柴崎友香のレビュー一覧
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滝口悠生のアイオワ日記、中上健次のアメリカ・アメリカに続いて読んだ、IWPの参加作家の本。
実は柴崎さん自体を読んだのも初めてだったけど、繊細な書き方に引き込まれる。
この人の視点、好きだなあと思った。
読みやすいし丁寧。
ちょくちょく、自分を取るに足らないものに感じられてショックを受ける様子が描かれる。
とくにラストのNY旅行で、アジア人で女で、背が低いから、と扱いが雑にされる様はわたしもよくわかるので苦しくなった。
英語が苦手ながら、周囲の作家たちといい関係でいたいと頑張る様子は新入社員のよう。
でも周囲の人はもっとクールでざっくばらんな感じ。わかるーーーう。
途中、2ヶ月中断を挟んだ本だったけど、時系列ではないパラグラフなので読みやすかった。
ニューオーリンズの幽霊たち、言葉音楽言葉、が面白かった。
映画好き、音楽好きだったことはアメリカ暮らしに幸したはず。
アメリカの博物館事情も興味深い。
アトラクション型や、追体験型がある。なるほど。
ホロコースト記念博物館の話の終わり、ここの警備員が白人至上主義者に撃たれて最近亡くなった、の表示に胸を突かれる。
アメリカは、なんてとこだ、とアメリカにいかなければ、わからないのだし、アメリカにいたことで、日本の社会や日本語での思考に気づくことができるのは普段当たり前にいる世界のレイヤーに気づく好機なんだろう。
同様に、他の国から来た作家の心のうちに想いを馳せたり、自分の大阪弁への思いに気づくのも面白い。
アメリカと野球とか。
柴崎さんの本もいずれ読んでみようと思った。 -
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ネタバレ時間や距離が隔たった場所の戦争によく思いを馳せる女性がいる。
なぜこの今が、ああではなくてこうなのか。あのとき少し駆け足をして電話に間に合っていたら、違う物語が展開していたのか。はたまたなぜ自分は他人ではなくて自分の中から世界を見ているのか。そんなこともよく考えている。
この砂羽という女性は人とのコミュニケーションは苦手なようで、生き辛さを抱えているように見える。この辺は非常によく分かる。
せっかくなので、引用してみる。
”複数の人間が関わって、二重三重に暗黙の了解みたいなもので囲われた状況が苦手だ。それは三十六歳にもなって人の気持ちを考えられない、もしくは人づきあいのルールがわからない未熟な人間ということなんだとも思う。”(P.30)
”続きがない。1詳細を言う、2聞いてほしいと言う、3言わない、のいずれかを選んでほしい、と思う自分はコミュニケーション能力が欠如しており人の心がわからないということなのだろうか、と気が引けてしまう。”(P.31)
”なぜみんな、こんなふうに気軽に、素早く、なにかを伝えることができるんだろう、と思う。なにか伝えたいことが浮かんでも唐突で変に思われるかもとか、連絡していない別の友人が読んだら快く思わないのではとか、こういう返事が来たらその次はどう書こうとか、つい考えてしまって時間ばかりが過ぎるわたしにとっては、まるで、走っている電車に飛び乗るくらいに、難しいことに思える。”(P.66)
”この根拠の乏しい不安は、子供のころからの考え方の癖のようなもので、待ち合わせ相手が遅れたり近くにいる人が不機嫌なときにも、ほとんど自動的に浮かぶ。”(P.76)
”チューナーになってくれる人がいないとき、他人となにモードで話せばいいかわからない、と前に有子に説明したことを思い出す。”(P.101)
”わたしは、相手が言わないことは聞かないし、聞かれないことは言わないので、やっぱりそれまでと同じように話した。”(p.174)
とても共感できるとともに、解像度のこのあまりの高さは、筆者自身が同様の感覚を持っている以外には考えられない。
ああ、それでこの作風、この文体か、となんとなく納得してしまう。文章が長くてくどいんだけど、分かりやすいくどさというか、すごくしっくりしながら読める。
砂羽には若い頃に通っていた写真教室の時の友人がいて、その一人の妹である夏が途中から主人公のように振る舞い始める。砂羽は急に熱中症になって病院に担ぎ込まれ、フェイドアウトしてしまう。ラストの美しい夕日と妙な火事の、何かカタルシスのようなシーンも夏が引き受ける。ちょっとびっくりするような構成だった。
もう一人、写真教室時代の友人で中井という非常に魅力的な登場人物がいるのだが、もう書ききれない。 -
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柴崎友香「青空感傷ツアー」
河出の文庫版。
素晴らしいクライマックス。なにより海なのがいい。クライマックスの海、言えば浅学の私は脊髄反射で保坂和志!「プレーンソング」!と言うだろう、ラストが海なのはいい。「陽の名残り」の海もいい。
これは全体を通して言える事だが、地の文でその景色の奥にある土地の営みを予感しながらも、次の行で始まるそれらと一切関係のない会話。これが良い。
そこで交わされた会話は後に感傷を生むのかもしれないと言うと大げさだけれど、その感傷の目の前には営みをたたえた風景もあるよね、と自然に思った。そりゃ素晴らしいやんけ。
ツアーとは移動で、感傷とは後ろへ消えていった景色に覚える感情の事だ。
解説を読む。またしても長嶋有が、柴崎友香の前作「きょうのできごと」の解説を書いた保坂が〜と言っている。この人も保坂好きすぎんだろと思う。 -
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そろそろ三十メートル上方に浮かぶ会社に戻らないといけないと思いながら〔34:ハイポジション〕
「東京とパリとバンクーバーってなんか違うと思う?」「なんかって」「わからないけど。今までこんなすごいことなんで誰も教えてくれなかったの、って思うような決定的な違い」「なにそれ」
〔56:クラップ・ユア・ハンズ!〕
たぶん今のわたしよりも小さかった小学生のころの幸太郎の後ろ姿が、うちの近所の建て売りが並ぶあたりをうろうろしているのが思い浮かんだ。でも、それと、幸太郎が思い出しているのとは、全然違う景色だと思う。〔86:夢見がち〕
「焼肉屋ってどのへんにあるの?」
鶴橋の駅を出て右。〔95〕
だけど、総合的には、わたしはうれしそうだった。〔212:ドリーマーズ〕
聞き返しながらも隣の競馬新聞のおっさんに気を取られているえみ子に、周りのものがどんなふうに見えているのか、私は知りたかった。えみ子の頭のうしろに、私の行ったことのない場所が広がっていて、えみ子は常にその場所の広がりと記憶を持ち続けたまま、わたしやおっさんや高島屋や信号機を見ているのだと思った。〔216〕 -
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ネタバレ主人公の砂羽は色々考えすぎて、人の目を気にしすぎて、まわりにうまく溶け込めない。あと、色々心配性すぎる。いざという場面でコミュニケーションを失敗する。脳内会議の感じ、私も同じようになってることよくあって、共感した。
砂羽は、戦時中の作家の日記を読んで同じ場所にいったり、戦争のドキュメンタリーを見たり、戦争を体験した祖父に思いをはせたりしながら、今の自分に起きてることは(どんな出来事も)場所とか時間とかいろんな無数の条件の組み合わせでできているんだ、という普遍的事実を再確認してるようにみえた。
そこまで達観してるから無感動なのかな…?(いいのか悪いのかわからないけど)と思った。
砂羽は、理解されにくいメンタリティをもってると思うけど、それなりに周りに、理解はされなくても共有できる人がいて、ある意味の救いが書かれてる気がした。 -
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L字型のアパートに住んでいる主人公(30代男)とそのアパートの住人2人の女性と3人の話と、そのアパートから見える水色の家。水色の家は昔アーティストが住んでいて、それが"春の庭"という写真集にもなっている。それを高校時代に読んだ1人がその家の人と仲良くなり、家の中を見せてもらい、どうしても風呂場を見たいがために…ある事件になってしまう。
主人公はベランダから見えるその家のステンドグラスが気になり、そして庭を掘り返している写真が気になる。
自分の家に父親の骨を砕いて埋めたことがあるから。
最後に主人公の姉が出てくるんだけれど、ここで姉=私 になる
なぜ⁇ -
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『失恋したら、この本持って旅に出よう』
この紹介文で、私はこれを手にした。まあでも、旅って言ったって、失恋した相手くらいしか一緒に行く人がいないんだけど。……って、どんだけ寂しい人間なんだ自分は。別に寂しいと思ったことはないけれど。なんて思いつつ、ページを捲る。
果たしてこの本に、大きな意味があるのだろうか。恐らく、何か重要すぎるメッセージなんてどこにもない。ゆるゆると、時に激しく時間が過ぎていくような本だ。それが良いなと感じた。
これが本当の失恋旅行なのかはわからない。そもそも、失恋しているらしいのは語り手ではなく、その友人……美しすぎる、ネオという名前の少女だけだ。だが、この世に「本当の」と冠せるものがいくつあるのかは甚だ謎だから、これもまた一種の失恋旅行であるには違いない。
主人公の芽依は、様々なもの……景色でも人物でも、美しいものに惹かれている。その時の描写はとても綺麗でいて、しかも緻密だ。景色もさながら、特にこの作者は、恐らく、人が好きなのではと思う。人のこと……特に身体をよく観察している目だ。
私はこの本を、綿あめのようなものだと思った。一色ではなく、様々に色のついた、レインボーの綿あめ。甘いのだけれど、色によっては別の味になる。辛味もあれば苦味もある。塩味もある。そんな具合の綿あめだ。しかも、ふわりとしていて、どことなく輪郭がぼやけている。
失恋したとき、この本を旅行に持って行けば、何かしら変わるのかも知れない。読後にそう感じた。主人公たちの関西弁が、心地よく響いてくると確信できるからだ。失恋した相手以外に、本という相棒があるとすれば、私は最強かもしれない。もっとも、自分が寂しい人間という事実は容易く動かないが。 -
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不思議なタイトルに惹かれた。
恋愛小説家という肩書きに違和感を覚えた「わたし」が、怪談を書こうと思い立ち、東京を離れて「かわうそ堀」という名前の街に引っ越してくるところから、この小説は始まる。
だから、「かわうそ堀怪談見習い」。
「わたし」は怪談を書くために中学の同級生に取材を始めるが、それから奇妙な出来事に遭遇するようになる。
ゼロ「窓」から始まり、マイナス一「怪談」を経て二七の「鏡の中」まで、29の断章からなる。
小説全体を貫くのは「わたし」の記憶にまつわる謎で、やがてその謎は深まり、ほぐされていく。その過程で、断章のひとつひとつが、派手さはないけど不穏な手触りを「わたし」と読者に残していく。
「わたし」は自らのことを「感情が上がったり下がったりすることが、基本的に苦手だ」というふうに説明する。
そんな性格のためか、奇妙な出来事に遭遇しても、「わたし」はどこか淡々としているように見える。出来事を確かに認知はしているはずだけど、その恐怖に対する姿勢、というか構え方というものが、読者の想像しているものとどこか違っている気がしてくる。
たとえばホラー映画であれば、怪異に遭遇する視点人物はだいたい悲鳴を上げる。そうでなくとも恐れおののく。その時観客は、視点人物と同じように悲鳴を上げながらも、同時にどこかで安心しているところがあるのではないか。自分と同じように怖がってくれる人物がいる。しかもその人物は、スクリーンのこちら側ではなく向こう側、つまり怪異と同じ位相にいる。その人物が怪異のすぐそばで悲鳴を上げてくれるから、スクリーンのこちら側にいる自分は、その人物の後から悲鳴を上げればよい。言うなれば、怪異と自分のあいだに少しの隙間ができる。
ところがこの小説では、視点人物にあたる「わたし」は、怪異と同じ位相にいるはずなのに、悲鳴を上げない。怪異と読者とのあいだに、隙間を作ってはくれない。だからこの小説の怪異は、ページのこちら側にいる読者に向かって手を伸ばし、そっと、しかし直接、肌に触れてくるのだ。 -
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時間を辿って砂羽の行動と心の動きを追う、それは自身の思い出に浸ったり、見聞きしたドキュメンタリのなかのことでもあったりする。
近代文学(大正末や昭和の初め)の私小説が戻ってきたのか、と読み始めは思う。語り手平尾砂羽の日常生活が事細かに描写してあり、特に戦争や紛争のドキュメンタリーのビデオを見るのが好きという語りは、なんだかくらい特殊な趣味のようで、鬱屈している昔の文士のようかと、つまり暗らーくて欝々がメインのようなのだ。
たしかに現代のある女性の孤独な生きづらさがよくわかるようにうまく描かれている。時々クスリとさせられるユーモアをまじえた、数少ない関わりの人(有子やその父親富士男さんや中井さん)たちとの交流の描写が光る。ほんと、なかなかの筆力だと思う。(わたし期待する)
過去の何かあったこと、かかわった人々のことにこだわる生き方は、思いやりがあるようで、なんだかやりきれなさも感じるが、そこでこの小説が大転換してしまうのが、意外だった。主人公がすり替わるってあり!?いやいやそこがメインなのか。
葛井夏というもう一人の女性。彼女は砂羽とは正反対の明るい性格だが、それもそこら辺にいそうな人物、学習塾の主任という日常が描かれ、その行動がこの小説の結びとなる。彼女の見る瀬戸内海の風景への賛美はちょっと国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」を彷彿させるし、最後の火事の描写は川端康成の「雪国」を思い出す。
この小説はこうして読者にも思い起こさせるものを、感じ取らさせるものとなる。