松本卓也のレビュー一覧
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精神病理学や精神分析の分野において、人の心や人間関係、社会でのあり方は「垂直的」な方向で理解されていたが、20世紀後半から段々とその治療において「水平性」が重視されるようになってきている。しかし、水平性を単に称揚すると、そこには個性を抹殺する平準化の危険をも孕んでいるといえる。
そのバランスの解として、精神医療の現場でここ数十年実践されてきた比較的新しい取り組み………依存症の自助グループや当事者研究、オープンダイアローグ等の有効性を検討することで、「水平性の中にちょっとした垂直性を見出す」つまり「斜め」を志向することに、健全なる脱垂直性の解決を見出した一冊……なのだと思う。
何せ今まで一度も触れたことのない分野。
精神分析はおろか、哲学すら触れたことがないので、ハイデガー、ラカン、ガタリなど、教科書で名前は見たことあるな…という超高知能のお歴々の難解な概念を読み下すところからエネルギーをかなり要した。
しかし、本書で取り扱う領域は、かなり難解な概念でも、必ず精神医療の現場における観察や実践に基づいており、本書でも具体的な場面が豊富に語られるため、どうにかこうにか主張についていけるようになっている。
本書は徹頭徹尾、精神分析、精神医療の現場からの思索ではあるが、にも関わらず我々にとっても身近な話に読める。
というのも、垂直的な権威が否定され水平的な関係性が重視されているのは、現代社会全般の特徴であることは多くの人が頷くところであろうし、またその水平性の過度の重視がさまざまな困難を生みつつあるのとまた生活の中で色々と思い当たる節があるのではないだろうか。
いわゆる精神疾患や依存症者は、マジョリティの世界からはみ出した人たちの、発症と寛解の過程を追うことで(その肝が「斜め」の導入であることを触れることで)、マジョリティではありつつも何だか生きづらいと感じている市政の人にとっても、この世でうまく生きていくための示唆が得られるように思う。
例えば?と言われると、そこまで考えを自分のものにしきれてはいないのだが、読み始めた時に「未知の分野の話」だと思ったのに、読め終える頃にはこうやって身近なテーマに引きつけて考えられるようになったという時点で、本書の論ずる内容に一定の普遍性があるのではないかと思えるし、単に面白かった。
知的好奇心を広げてくれる好著だった。 -
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ネタバレ本書をどのように友人に紹介出来るか考えると、一言の表現では多くのエッセンスが抜けてしまいます。大筋の内容を辿ると統合失調症を皮切りに展開されていく心理の主流な捉え方の変遷と言えます。やはりキーワードとなるのは垂直と水平だと思います。垂直の捉え方として高みと深みが一本の線で捉えられることを学べたのは私の大きな収穫でした。心理や哲学に馴染みがあれば、より読みやすいと思います。
以下は感想文とは離れてしまう個人的な文章です。
本書で提示されるワードで多くのことを考えました。精神病のなかでも一番つらいのは統合失調症だと私は思っています。作業所にいた統合失調症の子はトイレで発狂する、壁を叩くなど手が余る様子でした。ただ、話してみると意外にも普通に話せて、どうして叫んでしまうのと問うと、声が聞こえるんだと言っていました。彼は馴染めなかった世界の犠牲者で、そして生きるために高みを目指してしまったのだなと読んでいて悲しくなりました。一方で私はうつ病で深みへと潜って自らの死と戦っていました。彼は世界の言葉と、私は私の言葉と戦っていて、高みと深みで対極でありながらも私たちは戦っていました。
垂直方向に伸び切ったものを水平方向の張力で適切な均衡へと移していくやり方は体験的に合っていると思います。私が死ねなかったのは家族の顔が浮かんだからで、最後に残っていた水平への力でした。死ぬための思想に取り憑かれていましたが最後の最後で生き延びる思想が残っていました。
垂直から来る特攻的な思考は一回きりの決定になる考え方も大きな学びでした。女性と男性で責任の捉え方が大きな違いがみられるところには思い当たりがありました。恋人関係にある女性が妊娠したことを結婚で責任を取るというのは確かに一度限りの決定的な決断で、その後を含んでいないなとハッとしました。
当事者であることと、当事者になることにも差がある捉え方にも納得しました。 -
Posted by ブクログ
精神病(主に統合失調症)=狂気を契機、あるいはダシにした、特権化した理論体系、パラダイムの流れ。
神の代用としての統合失調症。
深淵、無というものは一体何なのかという疑問の解決法とは?デリダの脱構築を知る。
ドゥルーズの健康としての狂気、父や母の権威のない状態、何人も特権化され得ない現代。ただし、そこにどう系譜を組み込むか。
言語の地すべり、土砂崩れ、差延、雪崩…言葉遊び。
文学、または言語活動も、ひいては世界も、意味や言葉の表面的な横滑りでしかない、のか。
法を犯すのではなくその縁で賭けること、投企すること、ギャンブル性、遊び。偶然にはまだ行けない自分。
断絶された外、神からの闘争、逃走として、自閉する、内の中で表面的に横滑りし続けることが現実と接する方法=創造か。
それと専門性、規律、ディシプリンとその周辺をどう関連付けるか。 -
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特に印象なのは社会的には「水平的関係」が騒がれているものの、私の身の回りは「垂直的関係」が強く合わられやすいことに気付かされたこと。
本の中では、精神疾患に関して語られているが、日常の仕事も「垂直的」に行われ、そこで抱えたストレスを気の合う人たちで「水平的」ケアしていく。という行動がよく見られる。
日常的にも大小ありながらつながるものを多く感じた。
実用的に考えるのであれば、器用ではないので、短期的に垂直・水平を行き来しながら長期的スパンで俯瞰して振り返ると、斜めに進んでいる。
そんな捉え方をして本書の学びを活かしていけると良いかと考えた。 -
Posted by ブクログ
垂直、水平、斜めという空間性から精神医学とその周辺を整理して考え、斜めに可能性を見出そうというのが本書です。
「現代は、ケア論の隆盛に代表されるように、人と人との水平的なつながりの重要性をいうことがスタンダードになった時代である。けれども、単に水平的であればよいわけではない。
水平方向は、しばしば人々を水平(よこならび)にし、平準化を導いてしまうからだ。けれども、水平方向には日常を捉え直し、そこからちょっとした垂直方向の突出を可能にする契機もまた伏在している。ゆえに、垂直方向の特権化を批判しつつ、しかし現代的な水平方向の重視に完全に乗るわけでもなく、「斜め」を目指すこと…。」
認識は経験の後を追う、と聞きます。多くの言説を空間性で整理した著者が、どんな実践をされているのか、興味を持ちました。例えば、本書に取り上げられなかった精神障害(双極性障害など)はこの枠組みでは、どう記述され、治療に当たられるのか。
精神病理学にあまり馴染みのない私は、引用部分を飛ばして読みました。著者の語り口と、引用部分の語り口は、ずいぶん違うからです(特に翻訳である場合)。著者が引用部分について後でさらってくれます。
そういえば、雑学の徒、と自分のことを書いておられた中井久夫さんが、第二章で取り上げられていて、懐かしく思いました。 -
Posted by ブクログ
とてもすっきりとした記述で読みやすい。
中井久夫が統合失調症の寛解課程に着目する際、描画法という通常の言語による語りとは違う表現方法を媒介にして、統合失調症が慢性化したと見られる患者は日々動揺した状態にあることを解明したところが面白かった。統合失調症は安定状態ではなく、準安定状態として理解すべきである。安定状態に見えていたのは、動きを表現する媒体がなかったからで、媒体を変えることで動きが記述可能になることがある。
通奏低音として、ハイデガーの存在と時間に端を発するとされる、一種の垂直的決断主義への批判がある。というか本来性というものへの批判。
一度限りの決定的な決断ではなく、そのたびごとになされる決断を擁護すること。禁煙はなんとなく吸わない日を作ることから始まるし、続く。絶対にやめるという決断は自分を追い詰め、失敗したときの無闇な自己否定感だけが残る。論文も同じようなものだ。一本の決定的な論文を書くのではなく、そのたびごとに可能な論文を更新していく。
回復とは回復し続けること、というのは良い格言だ。
当事者とは、現実の社会において適応するのではなく、自分のニーズを自覚し、新しい現実を作り出そうとする人である。であるなら、人はある属性によって外部的に当事者として位置付けられるというよりは、能動的に当事者になる必要がある。当事者になり続ける必要があるといってもいいかもしれない。
ハイデガーが水平的な気遣いが、世人を平準化し頽落させるという否定的な側面にしか着目しなかったのに対し、類似的他者を気遣い依存することが世に棲むことを可能にし、他者の理解可能性を育む。
自閉症者が他人の家に内部が存在しないと思っていたというエピソードがとても印象的。 -
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とても素敵な本。「自治」の実際が語られていて,なんか,やる気が出るような来ます。著者によっては,少し難解な部分もあるのですが…。
最後の斎藤幸平さんの「「自治」の力を耕す〈コモン〉の現場」より,今の教育現場にも通じる話を引用します。
…労働問題に取り組むNPO法人POSSEの代表である今野晴貴さんは,次のように指摘します。
ブラック企業問題が解決しない原因は,労働法が存在しないからではない。むちゃくちゃな働かせ方を取りしまう法律自体は日本にもある。あるけれども,労働組合が弱体化した日本では,企業のほうが圧倒的に強く,労働者には力がない。そのせいで,法律の運用が形骸化し,「違法労働」がまかり通ってしまうのだ,と。(本書245ぺ)
斎藤氏は,このように引用した上で,マルクスの主張を取り上げて次のように述べています。
…私が専門としているカール・マルクスは,トップダウン型の法制度改革を「法学的幻想」だと批判し,「下から」の変革を重視しました。具体的には,マルクスは,「自治」を育むボトムアップ型の組織を「アソシエーション」と呼び,このアソシエーションを広げていくことが,社会を変えていくための基礎だと考えたのです。(本書246ペ)
今ある労働組合をどうするのかも大切なことですが,今一度,現場の教員にとって大切にしたいものはなんなのかを話し合い,それを実現するために,どんな風にボトムアップしていくのか,どのように仕掛けていくのか,下からのしたたかな自治を作り出していくことが必要ですね。
言うは易く行うは難し…ですが,諦めないで,ときには,子どもの人権に関わることが明らかならば,現場で闘うしかないでしょう。
その積み重ねが,職場の過ごしやすさにつながると思います。
既存の労働組合の「とにかく数だけを守る闘い」からの脱却が必要なのでは。 -
Posted by ブクログ
「当事者意識を持つこと」の重要性を実感しました。
「自治」というテーマのもと、様々な分野における「自治」のあり方について論じられていました。
特に、現代社会における「上から」の改革の限界を指摘し、真の社会変革は、一人ひとりが「当事者」となることから始まることを強調していました。
この著書における「市民科学」の例は、この「当事者意識」の重要性を感じられます。専門家だけに任せるのではなく、市民自身が社会問題の解決に向けて積極的に行動を起こす「市民科学」の動きは、従来の「上からの」改革ではカバーしきれない問題に取り組む、新しい可能性を感じられました。
p125~武器としての市民科学を (木村あや)
このような当事者意識を持つことの重要性を、様々な角度から浮き彫りにしています。 「上から」の改革に依存するのではなく、一人ひとりが「当事者」として社会に関わっていくことの重要性を、再認識することができると思います。