ルソーのレビュー一覧
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ネタバレ自然法(ドロワ・ナチュレル)という考えは、人間の本性にかかわる概念である。p38
【二つの原理ー自己愛と憐れみの情】p41-43
学問的な書物はどれも、すでにできあがった状態の人間について理解するために役立つだけであり、ここでは無用のものである。それよりも大切なことは、人間の魂の原初的でもっとも素朴な働きについて考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。もう一つの原理は、感情をもったあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることである。
わたしたちの精神は、この二つの原理を調和させ、組み合わせることができるのであり、そこから自然法(ドロワ・ナチュレル)のすべての規則を導きだせる。ここに必ずしも社会性(ソシアビリテ)の原理を導入する必要はないのである。
<中略>このように、原初の人間(オム・オリジネル)、その真の欲求、その義務の基本的な原則について研究するというこの方法は、道徳的な不平等の起源について、政治体の真の土台について、政治体の成員の相互の権利についてなど、重要でありながら、十分な解明が行われていない多くの問題を考察するときに発生する無数の難問を解決するために役立つ唯一の有効な手段なのである。
「人間の不平等の期限はどのようなものか。それは自然法(ロワ・ナチュレル)のもとで認可されるものか」p48
【二種類の不平等】p49-50
わたしは人類には二種類の不平等があると考えている。一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。これは自然が定めたものであり、年齢、健康状態、体力、精神の質、魂の質の違いによって生まれる。もう一つは社会的(モラル)または政治的な不平等と呼びたいものである。というのも、この不平等はある種の取り決めによって生まれるものであり、人々の同意によって確立されるか、少なくとも認可されるものだからである。この種の不平等はさまざまな特権から生まれるもので、一部の人々が他の人々を犠牲にして、この特権を享受する。たとえば他の人々よりも豊かであるとか、尊敬されているとか、権力をもっているとか、何らかの方法で他の人々を服従させているとかである。
第二部は【所有という観念の発生】から始まる。p123
【約束と共同体の成立】p128
【私有財産の発生】p131
【自尊心の誕生】p135
【所有権の誕生】p143
【社会と法律の起源】p150
【自由は放棄できない】p161
【社会契約】p169
【不平等の激化】p176 -
Posted by ブクログ
ネタバレ社会契約論よりは読みやすい部類に入るでしょう。
ただし、解説なしで読むのはかなりつらいので
面倒くさくても、解説はきちんと読みましょう。
そもそも私たちが人間としての
人と協力し合う、という選択肢を選び始めてから
不平等というものは生まれてしまったのです。
だけれども、原初に戻る?と聞かれて
私たちはイエスということはできないことでしょう。
もう戻るには遅すぎます。
そして、この本を読んでいて違和感を覚えるでしょう。
これって、今の状態のままじゃないの。
結局富めるものは強いまま、
そうでないものは搾取されるまま。
自由に生きることさえ、許されないわけで。 -
Posted by ブクログ
『社会契約論』と巻末の解説を読んだ。ルソーの言う「一般意志」というのが、昔からどうもうまくイメージできなくてもやもやとしていたのだが、これを読んでやっとわかった。やはり解説本を何冊も読むより原典(訳本ではあるが)にあたる方が早いなと思った。「一般意志」についてルソーはかなり丁寧に繰り返し書いてます。「一般意志」は立法を行うのであり、執行権に関わるものではない、ということ、また、一般意志とは、自分よりも全体を優先するということではなく、それぞれの成員が他人にも納得できるような自分の都合を出し合う中で形成されるものであるということがわかっただけでも収穫でした。
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Posted by ブクログ
ルソーの先見性は計り知れない。
彼の自我や自意識への拘り及び探求が、その後の学問や近代文学に与えた影響の甚大さをみても、それは証明される。彼も、当時の人間には理解されないところの所謂、天才の一人に数えられている。特に、精神分析の発達こそがルソーの捻くれた性格や相反する感情の衝突などの現象を解明させる契機となった。文学では、かの有名なトルストイなどはルソーの影響を直接に受けているらしい。
幸福とは、本人の中に眠っているもので、外部にそれを求めようとしても無駄に終わると、彼は語っている。彼は、作家として若い時期に華々しく文壇にデビューしたが、自分の子供を全て孤児院に入れてしまったり、激しい思想の著作が一部の人間の反感を買ったりして、フランス社会から追放処分を受けてしまう。作品「エミール」は教育論として優れた著作だが、孤児院に子供を預けて親としての義務を放棄する行為との矛盾を指摘され、作品も吐き捨てられた。
ルソーの性格は、とにかく過敏で神経質だったらしい。今でいう統合失調症のようなものだと謂われている。人間関係では常に対立を繰り返し、友人との絶交が相次いだ。そして、孤独な後半生を送らざるを得ないところまで悪化していった。穏やかで善良な資質も十分に持っていたが、不器用で疑い深い性向の為に、周囲にそれを理解される事はなかった。彼の文章は激しい口調で、己の精神を分析して掘り下げていく。その毒々しい執念の強さが却って思わぬ反感を買う原因でもあった。
晩年、フランスへの入国が許されるが、一切の著述活動をしない事を条件にとられた。無理解だった当時のフランス社会にとっては、ルソーは危険人物だったのだ。天才は、しばしば同時代の人間からの無理解に苦しめられる。社会にまだ受け皿が整っていない事によって、天才は公から放擲される。哲学や文学などで自意識が大きな主題にクローズアップされるより一歩先に、ルソーは必死になってこの自我の問題に取り組んだ。ルソーの文学は現代にも大きな影響を及ぼしている。
しかし、日本でルソーは余り読まれていないようだ。本作の訳者はそれが残念だ、と嘆いておられる。学問の研究テーマとしても孤独な現代人の心の渇きを埋める読書の対象としても、ルソーの文学は非常に魅力的だ。本作は、晩年の最後に書かれた遺書のような一品。ルソー本来の人間性が、瑞々しい文章の間から滲み出ている。一度、読まれる事をお勧めする。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ社会契約論のみ読破。訳がわかりやすく珍しくやや理解できた。
「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式をみいだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない。」という問題の解決策が社会契約論。
具体的には自らと自らの所有する全権利を共同体の全体に譲渡する。(誰にも同じ条件が適用され人びとは他人の条件に無関心になるとあるがどうだろう。)
そして自らがさしだしたものと同様の権利を契約によって受け取る。
全ての人民のとって共通する利害が一般意志は常に正しい。
よってこの一般意志への服従を拒み個人意志を優先する者は抑圧されても仕方が無い(本末転倒?)
現実的には難しいよなー -
Posted by ブクログ
エミール、上、中、下と改めて纏めたが、
「下」が、賛同という意味ではなく、
ルソーの個性がとても色濃く出ているので、特に楽しめた。
本から
・プラトンは「国家篇」の中で、女にも男と同じ訓練をさせている。
・肉体はいわば魂に先だって生まれるのだから、最初の教養は
肉体についての教養でなければいけない。この順序は男女に
共通である。しかし、その教養の目的は違う。一方においては
その目的は体力を発達させることであり、他方におていは魅力を
育てることである。もっともこの二つの力はそれぞれの性に
排他的にあるわけではなく、ただ順位が逆になっている。
女性は何をするにしても優美に見えるように十分の力を必要と
する。男性は何をするにしてもやすやすと出来るように十分の
器用さを必要とする。
・服従は女性にとって自然の状態。
・女性の基本的な、そして最も大切な美点は、やさしくするという
ことだ。男性という不完全な存在、しばしば多くの不徳をもち、
いつも欠点だらけの存在に服従するように生まれついている
女性は、正しくないことにさえ我慢をし、夫が悪い時でも不平を
言わずに堪え忍ぶことご早くから学ばなければならない。
・男も女も自分の性にふさわしい調子をもち続けなければならない。
やさしすぎる夫は妻をなまいきな女にすることがある。
・男性は話をするには知識を必要とし、女性は趣味を必要と
する。一方は役に立つことを、他方は楽しませることを主な
目的とすべきだ。双方の話は真実性ということの他には
共通の形をもつべきではない。
・それぞれが相手の衝動に従っている。それぞれが服従しながら
両者とも主人なのだ。
・実例を示さなければ子供に対しては絶対なにごとも成功しない。
・あらゆる罠の中で一番危険なのは、理性も避けることの出来ない
ただ一つの罠は、官能のしかける罠だ。
・あらゆることで中庸を望むがいい。美しさということさえ、その
例外ではない。感じがよくて、人好きのする姿、恋を感じさせは
しないが、好意をもたせる姿、そういう姿の人を選ぶべきだ。
・人生は短い、と人々は言っているが、私の見るところでは、
人々は人生を短くしようと努力しているのだ。人生を利用
することを知らないで、彼らは時がたちまち過ぎ去ることを
嘆いているが、私の見るところでは、時は彼らの意に反して、
まりにもゆっくり過ぎていくのだ。めざす目的のことばかり
考えている彼らは、自分達とその目的とをへだてている間隔を
恨めしく思っているある者は明日になればと思い、ある者は
ひと月たてばと思い、またある者は、今から10年たてば、と
思っている。だれひとり今日を生きようとはしない。だれひとり
現在に満足しないで、みんな現在の過ぎ去るのがひどく
遅いと感じている。時はあまりにも速く流れていくと嘆く時、
彼らはうそをついているのだ。彼らは時の流れを早める力を
喜んでもらいたいのだ。彼らの一生を無駄にすることに喜んで
彼らの財産を使いたいのだ。
・人生の無常を考え、特に現在を未来の犠牲にする間違った
思慮を避けることにしよう。それはしばしば現在あるものを
将来もありえないもののために犠牲にすることになる。
全ての時期において、人間を幸福にしてやろうではないか。
・男性よ、君の伴侶を愛するのだ。きみの労苦をいたわるために
きみの苦しみをやわらげるために、神はきみに伴侶を与えて
いるのだ。これが女なのだ。
・人間はその願望のために無数のものに執着しているが、
人間そのものはなにものにも、自分の生命にさえも、固く
結びついているわけではない。人間は一層多くの愛着をもてば、
一層多くの苦しみを招く。全ては地上を過ぎ去るだけだ。
私達が愛しているもの全て、おそかれはやかれ、私達から
遠ざかっていく。ところが私達は、全ては永遠に続くことになる
かのようにそれを執着している。
・有徳な人とはどういう人か。それは自分の愛情を克服出来る
人だ。そうすればその人は自分の理性に、良心に従うことに
なるからだ。その人は自分の義務を果たし、正しい秩序のうちに
とどまって、なにものも彼をそこから逸脱させることは出来ない。
・人間であれ。きみの心をきみに与えられた条件の限界に
閉じ込めるのだ。その限界を研究し、知るがいい。それが
どんなに狭くても、そこに閉じこもっている限り、人は不幸には
ならない。その限界を越えようとする時、初めて不幸になる。
無分別な欲望を起こして不可能なことを可能なことと考える
時に不幸になるのだ。自分の人間の状態を忘れて空想的な
状態を作り上げる時、不幸になるのだ。
・傲慢な心から生まれる錯覚は私達の最も大きな悪の源だ。
一方、人間のみじめさを深く考えることは賢明な人にいつも
つつましい態度を取らせる。
・幸福に、賢明に生きようとするなら、きみの心を失われることの
ない美しさにだけ結びつけるがいい。きみに与えらえている
条件をきみの欲望の限界とし、きみの義務をきみの好みに
先行させるのだ。必然の掟を道徳的なことにまで広げ、きみの
手から奪われるようなものを失うことを学ぶがいい。
・死は悪人の生の終わりだが、正しい人の生の始まりだ。
・自由になるためにはなにもすることはないのだ、と私には
思われる。自由であることをやめようとしなければ、それで
十分なのだ。あなたは必然に従うように教えることによって
私を自由にしてくれた。必然がいつやってきてもいい。私は
なんの拘束も感じないで、それにひっぱられていく。そして
私は必然と戦おうとは思っていないから、自分をひきとめ
ようとしてなにかにしがみつくようなことはしない。
・人間には一生の間、助言と指導が必要だ。
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Posted by ブクログ
本から
・人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望を持たないこと、
そして、自分をあまり他人にくらべてみないことだ。
人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、
そしてやたらに人々の意見を気にすることだ。
・人間を社会的にするのは彼の弱さだ。私達の心に人間愛を
感じさせるのは私達に共通のみじめさなのだ。(略)
こうして私たちの弱さそのものから私達のはかない幸福が
生まれてくる。本当に幸福な存在は孤独な存在だ。
神だけが絶対的な幸福を楽しんでいる。
・教師よ。言葉を少な目にするがよい。しかし、場所、時、人物を
選ぶことを学ぶがいい。そしてあなたの教訓を全て実例に
よって与えるのだ。そうすれば効果は確実だと思ってよい。
・「あれ程言っておいたのに・・・・」 この言葉以上に能のない
言葉を私は知らない。
・私は、人間精神の無力が人々の考えのあの驚くべき多様性の
第一の原因であること、そして、傲慢が第二の原因である
ことを理解した。
・よき若者よ、真面目であれ、真実であれ。しかし、傲慢な心を
もつな。無知でいられるようになるがいい。そうすればあなたは、
あなた自身も他の人もだますようなことはしまい。
・学者というものは一般人の考え方を軽蔑する。それぞれ独自の
考えをもとうとする。盲信的な信心は狂信に導くが、傲慢な
哲学は反宗教に導く。こういう極端を避けることだ。
心理への道、あるいはあなたの心を素直にして考える時、
そう思われる道に、いつも踏みとどまるがいい。虚栄心や
弱さのためにそこから遠ざかるようなことがあってはなるまい。
哲学者たちのところでは大胆に神を認め、不寛容な人々に
向かっては大胆に人間愛を説くのだ。(略)
本当のことを言い、よいことをするのだ。人間にとって大切な
ことはこの地上における義務を果たすことことだ。そして、
わが子よ、個々の利害は私達をだます。正しい人の希望を
だけがだますようなことをしない。
・排他的な楽しみは楽しみを殺す。本当の楽しみは民衆と
分け合う楽しみだ。自分一人で楽しみたいと思うことは、
楽しみでなくなる。
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Posted by ブクログ
本から
・人間はよい者として生まれているが、社会は人間を堕落させる。
これがルソーの根本命題。
・「子どもの発見」ということが教育思想におけるルソーの最も
大きな功績。
・ルソーはデカルト的な懐疑から出発して、まず認識論を展開し、
ついで唯物無神論の不条理を論じ、理性ではなく直接的な感情
によって、自然の光景と人間の内部に神を認め、全ての人に
与えられた良心の掟を高く掲げています。
・「あぁ徳よ、素朴な者の崇高な学問。これを知るにはそれ程の
労苦と道具が必要なのだろうか。その法則は全ての人の
心の内に刻み込まれているのではないか。だから、それを
学ぶには、自己をかえりみ、情念をしずめて、良心の声に
耳をかたむけるだけでいいのではあるまいか。これこそ本当の
哲学だ。私たち平凡な人間はこういうことで満足することに
しよう・・・。」
* *
・万物を創る者の手を離れる時、全ては良いものであるが、
人間の手にうつると、全てが悪くなる。
・教育は、自然か人間か事物によって与えられる。私達の能力と
器官の内部的発展は自然の教育である。この発展をいかに
利用すべきかを教えるのは、人間の教育である。私達を
刺激する事物について私達自身の経験が獲得するのは
事物の教育である。
・公共教育の観念を得たいと思うなら、プラトンの「国家篇」を
読むがいい。
・私達の中で、人生の良いこと、悪いことに最もよく耐えられる者
こそ。最もよく教育された者だと私は考える。だから、本当の
教育とは、教訓を与えることではなく、訓練させることにある。
・家庭生活の魅力は悪習に対する最良の解毒剤だる。
・子供に教える学問は一つしかない。それは人間の義務を
教えることだ。
・教えることよりも、導くことが問題。
・虚弱な肉体は魂を弱める。
・子供を助けてやる場合には、実際に必要なことだけに限って、
気まぐれや、理由のない欲望にたいしては何も与えないように
すること。気まぐれは自然から生ずるものではないから、人が
それを生じさせない限り、子供がそれに悩まされることはないのだ。
・苦しむこと。それは彼がなによりも先ず学ばなければならない
ことであり、そえを知ることこそ、将来、最も必要になること
なのだ。
・力、健康、自分はよき者であるという信念、これらを除けば、
この世でよいものとされているものは全て人々の臆見の
うちにある。肉体の痛みと良心の悩みを除けば、私たちの
不幸は全て想像から生まれる。
・子供を不幸にする一番確実な方法は何か。それをあなたは
知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられる
ようにしてやることだ。
・子供の先生になるためには、自分自身の支配者になれなければ
いけない。
・あらゆることにおいてあなた方の教訓が言葉によってではなく、
行動によって示されなければならないということを忘れないで
いただきたい。子供は自分が入ったり、人から言われたりした
ことはすぐに忘れてしまうものだが、自分がしたり、自分のために
人がしてくれたことは中々忘れないものだ。
・自分から学ぶことについては、他人に教えられて知ることに
ついてよりも疑いもなく、一層明確な観念を持つことになる。
・自由に生き、人間的なものにあまり執着しないこと。それが
死ぬことを学ぶ一番いい方法だ。 -
Posted by ブクログ
説明不要のルソーの名著「社会契約論」。社会契約論のプレ版ともいうべき「ジュネーブ草稿」も収録。
ジュネーブ草稿にあるように、著作の主題は、統治の原則と市民法の規則について論じている。そこには、当時のルソーが、新たな社会体を創造しようという、意欲が満ちあふれている。
ルソーは、世の中が自然状態から社会状態に移行するための、新たな胎動を「社会契約論」によって創造しようとしたのであろう。
それは、本文中の「自然状態から社会状態社会状態に移行すると、人間のうちにきわめて大きな変化が発生することになる」という一文から察することができる。
では、本書で述べられている本旨は何か。
統治の原則は国民の共通の善を目指すことであり、
市民法の規則は、契約によって結ばれなければならないということである。
統治の原則である、共通の善を導く方法として、ルソーは「一般意思」という概念を提示した。
一般意思とは、国家の構成員の異なった利害のうちに、すべての構成員の利害が一致する共通の要素のことであると、ルソーは説く。
一般意思が存在するからこそ、人間社会は成立するのであり、逆に一般意思が存在しなければ、いかなる社会も成立することができないといったように、人間社会を成立させるための前提条件として提示している。
ルソーは一般意思を「国家の全ての構成員の不変の意思」と綴る。
大事なことは、この一般意思に適切に問いかけることだという。
「一般意思に対象をありのままに眺めさせること、場合によってはあるべき姿で眺めさせることであり、一般意思が探し求めている正しい道を示す事、個別意思の誘惑から守り、みずからの場所と時間をしっかりと認識させ、目の前にあるわかりやすい利益の魅力と、遠く離れて隠れている危険を秤にかけて示すことである」
という一文から、国家の構成員に自立した判断を期待する姿勢が垣間みられる。
しかし、ルソーは人間の理性を、諸手を挙げて信じきっているわけではない。それは、次の一文からも察せられる
「先見の明のない大衆が自分たちの必要なものが何であるかを理解しているのはごく稀な事であり、自分たちがそもそも何を求めているのかも知らない事が多い」
この矛盾について、ルソーは次の言葉で説明する「一般意思は常に正しいのだが、この意思を導く判断がつねに啓蒙されたものとは限らない」
一般意思が正しく機能するためには、啓蒙された国家の構成員というのが前提になるのである。
国家の構成員が正しく啓蒙される道筋として、導き手が必要であるのだと言う。国家の構成員が自らの意思を理性にしたがわせるように強制しなければならならず、啓蒙によって徳を高めて社会体の知性と意思が一致するようすべきであると説く。
国家の構成員を啓蒙するための方法として、法による社会規範にその答えを求めた。
では、一般意思を正しく機能させるための、社会規範となる法の正義は、何を基盤につくるべきか?
ルソーがその答えを求めたのが神である。
「人間に法を与えるのは神々でなければならないだろう」という一文にそれが表れており、「全ての正義は神に由来する。神だけがその源泉」とい一文にも正義に関するルソーの思想的背景が伺える。
そして古の建国時代(ユダヤの法とイスラムの法)を例に挙げ「人間の思慮分別に訴えても動かす事ができない人々を神の権威に頼って動かした」と説き、絆を永続的なものとするのは、(神の)叡智だけであると結論づけた。
つまり、導き手である神の意思に沿って立法し、国家の構成員を啓蒙する。それによって社会全体の知性が向上したときこそ、国家の構成員から導きだされた一般意思こそが正しく機能されるということである。
ルソーが議論の余地のない原則として提示する、
「国家というものは、共通の善を目指して設立されたものであり、国家の力をその目的にしたがって導くことができるのは、一般意思だけ」
という、国歌論についても社会全体の知性が向上する土壌があってはじめて可能になることを示唆しているのではないかと考えられる。
さらにルソーは、
「一般意思によって実現される共通の善が受け入れられるためには、国家の構成員にとって相互的なものでなければならない」
と説く。
相互的とは、国家の構成員の法の下の平等を指すと同時に、国家の構成員同士の間で相互的な契約によって成立することを指す。
この国家の構成員同士の相互的な関係を維持するための方法としてルソーが掲げたのが「社会契約」である。
国家の構成員と、それぞれの個人の間で結ばれる相互の契約によって国家を統合し、社会を成立させるという論理こそがこの著作の最も革新てきな部分ではなかろうか。
王制や貴族制の下では、王と個人の結びつきによって権利と義務の保証がなされていたが、社会契約により主権者である人民はみずからと契約を交わすと同時に、国民であるそれぞれの個人とも契約をとり交わすことになる。
この契約によって統一された国家は、人民の共同の自我とその生命と意思を受け取る。国家の構成員としての人民は、主権に参加する市民と法律に従う国民という二つの性質を担う。
ルソーは王制による支配と契約により成立した社会との違いを次の言葉で簡潔に説明している。
「自分に義務を負う事と自分がその一部を構成する全体に対して義務を追うことは大きな違いがある」
国家の構成員が社会契約によって獲得したものは、社会的な自由を約束された自由権と所有しているすべてのものに対する所有権である。
この権利は国民全体によって尊重されると同時に一般意思によって制約を受ける。これこそが、国家の構成員の相互関係によって成立した新秩序である。
ここでは、社会契約によって契約者ごとの特殊な人格の集まりから、社会的で集団的な一つの団体をつくりだすという新たな国家統治の原則をルソーは示している。人民にとって、受動的な意味での「国家」が存在するとともに、自らが能動的な意味での「主権者」となる国家。
ルソーはそれを「主権国家」と名付けた。
主権国家における国家の防衛について、ルソーは国家の構成員の能動的な行動の正当性を以下の言葉で綴る。
「個人は国家に生命を捧げたが、この生命は国家によってつねに保護されている。個人は国家を防衛するためには生命を危険にさらすが、これは国家に与えられたものを国家に返すだけのことではないだろうか」
社会的秩序を重んじるルソーは「主権国家」における、犯罪に対する考え方も、非常に厳しい。
「社会的な権利を侵害する悪人は、すべてその犯罪のために、祖国への反逆者となり、裏切り者となる。法を犯すことによって、祖国の一員であることをやめたのであり、祖国に戦争を仕掛けたのであるから、どちらか一方が滅びるまで続く」という理論展開とともに、死刑に対しても明確な言葉でそれを綴っている。
「罪のあるものを殺す時は、市民を殺すのではなく敵を殺すのである。
罪人を裁判にかけて判決を下すという行為は、罪人が社会契約に違反したことを証明し、もはや国家の一員ではないと宣言することなのだ」
この社会契約における、国家の統合と社会秩序の確立により、ルソーは国家の構成員の道徳的価値と行動における変化に期待を込めて以下の言葉で綴っている。
「それまで人間は本能的な欲動によって行動していたが、これからは正義に基づいて行動することになる。人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられる。
人間は欲望ではなく、権利に基づいて行動するようになる。
自分の好みに耳を傾ける前に自分の理性に問わねばならないことを知る。
自然状態において享受していた様々な利益を失うが、その代わりにもっとも大きな利益を手にするようになる」
人間が社会契約によって失った、自然状態のもとで享受していた無制限の自由と権利。これは、その人の力によって左右されるだけのものであり、力による占有か先に占有した者に認められる所有であった。
社会契約によって、一般意思による制限を受けるものの、体力や才能にでは不平等でありうる個人が、取り決めと権利によってすべて平等となる。
また、平等の権利を理論的には国家の構成員相互によって保証され、実質的には国家によって保護されることによる、自力救済を前提としない安定した社会生活を享受できることになるのである。
社会契約論におけるルソーの主張は以上であるが、例外的な事態に陥った時の対処法についてもルソーは解決策を提示している。
「政府が危険に陥った場合は、政府の一人又は二人に政府のすべての力を集中させる。
この場合は法律の権威に手を加えることなく執行の形式を変えるだけにとどめる。危険が極めて深刻であり、祖国を防衛するためには法律という装置が障害物になるためには最高の指導者一人を任命し、その者にすべての法律を沈黙させ、主権をしばらく停止させる。
このような場合にも一般意思が存在すること、そして人民が何より目指すのが国家の滅亡を防ぐことであるのは疑問の余地がない」
ここで重要なのは、ルソーの主張は国家の存続が最優先事項であるということである。一般意思を尊重しつつも、国家の存続が第一で、法及び主権については国家という形の下に存在するべきものということになる。
感想としては、「社会契約論」、国民国家誕生の契機となった歴史的な書であるということが理解できた。
ルソーは王制や貴族制に変わる新しい国家の統治方法を提示するとともに、自論の弱点も知り尽くしていたと思う。
それは人民に対する期待と懐疑が交互に記された文章から察せられる。
この一貫しない人民に対する姿勢が、読者を混乱させるのかもしれないが、ルソーの政治思想をよく表しているともいえる。
分かりやすい例としては、「暫定的独裁」を肯定した文章によく表れていると思う。
それは、社会契約・一般意思といった新しい秩序を構成する様々な理論展開を行いつつも、自論の弱点と葛藤する思想家の背中が垣間みられるようでもある。
このルソーの体現者が、ヒットラーなのではないかと読書中考えたりした。
秩序による国家の統合と一般意思による自由と権利の保障と、社会的集団による国家的興隆。
そして民意を背景に、独裁を手に入れた。
「政府は主権者ではなく、主権者である人民の召使いにすぎない」
「人民が首長に服従する行為は社会契約には含まれない」
以上のルソーの考えを大きく逸脱するものの、独裁までのプロセスは社会契約論との共通性を感じたりはした。 -
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ルソーのエミールの第四編を収録する中巻。
上巻では十五歳までの少年を取り扱っていたが、この巻ではその先二十歳すぎぐらいまでの、思春期の青年に対する教育が考えられる。そこでは恋愛、宗教、道徳が問題となる。
自然教育、自然宗教などと、とみに自然がテーマになるルソーだが、その自然の教え、導き、良心などというものとはなんなのかということも明らかになってくる。その地点からの近代社会批判は感動的ですらある。
子供をのびのび育て、強い子に育てるというような、やや牧歌的ですらある上巻までの視界からは打って変わって、社会と人間という関係を教育という地平から広く見渡した第四編(中巻)はルソーの珠玉の哲学論とも言うべき一編である。 -
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近代国家観の基礎。
ただ、ホッブズ-ロック-ルソーという、
社会契約論の三大古典として並べると、
やはりルソーは、研究者気質の書き方ができない性質の人であることから、
一般意志を始めとして、重要な概念の捉え方に難儀する。
殺人者に対する処刑や、徴兵の記述は、
原理論としてはそうなることも仕方ないと今の立場からは思うが、
本人も気付いて記しているように、著者自身、大変困惑している。
いくつかの注意点を挟みながら、
今と照らし合わせながら読めれば面白く感じるかな、と。
(この中山訳は、読みやすさを考慮してかの意訳が多く、原文や岩波や中公などの別翻訳版と比較して読まれることが望ましい)
不平等起源論→ジュネーブ草稿→社会契約論
この流れの中で読むとルソー本人の意図が良くわかるかも。
社会契約論は、自然状態から社会状態への転換が早足でわかりにくいから。