松本卓也のレビュー一覧
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みんなの共有財、コモンについての話の前に、今の現状は新自由主義によって生まれた資本主義はどう出来上がってきたか、白井聡さんの説明から始まります。
60s-70s学生運動から始まったとされ、その中の日大紛争がまさか最近の日大理事長田中氏につながるとはびっくりですね。それに、反共産主義の統一教会、東大駒場寮や早稲田学生会館を取り壊した経緯、段々と学生運動は衰退しやっぱり綺麗な大学が魅力的になり、そして今では学食プリペで家族にも安心など、学生を孤立化させ、安心安全の無菌室へと誘導することで国の指示通りが一番安心だと信じ込ませた現在。なるほど、本当の自由がなくなっているのに、これだと気づかれにくいですね。こうして自治は衰退してしまったという。
松村圭一郎さんはわたしたちが思い込んでいる自治と自由とは「税という対価を払って後は専門家にお任せする」という意味になってしまっているようです。
その新自由主義マーケットをどう変えていくかが課題で、そこに古着屋とライブハウスの例え話しは素敵なエピソードでした。わたしも個人経営のショップや居酒屋、カフェなどに行って無駄話したりして楽しみながら貢献したいです。
コモンと同時にケアも含めて考える杉並区長の岸本聡子さんはアムステルダム、チリ、バルセロナなど海外の事例をもとにフェミナイゼーションで自治を変えたいと熱弁。
コラムでは斎藤幸平さんの神宮外苑再開発問題で、元々住んでいた方々のお話しの中で考えることが大前提だと納得できるお話しでした。
藤原辰史さんは、権藤成卿という思想家の失敗から自治を考え、人間にとって最も重要な「食」こそ、未来の自治ではないかと考えます。
社会を良くするために、反対運動の座り込みやデモで反抗しても失敗の歴史を見ればよくわかるという。
そこで最後に斎藤幸平さんが今までの国家から考えるトップダウン型ではなく、そこで暮らす身近な地域から課題を上げていく、ボトムアップ型で解決できないかをまとめていました。
リーダーは一人ではなく何人ものリーダーを交えて、アントレプレナーの能力を養っていくそんなイメージでした。
国家は大企業がたくさん税金を納めている以上資本主義的な政策ばかりで富裕層のための政策はこれからも続くと思います。そんな世の中ではいつまでも一般庶民は変わらないままですね。本当に良くするための具体的な対策が描かれた大事な内容でした。人任せにせず自分で考え判断して協力していきたいと思います。
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『心の病気ってなんだろう』
統合失調症、うつ、PTSDなどの精神医学の極めてやさしい概略本。
精神医学の治療で重要なことは、原状復帰ではなく、病気になる前とは異なる形になること。病気になる前と同じ状態に戻ってしまうと、また何かのきっかけで再発してしまう。再発しないような形に寛解していくことが重要。
転移という治療法も興味深かった。一般にトラウマとは、現在では操作不可能(記憶さえも抑圧されて、ない場合すらある)な心の傷である。そのままでは、治療できないが、治療しないと別のところで回帰してしまい、病状として現れる。その場合、精神医は心の傷が起こった当時の人間関係をそのまま精神医と患者の形にすり替える転移という手法を使う。例えば、母子関係に問題があったのであれば、患者にとっての母なる存在に精神医がなる。そうすることで、操作不可能な傷を現在に引き上げ、操作可能にする。母子関係の断裂が原因であれば、一度母子関係を再現した上で、病状に現れないような正常な形で分離を図る。こうすることで、新たに関係性を作り替え、寛解させる。映画「バタフライ・エフェクト」のブラックアウトはトラウマの一形態ではないかと思う。(主人公は自分で過去を改変することで、治してしまったが…)。
うつ病と統合失調症には時間感覚と関係性があることは興味深かった。
うつ病では、時間がどんどんゆっくりになっていくという制止という症状が現れる。時間がもっとゆっくりになっていくと、最終的には心を使う活動ができなくなる。意識ははっきりあるが、全く動けない、全く話せないような状況。これを昏迷とも呼ぶ。人間が体験している時間というのは新しい「今」が次々現れているような時間であり、さっきの「今」は、次の瞬間には過去になっている。逆に、「今」があるということは、「未来」があるということ。しかし、制止や昏迷になると、今がのっぺりと今のままに留まってしまい、未来がやってこない。今が今に留まってしまい、未来がなくなると、相対的に過去の比重が高くなる。そうして、自分の過去に目を向けると、自分に自信をもたせるような過去は既にだめになっているので、過去の些細な悪いことに目が行くようになり、罪悪感などの妄想から動けなくなってしまうという。自分の中の、記憶や知覚において、過去の存在がどんどん大きくなってしまった時に、人はその時間が止まってしまう。うつ病に限らず、人間にはあること思う。
現在、うつ病における治療は休息が中心と書いてあるが、この時期は相当つらいのであろう。
Sumikaというバンドにカルチャーショッカーという歌があるが、その中の、「過去の清算が今を止めちゃう前に」というフレーズがとても好きなのだが、まさにうつとは、過去の清算が今を止めてしまう状態のことなのであろう。 -
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非常にわかりやすい。研究者が観察して得た知見だけでなく、心の病の当事者が発した言葉も重視しているため、極めて共感的だ。思うに、発達障害やうつ病など、目に見えない心の状態を浮き彫りにした精神医学は、我々の認識を刷新しただろう。こういった心の状態は現実にその状態なのであって、受け入れたくなくても、現実なのだ。しかし、心の状態の認識を獲得したら、我々はこれに向かい合い、当事者を理解できる。当事者にしても、心理学や医学などの学問の恩恵もあって、自分の状態を言語化して表明でき、相互理解が可能な社会が準備されつつあると言ってよい。とはいえ、個人個人の状態は千差万別であり、学問の抽象概念で一括りに理解してしまうのは早計である。つまり、我々はもっと当事者の言葉に耳を傾け、行動を見守り、彼らを追体験して受け入れられたらと思う。何々病とか、何々障害でレッテル貼りするのではなく、今ここにいるその人を見つめることだ。この時に重要なのが、彼らを追体験するではないか。
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興味深く、ほぼ一気読みで読んでしまいました。
心の病気は本当に心だけの問題なのか、体の病気とどう違うか、どのように治療していくか、それぞれの病気の症状はどんなもので、患者さんはどう感じているのか。とても分かりやすい言葉で書かれていて一気に読み進めてしまいました。
私は過去にうつ病と診断され、現在は躁うつ病(双極性障害)と診断されているので、その辺についての知識はあったのですが、統合失調症や認知症、発達障害についてはまだまだ知識がなく、なるほど。と思いながら読み続けていきました。
病気だとその人すべてが病気と思ってしまいがちなところですが、人間らしいところが残っているからこそそれが症状として出てきたり、自分を守るために外から見たらおかしな行動をとったりしているという事が分かってとてもよかったです。
発狂という言葉に対義語がなく、行ったら行きっぱなしという点から精神疾患が悲劇のものと見られているという視点にも、なるほど。と思わされました。
最初の章で精神科病院やそれらを取り巻く環境の歴史についても触れられていて、興味深かったです。
心の病気の回復と体の病気の回復では回復の意味が異なるというのが今回の本でグッと来た部分です。私もいい回復していけるようになりたいものです。 -
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「創造力が病にもかかわらず現れたのか、それとも病のためにこそ現れたのか」ー ヤスパースはかつて創造と狂気の関係についての問いをこのように立てた。本書は、およそこの問いに対する哲学者たちの解釈と理解を通して、狂気の歴史を辿るものである。それは、いわゆる「病跡学」と呼ばれるものの成果でもある。「病跡学」とは初耳だが、本書の中でも紹介されているヤスパースによる次の定義の通りだ。
「病跡学とは、精神病理学者に興味のある精神生活の側面を述べ、かような人間の創造の原因に対してこの精神生活の諸現象諸過程がどんな意義をもつかを明らかにする目標を追求する生活記録である」
病跡学の対象は芸術家や哲学者であり、注意深くその作品や日記を追っていくことで、精神病理と創造的活動との間の関係をみることができるのである。例としては、クレッチェマーの『天才の心理学』などを挙げることができる。
「統合失調症」はその中でも特権的な位置を与えられてきたという。統合失調症がはっきりと確認できるのは十九世紀以降だという。本書ではデカルトやカントが取り上げられているが、著者によると「統合失調症が近代的主体とともに登場した、と推測できる」という。近代的自我を人間の条件であるとすると、「狂気になる可能性をもつことが、人間の条件である」といえる。
フーコーの『狂気の歴史』によると、狂気に対して寛容で社会の機能として組み込んでいたものが、十七世紀の中頃以降に次第に社会から排除され、不可視なものとされ、沈黙させられたとされる。近代的自我の成立と、狂気の歴史は密接に結びついているというのが、共通する理解でもある。そこから近代的自我に組み入れられないものが創造性として立ち上ってくるときに、それは統合失調症とともに発現する、というのが主張でもある。
さて、それはどういうものであったか。
著名な芸術家の統合失調症の事例としては、ヘルダーリンが有名である。本書でもヘルダーリンにまつわるフィヒテとのやりとりなどが創造と狂気の関係の新しい現れとして解釈される。また、時代を進めて、梅毒による進行性麻痺だったニーチェの創作活動に関しても、その病歴との関係を論じたヤスパースやランゲ=アイヒバウムが紹介される。
やがて狂気にまつわる言説は、「詩の否定神学」として論じたハイデガー、正しく『狂気の歴史』を世に問うたフーコー、そこからフランス思想の潮流に沿ってラカン、アルトー、デリダ、レーモン・ルーセル、ドゥルーズによる「狂気と創造」への比較的ポジティブな評価を述べる。
現在、統合失調症は早晩理性の崩壊に至る不治の病ではなく、脳生理学的な薬物療法が効果的で対応が可能な病気になりつつある。統合失調症がかつて持っていた悲劇的ではあるが、それゆえに一層一瞬の輝きをまとうという特権を剥がされつつある。かつて「狂気」は隠されつつ、不可侵なものとして扱われていたが、現在は近代医学の中で可視化され、医学的分析の対象となってしまっているのだ。統合失調症がその特権をはく奪されるとともに、鬱やASDなどの症状はその範囲を貪欲なまでに広げようとしている。そして、およそ同時にこれ以上言葉を紡ぐことに自制を求めるような自発的な圧力を感じるのである。
本書の意図は届いたのだろうか。この本の対象となる読者はどのような読者なのだろうか、と気になる。「狂気」に直接的に対面することなく、言葉だけで「狂気の歴史」を語り、それを相手に伝えることの不可能なまでの難しさを感じる。本という媒体での限界を感じつつ、『狂気の歴史』の方をいまいちど読んでみるべきなのかもしれないと思うのである(そして、おそらく当分はそうしないのだが)。 -
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自己実現や精神分析による自己の掘り下げを特徴とする「垂直」方向と、自助グループや居場所型デイケアなど、隣人とかかわっていくことを重視する「水平」方向。水平方向が重視される時代だけど、単に水平であればいいわけではなく、そこからちょっとした垂直方向の突出を可能にする「斜め」の提案。
とはいえ抽象的な話が多くて難しかった。人文系の本らしく、一つの主張をさまざまな先行研究を引きながら丁寧に積み上げていくスタイル。哲学的な話は苦手かも。
「斜め」の主張そのものはそうなのかぁという感じだったけど、ちょうど直前に読んだ『どうすればよかったか』に出てくる統合失調症のお姉さんの発病過程が、この本で描かれていた発病過程と重なって、そこは妙にリアルに感じたり。
以下メモ
・統合失調症の発病と回復(中井久夫)
統合失調症を発症した人は、子ども時代から周囲の変化を過剰に読み取り合わせていく傾向がある。それは、「次の瞬間に何があるかわからない」という不安と期待がずっと続いている状態。安心して住むことができず、「よゆう」がなくなり「あせり」が生じてくる。あせりを解消しようと、唐突に「無理」をしだす。余裕はもはや消え失せ、不安が増大する。あらゆるものが兆候となり、患者は「ホワイトノイズとまぎらわしい最もかすかな兆候を捉えようと思考の枝を延ばす。そしてかすかな兆候から1つの、ときには非現実的な全体を憶測する」
急性統合失調症状態が始まると、いまや「世界」と「自己」は二分され、患者は世界にたった一人で対峙する感覚を持つ。
そこから回復にいたるまでには、患者が水平方向の「共人間的世界」にひらかれなおし、「ゆとり」を維持することが必要。
・統合失調症患者の社会復帰とは
一般に、社会のマジョリティ―の生き方に彼らを戻すのではない。
巧みな少数者として生きること。統合失調症患者は、「治療者や家族の思いのよらない生活世界」をもっている。「巧みな少数者」として生きることは、「ふつう」に人々と同じ世の中を生きながらも、その「ふつう」の世の中の別のあり方を生きることであり、ひいては「ふつう」の世の中それ自体を重層化してみせることでもある。
たしかに、彼らは「ふつう」の隊列を乱すものであるかもしれないが、しかし実際にはその隊列そのもののほうが、「狂って」いるのかもしれない。
・依存症
依存症の回復において重要なことは「もう絶対クスリはやらない」のような「一度きりで決定的な」過去の切断ではなく、「今日1日だけシラフでいること」を実践し、それを一日ごとに「そのたびごとに」繰り返していくことである。
回復とは、回復し続けることである、をスローガンとし、「その後」をどうにか生き延びていくことが求められる。
・水平のつながり
自助グループや当事者研究のような、同じ困りごとを抱えた人たちが、
水平で相互依存的な関係の中で、相互にエンパワーメントされていく。
それはみんなが標準化(画一的)にされてしまうのではなく、水平的なグループの中で、存在免責されるからこそ、責任を引き受け、垂直的に突出できることがありうるような、豊かな水平方向と呼べる。 -
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「フロイトへの回帰」をとなえたラカンが、フロイトのかかわった五つの症例をどのように読みなおし読み替えたのかということを検討し、フロイトからラカンへつづく精神分析の継承および発展の内実について考察している本です。
症例ドラにかんしてラカンは、ヘーゲルが『精神現象学』において論じた「評価する意識」と「行動する良心」の弁証法に触れつつ、ラカンがフロイトを乗り越えて弁証法的反転の解釈を推し進め、ドラが女性性を引き受けようとしていたことを明らかにしています。
症例鼠男では、フロイトの生物学主義を構造主義に書き換えることで、ラカンが親の世代からこの世代へと引き継がれる問題を解決しようとしたことが解説されています。さらに症例ハンスでは、エディプス・コンプレックスの構造に踏み込んで解説をおこなうとともに、ラカンの思想における象徴的な「父」の役割が論じられます。さらに症例シュレーバーでは、「父の名」が機能しないことが精神病における妄想を引き起こしていることが、ラカンの理論にもとづいて説明されています。
最後にとりあげられているのは、症例狼男です。この症例の解釈をめぐって、ラカンはフロイトの治療論に抗しつつ、精神分析における治療とはなにかという問題を提起しています。フロイトは、狼男が幼少期に両親の性交場面を目撃したことに、彼の強迫症状の源泉を求めるとともに、父親との関係がフロイトとの関係に転移されていることを見てとりました。しかしフロイトは、狼男とのかかわりを通して精神分析の理論を補強し、狼男ではなくフロイト自身の「主体化」をおこなったとラカンは批判します。ラカンの変動時間セッションは、こうした分析家による「主体化」の簒奪を防ぐことで、「あらかじめそこにある真理」へと回帰するのではなく、「まだそこにない真理が到来する」ことを待つための実践的な技法でした。こうして著者は、ラカンが症例を読みなおすことで、臨床の場面におけるフロイトの継承とその超克を図ったことを明らかにしています。 -
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・ハイデガー主義を弁証法的に考察することで様々な視座に立つことを試みた一冊だった。他者と横ならびになって、その平均的な価値観に埋没してしまうことを「頽落」とし、「非本来的」であるとするハイデガーの思想は、私にとっては根強いものだった。自分の考えとか、お前らにはなんにも無いでしょ?みたいな。それよりは、死を先駆的に覚悟して「本来的」であろうとすることのほうがかっこいい。自分はそのかっこよさに憧れていたように思う。そうやって「死ぬための思想」に酔っぱらってしまうことの危険性が連合赤軍事件を例に説かれていて、痛ましいがゆえに深く考えさせられた。
・「今日から一切、酒を飲まない!」と決め込むよりも「一日、シラフでいよう」とその場ごとに繰り返していく。それは、自分の弱さを認めることの大切さについて説いているのだなと思った。酒を飲んでしまう、散財してしまう、仕事をサボってしまう、そういった悪癖を自分の「一度かぎり決定的な」意思の力で完全に打ち消してしまうことは不可能だ。それよりも、それをあるものとして、付き合っていく。その日ごとに、対処していく。そんな小さなマインドの変化で、自分との向き合い方は随分と変わるのかなと思った。
・疾患を治すことを、「ふつうの状態に戻す」とは定義せず、「巧みな少数者として生きる」ことを目指すという言説が印象に残った。「ふつう」とされる人たちとは違うことを、ムリに矯正するのではなく、それを特性と捉えて活かすことが出来る。その考えた方は、精神疾患だけでなくコンプレックスや自己嫌悪に陥ったとき、万人にとっての薬になる気がした。