濱野智史のレビュー一覧
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AKB48に「マジ」で嵌った4氏が叫ぶ、推し愛と社会学的分析の結晶。
AKB48、ならびに48Projectがこれだけのムーブメントを巻き起こし、他のアイドルとは一線を画している特徴というのは、劇場というホームグラウンドを抱えている点が大きい。
おニャン子クラブであったり、モーニング娘。であったり、過去の大所帯アイドルグループには、このようなホームグラウンドを抱えた例はなく、故にマスメディアとの結びつきがブレイクのうえで必要不可欠であったが、AKB48は劇場という下地を抱えている分だけ地盤がしっかりとしており、マスメディアへの露出は、より間口を拡大するためのあくまでも副次的な要素に過ぎないのである。
もちろん、このような形態をソーシャルメディア全盛の時代に思いついたという幸運は決して見逃すことが出来ない点。今でこそ、Google+を利用したソーシャルメディアによるマーケティング手法を意図的に、かつ積極的に利用しているが、グループ立ち上げ当初に既にそこまで考えが及んでいたとは考えにくい。
些か盲目的になりすぎてはいないか、こんな言説はあまりに馬鹿げているのではないか、と失笑を買いそうな熱の入りようであり、その点に関しては否定しない。引き合いに出される他グループに対する認識は、やや甘めに見える。ここまでAKB48に対して入れ込んでしまったら、もはや致し方ないことなのかもしれないが笑
だが、一見、馬鹿馬鹿しくも映るこういった議論の中に、社会を紐解くための意外なヒントが転がっていたりする胡散臭さが、実は社会学という学問の本質であり、面白さであると個人的には思う。
変なバイアスをかけて堅苦しく読まずに、熱いおっさんたちがソーシャルメディアでAKB討論をしているところにちょっと耳(目?)を傾けるような、軽いノリで読み進めば面白い本。 -
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「推し」とは何か?
絶対的なものへのコミットメント
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境界線の恣意性
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恣意性からコミットメントへ
(あえてコミットメントする)
宗教からAKBへはこういう一サイクルとなっています。
深いコミットメントを描いたここ最近の作品として
『1Q84』2009年村上春樹
『借りぐらしのアリエッティ』2010年 宮崎駿監督
しかしこの辺の作品が描く他者へのコミットメントとAKBの誰かへのコミットメントは違う気がする。
〈宗教〉としてのAKB48とは何か?
「あえてコミットメントする」から「あえて」がとれて
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「(絶対的?)なものへのコミットメント」
まで1週したということ? -
Posted by ブクログ
SNSやタッチ可能な高性能ゲーム機による社会構造の変化、そしてそれに伴うAKB48の登場は、恋愛というもののシステムを少しずつ揺さぶりつつある。その様相についての対談、およびパネリストによる論考をまとめた本。
これまた、『希望論』という本をきっかけに濱野智史さんに興味を抱き、卒業論文の参考文献探しを兼ねて読んでみた本です。
表紙が女子高生のちょっと扇情的な写真で電車内で読むのが恥ずかしかったです。駅員さん呼ばれたくないです(余談)。
表紙とは裏腹に、けっこうがっつりと2000年代以降の恋愛観がまとめられています。
主に濱野さん目当てで読んだので、そこら辺中心に。
濱野さん自身が猛烈なAKBファンで、なおかつサブカルチャーにも造詣が深いこともあってか、「擬似恋愛」としてのAKB48が詳細かつ客観的に分析されています。
AKB48やラブプラスにはそこまで詳しくないからこそ、「バーチャルな恋愛という成就手段」という観点で各現象を分析する、という姿勢に感心させていただいたように感じます。
卒論で2000年代のネット社会と文化についてやろうと思っているので、論考を補強する上での材料にしていきたいところです。どういう使い方したらいいかわからない、というネックこそございますが…。 -
Posted by ブクログ
理想の時代→虚構の時代ときて、拡張現実の時代にさしかかってる今、新たなサービスや文化がどんどん生まれてきて、そんな中でどのように生活していくのか興味深いと思った。
<いま、ここ>の現実を多重化する、ゲーム化、聖地巡礼など遊びや文化にはハッキリ見られるようになってきたが、その他に社会にどのような変化がうまれてくるか、楽しみ。
また、現代において自己承認が「個人individual」じゃなく、「分人dividual」断片的で確率的なものでしかあり得なくなったというのも興味深い。その時代に合った自分を作ってゆて、悩みすぎず生きやすく生活した方が良いのだなぁと思った。 -
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まず宇野常寛も嫌がっていたとおり、
タイトルは失敗だったと思う。
悪い部分をあげつらうよりも、
良い部分を数えた方が建設的であるのは当然だろう。
しかし、
それを「希望」というワードに閉じ込めた瞬間に、
意味合いがずれてきてしまうように思う。
これでは凡百の「希望」話と同じ読まれ方をされてしまうのではないかな。
要するに、
「あー例の希望話ね。はいはい」という風に、
読者の姿勢を読む前に限定してしまい、
書かれていることをミスリードする危険がある(これ自体がミスリードかもわからんが)。
せっかくいいこと書いてあるんだから勿体ないと思う。
特に日本のITは萌芽の時から「ひろゆき的」なのだ(キリッ)、
という説明はかなり興味深い考察だった。
つまり日本のネット技術は、
最初からコミュニケーションのために発達したものだということである。
だからニコニコ動画や2ちゃんねるが流行るのは、
むしろ日本のIT業界においては当然の出来事で、
議論し合う場としての梅田望夫的なweb概念というものは傍流でしかない。
だとしたら、
「日本的なるもの」を肯定的に捉え直し、
日本と海外の「モード」の違いを理解して、
それをどう上手くコントロールしていく仕組みを設定するかが大切なのである。
そうした未来のビジョンが「母」的な社会というのはすごく賛成。
しかしながら、
なんとなく彼らの言説には、
決定的な足腰の弱さを感じてしまうんだな。
なんでだろ。 -
Posted by ブクログ
90年代半ばの思想シーンを駆け足で振り返りながら、震災以後の日本のありかたを批評・思想の面から検討。
ソーシャルネットワークの可能性や、日本型のコンテンツ生産・消費、あるいはコミュニティーのあり方など、東浩紀が「思想地図」でこれまで検討してきた内容を踏まえた議論が行われる。
少ないページ数で幅広い議論が行われて、現状の見取り図としてはとてもわかりやすいものになっている。
ただ、この本のテーマである「希望」への提示についてはまだ弱いという印象。「思想地図」で提示された内容にかぶるところが多い。独自の提示の部分は、東浩紀にツイッターでボロクソ言われていたけれど、それもしかたないと思えてしまう程度にまだまだ練られていない。ブレストとしてはいいのだろうが、「希望論」と言えるところまでもっていくにはもう少しといったところか。