とても面白い。生きる意味を重大に捉えすぎ、極端で壮大な計画に走る「生き悩む」学生の話なのだがいわゆる厨二病系とは一線を画す。人生(生きていくこと)の重圧に正面からまっすぐに取り組んだ作品。
作中にずっと登場する怪物は主人公住田の「良心」だと解釈している。
普通の人間は程度の差はあれ、必ず自分の良心に目をつむって生きている。人間は必ず誰かを憎んだり、罵ったり、差別したりする。他の生命の命を残忍に奪い、他人の不幸に目をつむる。心の中にそういう悪意を育んでいるくせに、それを隠し、「自分は良い人間だ」と思い込んで生きる。
しかしそれが正しいのだ。人間は生まれながらに悪意を内蔵している。良心に捕らわれすぎれば自らの悪意=罪と真っ向から相対しなければいけない。それをすれば人間は住田のように「病気」になってしまうだろう。
作品当初から住田は心の中に巨大な「良心」という怪物を飼っていたように感じる。最初はそれが「世の中のクズや悪人を許さない」という方向に働いていた。またみじめな境遇に強い劣等感を感じ、「人並みに普通に生きたい」という良心的な生き方を選択できなかった苦しみが父親に向かった。
ここまでは住田の「良心」は外側、他人への批判へ向かっている。けれど父親を殺してしまったことで、住田の良心は内側、自らを批判せざるをえなくなる。
結果、住田は自分の悪行を償うように「ひとつくらい世の中のタメになりたい」と悪人を殺すことをもくろむようになる。
このとき住田は「世の中のタメになる」ことで良心の呵責を振り切ろうとしていたのだろうか?けれどこの行為は同時に悪意を凶悪に育て、更に人を殺すことで自分につきまとう化け物=良心を振り切ろうとしているように見える。自らの中にもある悪意を完全に無視し、人の悪意のみを独善的に裁ける正義の味方こそ、完全に良心を無視した非人間的な、「特別」な存在なのではないか?住田はそれを悟っていたのではないだろうか。
とにかく住田は自分なりの手段で、良心という化け物による呵責と戦おうとした。けれど最後は良心に食い殺されて自殺を選ぶ。
「罪と罰」にこんな下りがある。「どこか狭く高いところへ連れて行かれそこが両足で立つ面積しか無くても下は荒海で暗闇でもその70センチ四方の場所で永遠に生きることになっても今死ぬよりましだと。ただ生きていたい。生きていきたい。」金に困り老婆を殺害した主人公ラスコーリニコフの心情描写であるが、普通人を殺してしまっても生存本能を持つ人間はこう考える。
けれど住田は自殺を選択した。「罪を犯して生きながらえる」ことに耐えられなかった。
ホームレスのおじさんの言っていた「一生苦しみながら生きる」ことが何よりの償いだという考え方も確かにある。けれど住田は罪を償った後幸せになりうるかもしれない未来が許せなかったのだろう。良心の呵責にさいなまれ自分の生命を怪物に捧げてしまった。この良心という怪物に取り憑かれていた最初から、住田は「特別」な人間だったのかもしれない。
という風に読んだ。そう読むことで共感し、救われた気がした。ただ悲しいことに自分は「特別」でない、普通の薄汚れた人間なので、醜い悪意を自覚しながらも住田のように死を選ぶことができない。
思うに人間は誰でも同量の「悪意」を持っていて、人を殺しうるのではないのか?「こいつ死んじまえ!」と一生に一度は、誰でも思うだろう。「死んじまえ」とは行かないまでも、「憎い」「嫌い」「妬ましい」「ウザい」「邪魔」そういう悪意が発露しない人間などいない。その原罪としての悪意を「隠し持つという罪」に耐えきれず、自らの悪意に正直に向き合いすぎたために人を殺す人間もいるのではないか?そしてその人の「良心」はもしかしたら「悪意を隠し持つ罪」を犯している善人たちより大きいのではないのか?