柳田國男のレビュー一覧
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遠野物語に載っていない逸話集「遠野物語拾遺」を京極夏彦が再編集したもの
柳田国男の原著「遠野物語拾遺」も併載
遠野での怪異や行われている風習なども多数載っている
逸話の順番が入れ替えられていて、原著では気づきにくい逸話同士の関係などが京極夏彦の解釈として描かれている
訳の仕方や補足で付け加えられている情報など、京極っぽいものを感じる
遠野物語との関係性や出版に至った経緯などの説明も併記されている
個人的に面白かったのは
・餅を食べたいが故に交換条件で色々してくれる「何か」
・子供が仏像で遊んでいたのを注意したら、「折角遊んでいたのに」と夢枕に出てくる神仏
この辺は物語の定番と違った展開になっているのが面白みを感じる
その他にも、物語の定番とは異なるる展開のものも結構ある -
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初めて読む、柳田國男の本。
子供時代から老年にいたるまでの、心に残ったことが書きつけてある。
子供時代は、何に心を惹かれて民俗学に興味を持ったか、どんな経験が作用したか、壮年からは自身の問題意識と民俗学を通した解決に向けての思いが書かれている。
民俗学会のおこりの話や、外国人が日本を研究することを推進し、国内の研究そのものを活発にさせたいという意図があったことは印象的だった。
単に民俗学を振興するだけではなくてそれをとおして解決できるのではないかという示唆もあり、例えば四民平等になって、農民は士族を批判していたが結局士族の真似をし、自分たちのこれまでの生活を軽蔑する向きがある。これは民俗学でしか解決できないと述べている。
また、当時議会では昔ながらの文法で発言している慣習を批判し、わかりやすい言葉で話さないと普通選挙にした意味がないと主張している。そこではわからないものはわからないとはっきり言えるよう教育することの大切も訴えている。現代にも通じる問題意識を持っていたことが印象的だった。
また、珍紛漢の由来が儒者がやたら小難しい言葉を使うことを冷やかしてできた話も初めて知ったように思う。
民俗学として面白いと思ったことは、地名学と地理を研究している話。同じような名前が散らばっていることなど、そういう視点から見ると面白いと思った。
また、裸体か身体を隠すかということは文明の度合とは比例しないという文章も興味深く読んだ。 -
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昨日まで東北を旅行していました。最後の訪問地が遠野です。その前に遠野物語を読もうと思いました。
最初に手にしたのが青空文庫。しかしなかなか読みづらく。たどり着いたのがこの本でした。
原文を単に口語体に変換するだけでなく、本来なら注釈とすべき内容を本文内に上手く取り込むことによって、平易で読みやすくなっています。さらに説話の順番を入れ替えて括ることによって、頭に入りやすく工夫されています。
後ろには柳田さんの原文も付いています。入門編ともいうべき京極さんの文章を読んだ後にこちらを読むと、原文が削ぎ取られたような名文である事が良く判ります。
ところで実際に訪れた遠野。
卯子酉様とか五百羅漢、コンセイサマ、オシラサマなどちょっとディープな遠野も良かったのですが、良く晴れた晩秋の遠野は、盆地を取り囲む山々の針葉樹の緑と広葉樹の紅葉に彩られ、刈り取りの終わった田んぼのあちこちにたわわに実る柿のオレンジ。ちょっと冷たいけど清々しい風。それだけで「民話の里」という雰囲気にあふれていました。 -
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島崎藤村の「椰子の実」は柳田が伊良湖岬で体験したことを聞いて詩にしたもので、島崎の体験ではないと。
島崎が「台湾で兄に会ってくれ」と言うので会ったら、土地の払下申請に在留期間が足りないので口利きを頼んできた。藤村も承知のことと知った柳田は、自然主義とかいって、やってることは役人(当時柳田は農商務省勤めだったか)を馬鹿にしたこんなことか、と憤慨して絶交したと。
民俗学絡みの話は興味深いが、真剣には読めない。遠野の話は一つも出てこないし。
80歳を過ぎてからの口述筆記なので、話が前後するし、体系立っていない。
念のため付記。面白くないわけじゃないです。 -
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「海上の道」柳田国男
柳田の最後の著書であり、様々な論議を呼んだこの論文を私は初めて読んだ。「日本人の祖先が、南方海上より流れ着いた人々であった」という論旨そのものは、現在では明確に批判・訂正されているので、改めて読むモチベーションがなかなか持てなかったのである。この全集では、まず「文学」として読もうとしている。「科学」と対立する文学という意味で、私も確かに文学であると思う。構造はほとんど随筆だからである。柳田は、青年の頃拾ったヤシの実からこの論を立てている。私は勘違いしていたが、ヤシの実を沖縄の浜辺で拾ったのかと思いきや、伊勢の浜辺で拾ったのである。そこから、様々な思いと民俗事象を述べた後に、中盤で初めて「宝貝」がキーワードであったと学術的な根拠を述べる構造は、もはや文学であろう。文章は美しい。だから、最後まで読めてしまう。思うに、柳田国男を文学者として読み直す作業は、まだ始まっていないのかもしれない。
「死者の書」折口信夫
いろいろとわからない語句や展開もあるけど、詰まりながらも、なんとか最後まで読み通した。誤解していたのは、古代の黄泉の国描写が半分くらいあるのかと思いきや、それはほとんどなかったこと。有名な「した、した、した」という擬音が、もっと全編を覆っているのかと思っていた。むしろ、発表当時としては、非常に先進的、もしかしたら現代でもまだここまでの水準に達していないほど考証のしっかりした奈良時代小説になっていた。
地の文自体が、古代人の目線になっていて、例えば「片破れ月が、上がってきた。それがかえって、あるいている道の辺の凄さを、照し出した」「月が中天来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり白んできた」(218p)というような言葉の選び方は、もう誰も到達できぬ高さである。
しかしこれは民俗学ではない。純粋に小説だろう。
「土佐源氏」宮本常一
(「忘れられた日本人」(1960)より)
池澤夏樹に「小説よりおもしろい」と言わしめる作品である。私もインタビュー記事を書いたことがあるのでわかるが、これだけの内容を聞き出すとすれば、優に4ー5時間を2回は繰り返さなくてはならない。もちろん信頼関係が出来上がってからの話だから、本当は数日かかる。私は、民俗採取の真似事をしたこともあるが、1時間じっくり話を伺って使えるのは一言二言分しかない事ばっかりだった。ところが、記録によれば、宮本常一の村への滞在はたった1日の数時間だったらしい。信じられない密度である。小説よりおもしろいが、これは明らかに民俗採取である。馬喰や盗人宿、こうぞつくり、夜這い、etc。今は無くなっている豊かな民俗がここにある。それから10数年後に書かれた「生活の記録」の中に、単に男女平等と云うことではなく、生き生きとした女の民俗が記録されているのは、そんな「採取」ができるのは、決して偶然ではない。
「神社合祀に関する意見」南方熊楠
我大学在住の折、常民文化研究会に所属し、フォークロワフィールドワークの真似事をす。民俗学は科学か、文学か?講師と論議し、不明に終わる。突如その会話思い出しぬ。それより35年。民俗学は常に脳中不可忘。数年前、和歌山南方熊楠記念館を訪ねる。小字で埋め尽くされたノート、紙、凡ゆる標本、博覧強記、南方曼荼羅我を圧倒す。
この小文、日本エコロジー論嚆矢也と世に云う。無論、我同意。唯、八割かた神社合祀政策反対論拠を(1)敬神思想を薄くし(2)民の融和を妨げ(3)地方の凋落を来たし(4)人情風俗を害し(5)愛郷心と愛国心を減じ(6)治安・民利を損じ、と論じ、輿論に訴え、政治家を説得す。文中、和歌山県並びに全国の合祀神社事案のみならず、水戸光圀、定家、西行、白石、他多くの日本古典を挙げ、モンステキュー、孔子、その他欧米の様々な地方を引合いにす。正に、博物学そのもの也。
(7)史蹟・古伝を滅ぼし(8)学術上貴重の天然記念物を滅却す、と論じるに及んで、例えば次のように記す。
わが国の神林には、その地固有の天然林を千年数百年来残存せるもの多し。これに加うるに、その地に珍しき諸植物は毎度毎度神に献ずるとて植え加えられたれば、珍草木を存すること多く、偉大の老樹や土地に特有の珍生物は必ず多く神林神池に存するなり。(45p)
この後、怒涛が如く珍草木珍生物の名前出ず。全ては我は知らず。果たして絶滅せしか。
守護の要は、金でも政策でも無し。敬神思想であり、民の融和であり、地方であり、人情風俗であり、愛郷心と愛国心であり、治安・民利である。蓋し、民俗学の核心也。民俗学は、日本文学か否か、元より日本文学なり。その謂、日本文学とは日本の文なれば也。 -
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「遠野物語」を読みやすく現代文にかみ砕きながら、装飾はほとんど行っていないので、原典の持つ素朴な「得体のしれないものを伝承する」という姿勢を感じ取ることができます。
怖がらせようという意図のある「伝承話」ではなく、あくまでただそう伝わっている、ということを伝えていこうとする話のかけらたちなので、物語の背後に統一された意図があるわけでも、意外性ある展開があるわけでもありません。
けれど、繰り返し描かれる「この世ならざるもの」がなにかの暗喩なのか、はたまたほんとうの異形なのか、などと想像を巡らせると、とらえどころのない不安やおののきを感じたりもするのでした。 -
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独特な文体に目が行く。
簡潔な短い文が重ねられている。ここは読点なのでは?と思うところで句点だったり。
京極夏彦の文章を読むのは実は初めてで、これが京極調なのかどうか、わからない。多分、柳田の文章に合わせて工夫したものなのだろうとは思う。
経立(ふったち、長生きした獣)や、座敷童、山神、山人といった不思議なものたちには、心がひきつけられる。
そして、それらが土地の地形や地名と深く結びついていると感じた。
きっと遠野だけではなく、全国各地にこういった話はあったはずなのに、どうして残らなかったのだろう。
ほら、この岩にはその時の熊の爪の跡がのこっているだろう―といった形で、自分の生まれ育った土地の話として読んでみたい気がする。 -
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正体の分からないものへの畏敬、姿は見えているが自分とは違う物への怯えは今の日本人の好む物語にも通じるとおもう。カッパ、雪女、山男、童話だったり小説、漫画、映画でも有名な妖怪達の物語が京極夏彦さんの手によって読みやすくなっているので興味はあったけど古い作品だし手を出しづらいと考えている人がいたら、これを! と差し出したいです。
現代人以上に神仏信仰が盛んで、生活に馴染みすぎたが故に無宗教であると言う人もいない時代だからこそ、たぶん勘違いだろう、見間違いだろうではなく化け物に違いないという方向に転がっていくのは興味深い。
五十九の胡桃の合間に赤ら顔の河童が見えたのはその最たるものだと考える。
後ろに掲載されている柳田国男の方を読めばよく分かるが、そちらもまた読み慣れない文体であるがゆえに違った恐ろしさを持った作品でした。