濱野智史のレビュー一覧
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1989年に始まった平成時代は、30年後の2019年に幕を閉じた。本書は平成が終わり、令和が始まった2019年に、平成史を書くという試みのもとに編まれた本である。編者は小熊英二、それ以外に7人の執筆者が参加している。最初に小熊英二が、「総説」を書き、以降、政治・経済・地方と中央・社会保障・教育・情報化・外国人/移民・国際環境とナショナリズムというテーマで、それぞれの専門家が執筆している。
小熊英二は、「総説」の中で、平成について下記のように述べている。
【引用】
「平成」とは、1975年前後に確立した日本型工業社会が機能不全になるなかで、状況認識と価値観の転換を拒み、問題の「先延ばし」のために補助金と努力を費やしてきた時代であった。
この時期に行われた政策は、真摯な試みはあったものの、結果的にはその多くが、日本型工業社会の応急修理的な対応に終始した。問題の認識を誤り、外圧に押され、旧時代のコンセプトの政策で逆効果をもたらし、旧制度の穴ふさぎに金を注いで財政難を招き、切りやすい部分を切り捨てた。
老朽化した家庭の水漏れと応急修理のいたちごっこにも似たその対応のなかで、「漏れ落ちた人びと」が増え、格差意識と怒りが生まれ、ポピュリズムが発生している。それは必ずしも政策にかぎった現象ではなく、時代錯誤なジェンダー規範とその結果としての晩婚化・少子化もまた、「先延ばし」の一例といえよう。だが「先延ばし」の限界はもやは明らかである。
【引用終わり】
上記を補足すると、というか、私なりの理解を書くと下記の通りだ。
1)1965年~1992年(最初の東京オリンピックからバブル崩壊まで)が、日本が「ものづくりの国」だった時代であり、日本はこの間に大きな成功を収めた。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と謳われたこともあった。これを工業化社会と呼べば、以降、世界はポスト工業化社会に突入する。
2)社会保障あるいは、政治・教育・地方自治など一国の制度のあり方には、3つのスキームがあると言われている。①自由主義スキーム。アメリカが典型。自由主義と個人責任を重視する。社会保障のコンセプトは「弱者救済」②北欧にみられる社会民主主義レジーム。重い税負担のもと、「基本的権利としての全員保障」がなされる③南欧や独仏などにみられる「保守主義レジーム」。家族や労組、職業別組織などの共同体を重視し、これらの共同体を基盤に社会保障を整えた。たとえば労働者とその家族には、正規雇用労働者に組合保険が提供され、家族は男性労働者の保険に入る。
3)この中で、ポスト工業化社会にもっとも不適合を起こしやすいのは「保守主義レジーム」である。製造業を中心とした労働者が長期に正規雇用されることを前提に、すべての社会保障が組み立てられているからである。男性労働者の雇用が不安定になると、その家族が収入と社会保障を失い、年金制度も崩壊してしまう。それゆえ労働者の解雇がむずかしく、旧来の産業構造から転換できない。
4)日本は自由主義レジームと保守主義レジームの混合体であると考えられる。現代日本には二つの世界が存在する。公務員および大企業の正規雇用労働者とその家族、そして農民と自営業者といった、旧来の日本型工業化社会の構成部分は、保守主義レジームに近い世界に住んでいる。一方で非正規雇用労働者など、ポスト工業化社会への変化に対応させられている部分は、自由主義スキームに近い世界に住んでいる。その結果として、産業が硬直化して福祉制度が機能不全になるという保守主義レジームの特徴と、失業率は低いが格差が増大するという自由主義レジームの特徴が共存することになる。
5)保守主義レジームの傘におおわれた部分は保護されるが、その傘から「漏れ落ちた」部分は、自由主義レジームのもと、時代の変化に対応するための調整弁となる。
6)日本の政策・制度は、日本が最も成功を収めた「工業化社会時代」に設計されたものばかりである。時代は変化し「ポスト工業化社会時代」に突入し、政策・制度も変化させる必要があるにも関わらず、時代が変化したという認識がなされていないために、制度・政策が変わらない。変わらないことを、小熊英二は「先延ばし」といい、「工業化社会時代」の仕組み(政策や制度)の恩恵を受けられない人たちを、「漏れ落ちた人たち」と呼んでいる。
私には、非常に説得力のある議論に思えた。
昔つくった制度が変わらないのは、「既得権益層の抵抗が強いから」という説明がなされることが多いのだが、筆者は、「制度設計の前提、すなわち時代が変わったことに皆が気づかずに、昔(工業化時代)の姿を維持しようと、無駄なお金と努力(制度改訂)を注いでいる」という主張をしており、これも説得力があると感じた。
2023年度予算案が2022年12月23日に決定したという新聞報道があった。予算案は、114兆円。バブルで膨らんだ予算規模の縮小が出来ず、また、新たに防衛費などが増額された結果、当初予算案としては史上最大となった。この予算をまかなうために、国債をあらたに35兆円強発行することとなる。国の借金は更に増える。また、日銀の金融政策の変更により、金利が上がることが予想されており、国の借金にかかる利息も増え、将来的にはますます予算の自由度が減っていくことが想定される。
私には、この予算も、「先延ばし」予算のように思える。本当はあらゆる側面で抜本的に政策・制度を見直す必要があるはずなのに、それをせず、従来の延長線上で予算を組んでいるように思えるのだ。
かなりやばいような気がするが。 -
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宇野さん・濱野さんがこれまで主張してきたことの再録+α版。1章は原発の議論+『リトルピープルの時代』を基にした宇野さんパート。2章は濱野さんによる情報社会論の捉え直し。個人的にはここが胸熱。濱野さんがなんで『アーキテクチャの生態系』で日本社会論にこだわったのか。それは日本的な(ひろゆき的な)ネット空間を分析しなければ、日本独自の「フロンティア」が見えないから。このパート、普通に情報社会論の基礎的な流れの確認としても読めるし、そこに+αで濱野流の情報社会論の日本的な捉え直しもあって熱い。「梅田望夫的(アメリカ的)」と「ひろゆき的(日本的)」という括りは実感としてはすごく納得で、日本の土壌を受け入れた上で外発的にではなく、内発的に(宇野の言葉だとハッキングで)変えていくしかない。
ただ疑問もある。日本的、ガラパゴス的、匿名的ネット空間に可能性がある―というのはどうしてなのか。確かに、日本のネット文化・土壌を受け入れた上で希望を語る、議論を展開していくしかない―というのはわかる。でも、日本的な環境「だからこそ」希望がある、というのはどうしてなのか。もう少し言及がほしい。
そして、この本にある最大の問題。果たして、この本に収められている言葉は、どこに届いているのだろうか。ハイコンテクストで、これまでに思想の言葉に触れていなければ、いやむしろ具体的に『リトルピープルの時代』『アーキテクチャの生態系』を読んでいなければ、はっきり言ってわからない議論だったのは間違いないと思う。この本を市場に放り投げた時、購入者は思想地図界隈を好む読者に限られるだろうし、例え「誤配」が起こって他の読者に読まれたとしても、おそらく宇野さん・濱野さんの言葉はその読者には届かない。排除されてしまうはず。
思想地図界隈のマーケットなんて(東さんが前にLife現代思想の回で言っていたけど)せいぜい3万人くらい。多く見積もっても数万人程度。そこへ向けたところで、規模は果てしなく小さい。
宇野さん・濱野さんの議論が悪いというわけじゃない。むしろ、抜群に本質的でクリティカル。だからこそ、その議論は多くの人に届けるべきだし、その届ける努力がみられなかったのはもったいない。徹底的につけられた注釈そのものがハイコンテクストで、思想地図界隈の「外側」にいる読者には絶対にわからない。そのあたりの「議論」ではなく「姿勢」(思想系の言葉でいうならば、コンスタンティブではなくパフォーマティブな側面)について2人はどう考えているのだろうか。
また、議論が極めてレトリカルだったのも気になる。いや別にレトリックを用いることは悪い事じゃない。問題は議論が具体例に落とし込まれたとき、途端に弱くなることだ。おわりに濱野さんが「その具体的な提言となると、稚拙さも目につくものだろう」と告白しているように、抽象的なレベルにとどまっているという指摘は回避できないはず。その意味において宇野さんがいう「文芸評論家だから」というロジックは言い訳にしかならない。だからこそ、具体的な構想をレトリックで片づけるのではなく、現実の実務的な、届く言葉で方てほしかったし、語るべきだと思う。そのあたり、多分宇野さんも濱野さんも自覚していると思うし、今後のポイントなんじゃないかなと思う。 -
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ネタバレいい意味でも悪い意味でも「狂気の書」であると思った。AKBと宗教との対比、アーキテクチャとしてのAKB、といった論については、ただただ舌を巻くばかり。確かにAKBというシステムは、オウム・エヴァンゲリオン後の社会やコミュニケーションのかたちの縮図である。
しかし「たかがアイドル」――しかも、資本主義におけるモンスターよろしく大規模な搾取を続けている商品に対して、この国を代表する批評家が評価を与えている理由について、私が納得いくような回答は得られなかった。
筆者は日本のサブカルチャーやアーキテクチャの専門家であり、アイドルという卑俗なモチーフを扱いながらも有名な学者の言を引用しながら論を進めたり、自らの専門分野から鋭い指摘をしたりと、内容のおよそ半分は冷静な態度であった。しかしAKB自体に論が移ると、意図的かどうか分からないが明らかに冷静さを欠く。そして最も肝心な、「人はなぜAKBにハマるのか」という点については、偶然性によって出会った(一目惚れした)「推しメン」との疑似恋愛でしかないと言う。
ただただ納得するしかないが、じゃあ「普通に恋人を見つければ?」というツッコミ一つでこの本の価値は裸の王様になってしまうであろう。
もちろん恋人や配偶者がいてAKBにハマっている人もいるだろうから一概には言えないが、少なくともAKBを「恋愛弱者」の側から語るのか、そうでない側から語るのか、そのことで何か変わるのか、ということはかなり大きな問題であると思うので死生観云々よりもそっちを重要視してほしかった。
大体、偶然性によるつながりを量産するシステムってそんなに新しいのだろうか?濱野氏には、世界の中でも安全かつ多様に発達した、日本の性風俗産業にハマってもらい、同様の規模・視点から一冊書いていただきたい。皮肉でもアンチでもなく期待を込めて「マジ」で。 -
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ネタバレ「自己承認なんてものは、もはや断片的で確率的なものでしかあり得ない」
失われた10年だったのがいつの間にか20年になって、僕たちが青春を過ごした時代が無意味だったかのようなことを言われちゃって、それを聞く僕たちも、何となくそんな気分になっていたけど、それに異を唱える人がいる。そのうちの二人が著者。何反省しちゃってるんだふざけるなと。
おっちゃんたちが見ていた世界は確かに停滞の時代だったかもしれないけれど、オッチャン達が見ていなくて僕たちが見ていた世界では時代は確実に進んでいる。僕たちの青春時代は決して反省の対象にされるものではないのだと。著者は、着実に発達してきた自由の拡大を、最大元に享受して発言を続けている。
自由の拡大という進歩と、superflatからcooljapanへと流れる日本文化の肯定感(ちょっと狙いが違うけど)この2つを利用して、日本にドメスティックな希望を見いだす。だから希望論。
同世代の人が本気でそう考え実行しているのは題名のとおり希望になる。素直に未来に対するワクワクした期待感がもてたことが嬉しい。
他には、共同体についての議論が結構あるけど、Facebookとかシェアハウスとかを見ると、確かに断片的な自己承認の詰め合わせで承認欲求を満たそうとしている私たちがいて、そこに僕もいる。そしてその欲求が決して満たされる事はないからこそ、流動的にならざるを得ないという面がある。
これは善し悪しのもんだいではなく、受け入れざるを得ないものなのかもしれない。 -
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気になった論点とかをノートにまとめていたら4ページにもなりました。本当は皆さんにも本書を読んでもらうのが一番なんですけど、宣伝も兼ねてその中のいくつかを紹介します。
1.「ゆきりんに居場所がない」問題。優子→あっちゃんのいないAKBを守るという物語。まゆゆ→次世代センターの本命。ゆきりん→前田政権での有力閣僚だったけどナンバー2ではないので後継者にはなれない。
2.大島優子には「嫌われる才能」がない。アンチがいるからスターが生まれる。あっちゃんと違い、優子にはアンチがほとんどいない。
3.よしりん「AKBの選挙には同情票が膨大にある。単なる美少女コンテストで票を入れていない」
4.総選挙という名の公開処刑。中森「なぜ彼女たちは裁判にかけられ、国民の前で公開処刑されるのか。これはある意味、罰を受けているんです。何についての罪を問われているかといえば、それは「夢」を持つことに対する罰だと思う」
5.よしりん「あっちゃんや優子は家族の茶の間に入れる。お父さんもお母さんも子供も好きになれる。大衆化できる存在。珠理奈や玲奈は、まだオタクのアイドル。家庭に入り込めるようにならないとセンターで引っ張ることはできないと思う」(「茶の間に入れる」という言葉を見て、僕の頭にはももちこと嗣永桃子さんの姿が思い浮かびました。)
6.中森「この選挙は野蛮だから不条理なものが残る。ゆきりんが悪い理由はない」
7.現実の選挙は「チルドレン選挙」。個人を見ていない。金で買える票の方がピュアな本気が込められている。
8.公共性。日本中の何万人ものAKBファンの投票で決まったならどんな結果であっても受け入れなければならないという感覚が共有されていた。自分がそこに参加したというたしかな手応えがあるから納得できる。日本の政治にはこの正当性の空気、公共性の手応えがない。
9.AKBの成立にはブログ等のソーシャルメディアの存在が大きな役割を果たしてきた。むしろ最初の数年間はテレビのようなマスメディアとはある程度の距離を置いてきた。
10.AKBの多様性。麻里子さまとみおりんのファンの間には「女の子の趣味」という面で共有できるものはほとんどない。
11.インターネットの定着は「情報」の性質を変えた。「ただ受け取る」から「自分でも発信する」へ。完成品を受け取ってただ消費するだけの快楽しか提供しないものでは消費者にアピールするのは難しくなっていく。
12.テキスト、音楽など原則的にコピー可能なコンテンツ(情報)そのものに人はお金を払う価値を感じにくい。人は入れ替え不可能なものに対して相対的な価値を認めやすい。AKBはコンテンツではなく、コミュニケーションを売っている。
13.コンテンツ自体ではなく、それを媒介としたコミュニケーションこそが価値を帯びる。AKBには握手会や総選挙など、「参加する快楽」がある。
14.今はみんな将来が不安だから自分の生活で精一杯。だからこそ自分の利害関係とは離れたところで誰かを「推す」ことが心の支えになる。アイドルオタクにCDを大量に買わせる資本主義の権化みたいな「搾取」のシステムがむしろ「共同体」を生み出している。
15.中森「『ロミオとジュリエット』もそうだけど、絶対的なタブーを破ることこそ真の純愛であり、恋愛は感動的になる。恋愛可能性の過剰と恋愛禁止の厳格化。ダブルバインド」 -
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ネタバレ(印象的な箇所)
<ソーシャルメディア時代のアイドルAKB>
・AKBはマスメディアに頼らず、ソーシャルメディアを駆使して、ファンとアイドルの新しい関係を作った。
・AKBは、おにゃんこやモーニング娘。に似ていると言われるが、ガチの度合いが全然違う。
・おにゃんこもモー娘も、所詮フェイク・ドキュメンタリー。楽屋の生の様子を視聴者に見せているようでいて、製作者側が何を見せるか、繊細にコントロールしていた。
・AKBは、もうフェイクじゃない。ガチの人気競争をファンに見せている。毎日劇場で公演して、女子たちにGoogle+やブログを好き勝手に更新させることで、アイドルの日常をソーシャルメディア上にだだ漏れ状態にしている。
・あとはオタたちが、ソーシャルメディアにその感想を吐き出し、勝手に盛り上がっていく。テレビ前提のアイドルとは、ファンとアイドルの関係性が全く違う。
<米大統領選に近いAKB総選挙の公共性と正当性>
・AKBの総選挙の仕組みはガチだから、正当性の空気、公共性の手ごたえがある。
・総選挙の順位は、夢を持つことの罰、公開処刑である。夢を持っても叶わない、ガチで順位がつく。その残酷さ、ガチっぷりに正当性が生まれる。
・日本の政治には、選挙の正当性も公共性も感じられない。AKBの総選挙はファンの民意の積み上げ。アメリカの大統領選に近いシステム。
<秋元康のビジネスは資本主義を超えるか>
・80年代活躍し、資本主義を超克しようとした思想家、文化人として、柄谷行人、糸井重里、秋元康の3名があげられる。
・柄谷は、資本主義に変わる地域通貨経済や、くじ引きの代表選出を構想したが、こけた。(くじ引き代表選出は、AKBのじゃんけん選抜に似ている)
・糸井重里は、「ほぼ日」で、消費社会に優雅にコミットしつつ、主流のがつがつしたビジネスから距離をおくライフスタイルの変革を実践したが、大きな波及効果はない。
・秋元康には柄谷や糸井のような思想はない。秋元のは単なるビジネスだが、大衆に一番売れており、色々批判されながらも、社会を動かしている。
・良い消費生活のモデルが、資本主義に勝つとする糸井重里「ほぼ日」のコンセプトは、社会の全体的な構造に対する批判力がない。
・対して秋元康は、社会のシステムを直接批判するわけではないが、総選挙、じゃんけん選抜など色々面白い仕掛けを作っていくことで、結果的に「こんな仕組みもありえたのか」というショックを与えている。
・秋元は個人のライフスタイルではなくて、人やお金の集め方、動員のシステムについて、新しいモデルを提示している、しかもあくまで商売として。
・糸井と同じような「良い消費生活」志向の村上春樹も、個人のマインドセットに関心が向きすぎており、オウム事件など前にしても、社会の仕組みを変えていこうという発想に行かない。
・秋元がAKBでやっていることは、資本主義の力を使って、世の中のシステムを自動更新していくモデルに近づいている。これは重要なこと。
(読後の随想)
・秋元康は80年代、テレビ局に散々お金を持っていかれたから、自分のところに利益が残るシステムを作ろうとした。そして、AKBというソーシャルメディアを活用したアイドルが生まれた、というストーリー。
・ソーシャルメディアの時代にアイドルとファンは直に交流する。ネットでもブログや、Google+(AKBファンの間では通称「ぐぐたす」)で直接コミュニケーション。握手会でも直接肌と肌の触れあいコミュニケーション。
・次世代センター最有力候補で、じゃんけん選抜でも偶然なのか何なのか、1位になったぱるるの活躍が気になる。(秋元さんが推したぱるるが、じゃんけん選抜でも1位になり、本当にセンターになってしまう。こうした物語が、ファンの間で更なる二次創作的物語を派生させる。僕がこうして書いたことも、AKBの物語の一部として、ネット上で繁殖する) -
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東日本大震災によって既存の枠組みに対する絶望感が生まれる中、日本人はどこに「希望」を見出したらいいのか?
戦後日本の社会構造、日本におけるインターネットの発達史などを紐解きながら、2010年代の「希望」へとつながる萌芽を探っていく本。
実世界とコンピュータがより密接につながりリアル空間を広げてくれる「拡張現実」という概念は、世界中で着実なムーブメントを起こしている。
(例:Facebookを通じた実名による社会交流の拡大、ネット選挙による政治活動の多様化)
もちろん、日本でもこういうムーブメントは起きている。
しかし、この本ではそれ以上に、日本からスタートした、特有の動きにも注目している。
例えば、
現実のコミュニケーションがその一部をゲーム化する「ソーシャルゲーム」
「繋がりの社会性」的な無内容なコミュニケーションを起点にしたネットワーク
(友人との雑談を重視したmixiやLINE、2chのまとめサイト)
などなど。
欧米では、個々人が相互に自律的に判断する能力を持って「契約」を結ぶ個人像が前提となり、TwitterやFacebookのような個人全面押し出し形、世の中には意味を持たせなければならない、みたいな発想のサービスが発展してきた。
一方、日本ではソーシャルゲーム、mixiやLINEみたいな、個人がそこまで自己主張するわけでもなく、一見すると中身の無いようなサービスが発展している。
でも、そういう無内容に見えるコミュニケーションこそ、日本人の根底に息づくものであり、もし日本に「希望」を見出すなら、むしろそういったところから突破口を広げ、日本らしさに根ざしたムーブメントを起こさなければならない。
…というふうな感想を抱きました。
インターネット普及から2011年までのの日本情勢が簡潔にまとまっており、新しい枠組みを作っていく上でのヒントが詰まっているのではないかと思います。 -
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日本の平成を、政治・経済・地方自治・社会保障・教育・情報化・移民政策・ナショナリズムの観点からまとめた本。
総じて言うなれば、日本の平成とは、変化するさまざまな環境に対して、昭和の枠組みをその場しのぎで改変することで対応してきた時代であり、その綻びがあらわになってきた時代といえる。
重要な観点は、ポスト工業化における個人化。昭和はある意味一定のライフコースしか想定しておらず、そこから漏れ落ちた人々に対しては想定をしていなかった。だからこそ、こうしてそれぞれの観点からまとめてみると、ちぐはぐな対応に見えてしまう。
システムは入れた途端陳腐化するが、それは全ての精度に対しても言えるのかもしれない。ビジョンを持ったアップデートが求められるが、それも簡単な話ではない。 -
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対談は良い。その人がいま考えていることの「原石」が直接提示される。本書のそれは、非常に目映い。本書が語るのはお定まりの「希望」そのものではなく、個々人が自分の間尺にあった「希望」を探すための基本戦略であり、そのために「現代という時代をどのように位置づけるか」という問いが、くり返し問い直されている。
見田宗介による戦後史の区分(「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」)を受けて、大澤真幸は現代(1995年以降)を「不可能性の時代」と呼び、東浩紀は「動物化するポストモダン」と呼んだ。宇野氏は両者を止揚するかたちで「拡張現実の時代」と言う。このアイデアには正直痺れた。
《ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の混在、現実の一部が虚構化することで拡張〔多重化〕することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。〔…〕インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」 する方向にしか作用していない。〔…〕…〈ここではない、どこか〉を仮構するのではなく〈いま、ここ〉を多重化する方向へと虚構に求める欲望が変化している。〔…〕…虚構(ゲー ム)と現実(社会関係)がここでは入れ子状に絡まり合って現実を拡張していると言える》[宇野、p40-41]。
現代が「拡張現実の時代」と位置づけられるならば、もはや、大きな「父」の代弁者として「ここにない希望(理想)」を語る言葉には意味がない。あるいは、「父」への抵抗として「ここにない希望(虚構)」を弄んでみても欺瞞的なだけだ。《グローバル資本主義下、ネットワーク社会下においては誰もがただ存在するだけで〔否応なく〕貨幣と情報を通じて小さな決定者であり発信者、つまり小さな「父」として機能してしまう》[宇野、p206]。《もはや僕ら一人一人が経済主体であり、メディアであるこの時代に、〔エルサレム賞受賞スピーチでの村上春樹のように〕「自分は卵の側である」と断言することは非常に危険だと思う。誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉が僕は必要だと思うんです》[宇野、p31]。
そうした《誰もが「壁でもあり卵でもある」世界をとらえ、変えていく言葉》として両氏がキーワードとして挙げるのが「ゲーミフィケーション」であり、これは「希望」を創るための基本戦略として非常に説得力がある。
《要するに現実は「クソゲー」すぎるんだ、ということなんですね。〔…〕それなら現実のほうをゲーム化し、ハマりやすいかたちに〔ボトムアップ的に〕かえればいいんじゃないか、と。もはや政治的なイデオロギーや美しい理念だけで人は動かないのだとすれば、ゲームこそが社会運動の原動力となる》[宇野、p194]。
以上が本書の骨格であり、これらアイデアが「原石」状態で提示された本書は、最近の両氏の著作の中で群をぬいて刺激的だ。逆にいえば、本書のアイデアの展開版であるはずの両氏のAKB48論や『リトルピープルの時代』がなぜ面白くないのか、考えこんでしまう(端的に言って、貴重な「原石」を磨くための材料を間違えてしまっているのでは?と思う)。
とにかく、本書が「2010年代(と言うより、1990年代以降)の文化と社会」を読み解く際に(その賛否は別として)無視することのできない一冊であるのは間違いない。
読んで本当に良かったと思えた本の一つ。
(追記)
…と、偉そうに書いてみたものの、この本で個人的に一番印象に残ったのは、じつは宇野氏の「まえがき」での言葉でした。《京都は、いい街だった。いまでも三日に一度くらい「帰りたい」と思う。〔…〕僕はこの好きな街から離れたくなくて、ここでのんびり暮らすつもりだった》[p8]。自分も数年前までまったく同じことを書いていて、今もそう思っています。この一言でこの人に問答無用の親近感を感じました。いつまでも、三日に一度くらい「帰りたい」と思う場所を抱えながら、自分も此処で生きていきたい。そう思いました。 -
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この著者、AKBの追っかけしてるからじゃなく、
自著の想定読者に届く言葉かどうかを全く斟酌せずに専門用語を轟々と語りまくる、その一人よがりっぷりが
正真正銘の「オタク」なんだと思った。
AKBというシステムを宗教と対比させた視点は面白い。
資本主義社会の中では、こ~ゆ~カタチでしか純愛は成立しないのかも…とも考えた。
でも、これって決して新しいシステムでもなんでもなく、郭や茶屋の女たちだって、古くは白拍子だって、同じように「女」を売って―いや売られて、商売道具にされてたんだよね。
人気があれば着飾った絵姿なんかも出回った訳でしょ?
ぶっちゃけ水商売って普遍の商売なんだろぉな…。
ただ昔は買えたのは富がある者ってだけで。それが庶民まで下りてきたって事か。
貴賤貧富の差・男女の性差別が無くなった今、実際の性交渉が除外されたってだけだよね…とも思った。 -
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AKB48の魅力とは何か? なぜ前田敦子はセンターだったのか?後に『不動のセンター』と称せられた前田敦子ちゃんを徹底的に分析することによってAKB48の持つ「宗教性」をあぶりだしていきます。
『前田敦子はキリストを超えた』
このセンセーショナルなタイトルは筆者の友人であり評論家の宇野常寛氏のツイートがきっかけとなっているのですが、時代と場所が違えば恐らくこれは轟々たる批判を浴びていたであろうなぁと思いながら本書を手にとって見ました。
内容はというと、自らもまたAKB48の『ヲタ』を自認する筆者があっちゃんこと前田敦子(性格には元メンバー)と筆者自身が『推しメン』として大ファンであるぱるること島崎遥香を中心にしてとしてのAKB48を新書一冊分丸々使って語りつくすと言うものです。それにしても『識者』と呼ばれる人間に思い入れ100%の本を何冊も書かせるAKBグループはいまや巨大な『モンスター』となってしまった感が否めません。
僕は半ば距離感を置いて本書を半分ほど読み終えた頃、好きな作家の佐藤優氏がラジオでここに書かれていることとほぼそのままの見解を話しているのを聞いて、やっぱりキリスト者(佐藤氏はプロテスタント神学)からAKB48を見ても、彼女たちにはそういった側面を持っているものだったんだなと思い、改めてここに書かれている内容を読み通してみたのでした。
「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」
前田敦子ちゃんが第三回選抜総選挙で1位を取った際、壇上で彼女が話したスピーチの内容は有名で、この中には『利他性』というものが存在すると筆者は説いております。この『利他性』というある種の『自己犠牲』はAKBメンバー1人1人の中に刻み込まれており、ついでにいうなれば第五回選抜総選挙で1位となった「さしこ」こと指原莉乃ちゃんの中にも確実にそれらが存在すると思うのです。
僕はこの辺のことをまったくわかっていないのですが、『アンチ』という存在がいて、1つはAKBそのものに対して否定的な、もしくはまったく興味の無い『AKBアンチ』もう1つはAKBの『ヲタ』のなかに存在する『AKBヲタ内アンチ』というものがあるそうで、これは昔日の会社の中にあった『派閥』のようなものだなと思っております。日ごろは『○○アンチ』や『××アンチ』といったようにメンバーやそのファンたちを非難していても、外から彼女たちの悪口を言われればガッチリと結束する。そういう風に捉えております。
しかし、彼ら彼女らがネット上に膨大な量で排出する匿名の批判。場合によっては誹謗中傷とも取れる発言の数々になぜああも耐えうることができるのか?その疑問に対しても筆者は、握手会や劇場公演などのナマで彼女たちを見る機会、さらに直接ファンとメンバーが直接交流できる機会を通じて、『ヲタ』が『メン』に大して語りかける励ましの言葉によってであるという分析は『あぁ、なるほどなぁ』と感じ入ってしまいました。
さらには、AKBグループ独特のシステムである『推し』について、第三章の『なぜ人は人を「推す」のか』で徹底的に語られており、AKBの運営は「偶然性」というものに彩られているということや、「擬似恋愛」としての側面を挙げて、彼女たちへの『ヲタ』の想いは恋愛でも性愛でもなく『恋→政=愛』という形態をシステム化させたということや、古典的なロマンチックラブの甦り、さらには彼女たちが成長していくのを「見守る」という「喜び」そして「商品」でありながら人間でもあるというアイドルのある種不思議な存在にぱるること島崎遥香ちゃんの例を用いて解説されており、その『熱さ』に思わず打ちのめされそうになってしまいました。
最後になる第四章の『AKBは世界宗教たりうるか』では
「たかがアイドル、されどアイドル」
で本当に世界宗教になるのか否かということはさておいても、ここまでのシステムを「偶然」とはいえ作ってしまった秋元康氏とわずか7人という観客からスタートし、今やその一挙手一投足までもが衆人にさらされるようになり、その中でも『傷つきながら、夢を見る』彼女たちを『推し』たくなるという『ヲタ』たちの内在的論理や行動原理は少しだけわかったような気がいたしました。