柴崎友香のレビュー一覧
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増補新版で再読しました。
面白かったです。とてももやもやします。
旧版→映画→増補新版と接してきたのですが、ずっとヒリヒリしました。
運命だ、と思った相手がふたり。同じ顔で。
登場人物たちのあれこれと共に風景が執拗とも言えるほどに描かれていて、人は視覚で生きている、ということを感じました。
朝子が一目惚れするシーンも、麦のときも亮平のときも一度に全身を見ているし。
でも朝子の友人の春代は、麦と亮平は同じ系統だけどそんなに似ていない、と言ってるので、好きだから似て見えるのかなと思ったりします。
消えていた麦が朝子の前に現れてからはもう怖かったです。そっちに行ってはダメだ、と思いながらも、でもきちんとお別れも出来ず、ずっと会いたかった人が迎えに来たら行ってしまうことあるのかも…と思いました。
わたしは朝子は責められないです。責められるほど、健全な恋愛はしてないです。
亮平はいいやつだ…朝子と亮平、溝を抱えたままふたりで生きていくんだろうなと思いました。
増補新版で増えた部分はよくわからなかったです。。
人を好きになるのは、端から見るとこんなに訳がわからないことなのだ、と思います。
朝子は心に正直に行動してますが、理解されることではないです…怖いけれどリアルでした。
映画を観てからなので、春代は完全に伊藤沙莉さんでした。ぴったり過ぎです。
東出昌大さんは、麦と亮平だったら麦だと思います。亮平の空気ではありません。
朝子の唐田えりかさんはこちらで初めて拝見したのですが、どこか得体の知れないところが朝子でした。でも、あれから他の作品で見ても、彼女は深いところでは何を考えてるんだろう?と思います。
映画はすごく風景が綺麗で好きでした。また観たいです。 -
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著者の作品は、いかにも芥川賞狙いの100からせいぜい200枚強程度の中編が多かった。
また、たぶん作品の性質上中編が合っている。
その著者にしては、結構な長編。(連載雑誌を購入していたが、その段階では追いかけられなかった。)
ひょっとすると2014年に芥川賞を取ったからこそ、力を抜いて長編に取り組めたのかもしれない。
え!? 柴崎友香がループ系を!? え、しかも家族を!?
という驚きはあらすじを一瞥して感じていたことだ。
村田沙耶香が書き続けてきたような、いわゆる毒親モノを、著者が書くのは初めてではなかろうか。
著者はむしろアーバンな関係性に視野を絞り、興味の対象も視覚情報と活字情報一辺倒だった。
それが毒親やら過干渉やらDVやらネグレクトやら、厭さやら嫌悪感やら気持ち悪さやらライムスター宇多丸の言葉でいう「ヤダみ」やら、まで描いた。
筆者にしては挑戦……、とここまで書きながら、いや無謀な挑戦じゃないな、と思い直した。
だって視点人物は著者ならではの性格(従来の作品で貫かれてきた)から抜け出ていないのだ。
これを逆に考えると、従来の作品の淡白さの理由に、親子関係の歪みをそれなりに求めてもいいのだと、遡及的に言質を得たと、考えてもいいのかもしれない。
つまりデビュー作以来の淡白さを解釈しなおす機会をもらったとも、いえる。
ただし毒親やらDVやらといった安っぽい題材を取り入れつつも、ちゃんと柴崎友香味になっているので、やはり読んでよかったなー、と。
言い換えると、著者の作品群は茫漠さが味だが、この長編では長編ならでは、キャラの味つけや増改築されゆく舞台の面白みや、でぐいぐい引っ張ってくれた。
ところで著者の作品群においては視点人物の異様さが仄見えてくるのが面白いが、
「ふ、ふ、文さんは亀だって、面倒見てるじゃないですかあああっ! おうおああああっーっ!」
という台詞は、異様さが突き破ってきて、思わず笑ってしまったよ。 -
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ネタバレ色縛りの連作。
実は緑よりも赤のほうが登場している印象あり。
というのは、地の文が「微温的緑」のままだからこそ、火や火事や血や夕焼けの赤が衝撃的なのだろう。
そいえば語り手も相手も結構熱い台詞を吐いている(どうやったら、ら、かっこよくなれるんかなって、とか、意思があればどこにでも行ける、とか)。
緑と赤の落差、微温と熱の落差、が本全体を不穏にしている。
そして、やはり文体の凄まじさ。
徹底的に過去形しか使わない「寝ても覚めても」と同じ系列だ。
そしてまた、記憶。
決してその時期だけにフォーカスしているわけではなく「その数年後にこうなったからこのときはこうだった」といった行き来も、なきにしもあらず、なので、視点が浮遊しっぱなし。
それが緩さではなく凄みに達するのが、文体の効果ということか。
さらにまた、生活のディテール。
どうしてそんなものに着目して記述できるの、という驚きが、さりげなく組み込まれて、唯一無二の読後感を引き出す。
唐突に出てくる海外ミュージシャンがだいたい関西弁で気さくなのは笑ってしまう。 -
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ネタバレ映画になった「寝ても覚めても」を観て、「きょうのできごと、十年後」(河出文庫)が気になり始めて、買ったはずなのか、買ったつもりなだけなのか、どこを探してもなかったので新刊を買ってきて、まず、読んだ。すると、2000年に出て、映画も、たしか見た「きょうのできごと」(河出文庫)が気になって探すと、これは書棚にあって、もう一度読んだ。
「きょうのできごと」は、一応、柴崎のデビュー作ということだから、読み始めて18年もたつんだと思って、今、読み終わった文庫本をしげしげという感じで眺めていると表紙の写真が妻夫木聡と田中麗奈。映画のコンビ。ぼくでも名前を知っている数少ない俳優なのだけれど、田中という人はほかの場所で見てもすぐにわかるとは思えない。文庫の後ろの方を見ていると映画は2004年だとわかって、ぼくの柴崎初体験は14年前だとあらためて気づいた。年齢でいえば、50歳の時で、とても、そんな年になってから出会った作家だとは思えないのだが、事実は事実ということのようだ。
解説は保坂和志が書いていて、柴崎についてだけでなく保坂自身にもつながる、まあ、当たり前だけど、大事なことを言っているのだけれど、そこで出てくるジャー・ムッシュという映画監督をぼくは知らない。
《未来はもうかつて信じられたみたいな“特別な”ものではない。それを私たちはよく知っている。だから、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を境にしてフィクションの時間はもう未来に向かってまっすぐ進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、展開にも、両方にあてはまる。未来に希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今この時に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことが出来るのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。》
今読んでみると、十年以上も前のことだけれども、この文章を読んだことは確実で、柴崎の小説の案内を書くときに「今この時」にこだわっていて、《今ここにいるということがなにげないことなのに、哀しい。》というふうな感じになるのは、保坂のこの文章に、理解しているかどうか、あやふやだけど、インスパイア―されている。
「きょうのできごと、十年後」と、「きょうのできごと」に話を戻すと、20代の始めだった人たちが、10年後に再会するという設定で、複数の登場人物の、一人称の語りという描き方は同じ。だから、当然なのだけれど、二つの小説の登場人物は、ほぼ重なっていて、10歳、年を取っている。
登場人物の中の「かわちくん」という青年と「けいと」という女性の絡みの描写がそれぞれの小説の中にある。
《こたつの部屋の隅っこで、けいととかわちくんが並んで座ってお酒を飲んでいた。(略)
思った通り、けいとはかわちくんに一生懸命話しかけていた。
「あんなあ、酔うてるときって、卵の中におるみたいな気がせえへん?せえへん?」
「卵ですか?」
(略)
「そう、卵の中。でも、卵っていうても鳥の卵じゃないねんで。あんな固い殻じゃないねん。殻のない卵。」
「気にせんでもいいで、かわちくん。それはけいとの酔うたときのねたやから」
「そうなんですか」
(略)けいとはわたしのほうをちょっと睨んでから話し続けた。かわちくんに話しかけるたびに短い外はねの髪の毛が揺れて、しっぽを振る犬みたいだと思った。
「ええやろ、べつに。ほんまにそう思うんやから。卵やの、卵。柔らかい、水みたいのに包まれる感じせえへん?声とかも水の中でしゃべってるみたいにこもって聞こえるし、感覚とかも鈍くなるやん。触っても、あんまり感じへんくって。きっと卵の中におるのって、こんな感じなんやろうなあって思うねん。鳥の卵じゃなくて、おたまじゃくしの卵とか、そういうのやで」
「おたまじゃくしの卵ですか」
かわちくんは素直に聞いて、考え込んでいる様子を見せた。けいとはかわちくんの反応を、期待を込めた目をきらきらさせて待っていた。わたしは目の前にあった、袋の底に少しだけ残っていたポテトチップスを食べながら、けいとってかわいいなと思った。
「なあ、かわちくん、そんな感じせえへん?おたまじゃくしの卵の中みたいやって。おたまじゃくし。どう?」
かわちくんはまじめな顔をして、テーブルの上の氷だけになったコップの底にたまった水を少し飲んでから言った。
「おたまじゃくしの卵って、変じゃないですか?かえるの卵でしょう?」
「えっ?」
けいとは予想外の答えに戸惑って、何を聞かれたか理解するのに少し時間がかかっているみたいだった。わたしは、固まっているけいとの顔がおかしくて笑ってしまった。》(「きょうのできごと」(真紀のモノローグ)
《「もおーっ、暗いなあ!あかんあかん、せっかくの男前がもったいない」
けいとさんは、今度はぼくの肩をゆすった。今、ぼくが考えていることは、この人にはわからない。ぼくが何をしてきたのか、この人は知らない。十年ぶりに会った、他人のこの人には、ぼくは実際よりも少しましに見えているのだろう。
「別に、こんな顔、役に立てへんし・・・・・・」
「立つよ!今も、目の保養させてもらってるし。癒されてるよ」
真剣な口調が、うれしかった。
「やさしいですね、けいとさん」
「ほんま?やさしい?」
けいとさんの二つの目は、潤んで、そばにある変わった形のライトを反射していた。鳥の羽みたいな不思議な服。どっどっどっ、と音楽の一部が響いてきた。誰かの声も聞こえる気がする。
「けいとさんは、素敵な女性やと思います。あの・・・・、かわいいし」
けいとさんは、こっちに手を伸ばした。そして、ぼくの顔を触った。頭から顎に向かって、そっと撫でた。細い指で、温かい手だった。だけど、感じたのはそれだけだった。
「あー、なんでやろなあ」
けいとさんは、ぼくから離れ、赤い椅子にどさっと持たれた。
「それ十年前に言うてくれたらよかったのに。そしたらわたし、素直によろこんで、っていうかぎゃーぎゃーうるさかったと思うけど、かわちくんになんでもしてあげたのになー」
けいとさんは笑っていた。懐かしい友だちみたいな笑いかただった。
「けいとさんは、イマイチ男性の趣味が悪いのかもしれませんね。見る目がないというか」
「ええっ?」
「ほら、ぼくとか、もしつき合っても、全然おもしろくなかったと思いますよ」
「せやなあ。恋愛に関してはろくなことなかったし、確かに、そうなんかも。かわちくんも、こんなぐだぐだやしなあ」
「すいません」
「謝らんでいいって。謝りすぎ」
「それもよく言われます」
あはは、と声を上げて笑ったけいとさんは、眠そうに見えた。》「きょうのできごと、十年後」(かわちのモノローグ)
ここまで読んできた人には、「十年の歳月」ということが、人に何をもたらすのかということを、この作家が書き込んでいることに気づいていただけたのではないだろうか。
10年後の「今、ここ」が、単なる時間の経過の結果としてあるわけではなくて、そのとき、そのときの「今、ここ」が重層的に重ねられた経験として人の中に積もってゆく。すこしづつ、その露頭を垣間見せながら、「きょうの」会話が構成されていく。何が変わって、何が変わらないのか、自分でもよくわからない。しかし、口調や物腰、外の世界の見え方の中に、否応なく露出してしまう。
10年前の「きょうのできごと」にも「かわちくんのモノローグ」は書かれている。そこでは、「その日」の「かわちくんの悲惨な、きょうのできごと」と、酔っ払って口説くけいとの「おたまじゃくしの卵」にたいする「かわちくんん」の強烈なリアクションの描写に、「今、ここ」の「分厚さ」があったのだが、「十年後」のかわちくんが、やはり酔って口説くけいとに「やさしいですね、けいとさん」と答える会話のシーンには、10年前に掘ったの井戸から、新たな水を汲みだして口にしたような深い味わいがある。
とかで、「きょうのできごと」「きょうのできごと、十年後」(河出文庫)。是非、続けてお読みください -
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ネタバレ私の好みから言うと、こういうゆるふわガーリーな筋はむしろ苦手だ。
が、柴崎友香に限定して、惹かれてしまうものがある。なぜだろう。
一見、音生という奇矯なキャラクターや、旅先のきれいな風景、が読みどころに感じられるかもしれない。
そういう表面的な読み方で満足することもできる、のだろう。
が、私は柴崎友香が何気なく書き記す、視覚描写の的確さ、に惹かれているのだと感じながら読み進めた。(つまりは保坂和志と長嶋有の解説の通りなのだが。)
例のごとく読書感想をネットで漁っていて、膝を打つ記事があった。
(以下引用)
いわゆる“行きて帰りし物語”的な、旅を通しての成長、変化が描かれる小説ではない。
けれどかといって、音生の強烈なキャラクターを描くためだけに芽衣が語り手になっているわけではなくて、
一言で言ってしまうと、“芽衣がとにかくいろんなものを見る”という小説
(以上引用)
永井くんにトルコで見たものを話す場面があるが、見るという行為、それを他者に話すという行為、の間に時間的な間隙がある。
それはもちろん当たり前なのだけれど、この柴崎友香は間隙のせいで生じるズレの間隔を、「なかったことにしない」。
するとそこに「記憶」という要素が加わるので、描写も会話も多層的になる。
この「多層性」こそが、「確かに今ここに誰それがいる」という感覚をもたらす。
登場人物の関係性でいえば、今ここにわたしとあなたが確かにいる、読者の読み方でいえば、すべての登場人物が確かな時間を積み重ねた上でいま本の中に開かれていく、という感覚が得られる。
柴崎友香の作家性というか魅力はそのあたりにあるのではないだろうか。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ何でこんな映画を観たのだろう、とまず思いました。
一人でどこか遠くへ行きたくて、久しぶりに何か映画を観に行こうと決めました。
映画は内容は本当に何でもよかったので、当てずっぽうでこれにしました。
内容を知っていたらむしろ観なかったと思います。
ストーリー云々より、主人公たちは、みんな若くてきらきらしていました。
まぶしかったです。
やっぱり若者の恋愛映画なんてやめておけばよかったのかな?と悲しくなってしまいました。
帰りのバスの中から見た街中のクリスマスのイルミネーションの夜景までとってもまぶしすぎて、見ていて淋しくなってしまいました。 -
Posted by ブクログ
解説で瀧井朝代が言うように、確かにどの作品にも「生の一回性」を意識する瞬間がある。
だからこそいまここにいる自分、自分がいないどこかやいつかに思いを馳せる。
場所。時間。記憶。取り返せない過去。他人になれない自分。
それらを「無理なく思う」のが柴崎友香の作風なのだろう。
大雑把に言えば作中で行われているのは、歩く。話す。それだけ。
それだけで思考が広がり、「深まりそう」になる。
深く考え込む一歩手前でまた、歩く。話す。豊かだ。
■ハッピーでニュー
■蛙王子とハリウッド
■つばめの日
■なみゅぎまの日
■海沿いの道
■地上のパーティー
■ここからは遠い場所
■ハルツームにわたしはいない
■あとがき。文庫版あとがき。解説は瀧井朝世。 -
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ネタバレ普通より少し波乱に満ちた人生と、それぞれに少し不思議な能力をもつ三兄弟の家に間借りすることになった主人公。主人公もまた複雑な過去を持ち、他人との距離感をつかめずにいる。一番共感したのはその主人公の、優しさや冷静さや諦めを含みながら周りを観察するその視点。自分やまわりを客観的に見つめながらも、思う通りの行動はできないということはよくあるものだ。。
最後、主人公が、ぎこちなさを伴いながらもちゃんと自分のしたいことを言葉にできたのは貴重な瞬間だった。それと、主人公はその優しさ、繊細さゆえに間借りしている家族たちの信頼を少しずつ得ているようにも見えたので、それもまた希望にうつった。