平松洋子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
シリーズ5作目。
新作が出ると必ず読みたくなる。
決して飽きないのは、食べ物に対するアプローチが360度だからだと思う。
意外に庶民的なものが好物だったりする一方で、この食品はここのものが最高、というこだわりがあったり…
懐かしい子ども時代の思い出が浮かび上がったり、馴染みの店の閉店に時代の流れを感じて切なかったり。
他の人の、食べ物に対する姿勢に興味津々、あるいは、料理に欠かせない道具への愛。
文豪の意外な好物を発見したり、後輩に対する気遣いに感動したり。
…と上げていけばキリが無い。
人間にとって、食べるということは生きること。
でも、だいたいは無意識、本能のおもむくまま。
ここまで「食べること」に対してアンテナを張っている人が他にいるだろうか?
シリーズのイラストレーターは三人目となった。
まだまだ続いて欲しい。 -
Posted by ブクログ
小川洋子さんは岡山市朝日高校出身、内田百閒の居た古京町の隣の森下町で生まれたらしい。夕方5時、県庁のドボルザークの「家路」放送で家に帰るのは、あの街だけの特権だった。さらには、やがてしばらくは倉敷市に住んでいる(「玉島に10年住んでいた」というのは異議がある。倉敷市鶴の浦は玉島ではない)。平松洋子さんは、なんと倉敷市中島の出身、私より2歳上だから、何処かですれ違っていたかもしれない。渡辺和子学長がいた頃のノートルダム精心高校の出身。
この本は、2人の洋子さんが、少女、大人の女性、その他人生の中で読んできた愛読書を持ち寄り、お互い読んで、お互い感想を出し合うというもの。本の世界は、ワールドワイドなので、倉敷市なんて関係ないのではあるが、時々ふと「共通の話題」として出てくるのが、とっても嬉しい。
2人と私の興味関心は違うので、2人の提出した34冊のうちに、私の既読は(映画「道」を含む)3つだけだった。それでも、本が好き、という共通項があるので、ひとつひとつがとても面白かった。また、年代が似通っていることもあって、高度成長期に大人になって、歴史の激動に揺さぶられることなく、穏やかに読書を通してアイデンティティを確立してきた我々の世代を説明されていたような気もした。
反対に言えば、穏やかな環境に居ても、人生にきちんと向き合えば、世の中の大切なことは理解するということなのだろう。
以下私的メモ。
⚫︎(平松)英語詩集の翻訳ノートを作っていた。一人遊びとして楽しかった。
⚫︎忘れられない味(平松)宇高連絡船の立ち食い讃岐うどん「いまだに死ぬ前はあれを食べたい」(小川)年一回の天満屋屋上のカレーとか、お子様ランチ(←支持!)
⚫︎「道」のジエルソミーナは、ほとんど「ザンパノ」しか言っていなくても、彼女の瞳を見ていると心の動きは全部わかる。類人猿の中でヒトが1番白目がハッキリしている。心の内を読まれないように、ヒトは言葉を編み出したのか?(ウソは言うな、と子供の頃から教えられるけど)ヒトは先天的にウソをいうようになっているらしい。(平松)誰かと理解し合いたいのにどうしても出来ない絶望感とか諦めは、誰もが経験する。
⚫︎『美食放浪記(檀一雄)』「岡山はまた、ちょっとした食堂や酒の店に、必ずといってよいほど『雑煮』を売っている」「雑煮の具はブリであり、サワラであり、エビであり、穴子であり、カマボコであり、春菊であるが」あゝこういう雑煮だったな(平松)。(←コレ岡山市の雑煮だな。今では売っていないんでないかな)
⚫︎旅について(小川)日常生活の中でとりこぼしている偶然が、必然として育っていく(平松)ある意味、自分のあり方の訓練。「これだ」と思った瞬間に感知する力。
⚫︎豚コマワンパック何を作るか?(平松)細かく刻んで肉味噌。(小川)豚汁
⚫︎日々の習慣(平松)1時間20分、一万歩のウオーキング8年間(小川)50分ほどのスロージョギング3年間。
⚫︎自分に許している贅沢(小川)本の値段を見ない。和菓子「空也」のもなか。(平松)週一二回ステーキ(ランプ肉) -
Posted by ブクログ
食べ物についてのエッセイ集。個人的に言えば、若干味の指向性が異なるところがあるようで、ほんの少しだけど「この料理なら、僕はそれほど美味しいとは思わないなあ」と感じるものがあった(実は香味野菜的なものがやや苦手である)。それでも、読んでいるうちに「だまされたと思って食べてみようかな」と思うくらい、それぞれの食べ物たちが魅力的に見えてきて、今まであまり口にしようと思わなかったことが、人生の大きな誤りのように感じてしまうあたりがすごい。だって、いちいち美味しそうなんだ。
味付けとか、素材とか、ことさらグルメぶるというよりも、旬のものを愛情いっぱいに受け止めて、最小限の手間をかけて、楽しくいただく、というのが基本的な姿勢のように感じる。それがいい。食べに行ったり、人からもらった素材で何品も作ったり、作者はひたすら楽しそうだ。その幸せ感が、読んでいるこちらも幸せにしてくれる。読み始めてから読み終わるまで、ずっと暖かい気持ちでいられて、読み終わってもそれが余韻としてほんわりと残る。
美味しい食べ物に作者の人柄が調味料なのか、作者の人柄が美味しいためものを媒体に引き出されてくるのか。いずれにせよ、この本のそのものが美味しい。 -
Posted by ブクログ
平松さんの食のエッセイは、何冊か読ませていただいている。
しかし、かぶっている、とか、デジャヴ、みたいなことが一つもない。
毎回新しい発見なのだ。
毎日、ごはんとお味噌汁の食事でも、その時のちょっとした加減や、自分の心持で、一度として同じ食事は無い…みたいなものだろうか。
この本で、アッと言わされたというか、長年生きていれば自分でも気付いていたはずなのに、初めて気付かされたと思ったのは、“鴨南蛮”
そうね~、その辺のお蕎麦屋さんで、鴨なんて入ってないけど、誰も偽装だ嘘だ、と怒ったりしませんよね。
落語の演目にちなんだ鰻料理、自分では食べられないので、お話を聞く(読む)だけでも素敵な味わい。
“海苔弁”に関する、アンケートのみの潔さ。
あらゆる“知人”から、あらゆる到来物が平松さんの元に届けられ、それらを誠心誠意をもって料理する様子。
映画に登場する料理、料理屋を描いた絵画…
話題の多様性が、驚くばかりに無限だ。
気がついたら、前作『ステーキを下町で』、手元に買ってあったのに、まで読んでいなかった…不覚!! -
Posted by ブクログ
平松さんの文章、だんだんと渋い味が出てきた気がします。
もの静かに日常を見つめ、ひっそりと切り取る、それだけで美しい作品になる…そんなかけらの数々。
物を書く、特にエッセイを書かれる方は皆そうだけど、どうして昔のことを良く覚えているのだろう。
その、一つ一つが、素敵な文章になる。
普通の人が、目にとめることをせずに見逃してしまう事を、そっと引き出しにしまっておく注意深さが、小さい頃から備わっていたのだろうか。
そうだとしたら、もしも全く同じ人生を歩んだとしても、一生が違った意味になって行くのかもしれないなあ…
「いろいろなことが楽しく思い出される一生だった」とほほ笑むのと、「何も変ったことが無かった、ちっぽけでつまらない一生だった」と思うのとでは、やはり幸福感が違う。
しかし…
読もうと思って買っておいた「青い壺」…
あれほど深く読み込まれてしまっては、その解釈に引きずられてしまうかもしれない…
忘れた頃に読もう…っと。