パトリシア・ハイスミスのレビュー一覧
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ネタバレニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々にディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。
読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい)
はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。
ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。
トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という心情が読者に明かされる。
この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。
〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。
ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。
本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。
映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはなんという差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。 -
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舞台美術のデザイナーになる夢を追いながらNYのデパートで働く19歳のテレーズは、ある日接客した女性客を忘れられず、伝票から割り出した住所宛にクリスマスカードを投函する。それがキャロルとの運命的な出会いのはじまりだった。交際中の恋人リチャードとの関係に違和感を抱いていたテレーズは、キャロルへの燃えさかる感情に自分はやっと本当の恋を知ったのだと感じる。キャロルは夫と別居中で、一人娘の親権をめぐって争っている最中であることを明かし、娘を夫に預けているあいだの気晴らしとしてテレーズを車での旅行に誘う。旅中、ついに二人は心を打ち明けあい結ばれるも、キャロルの夫に雇われた探偵が二人を尾行していることが判明し……。
物語の始まり、テレーズは生活をひどく嫌悪している。勤務するデパートの客から、年配の従業員の曲がった腰から、恋人リチャードの爪の汚れまで。だから、生活感のない優雅な身のこなしをしたキャロルに強烈に惹かれていく。作中、テレーズの考案する舞台セットは空想的で主観的すぎると評されるが、そのセットのように彼女の理想だけで出来上がった世界から抜けでてきたような存在、それがキャロルだったのだ。
前半はそんなテレーズと一緒に自分もキャロルと恋に落ちるような気分でうっとりと読んだ。出勤前の逢瀬、昼に嗜む甘いカクテル、服から漂うシルクの香り。はじめてのドライブ、助手席で飲んだカフェオレ、キャロルお気に入りの緑の書斎、それから、疲れてベッドに横になったテレーズにキャロルが持ってきてくれるホットミルク。
「ミルクはとても熱くてすぐには唇をつけられなかった。少しなめると、肉体のさまざまな味が混然一体になって口のなかに広がった。骨と血の味がする。温かい肉のような、髪のような味。粉乳のように味気なく、それでいて成長する胎児のように生命力に満ちている。どこまでも熱く、カップの底のほうまで熱い液体をテレーズは飲み下した。おとぎ話に出てくる、人を変身させてしまう薬を口にするように。騎士が死をもたらすとわかっている盃を疑念も抱かずに飲み干すように。」
このあとキャロルから三つの質問をされ、テレーズが自分の意思とは関係なく溢れ出すように身の上を吐き出してしまうイニシエーションじみた場面へとつながる。このときキャロルはテレーズの魔法使いになってしまったのだろう。
二人がはじめて肉体関係を持った日の描写も美しい。「そして今、どこまでも広がる淡いブルーの宙を、テレーズは長い矢となって飛んでいた。矢はとてつもなく広い深淵をやすやすと越え、いつ止まるとも知れずに弧を描いて飛んでいく。テレーズはいつのまにかキャロルを抱きしめて激しく震えていることに気づき、その矢が自分自身だったことを知った。」彗星の青く自由なイメージ。
しかし二人のあいだには、経験値の圧倒的な差からくる不均衡が常に横たわっている。キャロルは結婚・出産をはじめ、同性との恋と破局、家具屋の夢と挫折、愛する娘と離ればなれになる恐怖など、テレーズが未経験のうちに漠然と恐れている事柄を多く経験しているが、それについてあまり語ろうとしない。また年齢差を気にしているせいか、喧嘩もまともにしようとしない。それは相手と向き合う勇気がないということだ。テレーズは終盤になってキャロルを「わがままを通す悪い癖がある」と評するが、わがままというよりこの人の場合はカッコつけが一番の悪癖だったんだと思う。被支配欲にどっぷり浸かったテレーズに、「寄りかからないで」と言えなかったのがキャロルの弱さだ。
一方、テレーズはNYに先に帰ったキャロルを待つあいだの悩みが自分勝手すぎて、もう少し子を持つ親の気持ちに寄り添ったれ(笑)。でもこれは孤児院育ちで母親に捨てられたと思っているテレーズの出自とかたく結びついているのだと思う。キャロルに捨てられることは再び孤児院時代に戻ることを象徴的に意味する。だから孤児院に飾られていたのと同じ複製画を見つけて、その肖像画とキャロルを重ね合わせて勝手に裏切られたと思いこむのだろう。テレーズが孤児院出身というのは、先に言った生活に強い嫌悪感を抱く理想主義者という点にも、家族という単位に何の疑問も持たないリチャードの生き方へのコンプレックスにもよく表れている。(追記:こうしたテレーズのキャラクター造形は読者の共感を呼ぶと共に、同性愛者を書くにあたってのエクスキュースでもあったかもしれない)
そう考えるとリチャードが手紙に書いてきた「こんな不安定で子供じみた行為は、人生の糧であるべきパンと肉の代わりにロトスの花や甘ったるいキャンディを食べて生きるようなものだ」という罵倒は、ある意味で的確に二人の問題点を捉えている。彼自身はレズビアニズムへの嫌悪を示しているつもりなのだが、この言葉自体は空想的な恋愛と、現実に人と人とが二人で生きていくこととのあいだにある普遍的なギャップを言い表していて、当たり前のようにテレーズを従順な妻として迎えられると思っていたリチャードにも跳ね返ってくるのだ。まぁでもパンと肉ってそんなに偉いのかって話で、できることならパンと肉を食べてても花とキャンディで生きてる気持ちになれるような魔法をかけてくれる相手がいいじゃんね、やっぱり。と思うんですけど。
では、二人はどんな未来に向かうべきか?そのヒントはミセス・ロビチェクに隠されていると私は思う。訳者あとがきでは、彼女はテレーズが憎む現実世界の象徴のように言われているけど賛同しない。何たってミセス・ロビチェクは作中でただ一人、テレーズを感動させるドレスを実際に作った人なのだ。クリエイターとして作中にミセス・ロビチェク以上の人は存在しない。彼女は才能のない凡人代表などではなく、“才能があっても夢破れることがある”という一つの未来の暗示であり、あるいは、テレーズを変身させられる“魔法使い”もいつかは老いるという、キャロルの未来を暗示する存在かもしれない。テレーズがロビチェクのような人を愛するようになることに、二人の未来がかかっているのだ。
こんなに恋愛小説に夢中になって、カップルの幸せを祈ったのは久しぶり。地の文とテレーズのテンションが完全に一体となった最終段落は泣いたし、ハイスミスのあとがきも泣けた。二人の行く先に、そしてこの世界にいるたくさんのキャロルとテレーズに祝福あれ。 -
Posted by ブクログ
ヒッチコックの代表作の原作。映画とは大きく異なるストーリーだがスリル満点の展開は原作も負けず劣らず。
ヒッチコックの映画のイメージで前知識なく読み始める。良い意味で期待を裏切る展開。
交換殺人、今で言うサイコパスとストーカー的な話。追い詰められていく主人公の心情。そして嫌悪しつつも引き寄せられていくアンビバレントの感情。
おおむねの展開は予想がつくものの文章だけでこれだけの緊迫感、サスペンスはそうはないだろう。
映画とは全く別に楽しく読めました。映画も久々に再視聴してみようかな。
筆者のもう一つの代表作がフランス映画の原作「太陽がいっぱい」だとか。映画としては全く異なるジャンルに思えるのに同じ筆者、こちらも気になる。 -
Posted by ブクログ
クリスマスも近づいて参りましたので、「キャロル」を。
実は映画化された当時に購入したまま、積読となっておりました。
イヤミス(嫌なミステリー:読後感が良くない)の祖と呼ばれるパトリシア・ハイスミスの作品ですが、今作は異例の恋愛小説だそうで。
主題としてはNYに住む女性二人の恋愛模様と紆余曲折……と言ったところでしょうか。
この作品の時代背景と詳しい経緯については「あとがき」や他の方のレビューにもある通りなので割愛させていただくこととして、途中で中だるみというか、読んでいてつまらないなと(個人的にですが)思える箇所を少しずつ挟みながらも、やはり最初とクライマックスから最後までは一気に引き込まれる文章の熱量を感じました。
私自身はあとがきを読むまで知らなかったのですが、キャロルとテレーズの邂逅はハイスミス女史の実体験が元になっていたんですね。そりゃ、リアルで熱量があるわけだ、と納得しました。
世間的には同性愛者というのは「異常」であるとみなされていた世界で、キャロルは同性を愛することによって手ひどい仕打ちに遭うことになってしまいます。
それこそが、この時代の「歪み」であり、現代と比べてみても分かりやすい「差別」なのですが、そのことに当時の人たちが気づくわけもなく。「自分が正義だ、お前は間違ってる」となったときの(特にアメリカの)人の恐ろしさといったらありませんね。相手を軽蔑するだけでは飽き足らず、罪人ではない人間から何もかもを取り上げてしまおうとする、そんな恐ろしさがあります。
(そこの辺り、ハイスミス女史は巧みに描いています)
多様性と多数決は別次元で行われるもの、とはいえ実際の社会では「皆がこうなのになぜお前は違うんだ。それは異常だ」という考え方がまだまだ残っているなぁと感じずにはいられませんでした。
実際、同性愛は「(当人が)選べるもの」と認知されていたり、「何らかの外的圧力によって異性を愛せなくなった人間の逃げ」とされることもあるようです。
私自身は「他人を愛すること」から学ばねばならないのでそう詳しいことは分かりませんし、分かった気で話しちゃいけないのだと思いますが、「この人(相手)を好きという感情には理由なんてない……それが同性だったら違うのか?」というのが命題でしょう。
当時珍しかった(とされている)「お話の終わり方」にも注目の一冊です。 -
Posted by ブクログ
とんでもなくよかった。控えめに言って最高。
映画を見て、次の日に原作を購入した。
映画では描かれていなかったテレーズの想いが書かれていてすごく共感した、キャロルと出会った時のテレーズと同い年の私。
最後キャロルの同棲の話を断った後のパーティで、美人な女優さんに好意を抱かれているのを見てやっぱりテレーズは相当美人なんだなと思ったし、映画のキャストさんであるルーニーマーラで当てはめると、そりゃあモテる…と思った。テンション上がる。今でさえそうなんだから昔はかなりLGBTへの差別がキツくて、相当辛かっただろうし葛藤しただろうなと思う。今でさえ、同性で付き合うってなった時に間違ってるとか言わせてしまうのだから。それなのに、自分達の気持ちをしっかりと持って人を愛するなんてすごいなと思うし感動しかない。
性別が違うから愛せる、それが正しいんだという考えから人が人として人を愛するという考えに代わってほしいなと思う。 -
Posted by ブクログ
ちょっと、三島由紀夫さんのような。
水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。
若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
なにもしなくても親の巨額な財産で、優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。
物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。
「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。
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嫉妬。軽蔑。
絶望。羨望。
屈辱。怒り。
そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。
財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。
でも、きっと違うんですね。
プライドのため。人生のため。
これは、リプリーの戦争なんですね。
戦争に善悪があるのか?
超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。
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「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。
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1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)
映画のことは置いておいて。
小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。
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舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。
主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。
今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。
ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。
リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。
「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」
という夢のような依頼。
ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)
まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。
そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。
果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?
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小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。
と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。
それでもやっぱり思ってしまうのは、
「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。
原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。
(映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)
そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。
(原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)
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映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。
原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。
ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
(とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…) -
Posted by ブクログ
Filmarksで調べてみたら10本以上も映画化されているサスペンス小説を書いた女性作家パトリシア・ハイスミスによる文章教室
"本を書くにあたって喜ばせるべき最初の人間は自分自身だ。一冊の本を書く間、自らを楽しませることができれば、出版社も読者もあとから付いてこられるし、実際に付いてくるものである。"
心構えだけではなく、具体的な文章表現のアドバイスもたくさん!
"サスペンス小説において、明瞭さは生命線である。"
"私はよく、章の最後の一文か二文を削除した方が良くなるということに気づく。そうした文はおそらく、章を締めくくるために必要だと考えて無理やり生み出したものなのだ。"
確かにレビュー書いてても最後に、「わたしも頑張ろうと思う」とか「この問題についてこれからも考えていきたい」とかのきれいなまとめをついしたくなるww
1966年に刊行されたこの本の内容はまったく古びてなかった(^^)
Plotting and Writing Suspense Fiction by Patricia Highsmith.
After checking Filmarks, I realized her suspense novels have been adapted into over ten films!
"The first person to be pleased by a book is yourself. If you can succeed in amusing yourself during the time you are writing a book, the publisher and the public can and will follow you."
The book isn't just about mindset; it's packed with practical writing tips, too:
"In the suspense novel, clarity is the lifeline."
"I often find that a chapter is improved by the deletion of the last sentence or two, which I have probably forced out of myself because I thought a concluding sentence was necessary."
I totally do this when I write reviews—I’m always tempted to tack on a "tidy" summary at the end, like "I’ll try my best too" or "I want to keep thinking about this issue" lol.
Originally published in 1966, the content of this book hasn't aged a bit! (^^)
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Posted by ブクログ
『見知らぬ乗客』『太陽でいっぱい』を書いた人気作家パトリシア・ハイスミスの創作指南本
何度か読もうと思うたびに内容がうまく頭に入らなくて挫折していたけれど、今回は機が熟したというのか、読んでいて「そういうことか」の連続で最後のページに辿り着いた。
引用:
本を書くにあたって喜ばせるべき最初の人間は自分自身だ。一冊の本を書く間、自らを楽しませることができれば、出版社も読者もあとから付いてこられるし、実際に付いてくるものである。
ハイスミスはいかにアイディアを発展させ、物語にしていくのか。自著を用いて流れるように解説する。
彼女にとって書くことと生活は地続きで、創作はまず喜びであるということ。彼女にとっての主題が、いくつもの作品に浮かび上がっていること。
特に今回、印象的だったのが「おぞましい奇形」という言葉。視点の乱れた短編小説のことで、作者が行使できる自由を踏み越えた代物を指している。
この本はもう1度、2度と繰り返し読んで、丸ごと自分のなかに染み込ませたい。