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息子ディッキーを米国に呼び戻してほしいという富豪の頼みを受け、トム・リプリーはイタリアに旅立つ。ディッキーに羨望と友情を抱くトムの心に、やがて殺意が生まれる……ハイスミスの代表作。
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Posted by ブクログ
ちょっと、三島由紀夫さんのような。 水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。 若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。 なにもしなくても親の巨額な財産で、...続きを読む優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。 物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。 「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。 # 嫉妬。軽蔑。 絶望。羨望。 屈辱。怒り。 そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。 財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。 でも、きっと違うんですね。 プライドのため。人生のため。 これは、リプリーの戦争なんですね。 戦争に善悪があるのか? 超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。 # 「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。 女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。 1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。 佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。 20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。 まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。 # 1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。 多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。 更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...) 映画のことは置いておいて。 小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。 # 舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。 まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。 主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。 どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。 恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。 今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。 ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。 保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。 いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。 リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。 そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。 このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。 「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」 という夢のような依頼。 ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります) まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。 ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。 けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。 この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。 映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。 まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。 そして、リプリーは人生初の大犯罪に。 ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。 果たして、捜査の手から逃げ切れるのか? ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか? # 小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。 このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。 リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。 と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。 それでもやっぱり思ってしまうのは、 「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。 原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。 そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。 (映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います) そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。 (原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。 その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…) # 映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。 原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。 ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。 (とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…)
The Talented Mr. Ripley Patricia Highsmith, 1955 有名な映画「太陽がいっぱい」の原作。映画も見てストーリーは知っているのにそれでも面白い。 いかに彼が冷淡で神経質で、いかにイタリアの広い青い空と対照的か、
映画『リプリー』が大好きなので、原作をずっと読んでみたいと思っていた。 イタリアに行ったまま帰らない息子ディッキーを連れ戻して欲しいと、富豪に頼まれたリプリーだったが… 読んでいると、マット・デイモンとジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウの映像が自然と脳内再生される。 倒叙が大好きなので、「...続きを読むバレる!バレる!もうダメだ!」と何度も叫びたくなるような、ハラハラどころではない緊張感がたまらない。 肩が凝るほどの張りつめた空気に、「早くバレて、楽にしてくれ」と何度も願ってしまった。 イタリアの明るくて美しい景色と、リプリーの内面に渦巻く劣等感や不安が対照的。 リプリーは、あれほどの知性と鋭い観察力を持っていながら、なぜそれを良い方向に活かせなかったのか…悔やまれる。 自分は嘘をつくのが苦手なので、リプリーのように平然と次々に嘘を重ねていくのは、どういう心理状態なのか、興味が湧いてしまった。 この主人公リプリーから「リプリー症候群」と呼ばれる心理用語まで生まれたのは、実際にこういう人が現実にも存在するからなのだろう。 【リプリー症候群】 自ら作り出した嘘を現実のものと信じ込み、現実と虚構の区別がつかなくなる状態のこと。 「絶対にバレない」という恐ろしいほどの自信も、本人がそれを「真実だ」と信じているのなら納得がいく。 映画『リプリー』は、原作を忠実に再現していると思いながら読んでいたけど、結末が違っていた。 まさかの結末で驚いたけど、この結末にしたハイスミスがますます好きになった。 読後もリプリーのその後を想像してしまうような、心に残る余韻が良かった。 映画『リプリー』も、この原作もどちらも同じくらい好き。 じわじわと狂気に変わっていくハイスミスならではの心理描写は、以前に読んだ『見知らぬ乗客』にも共通していた。 ハイスミスの違う作品をまた読みたい。 最近いろんなことがあって、本を前ほど楽しめなくなっていたけど、この作品は久しぶりに没頭できた。ハイスミス、ありがとう。 こういう倒叙が何よりも好きなので、迷いなく★10でした。
素晴らしい… なぜも、こんなに、惹き込まれるのか。 まるで動く絵画を観ているかのような小説。 しかし、二度と叶わない望みとしては、、 映画を観る前に原作を読みたかった。 私は『リプリー』→『太陽がいっぱい』→『原作本』の順だったのだけど、 リプリーの印象があまりにも強烈すぎて…… 終始マットデイモ...続きを読むンとジュードロウ、ホフマン、パルトロウの姿で物語が進行していく笑笑笑 かなり不思議な感覚だったなあ もしかしたら、このイマジネーションは映画を観た故のものだったのか…… ガチ記憶喪失でもしない限り、映画の影響ゼロで読むことは叶わないというもどかしさ。 しかし逆に言えば、だからこその楽しみ方ができたんだもの、ポジティブに考えよう。笑 実際、読んでいると「リプリーですら全然原作と違うー!太陽がいっぱいなんて、ほぼ全部違うー!」となってその意味でも驚きだった。 そして私、映画『リプリー』が大好きなのだが、事実の部分ではわりと原作と異なるものの、その奥にあるマインド的な部分をかなり原作に近い形で表現していて、アンソニーミンゲラすげえ…!ってなった。 そう思うとやっぱり、例え映画を先に観ていなくても、本書を読んだら同じような印象を受けたのだろう。 もしかすると、映画の『太陽がいっぱい』ファンの人にはあまりこの原作は刺さらないのかも?(知らんけど)
アラン・ドロンの映画で知って、ずっと気になっていた作品。 まず印象的だったのは、リプリーのゲイ的視点。 ライバル的女性への感情や人間の観察具合がとてもゲイゲイしい。 そしてこの作品の読みどころは、自分がだんだんリプリーなんじゃないかと感じるくらいの心理描写だろう。 昔のサスペンスらしく、 たまたま運...続きを読むがよかっただけでは? と感じるところがいくつもありながら、どこか洗練された印象を受けるから許せてしまう。
金持ちの息子を連れ戻すよう頼まれるが、当人のイタリアでの自由な生活が羨ましくなり、なりすまそうと考える…というサスペンス。 映画版も続編も気になる。
これは…正直アラン・ドロンよりマット・デイモンのほうがリプリーっぽさあるな。翻訳めちゃ読みやすかった。
破滅に向かってほしいのに、全然向かってくれない!彼が不安に思う未来に対してヨーロッパ描写の何と美しいことか!リプリーを応援してないはずなのに周囲の人の間抜けさにイライラさせられる! ただのヤバいやつをこんなに魅力的に見せられるとは!
これは完全犯罪と言えるのだろうか… トムの衝動的で突飛な殺人と、臆病なまでに練るに練られた計画的な偽装工作の連続。 そして、あまりにも幸運すぎる逃亡劇とその最後。 この作品では、事件自体の完全さというよりも、トム自身の感情の浮き沈みと、はたまた何があってもうまく立ち回る身のこなし、そして綻びをうま...続きを読むく拾っていく彼のスキル等々、“トム”という人間にスポットライトを当てることでこそ、主人公の魅力が表に現れ、非常に興味深く感じられる作品になっている気がする。 誰かを演じることでしか(ここでは“ディッキーだが”)今の自分を保てない不安定とも言える精神状態、自分から墓穴を掘るような言動や行動に走りかねない様子、そして上機嫌で楽天的と思いきや、自己嫌悪により何も手につかない、何も食べられないという繊細さ…ここまで心情がアップダウンの激しさが、軽快に、巧妙に描かれているのがおもしろい。 トムは、どこか、何か、罪の意識とは別の事件にいるような気さえする。 彼が本当に恐れているものとはなんなのか…警官か?死刑か?それとも?
ルネ・クレマンとアラン・ドロンの映画「太陽がいっぱい」は封切られた時に観た。映画全盛時代ゆえ鮮明に覚えている。テーマ音楽と明るい青い海とドロンの美貌が強烈な印象だった。 マット・ディモンのリメイク「リプリー」はTVで観た。これはこれで「トム」と「ディッキー」の関係を同性愛的に色濃く描いていて陰影が...続きを読むあった。マット・ディモンの雰囲気があずかりあるのかもしれない。 パトリシア・ハイスミスの原作「太陽がいっぱい」を読んでまた異なった感想を持った。「トム」が「ディッキー」を殺すに到る心理が丁寧に描いてあり、犯罪の良し悪しでなく、わかってくるものがある。 「トム」の不幸な生い立ちとあがいても上昇しない人生が、人は出自によってどうしても決まってくるという不条理をはねのけたくなった時、どういうことが起こるのか。他人の人生とを取り替えられるのか、夢のような変身は可能か。 「トム」が雇われ友人として「ディッキー」をアメリカに連れ帰る役目よりも、優雅に暮らしている「ディッキー」のようになりたいと思った時、愛すればこそ同化出来ると濃く近づくが、それが同性愛的友情(同性愛ではない)になってもおかしくない。 やはり原作は読んでみるものだ。パトリシア・ハイスミスのミステリータッチの中にも冷徹な人間観察が感動する。どうしようもない人間個の欲望の強さ、哀しさを呼び覚まされる。 情景にイタリア、特にベネッツアの風景がたくさんあって懐かしい(観光したので)こんなに出てきたんだっけ?とあらためて驚いた。が、それもこの小説の象徴であり、強調する脇でもある。
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