山口一郎のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
本質(それがそうあるためには欠かすことのできない性質であり、時代や国の違いを超えて妥当する普遍的な性質)直観(それが絶対に間違いなく意識に明白に与えられていること)、一人称―二人称関係による事例収集、意識の0.5秒遅延説、ミラーニューロン(相手の行動の意図、感情の動きを正確に写し取る鏡のような脳神経細胞群)と共感能力、故意・過失といった自由と責任に関わる「意味と価値」を含む物事・人間の行動の本質に到達する、自由変更(共感の生じる条件を考える、思考実験(色と空間、音と持続、運動感覚と視覚像の連合(感覚素材と潜在的志向性が相互に呼び覚まし合う相互覚起)))
現象学的還元(ありのままの経験にたち戻る、先入観、知的判断の停止と知的能力をカッコに入れ使用しない)、時間・空間の意味と価値、受動的/能動的志向性(何かに向けられる抽象的性質)
受動的/能動的綜合(志向性による意味付け、価値付けをそのつど新たに作り上げる)、随意/不随意運動、感覚が知覚に先行、感覚間の対化(対になる連合(感覚系と知覚系の連結))
過去把持(過ぎ去るものが維持される志向性)の交差志向性と延長志向性(客観化(外化))により、時間内容が時間形式に先立つ、潜在的/顕在的志向性、未来予持(直前の未来を先取りし予測)
様々な概念を平易、具体的で丁寧に分かりやすく伝えようとしています。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ仕事の現場でここ数年感じていた会社の将来の閉塞感が、「数学化による生活世界の危機」と表現されていて、まさに生きることの意味と価値を、会社の一人一人がそれぞれが見直そうとしていたところ。
会社の中で変人、ガキ、宗教っぽいと囁かれながらも、自分の夢を語ってきた自分の過去を意味付けながら歩んできた方向性は、確かなゴールに続いている事を再認識した。
・二項動態:①相反の補完、②両極の幅、③フラクタルな形態、④銅的均衡
・フロシネス:①善い目的、②ありのままの直観、③タイムリーな場、④本質の物語、⑤実現する政治力、⑥実践知の組織化
・本質直観:①類似性、②潜む同一性、③自由変更と本質 -
Posted by ブクログ
読み始めてしばらくして、自分が何を読んでいたんだっけ?と、とまどった。たしか経営に関する本を読み始めたはずなのに、なにやら物事を考える底の部分というか、ひどく小難しい話を読んでいることに気がついたからだ。哲学、それも現象学という難解な話だった。その部分について理解できたとはいえないが、ただ難しいからといって、そこで止める気にはならず、読み続けられたわけだから、なにか惹きつけられるところは会ったのだと思う。
読む中で、やがてさまざまなエピソードにつながっていき、そのあたりからはわりと素直に楽しく読めたな。ホンダジェットが開発されたエピソードは面白かった。富士フィルムがフィルムというメインとなる領域の縮小に対して、どのように生き残りをはかったか、というあたりも面白かった。
そうした現実寄りのエピソードを読んでいくうちに、冒頭の難しい現象学が、企業経営という人間集団が動いていく背景にある物語であったり、思考にとって、重要な役割を担っていることが感じられた。
一回読んだだけで、理解できたとはいえない。もう少し理解したいと思える本だった。いずれまた、読み返そう。 -
Posted by ブクログ
三宅陽一郎氏の『人工知能のための哲学塾』を読み現象学に興味を持ち、国内における現象学の第一人者である山口一郎氏と、日本を代表する経営学者である野中郁次郎氏との共著である本書を購入。
本書は第1部で山口氏による現象学、第2部で野中氏の代表理論であるSECIモデルを中心とした経営学が解説される2部構成である。
一見関連性のない哲学(特に現象学)と経営学を、1冊の本でどのように結びつけて述べられるのか期待と不安を抱きながら読み始めたが、冒頭、中盤(第1部と第2部の間)および終盤に山口氏と野中氏との対談が挿入されていることで、哲学を専門に学んだことのない自分のような読者にとっても理解が助けられた。
現象学は「現象学的還元」「判断停止(エポケー)」「志向性」「明証性」「生活世界」「ノエシス/ノエマ」「本質直観」「相互主観性」等々、フッサールによって定義づけられた理解し難い用語が多いが、本書において山口氏は、身近な事例を平易な言葉を用いて解説し、現象学の難解な専門用語を可能な限り厳選した上で論考を展開しているため読み手を飽きさせない。
また野中氏のパートでは、第1部における現象学の内容を受ける形でSECIモデルと現象学の関係性に言及しつつ、実際の企業の事例を紹介しながらSECIモデルを主観と客観の循環として説明しているところが興味深い。
実存主義の流れから生み出された現象学と、実学と言われる経営学が、本書のサブタイトルに使われている"共感の哲学"という言葉で結び付けられるということは、経営学を専門として研究している身としては非常に示唆に富むものであった。
現象学特有の「直観(直感ではない)」や近年の経営学で取り上げられる「動態経営論」といった、本書のタイトルで用いられている言葉をより深く理解するにはそれぞれの分野の専門書を読む必要があるが、経営学に新たな視座を設けてくれる本書は、巷間溢れているビジネス系書籍にはない刺激を読者にもたらすであろう。 -
Posted by ブクログ
非常に重厚な本だった。普通のビジネス書のようには読めない。私のお世話になった先生が「経営学は宗教書」と冗談交じりに言っていたが、本書は良い意味で実直に経営学と哲学を架橋して、学際的なアプローチにより「職場」というものをかなり丁寧に考察している。露木の博士論文の知見が下敷きにあることも大きな要因となっている。現象学という哲学の理論を用いて経営の現場を考察する手法は斬新だ。組織の人間関係を考慮するとき、意外にもその対象は他者ではなく自分を対象とし、「何のために生きる自分か」、「本当の自分とは何か」(p.32)を見出すことが重要としており、まさにこうした立場が哲学的(現象学的)と感じる点である。そうした作業を経て、他者との見解とじっくり突き合わせで話し合う・対話することが肝要と読み取った。決して「会話」をすればよいのではない。問題解決の方向は、自分が間違いないと実感できることをベースに、それと「考え」の世界を作ることという。創造的なことは「人と人との関係のなかからしか生まれてこない」(p.346)というメッセージを、私なりに職場で展開していきたいと感じた。
-
Posted by ブクログ
2部構成になっていて、1部が山口さんによる現象学の解説、2部が野中さんによる知識創造経営の話。で、2人の対談が3つという構成になっている。
現象学は何を言っているのか皆目分からない感じで、入門書も含めて、これまでできるだけ近寄らないようにしていた。
そういうなか、組織開発の哲学的基礎にはフッサールがいるという話しを「組織開発の探究」で読んで、経営との関係で現象学が解説してあるこの本はいいかもと思って読むことにした。
「直観」は、「直感」じゃないわけね。
推論などに寄らない「直接的な認知・経験」みたいな話。
つまり、インスピレーションで経営しようという話ではなく、先入観のない直接的な経験を共感しあうような経営をしようという話。
現象学というと、なんか、独我論的な印象を持っていて、個人における主観的経験がまずは重視された上で、間主観性、相互主観みたいなところに、少しづつたどりついていくという印象を持っていたが、ここでの説明では、相互主観性の話が中心というか、まず共通感覚があるので、主観が存在するみたいな説明になっていて、驚いた。
現象学はよくわかってないので、この理解がどこまでフッサールの議論に忠実なのかは分からない訳だが、フッサールだけではなく、メルロ・ポンティ、オートポイエーシスのヴァレラ、脳科学のレビットなどの議論なども組み合わせて説明されるので説得力はある。
後半は、いくつかの新しい事例紹介などはあるものの、「いつもの」野中節という感じ。
とはいえ、現象学という哲学的な考えと組み合わせることで、SECIモデルの意味がより深くなった感じはする。
あと、脇道の議論だが、ブーバーの「我と汝」の「汝」というのは、ドイツ語では、親しみを込めた二人称の訳であるというのは驚いた。
ブーバーの「我と汝」関係って、仲良い友達が、「おれ=お前」関係で共感しながら話しているみたいなことを言っていたのかな?(そういう風には受け取れなかったのだが。。。。もしそうだとすると、私は全くブーバーの議論を理解してなかったということになる) -
Posted by ブクログ
色気ってのは腹が据わった覚悟の有る人間が醸し出すもんだ 知る事の、大切さも無意味さも素晴らしさも恐ろしさも全てこの作品が描いています。 娘ヨレンタがノヴァクの感情の部分に触れる唯一の存在であるのにも関わらず 以降は信念というよりは最早執着 それこそ「アポリア」(相反する二つの見解が等しく成立する場合、解決の糸口を見出せない難問)だと思うんですけど。 ある意味、完全オリジナルを作るという欲望は幻想だったり。もう流石にこの世界には蓄積が有り過ぎるから、どういう組み合わせで更に新しい事があるかなって事を皆探求していると思います。 文化は大きな川の流れであるという事を良く言っているんですけど、文章、文節ってその流れの一部でしかないですよね。 何かにグッと偏ってる 僕には山口さんの世代が、個人と世界を接続する「社会」という中間項を成立させていたように見えるんですよ。 社会性を持つには自分自身のオリジナルな状態を維持しないといけないっていう 人間は結局、回顧主義だから未来のものを懐かしく感じて、過去のものを新しく感じるようなサイクルがずっと続いていく気がする。 地動説への強い憎悪を露わにするノヴァク 自分が『チ。』の物語の悪役だったと気付くところもメタフィクション(フィクションの中のフィクション)的で面白いですよね 『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』という曲を作った時は、サブカルチャーとハイカルチャーを融合させて、日本の詩吟とダンスミュージックとクラシックの三角関係を曲にしようと考えたんだけど、純粋にメロディを作ったり歌詞を書いてる時は、ほぼ「無」でやっていたかも。 尖っている個性の手前にある普遍性をどれだけ腑に落とせているかで その行為を「考古学のようで楽しい」と表現していました 僕の二十代の屈辱が疼くのを感じた 感動させる作品には個々の挫折や劣等感と繋がる瞬間がある気がする 今後の僕等には『チ。』が有る。彼等は僕等が前進する意志と共に戦ってくれる。 今でも多くの国が、天体を国旗のシンボルとして採用し続けているのは、その名残だ。 宗教が信徒に求めるのは教義への「信」だが、科学に必要なのは「信」では無い。寧ろ逆である。科学が求めるのは「疑い」だ。だから『チ。』は「信念」の物語であると同時に、いや、寧ろそれ以上に、「疑念」の大切さについての物語でもある。 叶う方法を探せば道筋は立てられる 昨日礼賛されていた言葉が今日は禁句になっているような毎日なのに 私が変化したという事実からあなたは今何かを受け取ったんです γはその紙資料を所定の位置に戻すと 教会が説く善に従う事は、私達自身の生を断念し、道徳的命令に従う「畜群」として生きる事を暗に意味するからである。 重罰になる可能性をも考慮にいれて 「何故人を殺してはいけないのか」という問いに対して、それを予め封印するような動きを見せる「僧侶」達が私達の周りには今も尚存在しているからである。『チ。』は、フィクションの形をとりながら、現代人がどのような〈嘘〉に隷従を強いられているかを私達に改めて問いただすのだ。 時には手厳しい論駁等も珍しく無かった 〈真理〉は、誤りを無慈悲に宣告する。〈真理〉の正しさは、思いや努力等の人間的な事情とは関係ないところにあるからだ。 朽ちる事の無い静かな衝動を指す事を暗示している 迷いは、変化の兆しがそこにある事を意味している。