世界で良き生を送ることができるのか?ロバート・ノージックの〈経験機械〉の思考実験はVRは錯覚であるとしてノーの答えを出すが、バーチャルにも実物と等価のリアリティを認める著者の答えは、もちろんイエスだ。では何が良き生をもたらしているのだろう。著者は良き生の基礎として「快楽主義(ヘドニズム)」「欲求充足」「ウブントゥ(人とのつながり)」「客観的リスト」などを挙げ、これらはVR世界でも損なわれずに保たれていると主張する。バーチャルが欠く代表的な現実世界の事物である「身体性」「誕生と死」についてすら、著者はいずれ技術的に解決されバーチャル世界にもたらされるはずだという。著者のこの視点は「全ての価値の源は我々の〈意識〉にあり、そうであるならば意識が現実世界と同様に保たれるバーチャル世界でも価値ある生は可能だ」という信念に基づいている。
では「正しさ」についてはどうか。トロッコ問題の状況下、シムを殺すことは同義的に許されるのか。一般的には功利主義など、行為の結果に着目する〈帰結主義〉と、カントの定言命法に代表される、従うべきルールを重視する〈義務論〉が対立軸を構成するが、エリザベス・アンスコムは両方を批判したうえでアリストテレスの〈徳〉に回帰すべきと主張する。「正しさ」という概念は曖昧で役に立たないため、道徳的評価としては「不公平な」「勇敢な」「優しい」などの具体的・個別的表現を用いるべきである、と。これを踏まえ著者は、価値の源は〈意識〉であり、フルスケールのシミュレーションであればシムにも意識があるはずなのだからシムにも守られるべき道徳的身分を認めるべき、とする。そもそもシム、引いてはシミュレーションを作ることの道義性については、カントの定言命法第二定式「人間性の定理」に従い、それらを目的達成の手段ではなく目的自体として扱うべきだとする。つまり著者に従えば、科学技術などの目的でシミュレーションを行うことは道徳的に受け入れられないことになる。またバーチャル世界では資源の希少性が解消されるため、分配の観点からは平等をもたらすものの、参加者間の抑圧関係がなくならない限り、社会的平等は解消されないだろうとも説く。
最終の第7部はバーチャル世界のいわば各論。個人的にはこの章が最も刺激的だった。まずは言語について。バーチャル内部と外部を隔てるものは、それを説明する言語に起因するという著者の主張のもと、分析哲学の方法論を用いてバーチャル世界の言語の意味について考察を重ねて行く。言語の意味は頭の中にあるとするフレーゲ/ラッセルの立場とは異なり、クリプキ/パトナムの提唱する〈外在主義〉、すなわち言語は周囲の環境等の外的要因によって決定されるとする立場を採用し、バーチャル世界の言語もそれが使われる原因となった対象を指示している限り正しい語の使用に従っているとする。パトナムの〈水槽の中の脳〉が「自分は水槽の中の脳ではない」というとき、彼が指示するのはノンバーチャルの「脳」ではありえず、バーチャル世界のビットでできたバーチャルな水槽の中の「脳」を指示しており、その環境にある存在を示指示していることになるため、その言説は正しい事態を表していると言える。しかし一方で外在主義は意味が環境に依存しない言葉、「人」「行動」「コンピュータ」には適用されないため、「私はコンピュータ・シミュレーションの中にいる」というシミュレーションは常に/全面的に正しい可能性が出てくる。本物の「脳」とシミュレーションの「脳」はよく似た構造的役割を担っているからだ。
つまり適用されるべきは〈構造主義〉なのだ、と著者はいう。コンピュータ・シミュレーション内では各要素が微調整された因果関係の複雑なパターン、すなわちアルゴリズムを形成しており、この因果関係こそがノンバーチャルな物理的世界に比肩するほどのリアリズムを創出しているのだ。この考え方はグレッグ・イーガン、J・R・サールやパトナムの「物理的システムがアルゴリズムを実行するかどうかは客観的問題ではなく、見る人の目の中にある(=因果関係は単なる相関または規則性である)」とするヒューム的な見方と対照をなす。イーガンの「塵理論」の塵のような任意の物理的システムは必ずしもアルゴリズムを創出する因果関係を持っていないのだ。著者によれば、アルゴリズムを物理的システムが実装するにはその「因果構造」が計算の形式構造を備え、かつ「反事実的条件文的構造(実際に起きていない事実からの推論を可能にする構造)」を具備していなければならない。シミュレーションを行うためには、その基礎となるシステムが因果構造を持っており、それがシミュレーションに反映されなければならないのだ。
となると、「実在の背後には因果構造=数学的構造がある」というよりは、むしろ「実在とは数学的構造に他ならない」ということになる。これは〈科学的実在論〉と呼ばれる立場の中でもとりわけ論理学と数学による記述を重視する〈構造実在論〉に近い。この構造実在論は、数学的構造が物理的世界の全てであるとする〈存在論的構造実在論〉と、物理的世界の根底には数学的構造を超えた何かがあるとする〈認識論的構造実在論〉に大別されるが、前者は〈純粋ビットからイット説〉に、後者は〈イットからビットそしてイット説〉にそれぞれ対応している。特に後者は〈シミュレーション説〉と整合的であると言える(結局のところ、完全シミュレーションの内部からはそこでの物理学の基礎にある構造を知ることができないから)。
ただし、数学的構造のみが実在の根拠であるとすることはできない。数学は因果構造を持っていないので反事実的条件を意味のある形では記述できない。そこには因果構造=自然法則を記述できる物理理論が必要なのだ。さらに物理理論には大きな強みがある。それは外部世界を単に記述するだけでなく、外部世界と我々の経験や観察との結びつきを可能にする。逆にいえば、因果構造を持ち観察を可能にするのでなければその物理理論は〈構造的理論(数学的法則で因果構造と観察との結びつきを明記する)〉とはいえないことになる。つまりこの理論をシミュレーションが備えているのであれば、それはノンシム=現実世界と同一の理論を備えていることになり、したがってシム世界でも物理理論は真であることになるのだ。
では完全シミュレーションで不可知であった物理構造の基礎(イット)とはなんだろう。著者はそれが「意識」ではないかという。〈メアリーの部屋〉の思考実験でわかるように、構造だけでは意識体験を捉えることはできない。この見方は〈カント的謙抑(物自体は不可知)〉と通底している。カントによれば、我々は時間と空間、因果関係といった「もの同士の外在的関係」は認識できるが、「ものの内在的性質(他のものとの関係性から独立の性質)」は認識できない。つまり現象として認識できる領域は関係の広いネットワークすなわち〈構造〉であり、著者はそれが「意識」と関係があると考えているようだ。
我々が「見た通りのものが実在する」と信じていた〈エデンの園〉と異なり、科学革命以降は「実在は見た目以上のものである」と我々は信じている。この見方はシミュレーション内部にいる時と同じだ。では前者〈マニフェスト・イメージ〉と後者〈科学的イメージ〉は何が違い、どのように調和されるべきなのか。
著者は、後者をもとにして前者の概念を作り変える〈再構築〉を提唱する。我々は科学革命後、〈原始主義〉から現象をその役割や働きから理解しようとする〈機能主義〉に移行したのであり、そこでは構造主義と同じく因果構造が重視される。経験論者ジョン・ロックがいうように、赤色は原始的・客観的な第一性質ではなく、正常な知覚者の内部で固有の感覚経験を引き起こす「因果的な力」となる。同様に、空間も科学革命後は内在的に実質を持つものというよりは、派生的・付随的に supervene するものとして、主にその機能面から捉えられるようになる。
そうしてみると、これはバーチャル空間での色や空間の捉え方と同じであることがわかる。それらは〈エデンの園〉における意味では存在しないが、機能的な意味ではノンバーチャル空間と同様に存在している。そこでは全ては見た目通りではない。相対性理論や量子力学、ひも理論が我々の直感と相反するのと同じように。しかし一旦機能主義を採用してしまえば、バーチャル空間や相対性理論の世界における経験も実在と同様に理解できることになるのだ。
それでは「全ては錯覚だ」ということになるのだろうか。エデンの園のマニフェスト・イメージは正確な外部世界の反映ではないかもしれないが、それでも現実を生きるためのガイドとしては十分実用に足るものだ。しかしそれを実在と考えてしまうと即座にデカルト的懐疑に直面する。やはり空間や色は外部世界に直接備わるものではなく、その様な機能を我々の側に生じさせる因果的構造なのだと考えるべきだという。つまり全ては錯覚であり錯覚ではないのだ。認知学者ドナルド・ホフマンは、我々の認知が正しいかどうか、つまりインターフェースは進化の面からすれば副次的な問題であり、重要なのは環境に適応し子孫を残せるかどうか、つまり機能面や因果構造面だという。だとすれば、エデンの園における我々の知覚もインターフェースとしては十分実用的だが、外部世界の忠実な反映である必要はないのだ。
スラヴォイ・ジェクはこの状況を反転させて、むしろすでに通常の物理的世界の方がバーチャル化しているのだという。そもそも物理世界も機能主義的な構造の世界なのだ。著者はこの立場を〈不完全実在論〉と呼ぶ。自由意志も善悪も、人間から完全に独立した絶対的ななにものかは存在しないが、機能的にそれらと同等の役割を果たすものであれば存在する。錯覚であり錯覚ではないのだ。そして意識も錯覚ではあるが、我々が色・時間・時間の特質を構造化するためのプラットフォームとして実在していると言える。エデンの園を追放されてプラトンのイデア界へのアクセスを絶たれた我々は、意識を通じてそれらと同等の特質を経験できるのだ。
終章では再度デカルト的懐疑に戻る。究極のグローバル懐疑論とも言える〈ボルツマン脳〉説を採用すると、我々は外部世界の知覚と付随する科学的推論を否定することになる。そうすると、ボルツマン脳の成立根拠となる物理理論をも否定せざるを得ない。したがって著者はグローバル懐疑論は否定されるべきなのだという。我々の経験法則を説明不可能にするようなボルツマン脳などの〈カオス説〉は、驚くほどの偶然に頼ることになるので、確率的に真ではあり得えず、我々はそのシナリオ内にいないことが確かめられることになる。つまりまずデカルトの〈知識の問い〉にはイエス(外部世界は「知覚できる」)と答えられ、さらに外部世界が知覚できるのであれば何らかの構造があるはずであり、つまり〈実在の問い〉にもイエス(外部世界は「存在する」〉と言える。つまり「説明(知覚)」が「構造」を生み、「構造」が「実在」を生むのだ。
自身が認めている通り、著者の見方は〈認識論的構造実在論〉者としてのカントに近く、カントの観念論にある程度の親しみを持つ自分にとっては本書の主張には肯じえる点が多かった。