永井路子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
氷高の皇女ーのちの元正天皇の物語。
話は、氷高の祖母である持統天皇の晩年から始まる。弟である文武、母である元明、そして自身の元正、甥の聖武の時代にかけて綴られている。
天皇家の女性たちを中心としながらも、やはり政治の面になると欠かせないのが藤原氏。
天皇家VS藤原氏の行く末に、歴史を知っていながらもハラハラドキドキしてしまう。
改めて、藤原氏は狡猾というか、とても頭の良い政治家だったのだな、と思わざるを得ない。
ところどころ、急に話が進んでしまうように感じるところもあったので、永井路子さんの文章が大好きな私にとっては少し残念。
好きな時代だったこともあり、とても面白く、時代に引き込まれて一気に読み上げました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレのちに元正天皇となる氷高皇女が主人公である。
著者によると、歴史的には地味な人物であるようだ。
それでも、奈良時代に生きた彼女の壮絶な人生は小説にするに値する。
妹吉備と長屋王の結婚、側近の裏切り、為政者であった当時の天皇の苦悩は計り知れない。
自身の血筋を守るという大きな使命を背負い、巧妙な駆け引きが繰り広げられる。
一人の女性として様々な思いを持ちながら、天皇という職務を全うした彼女の本当の思いはいかばかりだったのだろうか。
当時は、腹違いの兄弟姉妹や、姉妹で伴侶が同じだったりと、家系が複雑で少し混乱してしまった。
人物の関係性をしっかりと把握していれば、もう少し滑らかに読めて、ストーリーに没頭できたかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ言葉の皮を剥きながら…。日本の言葉の7割は皮を被っている。だからその本質を知るためには丁寧な解釈が必要。そういうことか。
永井路子が40年の構想の時間をかけて書いた、長期熟成歴史小説。ストーリー仕立てではなく、解説なので、硬い文章を読みたくない人にはお勧めできない。岩倉具視の概要を知った人が改めて好むべき作品。
おもしろかった。岩倉具視のイメージが変わるし、やっぱり歴史に女の影響力があった。(堀河紀子)
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p12 馬車
永井路子の歴史観。
「一台の馬車に付けられた数頭の馬が、思い思いの方向に車を引っ張ろうとするように、一人一人が主役のつもりでひしめき合い傷つけあううちに、いつの間にか流れが帰られてゆくーーそうした歴史という物を描くための一つの試みとして」
p14 皮を剥ぐ
日本語賛美は昔からある。美しい日本語を正しく使おう、とかね。詩的表現として言葉は美しいものであるが、、、言葉は虚偽の衣装を身に纏う曲者である。
幕末に流行った「尊王攘夷」あの言葉は本当に尊王で攘夷を実行したか。結局、攘夷とかあっという間にイギリスには白旗振ってそれどころか支援してもらってるし。尊王といって天皇は担ぐだけだし、、言っても倒幕急進派だろう。
言葉はその事柄を表すが、本質を隠すこともある。その皮を剥くのがこの小説のテーマで、副題。
p17 秀忠すごいよ
永井氏曰く、秀忠は家康をしのぐ政治手腕を持っていたという。なるほど、大権現の暁光で陰って目立たないもんな。調べよう。
二人は、譜代には権力を、外様には富を、一門には血の優位性を、与えて絶妙な力のバランスを取ってきた。
官位と言う虚像の権威を用意することで人々の心を巧みに騙した。本当かよとも思うが、実質そうなってるんだから、そうだったのだと思う。秀忠もすごいよ。
p19 嵯峨天皇からの権力と権威の分裂
嵯峨天皇の前、つまり桓武天皇や平城天皇までは天皇が直接執政し、権力と権威を共に有していた。それゆえに天皇家の血みどろの歴史がある。
しかし、嵯峨天皇以降、天皇は「権威」摂関家が「権力」を持つようになった。藤原家はその力を振り下ろせば天皇家を潰すこともできたろうが、それをしなかった。ここが頭の良い所である。歴史上、権威と権力を一手に収めようとした者はいる。しかし、もれなく失敗している。(後鳥羽、後醍醐天皇たちな)
人の手では負えないモノなんだなぁ、「権」というものは。だから分散しないと暴れ回って血の海を作る。
鎌倉幕府を作った源頼朝も初めは権力者だったが、その死後三代のちは源氏と言う血は「権威」になり、「権力」は比企氏や北条氏や三浦氏などが血なまぐさい争奪戦を起こした。
p25 学習院
岩倉具視は若いころは影が薄い存在だった。宮廷に入っても鳴かず飛ばず、そこで鷹司政通という孝明天皇の摂政役だった男にすり寄った。(歌の弟子として)政通は学習院を作った男でもある。あと、歯に衣着せぬおじさんだったらしく、岩倉具視もそう言うところで学んだからゴリ押しができたのかもね。
p54 水戸の反幕
水戸藩は幕府設立当初から辛酸をなめてきた。御三家でありながら尾張や紀伊とは格が一つ違った。それで天下の副将軍とか嫌味である。そう言うこともあって政権に反抗的な機運は古くからあった。
水戸の反幕府的思想は水戸光圀から急進化したのかな。光圀の作った「大日本史」は北朝正統とする幕府見解に真っ向から対抗する南朝正統を論じている。この中で楠木正成や新田義貞を賛美し、まさに異説日本史だった。
やはり常陸(茨城)には何かある。(QEDの読みすぎ)
p62 井伊きみよ
井伊直弼と水戸斉昭は真っ向対立だった。井伊直弼が条約強行締結で桜田門外で暗殺されたときの落書でこんなものがある。「井伊きみと 御隠居陰で 舌を出し」
おもしろい。井伊が独裁の因果で殺されたのはさぞ良い気味だったであろう。
p71 同時進行
一般に皇女和宮の降嫁は、安政の大獄でやりすぎた幕府側が朝廷の関係を修復するための手段の一つとして親戚関係になるという手段に出たと取られているが、これはこの順番に起きたことでは無い。安政の大獄の前に井伊直弼は和宮の降嫁を考えていたようである。つまり安政の大獄と和宮降嫁は同時進行で井伊直弼によって仕組まれていた。攘夷派は置いといて、まずは公家から取り込もうという井伊直弼の計画が見え隠れしそう。
p84 岩倉具視は外戚狙いだった?
孝明天皇の妹:和宮降嫁(条約破棄ができたら嫁がせるよ)がうまくいかなかったら(和宮が嫌がったら)、代わりに「寿万宮理宮 」という幼い(三歳)娘を嫁がせるという案が候補に挙がった。この娘は岩倉具視からすれば、姪っ子になるのである。具視は藤原氏と同じで外戚として、権力を操りたかったんだろう。狙ったな。
数あるプリンセスの中で、運よく次のチャンスが舞い込むなんて。まさに、プリンセス→プリンセスだね。
しかし理宮 は3歳で早逝してしまい、野望は潰えた。それどころかこの降嫁事件は天皇への不敬罪だとして岩倉ら四人が蟄居を命じられた。四奸というやつ
p100 生麦
公武合体路線を推進していた島津久光。幕府と朝廷が協力して攘夷は無理でも、修好条規以前の和親条約の頃まで国際関係を戻そうということだった。しかし、幕府の腰の重さに朝廷側は苛立っていた。
島津久光は江戸城から帰京する際に生麦事件を起こしてしまう。攘夷なんて無理だと考えていた人が、あっというまに攘夷の急先鋒になってしまった。こういうところからも攘夷という言葉の都合のよさがわかる。皮っかむりだな。
p102 尊王というのは…
久光の生麦事件を機に公武合体路線はとん挫した。久光が薩摩に戻ると同じころに、三条実美や土佐の山内容堂らが攘夷に向けての行動を開始した。ここから攘夷熱が高まる。(まぁもちろん勝てないけど)
孝明天皇の側近は四奸として排除され、尊皇攘夷派と言うやからが天皇を取り囲むようになった。しかし尊王と言う割には天皇無視が甚だしい。関白近衛忠熙(コノエタダヒロ)の会議からは全く締め出されていたという。
もうこの尊攘派というのは、イデオロギーを騙っただけの集団で、要は朝廷内での権力争いで新たに政権を握るために前政権と逆のことを言っていただけなのである。
p117 尊攘派の終わり
永井路子曰く、「1864年に攘夷は終わった」長州の敗北と薩英戦争の敗北で攘夷の可能性は潰えた。しかし、その後もこの言葉を使われる。それはおかしい。
これ以降は朝廷も幕府に実力を持って早急に外国を追い出すのではなく、交渉によって外国の侵入を阻止してほしいと言っている。「攘夷」ではなく「排夷」が正しいだろう。外国は討つのではなく、穏便に追い出すのを望んだのだ。
この言葉がずっと使われているのは、近代以降の日本が軍国主義に傾いたときに体よく使われ、定着してしまったからだろうという。この一言で当時のイメージがだいぶ変わってしまう。随分だな。
p157 毒殺説
岩倉具視が孝明天皇を毒殺したという論理はこう。孝明天皇は筆記の際に筆をなめる癖があったので、硯にこっそりとヒ素を垂らしたのだという。蟄居の身に遭った具視はこれができないから、妹で天皇に近侍していた堀河紀子が実行犯だと言われる。
しかし、この説には杜撰な部分がある。紀子は具視とともに天皇の側から追放されていた。(四奸二嬪)どちらも実行犯にはなれなかったのである。アリバイは無いけれど、もっともやりそうな奴だったからいつまでもこの嫌疑は晴れないのである。
p164 追放解除
岩倉具視は孝明天皇がなくなってしばらくして政界復帰を果たした。岩倉は実は孝明天皇が存命中から、天皇から「追放を解除してあげてもいいんじゃない?」と政界復帰を望まれていたが、その側近に阻まれていた。しかし、天皇が死んで側近の力もなくなったから、具視が政界復帰できるようになった。
「天皇が死んで政界復帰が果たされた」こう書かれるとやはり、政界復帰のために工作したと考えられる。天皇が死んで一番得をしたのはどう考えても岩倉具視、だから毒殺説が信憑性を持つのだ。果たして本当にそうだったのか。
しかし、当時の岩倉具視は天皇あっての存在だったし、毒殺説の実行犯とされる堀河紀子は具視あっての存在だった。それぞれ、自分の後ろ盾になる人物を追いやるようなことはしないはずである。誤認だ。という。
p198 摂関制度の終わり
大政奉還で幕府は政権を失った。だからと言って平安以前の貴族が政権を取る摂関政治の構図になったわけではない。政権を取ったのは薩長土肥の藩閥政治である。
摂関制度も同時になくなった。それに終止符を打ったのが、岩倉具視である。摂関という壁に悩まされ続けた具視だからこそできた革命なのかもしれない。幕府を打倒したことだけに注目されがちだが、9世紀以降続いたさらに古い摂関制度を打倒したことにも注目されたい。
p212 毛利の祖は大江広元
毛利家は大江広元の子孫から来ていると言っている。
p229 使いっぱしり具視
頑固おやじ島津久光に廃藩置県の説得をしたのは岩倉具視である。朝廷の勅使として岩倉が出向いたから久光も動いた。勅命に刃向くということになれば、薩摩対vs新政府ということになってしまう。ここでは具視がキーマンだったのだ。
しかし、具視は翻弄に主役だったのかというと、大久保利通や木戸孝允の使いっ走りだった感を否めない。
p231 日本人が着れば日本服だ
廃藩置県が制定されたその年、天皇から服装改革の内勅が出され、軍隊などは西洋風の軍服を義務付けられ、それに対する反発もあった。それに対する見解が「日本人が着ればそれは日本服だ」という。やっぱ昔の人はすごい。これを論理として押し切るなんて、できない。
p235 欧州旅行
岩倉具視の欧州使節団は一応、条約改正が目的だったが、近代化もままならない日本の国家制度ではできるはずもなく。これは本当にただの見学旅行になってしまった。当初は10か月の予定だったが一年と10か月になり、そんなに時間をかける必要はなかったのである。(征韓論関係で焦らしたのかなぁ)
その中で、使節団は「万国公法くらいは知っている」という態度で各国のお偉いさんと対談したが、ドイツのビスマルクとの会談で良いことを教わった。
ビスマルク曰く「何だあんなもの。あれは強国の並べた理屈さ。弱肉強食の押し付けでしかない。表面は礼儀を重んじて交際しているが、腹の底は知れている。万国公法は自国に有利の時にだけ振り翳すのだ。ドイツは弱小国だったから、それらに対抗すべく努力を重ねてきた。」大久保なんかはこれに感激し、「日本の行くべき道だ」と考え、それ以降、日本のあらゆる制度がドイツに倣ったものになった。
p236 デスポット
木戸孝允が岩倉使節団として渡欧した時の収穫。伊藤博文の手紙に「建国の大法はデスポチック(独裁的)に之なくては相立ち申す間敷」この政治感覚は伊藤博文や山県有朋に受け継がれ、その後も長州勢が日本のリーダーとして圧倒的に人材を輩出しているところからも引き継がれていることがわかる。
p237 岩倉具視が考えたこと
渡欧中、岩倉具視が欧州列強から学んでいる最中に考えたことは「いかに天皇を護ることか」だったろうと永井路子は言う。
いずれ成立する立憲政治では天皇の存在は守られ難いと思った。天皇の権利を制限する規則が多すぎる。そのためにイギリスの貴族院なる華族制度を作ろうと考えていただろうという。天皇の回りにあった壁(摂関制度)をぶち壊した男が、天皇を護る壁を作ろうと考えていたいう、歴史の面白いトコ。
p248 史料の読み取り方
永井路子は岩倉具視を書こうと思ってから40年経って実際に書いた。それまでに、史料の読み取りの未熟さや時代把握の月並みさを思い知らされ、史料というものは問いかけによって別の答え方もするし、時代によって違う顔を見せたりする、ということが解ったという。
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「言葉の皮を剥ぎながら」という言葉はすごくすごく大事だと思った。
言葉は人類が作り出した最高に便利なものだが、ものすごく不便なアイテムであると思っている。自分の感情を表現でき、他人との理解を図れるが、それはどうしても完璧に離れず誤解を生むことは避けられない。本当に便利で不便なアイテムだ。
だから、言葉の本質を知るために、皮を剥いて味わう必要があるのだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこれは藤原氏が権力を獲得するようになる原点だと読める。蘇我の力が霞んでいく、そんな歴史物語。おもしろい。
美貌の女帝:氷高の物語。持統天皇の孫で阿閉の娘である。
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p40 蘇我の血
蘇我家の繁栄の始まりは蘇我稲目からである。欽明天皇以降約150年の天皇は蘇我の血を引く女を妃に迎えて続いてきた。今回の主人公の氷高もこの系譜である。
p48 壬申の頃
氷高の母:阿閉は天智天皇の娘である。斉明天皇の頃に白村江の戦で唐・新羅軍に敗退して、中大兄皇子は国内の支持を得られず、政治の中心地の飛鳥から近江大津宮に遷都して心機一転して天皇に即位した。
天智天皇は唐風趣味を大いに取り入れた。それによって唐に恭順した体裁を作ったのだ。とはいえ現実には戦争に敗れた日本は唐の使節にしこたま貢納物をぶん捕られている。
そのうち唐と新羅が敵対し始める。新羅が日本に援軍を求めた際、大海人皇子の一派がそれに手を差し伸べた。天智天皇に抗する一派を従えてのことだった。朝鮮半島では新羅軍が優勢になって、大海人派の人たちは勢いづく。そして大津宮の天智天皇の息子:大友皇子と皇位継承を争って壬申の乱を繰り広げる。
壬申の乱は非常にグローバルな戦いだったのだ。そして、天智天皇派は思いのほか弱い存在だったのだと思う。それが天武派を覆すのは、これから出る藤原氏の力なのである。
p51 持統の意思
天武天皇の妻だった持統天皇。彼女は即位して夫の意思を引き継ぎ、意地でもそれを達成した。
天武天皇は壬申の乱に勝利し、天智の頃の政治を刷新しようとした。大津宮から飛鳥に戻り、新しい律令を作ることにした。その新しい法制によって外交も変わる。
天智の頃を超えるべく改革を推進した天武天皇は、悔しいかな志半ばで生涯を終える、それに加え息子の草壁親王も早逝する。その夫と息子の無念を引き継いだのが妻の持統天皇である。
飛鳥浄御原令の制定と飛鳥の藤原京への遷都、新羅寄りの外交転換。これらを断行したのは持統天皇である。次代への場繋ぎとしての女帝ではない、強い女だった。
p60 春過ぎて…
持統天皇の有名な和歌「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」
一般的には初夏の爽やかな情景を連想する名歌だが、この歌は彼女が諸事を達成した後に読んだ歌であるということを考えると、深い…。
p70 倉山田石川麻呂というヤツ
乙巳の変という蘇我蝦夷・入鹿の親子を滅ぼした事変。これの背景は、肥大した蘇我家の中の権力争いが関わっていた。蘇我倉山田石川麻呂という変な名前の男がいる。彼は蘇我馬子の息子:蝦夷の兄弟であり、蝦夷の地位を嫉んでいたようだ。それが中大兄と結託して事を起こしたのである。
その乙巳の変を共に起こした二人にも亀裂が生じる。それに付け入る者がいた。時の孝徳天皇に「倉山田のやつが中大兄の命を狙っている。」と忠言して倉山田は誅伐される立場になってしまった。都を逃げた彼は自害してこの世を去った。
彼を陥れたのは蘇我日向だと阿閉はいう。
p74 中大兄の罪滅ぼし
阿閉は倉山田石川麻呂の孫なのである。倉山田と中大兄が良好な関係だった時、倉山田は二人の娘を中大兄に輿入れさせた。竿姉妹ということか。その遠智娘の娘が持統天皇、姪娘の娘が阿閉だったのである。
中大兄は倉山田が死んだとき、大いに悲しんだ。自分の命を狙っているということが虚偽だったと知り、更に。そのせいか、倉山田の二人の娘である妻を愛することで罪滅ぼしをした。そういう態度を取った。
この辺が、人間関係を複雑にしている原因である。敵として滅んだ者の子供が再興したりするのはこういう罪悪感の強迫観念からくるのである。そう、俗にいう、怨霊信仰だね。
p76 藤原鎌足
中大兄の参謀として最も信頼されていた巨人。彼がこの頃の政治のすべてを動かしていたようだ。阿閉は幼いながら彼の姿を見て様々なものを感じ取っていた。
中大兄と倉山田石川麻呂をくっつけたのもおそらく彼の策謀であろうが、彼自身は蘇我家に対する激しい敵対心を隠しているようだった。まず蘇我家のトップである蝦夷らを仲間割れで倒し、その後倉山田も策謀によって潰してしまった。すごい。
彼が狙っていたのはポスト蘇我家だったのだろう。自分の娘を大友皇子に輿入れさせて天皇家の血を自家のものにしようとしていたのである。
p77 壬申の乱
壬申の乱は蘇我vs藤原の代理戦争であった。
大友皇子を押し、蘇我家の排除を狙う藤原家、それに抵抗しようとする長年天皇家の姻戚を牛耳ってきた蘇我家。二つの家系が存続をかけた戦いだったのだ。
大友皇子は藤原家の神輿、大海人皇子は蘇我家の神輿としてぶつかったのである。藤原鎌足はこのころすでに死んでいたが、巨人は死してなおその意思を残していったのである。
壬申の乱は唐と新羅のどちらに就くかという国際関係の背景もあるが、同時に宰相を争う家系の争いであった。
p118 文武天皇
持統天皇が病に臥し、孫の文武天皇が即位した。この即位の年は甲子で、中国で言う「辛酉革命、甲子革令」にあたる年だった。それ故にそれにならって甲子の日付の八月一日に即位した。
p122 田辺史
タナベフビト。藤原姓から田辺という姓に改姓していた、後の藤原不比等である。壬申の乱以降の不遇の時代を臥薪嘗胆で耐えてきた鎌足の息子である。文武の即位あたりから頭角を現し始め、文武の詔によって藤原姓を復活させている。彼が大きくなってきた!!
p126 革令
文武の即位の年に倣って飛鳥浄御原令から新しい法律を作ることになった。そこに暗躍したのも不比等だろう。そして天武以来、外交は新羅寄りだったが、遣唐使の派遣を再開する運びになった。
新しい法律には唐風の様式が随所に見られた。地域区分に使われていた評(コオリ)という字に新たに郡という字が使われた。これは中国と同じ用法である。
これは大宝律令というものである。
p148 持統のうらみ
持統は死の床に臥して、最後に胸中を吐露した。
持統は即位後間もなく、姉の子:大津皇子を謀反人として死に追いやった。それは自分の子の草壁親王を皇位に付けたいがためと思われていた。そう思われてもしょうがない。そういうこともあって持統天皇は女帝ながら冷酷な強い女というイメージを持たれていた。
持統曰く、大津皇子を殺したのは妻に山辺皇女という蘇我赤兄の娘がいたからだという。彼女にとって蘇我赤兄は祖父の倉山田石川麻呂の仇の一人である。祖父の死をなすがままにして旨味を吸った男の血を許せなかったと…。
持統は天皇になり、か弱き女を捨て、強く生きた。
これを氷高に話したのは、天皇として生きるには強さが必要だということを言い残したかったからだろうか。
p168 蘇我の怨念だな
文武天皇は25歳という若さで死んだ。病弱な体に天皇という神経質な仕事は辛かったのだろう。特に後継者問題が多くの期待や圧力を文武に強いた。藤原家の血を持つ子:首、石川家の血を引く子:広成、蘇我の血をひかないものが皇位を継ぐために多くのイザコザを産んだ。その重圧に耐えきれなくなった結果だろう。
蘇我家の血が呼び起こした権力闘争。蘇我という無形の魔物が生きる者を死に追いやった。まさに怨霊だね。
ちなみに文武の後は母親で共同統治者にいた阿閉が元明天皇として即位したよ。
p173 銅
元明天皇と藤原不比等の静かないがみ合いが続く中で、秩父の山中から自然銅が採掘されたという朗報が入った。それを記念して年号を和同と改めることにした。そして新たな銭貨を鋳造することになった。そう「和同開珎」である。
p181-190 遷都
大宝律令によって官制の規模が拡大した。それには飛鳥藤原京では規模が不足する。それで遷都すべきという意見がでた。これは律令を制定を不比等が最初から目論んでいたことだと元明は思った。
そのうち陰陽師も「藤原京は運気が悪い。だから持統もここで死んだし、文武も早逝した。そういう禍の地から離れるべきだ。」という進言し始めた。外堀が埋まってきた。
最終的に元明帝が折れて、710年に平城京への遷都が実施された。
p206 あをによし
「あをによし 奈良の宮には 万代に 我も通はむ 忘ると思ふな」と藤原不比等に歌わせている。この歌は万葉集の1巻80首目(作者不詳)にある歌である。
奈良の都の事は忘れませんよ。いつまでも通い続けますよ。という意味の歌だが、遷都を推進した不比等に歌わせる皮肉。もう、皮肉しかない。キーッ。
p208 焼失
遷都に際して、まだ造営途中の藤原京から移ることの無駄を理由に元明は反対した。それに対して不比等は「それなら造営途中の物はそのままそっくり移せばいい。それは全部自分がやりますよ。建設途中の薬師寺ももちろんやります。」といって遷都をゴリ押しした。
ところが、元明たちが居なくなった藤原京の大官大寺で火事が発生した。薬師寺は無事だったが、これはきっと放火だろう。初めから不比等は建造物の移転を本気で実現するつもりはなかったのである。燃えちゃったから、で済ますとか、代わりに新しいのこっちで作るから許してちょ、とかすごくすごいズルい。
p259 大陸事情
この頃の外交方針はコロコロ変わっていた。唐よりになるのか、新羅寄りになるのか、それが国内の派閥争いに深く関わっていた。
p246 元正天皇
氷高は長屋王と画策して元正天皇として元明の次に即位した。不比等としてはライバルの石川家の広成と広世から皇位のはく奪に成功し、藤原の血を継ぐ首皇子が次代と思っていたから寝耳に水だっただろう。とりあえず一旦は藤原の勢いを抑えられた。
しかし、不比等は元正天皇即位に際して尽力した。長年、壬申の乱後の苦節を乗り越えてきた男にこれ位の障害はなんてことないのであろう。
p292 首親王の即位(聖武天皇)
元明天皇が死に際して遺言を残した。皇太子には首皇子をと。阿閉の息子:文武帝の忘れ形見である首に、藤原の血が混じる首に皇位を継がせることを許した。
p314 大夫人
聖武天皇は母の藤原宮子を正一位藤原夫人を尊じて藤原大夫人と呼ぶようにという勅令をさりげなく出していた。
この大夫人はオオミオヤと読ませる仕組みがあった。
当時の日本語では夫人(オオトジ)と読み、皇祖母(オオミオヤ)と呼んでいた。つまり元明とか皇族の母が冠する名前である。人々が同じ言葉で読んでいるうちに藤原家の人間を皇族の人間と同じようなものにしようという、さりげないけど、周到な作戦だったのだ。藤原家の皇族入りを本当に些細なことから外堀を埋めている。こわい。
p338 長屋王の変
長屋王が国家転覆を図る呪詛を行っているという噂を聞き、天皇の勅令で長屋王の家を囲んだ。これは藤原四兄弟の陰謀である。事実である。
この時、元正天皇は病に伏していた。太上天皇の地位にあるのに前相談なくこの長屋王の変は決行された。いや、これは意図的だ。
p350 長屋王の変は虐殺
長屋王は家を襲撃され殺された。公式発表では自殺である。無実の罪を問われ、尊厳死を選んだという。そして妻の吉備ら家族も長屋の後を追って首を括ったという美談に仕立て上げられている。
とはいえ、自殺を騙った虐殺である。
長屋王の妻:吉備は元明の娘である。だからその子供にも皇位の可能性はある。藤原家の狙いは長屋王の息子たちだったのであろう。こわい。
p352 元正の一言が
元正天皇は病に伏した際、聖武の後嗣に吉備の子を指名した。その頃はまだ聖武に子供が居なかったため、そう言い残したのである。その一言が聖武と藤原家に不安を産み、狂行に走らせたのだろう。
そんな、間接的とはいえ、自分のせいで妹夫婦が謀殺されるなんて…。
p375 長屋王の呪い
735年、藤原四兄弟は流行り病で次々に死んでいった。そのタイミングはさながら長屋王たちの怨念のようだ。
p385 藤原広嗣の乱
聖武天皇は長屋王の呪いを恐れて平城京から遷都しようとした。そんな折、藤原広嗣が九州で挙兵し都に攻めてくるとの報が入った。
広嗣は藤原宇合の長男で太宰府に務めていた。しかし、藤原四兄弟が皆死に、中央政界に伝手がほぼなくなり、自分の中央復帰が絶望的になったので事を起こした。挙兵の理由としては、聖武天皇が厚遇していた吉備真備と玄昉が天皇をたぶらかす君側の奸だと訴え、それを討つという名目で挙兵した。まぁ、負けたけどね。
それでも聖武天皇には効果バツグンだった。
p389 恭仁京
聖武天皇が長屋王にビビッて遷都した都。藤原広嗣の乱の最中に聖武天皇は放浪の旅に出て、この恭仁京に行きついた。まだ完成しない都で741年の新年を迎えた。
恭仁京遷都の諸手続きは橘諸兄が頑張ってさばいた。
p406 大仏作りたいの…
聖武天皇は紫香楽の地に大仏を作りたかった。でも国庫が悲鳴を上げていた。藤原広嗣の乱、聖武天皇の放浪、度重なる出費でもうお金は残っていなかった。
国庫は当てにできないとわかって、聖武天皇は「大仏建立の詔」を発した。つまりこういうこと「私は廬舎那仏を造りたいが権力だけで建てては心がこもらない。だから広く同志を募って事業を完遂させたい。(だから募金してね)」
p408 行基
大仏は行基法師を勧進して造営されることが決まった。行基はそれまで仏教を国に無許可で広めて信者を集める危険人物とされていた。当時の仏教は変なもんだった。国のために祈祷し、国のために仏教を使うこと以外は認められなかった。民の教化は禁止だったのだ。上乗仏教ともいえない都合の良い扱いだ。
そんな時代に行基は民を教化し、教徒ともに社会事業に着手していた。橋や道を造り、租庸調を運ぶ運脚のための布施屋を建てた。行政を無視した行いに政府は弾圧もしたが、そういう人物に天皇自ら関わってしまったのだ。
そういう意味で仏教の革命である。
p416 安積が死んだ
聖武天皇の安積親王が17歳で急死した。もう、暗殺としか思えない。その容疑者の筆頭は橘諸兄である。
諸兄は恭仁京遷都の中心人物として活躍し、そこを拠点に橘家の権力機構を築こうとしていた。しかし、聖武天皇は急に紫香楽にまた遷都したいとか、大仏を造りたいとか言いだし、諸兄らと軋轢を生じ始めた。そういった手におえない権力者は革命に遭うのがよくあることである。恐らく諸兄は安積親王が恭仁京に行った際に「聖武天皇を廃して安積さまが即位すべきです。その助けは吾らが…」という聖武暗殺をほのめかしたのではないか。しかし、それを断ったために口封じのために殺された可能性が、十分に考えられる。
p420 仲麻呂の暗躍
元正天皇はこの安積の死が橘諸兄の陰謀かという疑惑の中に、さらに大きな陰謀を感じ取る。藤原仲麻呂である。彼も安積親王が死んだ恭仁京にいた。ここで安積が死ねば一番疑われるのは誰か、わかっててやったのではないか。藤原氏のやってきたことを知っている元正天皇だから思いつく想像である。
たしかに、安積親王は藤原氏ではなく、藤原氏の血を疎んでいる聖武天皇はこのまま藤原氏を皇族から遠ざけるかもしれない。そこで皇位継承者を藤原の血のある者だけに間引きし、ついでに橘氏を貶めることができるのが、今回の一件である。一番良い思いしたやつを疑うと、そうなる。
p432 紫香楽の廃都
聖武の望む紫香楽遷都は妨害に遭っていた。妻の光明子と仲麻呂にだ。彼らは藤原氏の根拠地である奈良への帰京を望んでいるのである。そのためか、紫香楽の近くの山々で不審火が上がり、大仏ができる前に薪がなくなる可能性もあった。
そして紫香楽京が完成してから、不審火で近くの山々が燃え、さらに悪いことに5月に地震が頻発した。これではもう人々は呪われた地であるという思いしかない。そして平城京へ遷都が実行された。
聖武天皇、、、無念。
p444 永井路子史観
この本にある、古代の天皇の女系には必ず蘇我家の血があったという事実に気づき、元正天皇が聖武天皇に譲位したことでその系譜が断絶したこの史観は非常にユニークである。古代の女性の大きな役割を史料から読み取った永井路子史観は実に興味深い。
p446 持統天皇の意味
女帝として男性天皇よりも有能で行動的だった持統天皇の例を見ると、女性天皇が巫女的存在だったり、場繋ぎ的存在だったという解釈はあまりに低評価だと思えるようになる。確かに飛鳥時代に女性天皇が続いたこの時代、連続して場繋ぎが置かれるなんて言うのもおかしな話である。そういった意味で、持統天皇は真相を考える上でのキーウーマンである。
そこに観点を向けた永井路子は良い。
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数ある著作の集大成的な感じがする。永井路子の女性を中心にとらえる独特の史観がここに極まっている。
持統天皇・元明天皇・元正天皇と三代の女性天皇を主人公にして、朝廷の権力争いを描くが、これは結局藤原氏の始まりの物語と感じられる。
藤原氏はやっぱりずるがしこい貴族連中の中でも格が違う。というかやはり遺伝子レベルで優れているな。権力に適合している。
奈良、飛鳥時代から平安時代を学ぶならやっぱり永井路子がいいね。 -
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めちゃくちゃ面白いです、永井路子、杉本苑子といういずれも1920年生まれの大熟女がかしましくも語る「ごめんあそばせ 独断日本史」。まるでその時代に生きて、まるでその人たちとしょっちゅう会っていたかのように語る、歴史上の人物の悪口三昧、こき下ろし。女たらしだの愚図だの、自己チューだの、デリカシーがないだの、世の中を見る目がないだの、好きだの嫌いだの・・・まあ次々と血祭りにしてしまうありさま。まな板に載せられたのは、紫式部、清少納言から始まって、平重盛、建礼門院、源義経、上西門院、後白河法皇、後醍醐天皇、楠正成・・・とまあ、きりがないほど。
まあ女同士、とりわけ気に入らない女の話になるとその口調はボルテージが上がるようで、建礼門院などホントにボロクソ。一族が皆死んでゆくのにポワーンとしている、覚悟がないからプカプカ浮いちゃって、しかもたっぷり長生き、感情が平板、陶器の心臓・・・。自分など少し建礼門院に肩入れしていたもんだから、もう腹が立つほどのけなしよう。しかし面白い。もう一人が後白河法皇の姉の上西門院。女ボス、オールドミスの大金持ち、動かないからでっぷり太って二重あごのド近眼、もちろん極め付けブス・・・、ははは、読んでいるのが辛いくらい。女が女を語るときは、ホント、容赦がありませんなあ、って感じ。おお、こわっ。
女流作家の大御所と云ってもいいこの二人、大熟女と云ってもこの対談の時にはまだ60代半ば。一番パワーに溢れた頃かも知れません。その二人が縦横に歴史上の人物をぶった切る。実に痛快、しかし、何やら事実めいたものが見えてきて面白いのだ。ま、こういう非正統の歴史本というのもアリと云うことでしょうかね。それにしても面白い。 -
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百数年続く、天皇家の妃として名高い蘇我の女帝たちと、その皇位を奪おうとする藤原氏のお話。
後に元正天皇となる氷高ひめみこを主人公に
持統天皇、元明天皇、元正天皇、3人の女帝たちが活躍し、そして滅びるまでが
壬申の乱、藤原京から平城京への遷都や、薬師寺建立などの史実とともに描かれていて大変面白かったです。
薄紅天女の世界観がすごくよかったので、この時代のお話をもっと読みたいと思って本書に辿り着いたのですが、すごくよかった。
貴族という華やかさの裏にある、血統を守るためだけに行われる政治。
度重なる政略結婚、近親結婚で家系図が出てくるたび、蘇我氏の執念を見た気がしました。
かと言って、藤原の側が正しいのかと言えばこちらも私欲私怨にまみれていて、なんとも浅ましい。しかもやりかたが汚い。
長尾王が追い詰められて自害してしまった場面は読んでるほうまでしんどかったな。いいひとだったのに...ぐすん。
最後の最後で氷高が「政治は妥協と融和のうえに成り立つ」と悟るのだけど、もっと早くに気づけていれば死なずに済んだ者が何人居たことかと。
誇りなんて一円にもならないのに!というのは平和ボケした現代人ならではの感覚なのかななんて思ったりもしました。
薬師寺が持統天皇の病気平癒のため建立されたとか
藤原京から平城京へ都が遷るのと一緒に薬師寺も移されたとか
おなじく遷都の際に、藤原不比等が厩坂寺を移したのが現在の興福寺だとか。
もともと奈良や仏像がすきでいろいろ本を読みましたが、困ったことになかなか憶えられなかったんです。が、今回こちらを読んだことで完全に頭に入りました。ありがたや。
そしていま猛烈に奈良にいきたくてうずうずしています。
平城京跡も飛鳥もまだ行ったことがないので行ってみたーい! -
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戦国時代を生きる女性、信長の妹、お市の方の物語下巻。
兄の手によって夫長政と息子万福丸は壮絶な最期を遂げ、三人の娘とともに織田家に戻ったお市の方。信長が本能寺の変で倒れた後、かつて毛嫌いしていた柴田勝家のもとに、織田家再興を心に期して再び嫁いでいきます。その後は歴史が語るとおりの悲劇。
現代日本では、首をとったり串刺し磔にしたりはないけれど、残忍な争いは今も世界のどこかで続いていて、争いの裏にある政治劇は、あきれるほど変わっていません。そして、今も昔も複雑で捉えどころない人の心の動き。目の前にある事実をどう捉えるかだけでなく、目には見えない他人の心をどう読み解くか、そこから起こりうる未来を描きだせるかが、その人の運命を左右するようです。
そんなことを思いながら、息をつめて一気に最後のページまで読み終えた夏休み最終日。明日からもまた、この複雑怪奇な世間で頑張ろう、という気持になりました。 -
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夏休みの読書。このごろ実用書ばかり読んでいたけれど、たまには歴史物でも読もうかなと思って手にした一冊。物語の世界に一気に引き込まれ、久しぶりに心から読書を楽しめました。。。
織田信長の妹としてうまれたお市の方。戦国時代を生きる女性は、戦にこそ参加しないものの、政治的な駆け引きや情報戦において重要な役割を担っていたことを改めて思い知らされます。夫浅井長政と兄信長の争いが激しくなる中で、自分自身の役割を思い、覚悟を決めていくお市の方。
彼女が「良く見える目」をもっていたが故の苦しさが描きだされています。
上巻は、いよいよ追い詰められた浅井長政が、援軍を待って時間を稼ぎ、信長を返り討とうとするところまで。登場人物の複雑な心理戦にドキドキ。下巻に続きます。 -
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永井路子による「お江」は、華やかな歴史のヒロインとしての一般的イメージからはほど遠いかもしれない。初めて読んだときはわたしも意外に思った。がしかし、元々少ない資料しか残っていない彼女の姿が、戦国という時代背景をいちばんの手掛かりとして十分に考慮し、淡々と、それでいて生々しく描かれているのが、永井路子のお江なのである。納得しながら読み進めた。
上巻は、お江の嫁入り話から始まり、秀勝と死に別れるところまで。なかでも佐治与九郎一成との心の通じあいのエピソードが美しい。当然永井女史の創作であろうが、穏やかな海風のようにそっと寄り添うふたりの人間愛が心地よい(それもふたりの血筋と生い立ちから綿密に組み立てられた、理にかなった描き方のように感じられる)。 -
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おごうの二番目の夫・秀勝が亡くなり、岐阜城を明け渡すことになる。新城主は子供の頃、秀吉が担ぎ上げた三法師として知られた秀信。
おごうの侍女のおちかは謎の男「ちくぜん」と城下で再会する。
身重のおごうは大阪へ出向くが、やはり妊娠中の茶々からは沙汰もない。
無事に生まれた後になって呼ばれるが、前より綺麗になったおごうを見る秀吉の目が気に入らない様子。
やがて、秀忠との間に縁談が。
おごうの娘おきいはすくすくと育ち、茶々の養女に迎えられる。
秀忠は17歳。
文武の修行を毎日怠らない律儀な男。
おちかの目には平凡と映るが、並べたところが実はお似合い。
側室を持たなかったことでは有名だが、実は浮気はしていたのよねえ。
茶々の気の強さは意地悪くも見えるが、この時代の女性の生き方は生死に関わる。女城主として合戦していたも同然の立場だと思うと納得がいくような。
家康のやり口はずいぶんだが、茶々と秀頼には一大名として生き延びる道もあったわけなのに、それは拒否したわけだからね。 -
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浅井三姉妹の末娘・江(ごう)を取り上げた小説としては、初期の物ではないでしょうか。
三姉妹は18、16、14という年齢のときに、まず江の結婚話が。
年齢設定が他と違うのは、資料によるんでしょうか?
浅井長政が籠城中に生まれたのは確かなんでしょうね。
華やかでお喋りな次姉の初が京極家へ。
これはどちらも浅井家の姫としては格が低い結婚だとか。
外堀を埋められた後で、プライドの高い茶々が秀吉の側室になっていきます。
主におごうの侍女のおちかの視点から、気を揉む様子が語られます。
侍女の感情はわりと喜怒哀楽はっきりしていて現代風なので、ちょっと下世話な詮索が多いけど~わかりやすくはなっています。
上の二人が華やかな美人で、江は色黒でとりたてて美形ではなく、口が重いためにあまり頭も良くないと見られていたという出だし。
姉妹にもライバル意識はあったでしょうけど、肩を寄せ合っていたわけだし、意地悪な感情だけではないのではと思うけど。侍女は血が繋がっていないから、そこだけ見るのかもね。
最初の夫とは政略とはいえ上手くいっていた。
さわやかな夫との平穏な暮らし。
こんな夫婦もあっただろうなという説得力があります。
だんだん笑顔が増えていたおごうが、離別を言い渡されたときも取り乱さずに受け入れるが、まったくの無表情になったのに侍女は気づく。
実は頭が良く腹が据わっている姫さまなのかな。
二度目の夫は秀吉の姉ともの息子で、農婦まるだしの母が溺愛しているのが滑稽に描かれます。
短い結婚生活でしたが、夫の死後に子供が…以下、下巻。