松本卓也のレビュー一覧
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『斜め論』を途中まで読んで積読している私でも、まったくわからない内容ではなかった。ただ、後半は急に難易度が上がり、編集したのかと疑いたくなるくらいだった。
ラカン本人の文章は全然わからない。引用されるたびにうんざりした。それでも、本全体を通して何もわからなかったという感じにはならなかった。特に5章のラストは衝撃だったので、そこまで読んでよかったと思う。
一番残ったのはシェーマLだった。自分と相手がそのまま向き合っているわけではなく、自我のイメージや他者の言葉が入り込み、自分自身さえ自分で完全にはわからない。そこから無意識というものにも関心を持った。
「ねずみ男」の症例も印象に残った。単に言葉の意味がつながったから治ったというより、フロイトとの関係そのものまで含めて考えないと説明できないのではないかと思った。人をその人の内側だけで見るのではなく、他者との関係の中で見るというラカンの考え方が、少しだけわかった気がする。
『論理的思考とは何か』が刊行されてから約2年。今ではメディアはもちろん、論理的思考そのものまで行方不明になり、何が正しいのかもよくわからなくなっている。ラカンはこんな世の中になると予想していただろうか。
そんな今だからこそ、ただ正解を探すだけでは足りないのかもしれない。自分がなぜそれを正しいと思っているのか。その「自分」はどこまで自分なのか。そんなことを疑うために、シェーマLのSをはじめ、ラカンをもう少し理解してみたいと思った。 -
Posted by ブクログ
”水平方向には日常をとらえ直し、そこからちょっとした垂直方向の突出を可能にする契機もまた伏在している。ゆえに、垂直方向の特権化を批判しつつ、しかし現代的な水平方向の重視に完全に乗るわけでもなく、「斜め」を目指すこと…そのような弁証法的な思考を、精神科臨床、心理臨床、当事者研究、制度論的精神療法、ハイデガー、オープンダイアローグ、依存症といったテーマに即して展開したのが本書のすべてである”(”おわりに”より)
すごく興味深い。
長じて統合失調症を発症する子供の、兆候性に圧倒されながら目立たぬ術を獲得して生きのびようとする、に胸を突かれる。
P6 「心」をめぐる言説の2つのパターンが出来上がった。前者は「心」を高さとの関係から把握し、何らかの理想という高みへと向かうことを是とするものである。そして後者は、「心」を深さとの関係から把握しようとし、啓蒙の光によっていまだ照らし出されていない闇との関係からその深さを測量しようとするものであった。
P8 現代日本において「ケア」と総称されている臨床実践に共通しているのは、高さや深さを重視する垂直方向の臨床に対するアンチテーゼにほかならない。本書で論じたいのは、このような垂直方向から水平方向への転換が、いったいなぜ、そしてどのように生じたのかということである。
P11 垂直性を批判することによって実現された水平性が、いつの間にか私たちを平準化するものとなっていないか?というたえざる問い直しが必要とされるものである。
P56 のちに統合失調症になる子供は「兆候性に圧倒される」。養育者の表情のちょっとした変化に対して過剰に敏感であるのだという。このような生存の女権は、人に合わせたり、対人関係を上手にこなしたりするスキルを子供に獲得させてくれそうに思えるかもしれないが、実際はその逆である。なぜなら次々とあふれ出す兆候にその場その場で対応し続けなければならないということは、一秒たりとも落ち着いていられないということでもある。【中略】このような子供は、学童期には「巧みに目立たぬ術を獲得」しており、いじめの標的になることが少ないと中井は述べている。
P73 病気はたいてい「ふつう」からの逸脱のことだとされている。【中略】しかし「ふつう」すなわちマジョリティの生き方ができるようにするのが治療であるという素朴な考え方は、とりわけ統合失調症者に対しては、時にきわめて過酷なものとなる。元来「ゆとり」がなく「手のかからないよい子」であったり「巧みに目立たぬ術を会得」しなければならなかった患者にとって、マジョリティの生き方に改めて加入することは「行き着くところも経路もわからない、安全を保障されない旅路」に戻ることにほかならない。そのような危険な旅路の中で委縮して生きることは、決してありうべき回復の姿ではない。
P76 韓会期初期の患者は、角を出し始めたカタツムリではなかろうか。角を出したのに喜びすぎて、もう二度と角を引っ込めないように、やっとこで角をつかむ愚は避けたい。我々は、蝸牛の前の意思をのけるなど、一般的には探索行動の邪魔をするものを除くことを第一義とするのがよいのではなかろうか。ただ断崖に臨めばそっと点どうする必要はあるだろう(中井)
P103 「死ぬための思想」は威勢がありかっこよく、しびれる。対するに「生き延びるための思想」は、ダサく、みっともなく、うじうじとカッコ悪い。【中略】ひとは往々にして「死ぬための思想」のほうに絡めとられていってしまう。【中略】だが先に挙げた依存症やトラウマの事例を考えれば理解できるように、実際には「非本来的」とされる生をどのように生き延びていくかにこそ、問うべきことと語るべきことがある。
P136 「何事にも当事者がいるのだから、その当事者に主権を渡そう」という話ではなく、「ひとは最初から当事者であるわけではなく、ニーズを抱えたときに当事者になる」
P158 「苦痛」と「苦労」の対比は、上野千鶴子のいう「死ぬための思想」と「生き延びるための思想」のそれとよく似ている。【中略】死ぬしかないと思えてしまうような煮詰まった状態にある「苦痛」もまた、現実という地に足をつけた「苦労」に変えることができ、その「苦労」を生き延びていくことの中にこそ回復があるのだ。【中略】「一度限り決定的な」大義と結びついた「苦痛」から離れ「そのたびごと」の「苦労」に目を向けることができるようになることこそ、回復なのである。
P184 諸個人の特異性をたちあげることと、水平性を確保することをいかに両立するかが問題である。そのような両立を可能にするいわば斜めの組織や集団の在り方を、ウリはコレクティフと呼んだのである。
P206 ハイデガーによる3つの気遣い ①配慮的な気遣い②顧慮的な気遣い・尽力的顧慮③本来的な顧慮的な気遣い・垂範的顧慮 ②の顧慮的な気遣いにあっては、他者は依存し支配される者となる場合がある
P267 (アディクションアプローチとハームリダクションの間の緊張)ハームリダクションは、初めから水平方向の実践なのである。このことが人口全体の管理へと結びつく危険性に信田は注意を促している。
P269 フーコーによれば、現代では「規律権力」は徐々に「安全装置」と呼ばれるものによって取り替えられつつあるという。この二つの権力には明確な違いがある。安全装置はもはや個人を教育・純化するのではなく、むしろ諸個人の行動を個人に直接介入することなく、時には個人に気づかれることなくコントロールしようとする権力なのである -
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人新世の「資本論」の斎藤幸平、「永続敗戦論」の白井聡、岸本聡子杉並区長ら
そうそうたるメンバーが自治を語る、コモンを語る、自律を語る。
正直難易度が高く、頭に入らないものもあった。
一番理解しやすかったのは藤原辰史さんの農業の自治。
古来人間は集って狩猟、農業を営んでいた。そこに自治があった。
種の保管、水の確保、料理。
最小単位の集団で、自分たちで取り決めをし、少しでも全体の収穫を大きくしようとした。
ここに国が絡むと、年貢を納めることになるが、これを金銭で納めるようにすれば
商売の考えが生まれ、余剰金で新しいものが買える。そこにも自治ができる。
などなど、人類の歴史に根付いた自治の話は分かりやすかった。
岸本杉並区長も、区長が一人で考えるのでなく、区民の声が区政を動かす、
その流れをどう作るか。実験を進めてほしい。
・・と考えていくと、今の国政が自治とは程遠いことがよくわかる。
国民の声を聴かず、省庁、大企業の思惑だけで多額の税金が動き、
ものの見事にムダ金になる。
前明石市長泉氏の成功の真逆をしている国。
日本に相対的貧困者が15%もいる、というのは明らかにおかしい。
やれ五輪だ外苑再開発だ大阪万博だと無意味な金、一部に利権が流れる金の使い方
をする前に、能登半島支援もあれば、貧困層への対応があるだろう。
少子化を問題視しながら、若者や子を持つ家庭に手を差し伸べない。
大学に稼げと言い、奨学金という名の借金を学生に負わせる。
あ、自治と話がずれてきた。
いいたいのは、世襲議員と偏差値エリート官僚には、市民の声を聴く気がない、
ということ。
そんな奴らに国を任せてはいけない。
というか、国の単位がでかすぎるのだ。
今こそ道州制だ。
まさに地方自治体だ。
・・・自治体もろくな職員がいない、という説もあるが、市民が見ている。
距離が近い。空気が伝わる。
国には外交と防衛だけやってもらって、それ以外の金の使い方は各道州に任せれば
よい。
逆にそうしないと東京一極集中がますます進み、地方が死ぬ。
地方が死ぬ、ということは文化が死ぬ、ということだ。
美味しいものも食べられなくなる。それでいいのか。
・・・この本の趣旨、斎藤氏の趣旨から反れたかもしれないが、
私の問題意識だ。
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木村敏さん・中井久夫さんとかのお弟子さん(?)の松本卓也さんが著者の本当に分かりやすい精神病理入門書。
僕は、国試レベルの記述精神病理の知識と高校の倫理の知識しかなかったけどスラスラ読めました。全部面白い!特に統合失調症と自閉症の章が本当に面白い…(幻聴が「対象なき知覚」ではなく、「聴覚における受動的体験」という捉え方とか、エポケーから抜け出せないのが統合失調という考え方とか、自閉症のタイムスリップ現象とか、カントでいう「悟性」が働かない状態だとか)。力動精神病理についても基本的なことを知れてよかった!
鑑別という観点よりも、病自体を深く理解するっていうとこに重きを置いてますね(当たり前か)。
ディルタイの「了解」という概念自体は、医師によって結構ブレが出そうだなと思いました。
あと統合失調症における意味妄想は知覚連関の弛緩で、機能幻覚は意味妄想が派生したものっぽいとなんとなく思いました。
自治医科大のCC見学したいな… -
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いろいろな心の病気の中身をわかりやすく知ることができるます。
でも「わかりやすく」とはいっても、
それなりの硬度のある内容だから、
読み応えがあって大人でも知的満足感が得られると思います。
心の病気っていうのは、
親とそして親以外をも含む過去の対人関係の影響、
そして現在の対人関係での相互作用での影響でなるものであって、
当人だけの問題では決してないことがわかります
(外的な強い心的衝撃によるPTSDという種類の心の病気もありますが)。
僕の身近に心の病気の人がいることもあって、
この場などに書評や感想を書いていなくても、何冊かそういった本を読んできました。
それらは勉強になるよい本でしたが、それらと比べても本書はより良書のほうだといえます。
「この本がひろく知られるとほんとうに社会がよくなる。」
と思えるほどの、とっつきやすい適度な内容の厚みと範囲の広さです。
精神科医やカウンセラーたちがどうやって心の病気を診断し、わかるのか、
といったところから始まり、
統合失調症、うつ病、そううつ病、強迫症、摂食障害、PTSD、
転換性障害(かつてはヒステリー)、不登校、いじめ、発達障害、認知症の
それぞれの症状や背景、
そしてそれらをふまえた上で、社会をどうしていったらいいかのヴィジョンに終わっていきます。
読んでみると知らなかった知識も多かったです。
自分は貧しいと過度に思いこむ「貧困妄想」、
几帳面さゆえに自分でルールを次々と作り、
それにがんじがらめになってしまう「インクルデンツ」などが主にそうでした。
なかでも、「インクルデンツ」は僕の身近な人にもその傾向があり、
たぶんその人はそううつ病と強迫症と、
その背景に自閉症スペクトラムがちょっとあるのではないかと、
素人判断では思い浮かぶ人なのですが、
自分で決めたルールを周囲の人にも適用させようとする強制力が強く、
すごく大変になるんです。
ここに強迫観念も加わって(つまり背景に強い不安がある)、
どうしてもルール通りにしないと気が済まない、というのがある。
まあ、強迫症の人なんざ、そこいらじゅうにいるなと思うところなのですが、
強迫症の人は、その症状ゆえに周囲から嫌われ、信用を失くしていくと書かれている。
また、そううつ傾向の人もそうなんです。
パニックみたいに気分が変わったときに、
それまでの理性が吹っ飛んでしまい、抑制が効かずに行為をしてしまったりします。
それらが合わさると、約束も破られるし、一線も超えられてしまいます。
だから、信用してはいけない人物に認定されて、
大事なことを話してはならない人物として扱われていくことになります。
本書によると、そううつ病も強迫症も同じ薬が効くそうで、
病院にさえいってもらえると解決にぐっと近づくのでしょうが、
病院にかかること自体が偏見などで高いハードルだったりもしますし、
そもそも自分が心の病気だと自覚できていない場合もありますし、
身体の病気のようにはすんなりいかないことが多いと思います。
僕の個人的な場合だと、
地域包括支援センターに協力を仰いだことがあって、
強迫症をケアすることで、うちの介護もうまくいくから、と主張し、
向こうもなんとなく頷いていましたが、
失敗するリスクを恐れてだと思うのですが、
やるもやらないもなく、うっちゃられてしまいました。
前に保健所の人に来てもらった時にもさじを投げられてしまい、
解決策も無いまま、連絡がプツンと途絶えたのですが、
どうもこっちの役所ってそういった感じなんです。
精神医療のオープンダイアローグや、
福岡市でも役所が取り入れたユマニチュード、
ほか、アサーションなどの技術を
地域包括支援センターなどの公務員のひとたちに身につけてもらって
被介護者だけじゃなくて介護者のQOLを考えた上で、
介護者を指導しケアする、というようにしてほしかったんですが、
面倒がられたみたいです。
家族が促しても、病院やクリニックに行こうという気を起こしてもらえないので、
家族以外のひととのつながりを作ってもらい、
その繋がりをいくつか作り、多方面からうながしてもらえるとうまくいくのでは、
と役所で話をしてきたのですが、流されて終わりでした。
行政にしても、
川の下流で起こっていること、つまり現場ですが、
そこばかりみて対症療法的に策を講じようとし、
策が講じられないなら見ないふりをするというように見えてしまいます。
そうではなく、川の上流で起こっていること、
つまり何故現場でそのような事態になっているか、
背景を辿っていく、ということをしたうえで
策を講じるようじゃないと救えるものも救えなくなる。
そういったことにしても「前例がない」で片付けていたら、
なんのための仕事なんだ、って言いたくなってしまいます。
ちょっと話が脱線してしまいました。
本書が広まってくれたなら、
または、本書の言いたいことが知られていったなら、
困った人のケアもできないような硬直が解きほぐされるのではないか、
そういう期待感を持ちました。
こういう本を書いてくれる人がいる、
出版してくれる会社がある、
読む人がそれなりの数、いる。
それだけでもちょっと嬉しいものです。
本書は中学生対象の質問箱シリーズの一冊です。
僕としては教科書として採用されたらいいのに、
と思えるくらい、推したい一冊でした。