池内了のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
東日本大震災とそれに伴う原発問題を経て、科学と人間(社会)が今後改めてどのように向き合っていくべきかを考えた本書。読み進めていくと、何とか主義 (例えば懐古主義)とか、何とか論(例えば生物機械論)とか何とかかんとか(例えばポストモダニズム、サイエンス・ウォーズ)といった専門用語が少し度を越して見受けられるため、またそうしたものに対して十分とも言える説明がないと感じる部分も多々あるため、文章に少し浮ついた印象を受ける。
全編を通して一貫しているのは、「科学と社会はお互いもっとしっかりと向き合って対話をしていかなければならない」という論調である。そのあたりの対話が欠けているからこそのあの原発事故であり、そういう意味では、原発事故に関して、第一義的には政府、電力会社、科学者の無責任体質に問題があるとしつつも、私たちにおいても「自らもある種の加害者であったという意識を抱きつつ、関係者の責任を追及しなければならないのだ(P148)」と述べている。
また科学者に対しては、より厳しい姿勢を求めている。科学者は誰も求めていない真理を純粋に探究する存在でありながら、そのための研究資金を獲得するためにスポンサーの意向に沿わなければならない苦悩の存在であるが、その苦悩の中でも自律的存在でなければならない。少なくとも、自律的存在であるように努力しなければならない。資金の主たるスポンサーである政府や産業にただ身を任せるような存在であってはならないし、その科学的成果についても、社会においてどのような影響を持つのか、その説明責任を持たなければならない。
僕自身、筆者の言っていることはもっともだと思うし、またそうありたいとも思うが、それにしても日本において科学と社会の本当の意味での対話が可能なのだろうか?と単純に思ってしまった。というのも、筆者も言うように、日本におけるいわゆる“科学”という概念は富国強兵のために明治期に導入されたものであり、哲学的と言うよりはむしろ技術的なイメージとの結びつきが強いからである。そもそもの存在基盤が西洋と異なる中で、日本社会が今後時間をかけながらでも、どのように“科学”を人々の思想や生活の中に落とし込んでいけるかが今後の鍵になるのではないかと思った。(何だか取ってつけたような感想になってしまうほど、何を言っていいのかが難しい本でした。”科学的思考”については自分なりのイメージがあるが、”思想や文化としての科学”と言われるとたちまちよく分からない・・・困ったものである。) -
Posted by ブクログ
この本の大元のエッセイを書かれた中谷宇吉郎博士って、以前 KiKi が同じく岩波少年文庫で読んで「しまったぁ~!! この本はもっと早く読んでおきたかったぁ!!!!」と後悔(?)した「科学と科学者のはなし」の寺田寅彦さんのお弟子さんだったんですねぇ。 最初に「あとがき」から読んで、その一事をもってして俄然この本に興味を持った KiKi。 ついでに言うと、この本の後には「千夜千冊」の「雪」が待ち構えているわけですから、かなりの期待感で胸を膨らませながら、読み進めていきました。
が・・・・・・・・
正直なところ、中谷宇吉郎さんの文章には寺田寅彦さんの文章ほどには興味も感銘も受けなかったことをまずは白状しておきたいと思います。 これは偏に KiKi が根っからの理系人間ではないことに原因があるのかもしれません。 寺田さんの文章にはさすが夏目漱石の直弟子だっただけのことはあって、なんと言うか文系人間にも受け容れやすいある種の「語法」のようなものが備わっているのに対し、こちらの本はどちらかというとやっぱり理系頭脳の人の文章っていう感じがそこかしこに漂っているんですよね~。
もちろんすべてのエッセイからバリバリ理系臭が放たれているわけではなくて、ところどころにとても興味深い話も書かれていたりするのですが、どちらかというと、ものすご~くおりこうさんの男の子が優れた指導者の元でしっかりと纏め上げた「夏休みの自由研究 理科編」のレポートみたいな感じがするんですよね。
(全文はブログにて)