ポアロシリーズ10作目。1935年の作品。
原題は『Death in the Clouds』。
飛行機という密室の殺人事件なので「雲の中の死」、「空中殺人事件」みたいなタイトルですが、事件の不可解さから「雲をつかむ」にかけているわけですね。
阿津川辰海による解説に「心理描写を行っているにもかかわら
...続きを読むず、犯人が分からない、という趣向は、本作発表の四年後、『そして誰もいなくなった』で飛躍的進化を遂げる。テキストを読むというゲーム性では、『そして誰もいなくなった』は、『アクロイド殺し』のトリックとも繋がる。」とありますが、「テキストを読むというゲーム性」とはクリスティーの小説をよくあらわしている言葉で、これがおもしろくてクリスティーを読むんだなと思います。
『ゴルフ場殺人事件』のジロー警部の名前が出てきたり、容疑者に探偵小説家や考古学者が出てきて揶揄されたりするのもクリスティーの余裕を感じます。
60
「探偵小説家ってやつは、いつも警察を小ばかにしてるし……警察の仕組みがまるでわかってない。そうさ、連中が書くものに出てくるような調子で上役にものを言ったりしたら、明日にも警察から叩き出されてしまうでしょうよ。物書きなんて、なにもわかっちゃいない! この一件は、いかにもくだらない小説書きが書きとばすような、ばかげた殺人事件のたぐいだ」
249
「じつはね、ポアロさん、それとこれとはまったく話がちがうんですよ。探偵小説を書くときには、だれでも好きな人物を犯人に仕立てられる。」
はたしてクリスティーが本作に出てくる探偵小説家のように好きな人物を犯人に選んでそれから動機や犯行手段を考えるのかどうかわかりませんが、犯人を当てるミステリーとしてよりも、殺人が起こす波紋がやっぱりクリスティーの醍醐味だよね。
95
「殺人は被害者と加害者だけにかかわることじゃない。それは罪のない者にも影響をおよぼすんです。あなたもぼくも犯人じゃないけれど、殺人の影はぼくたちにもおよんでいるんだ。その影が、ぼくたちの人生にどう影響するかはわからないんですよ」
以下、引用。
58
「いや、警部、若いお嬢さんが緊張するのは、たいてい若い男性がそばにいるからで──事件の犯人だからじゃありません」
59
故人とは知りあいではなかったけれど、ル・ブルジェ空港では見かけたのはおぼえている。
「どうしておぼえていたのですか?」
「だって、びっくりするほど不美人でしたから」ジェーンは率直にいった。
60
「探偵小説家ってやつは、いつも警察を小ばかにしてるし……警察の仕組みがまるでわかってない。そうさ、連中が書くものに出てくるような調子で上役にものを言ったりしたら、明日にも警察から叩き出されてしまうでしょうよ。物書きなんて、なにもわかっちゃいない! この一件は、いかにもくだらない小説書きが書きとばすような、ばかげた殺人事件のたぐいだ」
82
「探偵ってものをずいぶん旧式に考えていらっしゃるんじゃありません?」ジェーンが問いかけた。「つけひげなんかで変装するのは、もう時代おくれですわ。いまどきの探偵は、ただすわっていて、心理的に事件を分析するんです」
「そのほうが楽そうですね」
95
「殺人は」ノーマン・ゲイルは説明した。「被害者と加害者だけにかかわることじゃない。それは罪のない者にも影響をおよぼすんです。あなたもぼくも犯人じゃないけれど、殺人の影はぼくたちにもおよんでいるんだ。その影が、ぼくたちの人生にどう影響するかはわからないんですよ」
97
警部はまた笑いながら、「そういえば、小説じゃ、探偵がじつは犯人だったっていうのがよくありますよ」
98
「ジローさんからも、あなたのことはうかがっております」
かすかな笑いがフルニエの唇にのぼったように見えた。ポアロはフランス警察のジロー警部のことを、常日頃“人間猟犬”といってばかにしていた。その男が自分のことをどんなふうに言ったか想像がつくから、ポアロもまた、用心ぶかくわずかにほほえみかえした。
122
「四六時中、犯罪小説や探偵小説のことばかり考えたり、事件についての読み物に片っ端から目を通したりしてるのは、人間として不健全じゃないですか。そんなことだから、いろいろと良くないアイディアまで頭に浮かぶんですよ」
202
彼は思った。“女をけなすのに雌犬(ビッチ)と言うが、おかしな言いかたをするもんだな。ベッツィ、おまえは雌犬だけれど、ぼくがいままでに出会った女を全部あわせたほどの値打ちがあるよ”
221
「ぼくじゃない。あの人はあまりにも醜すぎますよ!」
「そうかしら。きれいな人よりも、醜い人のほうを殺すものじゃなくて?」
222
「そうかなぁ? やっぱり、あなたもおなじような考えかたなんだ。人間はね、仕事をして、お金を手に入れる──女の人に夢中になって、あれこれと世話を焼くことで、そのお金を使う──ってことは、女の人はお金よりもはるかに大切で、理想的な存在だということですよ」
229
殺人ってやつは、なんて妙な事件なんだろう! 人が殺された、それだけのことだと思いがちだが、じつはそうじゃない。予想もしなかった影響があちこちに出てくるんだ。
245
「ああ、わたしにはわたしの推理方法があるからだよ、ワトスンくん。ワトスンくんなんて呼んでも気にしないでください。悪気はないんです。ところで、間抜けな友人を使うというテクニックがいつまでもすたれないのはおもしろい。個人的には、わたしはシャーロック・ホームズの物語はかなり過大評価されてると思うんです。あの作品のなかには、誤った論理が、じつにおどろくほどたくさんの誤った論理が出ているんだから」
249
「じつはね、ポアロさん、それとこれとはまったく話がちがうんですよ。探偵小説を書くときには、だれでも好きな人物を犯人に仕立てられる。しかし、いうまでもなく、現実の事件では相手は現実の人間だ。事実を勝手気ままにねじ曲げることもできない。」
314
「考古学者というのは、あわれな連中だと思うしね。いつも地べたをほじくり返しては、何千年もむかしになにがあった、かにがあったと大ボラを吹いてばかりいる──そんなむかしのことなんか、誰にわかるかと訊きたいですよ。
ぼろぼろのビースの首飾りを出してきて、五千三百二十二年まえのものだと言われても、それはちがうとは言えませんからね。まあ、そんなことで──ホラ吹きと言ってもいいでしょうよ──自分たちはホラとは思っていないけれどもね──しかし、害のない連中です。」
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「人生は、とてもつらいものになりうるのです。人には、たいへんな勇気が必要です」
「自殺するのに? ええ、きっとそうでしょうね」
「生きるためにもです」ポアロは言った。「人には勇気が必要ですよ」
404
『アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕』では、「クリスティーは演劇である」「『自分がたしかに見たと思っている事象が、別の意味をもっていたと悟る』というクリスティーの得意の技法は、きわめて視覚的である」(同書、二五八、二五九頁)と述べる。
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このように、心理描写を行っているにもかかわらず、犯人が分からない、という趣向は、本作発表の四年後、『そして誰もいなくなった』で飛躍的進化を遂げる。テキストを読むというゲーム性では、『そして誰もいなくなった』は、『アクロイド殺し』のトリックとも繋がる。