【感想・ネタバレ】太陽がいっぱいのレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

ネタバレ

Posted by ブクログ 2024年01月30日

2023年一番の作品でした。
初めはグレート・ギャッツビーと同じ系統かと思ったものの、まったく違うものでした。
トムの行動や、できごとにどう思ったかということは細かく書かれているものの、心情についてはあまり書かれていないよう思う。けれども、トムの閉塞感や焦燥感、嫉妬なんかがじわっと迫ってくる。トムと...続きを読むフィリップとマージの関係が、よくある痴情のもつれた三角関係におさまらないとことが興味深い。

映画も見てみたけれども断然こっちがいい。
アラン・ドロンの色男ぶりはすごいですけど。
リプリーも見てみたい。

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2020年07月25日

ニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々...続きを読むにディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。


読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい)
はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。
ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。
トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という心情が読者に明かされる。
この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。
〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。
ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。
本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。
映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはなんという差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。

0

Posted by ブクログ 2017年10月09日

ちょっと、三島由紀夫さんのような。
水面下に脈々と流れる、異常で変態な、ぞくぞくぬめっとする不安感というか。足下の地面がぐにゃっと軟化しそうな味わい。この本には、それが上手くマッチしていていました。

若くて才能があるのに、努力してもどうにもならない境遇の自分と。
なにもしなくても親の巨額な財産で、...続きを読む優雅に文化的に恋愛と芸術を謳歌する友人と。

物凄い格差を挟んだふたりの若者の、うたかたの交流と愛憎。

「格差の葛藤」という、まさに今現在の世の中の仕組みの脆さを突きつけて、突き刺し貫くようなキケンな小説でした。

#
嫉妬。軽蔑。
絶望。羨望。
屈辱。怒り。

そんな主人公の心の襞を、舐めるようにねっとりと眺めていく、殺人の記録。

財産、金のために、友人を殺すんです。何が起こったか、だけで言うと。

でも、きっと違うんですね。
プライドのため。人生のため。
これは、リプリーの戦争なんですね。
戦争に善悪があるのか?

超・一級品の、犯罪小説。悪人小説。でした。

#

「太陽がいっぱい」。1955年出版、アメリカ。
女流作家パトリシア・ハイスミスさん、34歳くらいの作品。
1992年河出書房、佐宗鈴夫さん訳。
佐宗さんは、僕の知っている範囲では「メグレ・シリーズ」も翻訳してます。
20年来の「メグレ・シリーズ」ファンなので、メグレを訳してる人、というだけで無駄に親近感(笑)。
まあつまり、佐宗さんと言う方は、仏語も英語も翻訳できる、ということですね。

#

1960年のフランス映画「太陽がいっぱい」の原作です。
多くの人と同じく、僕もまず映画を知っていて「ああ、あの映画の原作か」という興味。
更に映画ファンとしては、ヴェンダース監督の傑作(というべきか、デニス・ホッパー出演の傑作、と呼ぶべきか)「アメリカの友人」(1977)の原作も、同じパトリシア・ハイスミスさんで、どうやら原作小説世界では「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンの後年の姿が「アメリカの友人」のデニス・ホッパーである!、という驚愕の事実から原作への興味を持った、というのが実情です。(更に言うと、「原作に興味を持った」というのがそもそも20年くらい前のことだったんですが...)

映画のことは置いておいて。
小説「太陽がいっぱい」の備忘録、概略。

#

舞台はニューヨークから。時代は恐らく同時代、つまり1950年代でしょう。
まだビートルズ前です。まだまだ世の中は保守的で、アメリカは強く、ただ世の中の勝ち組・負け組構造は、もうかなりがっちりできて来ていました。

主人公はトム・リプリー。イケメンの若者。ただ、貧乏です。
どうやら孤児みたいな生まれ育ち。郊外で伯母さんになんとか育てられたようですが、その伯母さんともしっかりした愛情で結ばれているわけでもなくて。要は、ほとんど天涯孤独。
恐らく田舎のハイスクール出たくらいの学歴で、大したコネもなくニューヨークにやってきたのでしょう。

今の日本風に言うとアルバイトや契約社員みたいな仕事を転々としています。真面目につましく暮らしていこうにも、とにかく目先のお金が足りない。筋の良くない友人のアパートを転々としたり。当然、若いし面白くない。そういう仲間たちとくだを巻いたり。

ただ、このリプリーさんは、あることに、ちょいと才能と度胸があります。それは何か。犯罪です。
保険や税金関係の事務仕事をしていた経験から、税務署員と偽って税金と称して小銭を巻き上げる。そんな詐欺を働いています。
いつ警察に捕まるか?みたいな、不安なその日暮らし。そんなリプリーさんに降って湧いたのが、「イタリア行きの仕事」。

リプリーが浅く広く、ぐだぐだ付き合っていた若者たちの中に、ブルジョアの息子がいたんです。自称画家。金持ちニートです。ディッキー・グリーンリーフ。
そんなに仲良い訳でも無く、知り合い以上友だち未満くらいの関係。
このディッキーのお父さんが、突然現れて主人公トム・リプリーに声をかけます。

「息子の友だちなんだよね?息子が、画を描くって言って、イタリアに行ったきり何カ月も何カ月も戻ってこないんだ。イタリアに行って、説得して連れ帰ってくれませんか?当然、あご、あし、まくら、プラス諸経費一切、出させてもらうんで」

という夢のような依頼。

ディッキーの父親は、造船所のオーナー社長。紛うことなき億万長者。そして、トム・リプリーがケチなフリーターの軽犯罪者だとは思っていません。サラリーマンだ、くらいに思っているんですね。信用しています。(信用されるように細かく嘘を積み上げる技術が、リプリーにある、というのもあります)

まんまとアメリカ脱出。太陽がいっぱいのイタリアへ。
ディッキーと出会う。同じ年頃。同じ背格好。ふたりは一見、異国で肩を寄せ合って楽しく過ごします。
けれど、渦巻く格差の意識。底に流れる不信。そして怒り...。
この心理は、もう、絶品の小鉢のような極上の味わい。ピリリ山椒。
映画でも活かされていますが、リプリーが、ディッキーの服を勝手に着て鏡を見ていると、ディッキーが不意に帰宅している場面。このやりとり。
まさに、「小説」が「物語」から離陸する快感。

そして、リプリーは人生初の大犯罪に。
ディッキーを殺し、ディッキーになりすまし、財産を我が物にする...。

果たして、捜査の手から逃げ切れるのか?
ディッキーの恋人の眼は、ごまかせるのか?

#

小説が、正直に言うと、事前の予想より面白かったんです。
このぞくぞくした、人間のダークで異形な部分の味わいは、只者ではありません。
リプリー・シリーズを全部読む(と言っても3冊か4冊でしたが)、というのが人生の楽しみに新たに加わりました。嬉しいことです。

と、いうハイスミスさんへの敬意を踏まえて。

それでもやっぱり思ってしまうのは、
「いやあ、映画もよくできてたよなあ」ということです。

原作ではアメリカ人なんですが、それがフランス人に。
そして原作と、細かくは言いませんが「終わり方」が圧倒的に違います。これはほんと、映画サイドの英断だと思います。
(映画の終わり方の方が素晴らしい、という訳ではありません。「映画にとっては」、映画版の終わり方の方が素晴らしい、と、思います)

そして、原作に存在する、ぬめっとした存在の不安のような味わいは、映画版では明確には描かれていないのですが、「アラン・ドロン」という異様なイケメン俳優のどきどきする危うい存在感が、それを十分に補てんしていると思います。

(原作では、50年代のアメリカで商業小説に許されるぎりぎりくらい、「同性愛っぽい匂い」というか「同性愛者だと思われることの屈辱とか偏見、恐怖」みたいな通底音が流れています。これだけで、つまりは「健全なる社会の構成員」であることへの皮肉な、そして暗い疎外感と敵対感がぬめぬめと醸し出されるわけです。
その要素は、映画版ではかなり排除されているのですけれど、排除しても排除しても、アラン・ドロンという人間の肉体と存在感から、同様の寂しさとか緊張感がだだ漏れに漏れてくるんですね。素晴らしい。これはまあ、ヘルムート・バーガーさんとか、やはり「ヴィスコンティの眼鏡に叶いし者たち」の持ち味というかなんというか…)

#

映画版を褒めてばかりいてもナンなんですが、映画の題名、Plein Soleil「太陽がいっぱい」。これ、素晴らしいですね。脱帽。

原作にもはちきれんばかりに描かれる、くらくらする地中海の太陽の暑さ。若者の噎せ返るような不満と恍惚。そんな空気感をざっくりと表した題名だと思います。これだけは、うーん、ハイスミスの原題Talented Mr.Ripley 「才能あるリプリー氏」よりも、わくわくしますね。

ほぼ直訳だけど、日本語としてのセンスもいいなあ。やっぱり、洋画をカタカナタイトルで公開するのは、何かしら堕落を感じてしまうんですよね。まあ、興行業界には興行業界なりの、事情があるんでしょうけれど。
(とはいえ、じゃあStarWarsを、宇宙戦争、にしかなったのも英断だと思うので、まあ作品によるわけですが…)

0

Posted by ブクログ 2017年04月30日

アラン・ドロンの映画で知って、ずっと気になっていた作品。
まず印象的だったのは、リプリーのゲイ的視点。
ライバル的女性への感情や人間の観察具合がとてもゲイゲイしい。
そしてこの作品の読みどころは、自分がだんだんリプリーなんじゃないかと感じるくらいの心理描写だろう。
昔のサスペンスらしく、
たまたま運...続きを読むがよかっただけでは?
と感じるところがいくつもありながら、どこか洗練された印象を受けるから許せてしまう。

0

Posted by ブクログ 2024年04月27日

破滅に向かってほしいのに、全然向かってくれない!彼が不安に思う未来に対してヨーロッパ描写の何と美しいことか!リプリーを応援してないはずなのに周囲の人の間抜けさにイライラさせられる!
ただのヤバいやつをこんなに魅力的に見せられるとは!

0

Posted by ブクログ 2022年08月01日

これは完全犯罪と言えるのだろうか…
トムの衝動的で突飛な殺人と、臆病なまでに練るに練られた計画的な偽装工作の連続。
そして、あまりにも幸運すぎる逃亡劇とその最後。

この作品では、事件自体の完全さというよりも、トム自身の感情の浮き沈みと、はたまた何があってもうまく立ち回る身のこなし、そして綻びをうま...続きを読むく拾っていく彼のスキル等々、“トム”という人間にスポットライトを当てることでこそ、主人公の魅力が表に現れ、非常に興味深く感じられる作品になっている気がする。

誰かを演じることでしか(ここでは“ディッキーだが”)今の自分を保てない不安定とも言える精神状態、自分から墓穴を掘るような言動や行動に走りかねない様子、そして上機嫌で楽天的と思いきや、自己嫌悪により何も手につかない、何も食べられないという繊細さ…ここまで心情がアップダウンの激しさが、軽快に、巧妙に描かれているのがおもしろい。

トムは、どこか、何か、罪の意識とは別の事件にいるような気さえする。
彼が本当に恐れているものとはなんなのか…警官か?死刑か?それとも?

0

Posted by ブクログ 2021年09月04日

ルネ・クレマンとアラン・ドロンの映画「太陽がいっぱい」は封切られた時に観た。映画全盛時代ゆえ鮮明に覚えている。テーマ音楽と明るい青い海とドロンの美貌が強烈な印象だった。

マット・ディモンのリメイク「リプリー」はTVで観た。これはこれで「トム」と「ディッキー」の関係を同性愛的に色濃く描いていて陰影が...続きを読むあった。マット・ディモンの雰囲気があずかりあるのかもしれない。

パトリシア・ハイスミスの原作「太陽がいっぱい」を読んでまた異なった感想を持った。「トム」が「ディッキー」を殺すに到る心理が丁寧に描いてあり、犯罪の良し悪しでなく、わかってくるものがある。

「トム」の不幸な生い立ちとあがいても上昇しない人生が、人は出自によってどうしても決まってくるという不条理をはねのけたくなった時、どういうことが起こるのか。他人の人生とを取り替えられるのか、夢のような変身は可能か。

「トム」が雇われ友人として「ディッキー」をアメリカに連れ帰る役目よりも、優雅に暮らしている「ディッキー」のようになりたいと思った時、愛すればこそ同化出来ると濃く近づくが、それが同性愛的友情(同性愛ではない)になってもおかしくない。

やはり原作は読んでみるものだ。パトリシア・ハイスミスのミステリータッチの中にも冷徹な人間観察が感動する。どうしようもない人間個の欲望の強さ、哀しさを呼び覚まされる。

情景にイタリア、特にベネッツアの風景がたくさんあって懐かしい(観光したので)こんなに出てきたんだっけ?とあらためて驚いた。が、それもこの小説の象徴であり、強調する脇でもある。

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2021年08月14日

三人称で書かれているけど 気分は犯人目線なので
すっかり犯人気分になり ハラハラしながら進んでいった。最後は予想外

0
ネタバレ

Posted by ブクログ 2021年02月04日

昔映画の『リプリー』を観たことがあったけどほとんど記憶がなかったので新鮮な気持ちで読めた。

リプリーが二件の殺人を犯すまではとても面白く読めたけどそれ以降は少し冗長に感じたかな。
追い込まれるスリルはあったけど。

特にディッキーと仲良くなってから次第に憎悪に気持ちが流れていくあたりは圧巻だった。...続きを読む
リプリーはどうしようもなく身勝手で運が良いだけの犯罪者だとはおもうけど、ディッキーの同性愛嫌悪の態度も読んでいて気分が悪かった。
あんな態度をとられ続ければ辛くなって憎むのも当然だと思えた。
だからといって殺すなんてのはどう考えても許されないことだけど。

フレディが階段を引き返してくるときのハラハラ感もよかった。

最後は映画とはちがって逃げきるので、好き嫌いがわかれそうなところではあるけど、これはこれで物語としては好きだな。

0

Posted by ブクログ 2020年04月15日

ミステリー小説、という事前情報だけで読み進めた。
主人公リプリーはクズと評されることも多いけれど、誰もが持っている側面の一つを演じているに過ぎないように思う。
彼は偶然にも機会と、閃きがあった。
きっとそれだけなのだ。
そのように思う私もまた、クズの素質があるということなのだろうか。
犯人視点の小説...続きを読むは久しぶりで、いつ捕まってしまうのか、いつ罪が露見するのか、最初から最後までドキドキが止まらなかった。

0

Posted by ブクログ 2016年07月02日

以前、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」を観て面白かったので、いつか原作を読んでみたいと思っていた。本屋で探しても見つからなく残念に思っていたら、最近新訳で再出版された。

有名なリプリーシリーズの一昨目である本作は、原題は「太陽がいっぱい」ではなく「The Talented Mr.Ripl...続きを読むey(才能あるリプリー)」。このタイトルのままだったら、きっとあの映画は日本ではそんなに流行らなかっただろう。
「太陽がいっぱい」、このタイトルは素敵だと思う。
リプリーが憧れたディッキーの暮らすイタリアの太陽の眩しさと、ディッキーそのものが眩しく見えたリプリーの思いとが重なっており、実に見事だと思う。

原作を読んで感じたことは、映画とはいくつか異なっているということ。
ひとつはラスト。
映画ではリプリーの破滅を仄めかして終わるところが、原作ではそうではない。そうしたことで原題との齟齬は無くなる。ただ、終わり方としては映画の方が正しいというか、やはり犯罪者に罰がないままはおかしいし、映像で観たときのドラマ性は高いと感じる。

もうひとつはリプリーのディッキーに対する気持ち。
映画では単に裕福なディッキーへの憧れという感じだったが、原作では経済的に恵まれた男への憧憬に留まらず、ディッキーに恋をしているように感じる。
金銭だけでなくディッキーに恋するがゆえにディッキー自体になりたいと思ったという方が、リプリーが行ったことへの整合性はあるかもしれない。

それにしても、殺人犯をシリーズの主役に据えるというのは、なかなか斬新だと思う。
リプリーシリーズ第二作目「贋作」が、どのようにはじまるのかが気になるので読んでみたい。

0

Posted by ブクログ 2023年05月02日

 1955年作。
 1960年、ルネ・クレマン監督による、アラン・ドロン主演の映画が名作としてすこぶる有名で、「太陽がいっぱい Plein Soleil」というタイトルはこの映画によるもの。小説の原題は「才能あるリプリー氏」という、ちょっとつまらなそうなタイトルである。
 犯罪サスペンスもの、という...続きを読むことになる。全体の3分の1辺りで主人公トム・リプリーが殺人を犯して、そこからサスペンス風になる。が、私は何となくこの小説に没入できなかった。主人公の性格が曖昧でとりとめなく思われ、その心の動きに近づくことが難しかったせいだろう。
「犯罪を犯したのちの、追い詰められる切迫感」は、もっとシンプルな描写の松本清張の短編の方が引きずり込まれるような迫力、悪夢感があったのだが、本作はもうちょっと心理描写をきちんとやっているのに、いやそれだけに、その心理がどうも私にはよく把握できなかったのである。
 結末は映画のそれとは違う。このトム・リプリーを主人公としてハイスミスは更に何編も長編を書いたらしい。私には特徴の掴みづらい人物であったため、あまり興味を持てないのだが・・・。

0

Posted by ブクログ 2021年09月25日

1960年にルネ・クレマン監督/アラン・ドロン主演で映画化(1999年「リプリー」として原作をほぼ忠実にリメイク)されたことにより、ハイスミスの最も有名な作品となった。1955年発表作だが、全編独特なトーンを持ち、時代を感じさせない。物語の舞台として、当時のローマ、カプリ、ベネツィアなどの名所を巡る...続きを読むため、観光ガイドとしても有用かもしれない。よく知られた粗筋は省略するが、先の映画とは随分と印象が違う。饒舌で冗長。犯罪小説と呼ぶには文学に偏り過ぎ、文学と称するには青臭い生硬さがある。

主人公は、アメリカ人トム・リプリー25歳。幼い頃に両親を亡くし、守銭奴の叔母に育てられた。生い立ちは殆ど語らず、世界中を旅して回る望みを持つ以外は、将来について夢描くこともない。孤独な自信家で、何よりも貧しい。金持ちに対するルサンチマンを抱き、彼らの〝物真似〟をすることで自己同一性の欠損を補い、自尊心を慰撫する。切れ者だが、倫理観が欠落している。最初に犯す殺人の動機は嫉妬からくる逆恨みで、以降も犯罪を重ねていく。大金を狙うのではなく、自由に旅行ができる程度で満たされる。退廃的で刹那的、ただ今を生きている。そこには、明確な狂気がある。己が殺した相手と同化して一人二役を演じ、危険な者は躊躇わずに消す。中途で何度も危機に見舞われるが、機転と悪運によって逃れる。狂的な楽天家で罪に苛まれることがないが、犯罪が発覚することには怯える。そして、それを楽しむ余裕さえ見せる。その人間像は複雑なようで〝底が浅い〟。故に、捉え難い。

物語の中では何度も否定しているが、主人公はホモセクシャルであることを濃厚に匂わせる。同性愛者だったハイスミスが「リプリーは自分自身である」と述べているが、青年への投影はこれにとどまるものではないのだろう。この〝男色〟が本作に漂う異様な緊張感の素因ともなっている。他の登場人物は例外なく俗物で、作者の人間不信に基づく醒めた視点を反映していると感じた。そもそも、男と女を魅力的に描く気などさらさら無かったようで、ハイスミスの造型は極めて異色だ。
終盤で、完全犯罪を確信したリプリーは、ギリシャ旅行を夢想し「太陽がいっぱいだ」と独白。怠惰で虚無的な結末を迎え、物語は閉じられる。読み手によって、はっきりと好き嫌いが分かれる作風だが、ミステリの深遠を知ることは出来るだろう。眼光鋭い肖像が印象的なハイスミス。その屈折したスタイルによって、異端の存在であり続けたことは間違いない。

0

Posted by ブクログ 2020年11月01日

かつてはアラン・ドロン主演で映画になり大ヒットし、最近はマット・デイモンが主演してリメイク(題名は「リプリー」)された映画の原作。
アメリカ人の青年トム・リプリーは家柄も地位も定職も持たず、薄汚れた部屋で、その月の部屋代にも事欠く生活をしていたが、友人のディッキー・グリーンリーフを連れて戻るようディ...続きを読むッキーの父親に頼まれてヨーロッパに渡る。
ディッキーの父親は造船会社を経営する資産家で、ディッキーはその御曹司。
自分の生い立ちに比べて恵まれすぎているディッキー。トムは父親から渡された報酬が目当てでいたが、ディッキーに対する嫉妬心からか、ディッキーを殺してしまう。
殺人の隠蔽のためにトムはディッキーになりすまして彼がまだ生きているように思わせて、警察の捜査を切り抜けようとするが、、、
主人公が経済的に恵まれているにも関わらず気ままに暮らす友人の境遇と、同性愛者としての嫉妬から殺人を犯すという当時としては異色の設定?ではないだろうか。
決してトムという主人公は同情を抱かせるような感じではないが、その真相がバレそうになるのを機転で切り抜けながらも、行き詰まってまた犯罪を繰り返すという進行には、バレるのか?切り抜けるのか?また犯罪を犯して深みに入っていくのか?とヒヤヒヤさせられる。
アラン・ドロン主演の映画の結末の方が大衆受けするのは頷けるが、この原作の結末も嫌いではない。

0

「小説」ランキング