森本あんりのレビュー一覧
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アメリカの人口のうち60%がキリスト教徒で、40%がプロテスタント、そのうちの60%が福音派。
グローバル化、リベラルな風潮、リベラルな公教育への不満・不信から、穏健なキリスト教徒の主流派が減り福音派が増えてきた。その中にキリスト教ナショナリズムという過激な動きが出てきた。NAR(New Apostolic Reformation)新使徒的改革運動といわれるクリスチャン右派だ。20世紀には神の祝福が直接現世の成功につながることを約束する繁栄の福音が主流だったが、21世紀になって個人の繫栄ではなく国家のキリスト教化が課題となる。救済されるべきは個人ではなく国家なのだ。キリスト教ナショナリズムは国家がキリスト教を根幹としているので他宗教は認めないという立場だ。
もともとアメリカは、権力と結びついたヨーロッパのキリスト教への反発から、独立当初から政教分離を基本理念としてきた。そのためにかえって信教の自由によりキリスト教の重みが増し、自由に発展することができたのだ。
1878年のモルモン教重婚禁止判決、1963年の学校での朝の祈唱への憲法違反判決などもあり、政教分離がはっきり意識づけられリベラルな風潮が進んできた。
1980年代から福音派が政治的関与を深めていったのは、反宗教としての共産主義がある。さらに経済的な圧迫や治安の原因、そして白人キリスト教徒の国としてのアメリカ性を脅かすものとして移民を捉えているから。
また、宗教へまで口を出す北部の連邦政府への南部の不満もある。福音派は南部に多い。
多数の教徒を抱える福音派の集会は、大駐車場を備えた会場でロックコンサートなども行われるビックエンターメントになっている。
大学はほとんどリベラル一色で、それに反発して、チャーリー・カークは保守的政治団体ターニング・ポイントUSAを作ったが、去年暗殺されてしまった。
一般にも、リベラル疲れと言われるようになり、保守的な古きアメリカの良き夫、良き家庭が求めれると、保守=キリスト教となってしまう。
既に成功を得た移民たちもアメリカ人になり切りたいので福音派を支持し、新しく移民が入ってくることに反対する。
Z世代と言われる若者たちは、SNSなどにより多様な価値観へ目を向け、世俗が進んでいる。
このあと、リバタリアンやピーター・ティールの加速主義などとキリスト教ナショナリズムとの共通点や差異、イスラエル問題を述べている。ユダヤ人が選ばれた民なのは聖書に書いてある通りで、終末の後ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するとか。こんなふうに、福音派の人々は聖書の言葉を前後のかかわりなど無視で一部分だけ切り取って、自分の都合のいいように解釈する。主流派の人々は聖書を全体を通してよく読んでいるが、福音派の人々は聖書を読んでいないのだ。
リバタリアンや加速主義者たちは成功した自分たちは神から選ばれた者たちで価値ある自分たちだけが助かればいいのだという呆れた利己主義者たちである。火星への移住とか核シェルターとか、選ばれた者のためである。
著者の森本あんりは、キリスト教は衰退してると言い、市民宗教を取り戻すべきという。トランプやNARなどにはないものだ。経済的に成功した神に選ばれ祝福されているというのではなく、自分たちも罪に塗れていて、相手の罪だけを指弾することはできないというのが市民宗教。
リベラル派にしろ、キリスト教ナショナリズムにしろ、とにかく極端に振り切れてしまうのがアメリカなのかなあ。いや日本以外どこもそうなのかもしれない。大統領選挙の時なども、民主党支持か共和党支持かをはっきりさせないと地域に居づらいというからなあ。八百万の神がいて、多様な価値観を認める日本は特殊か。それを大事にしたいけどなあ。 -
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森本 あんり
(もりもと あんり、1956年10月19日[1] - )は、日本の神学者、牧師[2]、国際基督教大学名誉教授。2022年4月1日より東京女子大学・第17代目学長[3][4]。神奈川県生まれ[2]。父親は画家・グラフィックデザイナー[5]。1975年東京都立小石川高等学校卒業[6]、1979年国際基督教大学教養学部人文科学科卒業[7]。1982年東京神学大学大学院組織神学修士課程修了[7]。1982 - 1986年日本基督教団松山城東教会牧師[7]。1991年アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国プリンストン神学大学院博士課程修了(組織神学)、Ph.D[7]。1991年国際基督教大学牧師、1997年同凖教授、2001年教授、2012年-2020年[4]同大学学務副学長[7]。2022年4月1日より東京女子大学・第17代目学長(任期は4年間)[3][4]。
「その背景には、増大する所得格差や教育格差、グローバル化による低賃金競争の圧力、中国の台頭によるアメリカの相対的地位の低下、移民の大量流入と福祉支出の増加などが挙げられている。かつてアメリカは開かれた機会の国であった。自由と繁栄を求めて努力すれば、誰もが報われる社会であった。しかし今、「子どもは親よりもよい暮らしができるか」と尋ねられると、四人のうち三人が「そんな自信はない」と答えるのである。人びとは、「アメリカン・ドリーム」がただの夢にすぎなかったことに気づき始めている。 前世紀末から緩やかに進行してきたこの変化を、うすうす感じ取っていた人もいる。だがそういう人も、これまでのリベラルな常識が妨げになり、表立って移民排斥や保護主義の声を上げることはできないでいた。トランプは、政治環境の変化に戸惑っていた人びとの屈折した本心を読み取り、それを小気味よく代弁してくれたのである。イスラム教徒排斥発言で物議を醸した際には、彼の人気は陰るどころかさらに高まった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「もともとアメリカ人は、自力でのし上がってきた人物を好む。世襲のカネやコネによらず、自分の才覚で成功をつかんだ人が、自分で稼いだ資金を使って自由に発言し行動するのは、正しいことで美徳なのである。この価値意識は、「成り上がり者」や「にわか成金」を冷たい目で見る日本やヨーロッパとは少し異なるところである。メディアへの対応を心得たトランプは、一般大衆がそのような大舞台の立役者を待望していることを肌感覚で悟っていた。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「 要するに、「異端であることの代償が小さくなった」のである(ナイム三二五頁)。人びとは正統である必要を感じず、正統であろうと努力することもない。「みんな違ってみんないい」のであって、正統であろうとする努力こそ、自分や周囲に抑圧をもたらす根本悪なのである。多様性を認める社会は、たしかに多くの人にとって居心地のよい社会かもしれない。だが、それぞれが「自分ファースト」の小集団に閉じこもり、既存の体制や組織が疑問に付され、公共機関や司法制度に当然のものとして前提されてきた正統性が失われることは、どこまで社会の健全性と両立するのだろうか。貨幣制度が人びとの信認の上に成立しているように、政治制度も民の信なくして立つことはできない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「発足当初から見通しが不透明だったこの試みはしかし、六〇年代を通しての努力でも救い出されることがなかった。元来日本の天皇制や国体には、聖書にあたるような教典もなく、教義にあたるような信条もなく、教会にあたるような組織もない。正統の枠付けをするものがなければ、逆に異端を審問し異端として定義づける手続きも成立しようがないわけである。キリスト教史から入手した諸概念を参照枠組みに用いることの問題点もはじめから意識されており、後述するように中国古典や江戸儒学における漢語としての用語法も検討してはいたが、分析が進むにつれてこの制約はいっそう明らかになった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「何事も聖書へ立ち返って確認すれば解決できる、とする素朴な聖書主義は、すでにこの順序からして成り立たないことが明らかである。プロテスタンティズムは、「聖書と伝統」を啓示の二源泉とみなすカトリック教会に対し、「伝統」を否定して「聖書のみ」を旗印に掲げた。しかし、プロテスタントにも伝統はある。プロテスタントはそれに従って聖書を読んでいるにすぎない。 もう少し言うと、聖書という「書物」を重視し、そこに書かれた文字を「読む」という作業を重視すること自体が、近代の偏見である。それ以前の長い歴史を生きた大多数のキリスト教徒からすれば、聖書は「読む」ものではなく「聞く」ものであった。聖書は、コーランのごとく「朗唱されたもの」、つまり教会で識字者が読み上げるのを聞くものだったのである。そして、それを読む者は、個人の立場ではなく自分の属する集団の精神においてそれを読む。そこには、意識されていようといまいと、伝統の仲介がある。そのような仲介なしに、まったく独りで聖書という書物に向き合い、その文字を読むだけで信仰に至った、という人は稀である。「信仰は聞くことによる」(「ローマ人への手紙」一〇章一七節)。人は、聖書から直接に信仰を得るのではなく、他者との出会いを通して、つまり何らかの伝統を介して信仰を得るのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「教会は、権威のないところに新たな権威を創出することはできない。すでに存在している権威を追認することができるだけである。優れた彫刻家は、素材の中にあらかじめ完成像が隠れているのを見て、それを彫り出してゆくと言われる。同じように、教会は何もないところに自分で正典を作り出したのではなく、すでに人びとの間で承認されている正典の権威に基づいて、それを形にしただけである。 キリスト教自体も、はじめは特異な新興宗教集団として出発した。ユダヤ教の指導者たちは、不安な面持ちでこの新奇な宗教の興隆を見つめていたに相違ない。あるとき、最高法院の議員たちがいきり立って議論をしていると、ガマリエルという律法学者が立ち上がり、次のように語って同胞を諭した。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「キリスト教を「外来」宗教と見る日本では、アメリカやヨーロッパをキリスト教の「本場」と見なす傾向がある。だが、歴史を振り返れば明らかなように、キリスト教はそれらの地域においても「外来」の宗教であった。序章や第一章で見たように、キリスト教はアメリカでは極度に「アメリカ化」し、国家や文化との見分けがつかないほどに「土着化」してしまっている。同じことは、ヨーロッパのキリスト教についても言うことができるし、近現代だけでなく中世や古代にも言うことができる。ハルナックの講義は、そのような変質がすでにキリスト教の揺籃期であるギリシア時代に起きていた、ということを示した点で、人びとに大きな衝撃を与えることになった。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「カトリック教会のカテキズム(入門者用解説書)では、聖書への信仰ですら、教会の権威がなければ成り立たない、とされている。まず教会を信じなさい、その上で、教会が(つまり聖職者が)解説してくれるままに聖書を信じなさい、ということである。聖書の権威は教会の権威に依存し、その意味は教会が解釈する通りに解釈すべきなのである。 「万人祭司制」を唱えるプロテスタントは、このようなカトリック的な権威体系を嫌うが、すでに述べたとおり、プロテスタントにもプロテスタントなりの聖書解釈の伝統が備わっており、教会ではほぼそれに沿って聖書が読まれている。「聖書のみ」という彼らの聖書理解そのものが、プロテスタント的な伝統に準拠したものだし、宗教改革者たちも教会を「聖なる恵みの施与施設」( Heilsanstalt)と位置づけていたので、構造的にもこの点はさほど異なるわけではない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
森本あんり『異端の時代』を読み終えた。なかなか示唆に富む本だ。考える糧になる。正統の定義。「どこでも、いつでも、誰にでも、信じられてきたこと」という定義。これはある意味、日本の野党、リベラルな学者に対する痛烈な批判にもなっている。
森本あんり『異端の時代』に厳格な教義を守るものしか受け入れないのが「異端」で、それによって異端は自ら滅んでいくみたいなことが書いてあったのを最近よく思い返す。「正統」が続くのはその間口が広くてユルいから、ということらしい(それはおかしい、と言い出す人が異端として分離していく)
「ついでに触れておくと、パウロも同じように挑発的な発言をすることがある。原始教会の中には、キリスト教とその母胎であったユダヤ教との区別ができず、キリスト教徒になるためにはまずユダヤ教徒にならねばならない、と考える人びとがいた。律法の定めにより、ユダヤ教徒になるためには割礼が必須である。パウロはそういう論者たちに我慢がならず、そこまで固執するなら「あなたがたの 動者どもは、自ら不具になるがよかろう」と言い放っている(「ガラテヤ人への手紙」五章一二節)。もちろん、パウロも実際に去勢を奨励しているわけではない。割礼と去勢はまったく異なる行為だが、割礼を極端に誇張して、その有無を問うことの愚かさを批判しているだけである。だからこれも文字通りに読んではいけない。聖書は、そこそこいい加減に読むに限る。それが正しい読み方なのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「教義の制定は、法律の制定に似ている。法律も、ある日いきなり定められるのではなく、その法律によって規定されるべき事態がまず存在し、それを後追いするかたちで制定される。もちろん、制定に際しては現実のすべてが容認されるわけではなく、容認されることとされないこととの区分けがなされ、適法と不適法の線引きが行われる。それでも、そこで正しいと認定されたことは、法律ができたから忽然と正しくなったわけではなく、法律ができる前から正しかったのであり、その正しさが法律によって追認された、というにすぎない。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「なお、カトリック的な「事効論」は、プロテスタント神学では別の意味に解されて批判の対象となった。カトリック的な文脈では、洗礼というサクラメントは神の恵みそのものの力によって有効となる、ということを意味していた。だから「施与者の状態にかかわりなく」作用する、と言ったのである。ところがプロテスタント側は、これを「受領者の信仰なしに」作用する、という意味に解釈した。信仰がなくても作用するなら、それは魔術と大差ないことになる。カトリック神学は、聖遺物のように信仰をモノへと凝縮させて扱う「物化論」に長けているが、「事効論」もプロテスタントには同じ傾向を示す危険な教えに見えたのである。両者に共通した理解をあえてすくい取るならば、信仰は洗礼の「根拠」ではないが「条件」である、というあたりだろうか。 こうして見ると、秘跡論の重要性がよく理解できる。中世カトリシズムからプロテスタンティズムに至る系譜を、この視点から通観することができるからである。そして、おそらくこれは教会の改革だけの話ではないだろう。改革も、時代を制する大きな流れになると、その中に本流と傍流ができる。正統であり続けるためには、そこでも主観的な熱情と制度的な安定性との全体的なバランスを維持した両足歩行で進まなければならないのである。この点は、現代ポピュリズムの問題にも通じているので、終章でもう一段深めて論ずることとしたい。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「アナーキズムの命ずるところに従えば、人間はみな勇気ある芸術家であるべきであって、法則とか限定などには一顧も与えるべきではないという。しかし芸術家でありながら法則や限定を顧慮しないことは要するに不可能である。芸術とは限定である。絵の本質は額縁にある。キリンを描く時は、ぜひとも首を長く描かねばならぬ。もし勇気ある芸術家の特権を行使して、首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう(チェスタトン六二頁)。 自由は、あるものに本来的に備わっている法則に従うことによって得られる、ということである。制約なしに自由はない。自由になろうと思う者は、みずからに限定を引き受けねばならない。規則を破り、束縛を逃れれば自由になる、と考えるのは中学生までである。無限定で無定形の自由に実質を与え、具体的で手に取ることのできる現実となすのは、その外周を囲う何ものかなのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「正統にみる自由と制約の弁証法は、法制史の分野でもつとに指摘されてきた。前章でわれわれが中世秘跡論について参照した堀米庸三は、封建制成立の以前も以後も、自由がそれを護る力による制約と不可分であったことを強調している。社会における自由は、個人の自由の限定なしには存立し得ず、秩序による拘束なしには保護され得ない。そのような制約を受けない自由とは、いわゆる「鳥の自由」( Vogelfrei)、すなわち法を犯して共同体の法的庇護を失った犯罪者が狼のように森を彷徨う、という意味での自由に他ならない。彼に出会う者は誰でも彼を殺す権利と義務があり、その屍は埋葬されることなく鳥の 食に供される、という自由である(堀米一九七六年:二八六頁)。そんな自由を欲しがる人は多くないだろう。中世的な意味における自由は、あくまでも保護者への依存を条件としており、その力と制約の中でしか存在しないのである。だから堀米は、「自由はつねにネガティヴにしか規定されえない」と明言する(同三一四頁)。これは、アナテマによる正統の否定的な定義と同じ表示形式である。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「それでも、人は正統と異端という秩序の記憶に生きる。だから現代世界は、始まった時にはすでに失われていた。人は、あらかじめ疎外されており、安住すべき故郷を追われた存在として自分を意識する。はじめから見たこともない神話的過去へのノスタルジーを植え付けられ、どこかに調和ある世界の回復を希求し続けるのである。 個々の精神は儚く、異端もまた一人では存在し得ない。チェスタトンが嘆いたように、異端の「私化」は二〇世紀冒頭の英国でも見られたことだが、この現象はアメリカでは「個人主義の宗教化」という形態ですでにそれ以前から深く進行していた。本章のはじめに引用したジェイムズは、その典型的な体現者である。以下にジェイムズのこの直系の系譜を り、エマソンとソローという「個人主義的宗教の元祖」と言うべき二人の人物に焦点をあてて、それが現代の趨勢となった経緯を確認しよう。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「政治家ばかりではない。学校の教師、地域の管理者、大学の行政部。相手は何でもよい。自分より上の立場にある者に対しては、どんな非合理な批難をぶつけてもよい、と考えられている。先崎によると、権威の喪失は現代社会の特質だが、かつて聖職とみなされていた職業や地位には、今なお「権威の残り香」がつきまとっている(同七三頁)。それを嗅ぎつけると、まるで動物的な反感のスイッチが入ったように、批判者たちは正統意識に酔いしれながら容赦のない全否定を浴びせかけるようになるのである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「 「ポピュリズム」を定義するのは難しい。ポピュリストには右も左もあり、保守派も進歩派もあり、国粋主義者もいれば社会主義者もいて、どのような定義をするにしても、それらすべてを一つの定義のもとに包摂することはできないからである。そして、まさにこの点にポピュリズムの固有な特徴がある。ジョージア大学の政治学者カス・ミュデによると、ポピュリズムにはそもそもイデオロギー的な理念の厚みが存在しない。従来のイデオロギーは、全体主義にせよ共産主義にせよ、政治や経済から文化や芸術まで、社会全体のあるべき姿を描き出そうとしたものである。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
「常識的な抑制や均衡に対するこうした反発は、しばしば反知性主義と一体になって表現される。どちらも、既成の権力や体制派のエリートに対する大衆の反感を梃子にした勢力だからである。そのためポピュリストは、服装から言葉遣いに至るまで、あくまでも自分が専門家集団の外部に立つアマチュアであることを強調する。序章で見たとおり、プロの政治家はみな腐敗した権力構造の虜で既得権益を守ろうとするが、素朴な民衆はいつも されて搾取される被害者だ、そして自分こそそういう民衆全体の利益代表者だ、という設定である。」
—『異端の時代-正統のかたちを求めて (岩波新書)』森本 あんり著
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もともとの意味での反知性主義とは、「かなり特定の系譜をもったアメリカ的な現象」なのだという。
カトリック世界を脱出して新世界を作り出そうとした人々がたどった歴史的経緯によって生み出され、展開してきたのだという。
それを解説した一冊。知らないことだらけだったが、いろいろ腑に落ちる。
ほぼ丸々、アメリカのローカルな事情と論理から成り立っているので、そんなことに世界を巻き込まないで欲しいと思うが、仕方ないのだろう。
われわれは明確に意識はしないが、中国のローカルな事情と論理に基づく世界観を受け入れ続けてきた日本からすれば、それがアメリカに代わっただけともいえるわけだし。 -
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ネタバレアメリカとは何かを理解するのに不可欠な本。
アメリカにおいて、政治や教育を左右するのがキリスト教という認識があったが、なぜそうなったのか、をキリスト教がアメリカに根付いていく過程をアメリカ史を背景に詳述する。
アメリカに移民した人々がまず作ったのが大学。それは牧師の養成に必要だったから。もし大学がなければ本国イギリスから定期的に牧師を招かねばならず、アメリカの独立はそこでつまづく、と考えられた。
大卒のインテリ牧師が行う説教は長く難解だった。それに対抗する動きが反知性主義。わかりやすく、時に笑いや涙を交えてキリスト教を説く。その流れは現代アメリカにも脈々と引き継がれ、宗教専門チャンネルや伝道集会用の巨大な教会の建設につながっている。
バブティスト、メソジストなど基本用語もきちんと説明される。
ちなみに、この巨大な教会で行われる伝道のように熱狂し、完全服従してアイドルを育てろ、というのが、朝井リョウの「イン・ザ・メガ・チャーチ」。同じような時期に読んだのでよく理解できた。 -
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読み始めた動機としてキリスト教について、というか宗教について批判的な目線を持っていたので頭のいい人がどういう理由から宗教に傾倒していったのか興味があった。
世界中を魅了する一大コンテンツ「キリスト教」の魅力にまだ自分が気づいていないだけなのではないかと。
読んだ感想は宗教だから、キリスト教を信仰したから人は救われるのではなく、自分を肯定したり、自分の実存を存分に発揮したり、徳性を高めたり、生きる勇気を持つ事ができるようになったり、他人を愛せるようになる為に行われる営みの一つとして信仰というものが用いられていると感じた。
作者の人生とその時々の本との出会い、それによる思想の変遷が率直で恥ずかしいほど正直に綴られていて好感が持てた。牧師が皆この人ほどの人格者なのだとしたら毎週早起きして教会に通って説教を聞く時間は幸福な時間なんだろうな。
以下印象に残ったところ
人間は罪を犯す生き物で悪意から切り離す事などできない、罪を自覚し悪意を飼い慣らし、出来るだけ善良に生きようとする試みが信仰という営み。
人間には決して理解することの出来ない神という存在を理解しようとする神学者達は当然だが互いを常に批判し合っている。各々の解釈は当然異なるので。
聖書を読破したキリスト教信者は全体の1割程度。
自分のお母さんが一番!という感情は世界中の誰かのお母さんと比べているわけではない。
宗教も一緒、自分の宗教が一番!という感想は他人の宗教は二番!という結論には至り得ない。 -
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「モルモン教徒は道徳的に厳格で、酒や煙草はもとよりコーヒーやコーラも飲まず、人工妊娠中絶や同性愛には一貫して反対である。教会組織は最高指導者以下、明確に権威が階層化されており、しばしば白人中心主義も指摘されてきた。なお、成年男子には二年の宣教活動が原則的に義務づけられているため、日本でも若い伝道者たちの活発な働きが見られる。」
—『キリスト教でたどるアメリカ史 (角川ソフィア文庫)』森本 あんり著
「教会が同性愛者をどのように受け入れるかが深刻な争点となったのは、八〇年以降である。七〇年代の後半から、主要な各教派でこの問題についての検討が始められたが、その結論は多くの場合、同性愛者の人権擁護と牧会的配慮を論ずるにとどまっていた。八〇年代にはエイズに対する関心が高まり、これが同性愛に対する神の罰であるかのように論じられることもあった。やがて同性愛についての即事的な理解が広まり、性指向とその実践との可能的区別が知られるようになる。すると、教会もこの区別を援用して、前者は受け入れるが後者は受け入れない、とする姿勢が一般化し、かえって議論が膠着状態に陥ってしまった。七九年の聖公会総会、九二年の合同メソジスト教会総会、七八年と九三年の長老派教会総会、九三年の福音ルーテル派教会総会、などがその例である。」
—『キリスト教でたどるアメリカ史 (角川ソフィア文庫)』森本 あんり著
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分断が進むアメリカにおいて、「寛容」とは何かを論じる一冊。トランプ以後、顕在化した分断を前に、現代アメリカについて語られるのかと思うと、豈図らんや、アメリカ入植史と、当時活躍されたロジャー・ウィリアムズ氏についての本になっている。
アメリカのピューリタンの対極に位置する中世カトリックの寛容さについて触れたあと、政教分離と内心の自由を認めるウィリアムズについて語られ続ける。あとがきでも述べているが、森本先生、ウィリアムズ大好きでしょ。
端的に言えば、「ムカつくけど排除しないし礼節を持って接してやる」のが寛容だと論じられている。ユダヤ人の弁護士がネオナチを「テメーの意見はムカつくけど、テメーの言論の自由は守ってやる」という民主主義の根幹をなすところと同じである。逆に昨今よく言われる、多様性を認めない多様性の押し付けも非難の対象となっている。上記の心がけでいるのはなかなか大変だが、これからの時代、皆がその心持でいればいいのにね。 -
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冒頭で日本における『反知性主義』と本来のアメリカにおけるそれとは微妙に意味が異なると書かれているが、微妙どころではない。この本を読むと完全に意味をはき違えている事が理解される。日本では知性に欠ける指導者が人気を博す事を揶揄する場合に使われることが多いが、本来の意味での反知性主義とは『上から目線への抵抗』である。
日本で何故このような勘違いが横行するのかと考えるに、そもそも権力者に知性がないことが原因と思われる。大物政治家の子や孫が世襲で権力を維持することに対する反感は日本にもそれなりにあるが、その人たちに知性が感じられないのでそれを『反知性主義』と呼称するのがしっくりこない。何とも残念な状況。
それはそれとしてアメリカという国の作られ方や、ヨーロッパ知識人との考え方の違いなど、今まで知らなかった史実をたくさん知ることができた。その意味でオススメ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ反知性主義という切口でアメリカのキリスト教、歴史、政治、社会を分析する。反知性主義は知性に反対するのではなく知性が権力と結びつくことに反発するものだとして、その負の面も描きつつ肯定的な評価も与えている。
アメリカの歴史の流れや、自分の中で曖昧だった「ピューリタン」や「福音主義者(エヴァンジェリカル)」の定義が少し理解できた。
また、トランプに対しても本書を読むことで少し見方が変わった。アンドリュー・ジャクソンとの共通点など、トランプはアメリカにとって決して新しい存在ではないのだと思った。
アメリカのラディカルな平等理念が反知性主義を生むというのも面白かった。今の格差社会アメリカを見ると平等とは結びつけづらいが、元来アメリカは貴族が支配するヨーロッパに反抗して生まれた国であり、底流には平等主義があるということだろう。トマ・ピケティもそのようなことを言っていた。確かに、目上の人ともファースト・ネームで呼び合うなど、フラットな文化には違いない。結果としての格差はあるが、機会の平等を重視しているということだろう。
フィニー、ムーディ、サンデーらリバイバル運動のヒーローが、時代のニーズを捉えて伝道していくところは、クリスチャンとして見習わねばと思わされた。ムーディが少年時代に想像上の大観衆を前に演説の真似をしていたというエピソードは微笑ましく思った。自分の子どもたちの性質も将来、主のために用いられることを祈る。
【以下、面白かった箇所の要約】
P34-47
ハーバード、イエール、プリンストン大学はピューリタン牧師養成を目的として設立された。だが、中世ヨーロッパの神学校とは違い、教理教育や博士号は重視しなかった。重視したのは一般教養。牧師(=説教者)には一般教養こそが必要というのがピューリタンの考え。プロテスタントの中でもルターはカトリックの影響が強く神学博士号を持っていた。カルヴァンはピューリタンに近く、広範な著述にも関わらず、修士号も博士号も持っていなかった。
P52-53
初期のピューリタンはオルガン、尖頭、結婚式のドレスや指輪、クリスマス等もカトリック的として拒否した。違反には罰金もあった。性愛の悦びは率直に認めた。ピューリタンは生真面目で率直。笑えるエピソードも多く、それを大真面目に記録していることも面白い。
P56-70
リバイバルはアメリカの平等の理念を呼び覚まし、以下のような多くの社会運動に影響を与え、その精神的支えとなった。
(18世紀)独立革命
(19世紀)奴隷廃止、女性の権利
(20世紀)公民権運動、消費者運動
リバイバル発生の内的要因として、人々の間の回心体験への渇望が挙げられる。明確な信仰を持つ植民第一世代と比べ第二世代以降は信仰が明確でない人が増えてきたが、信仰告白をし教会員籍を得ないと公民権も得られなかったことから、回心体験を求めた。
孤独で不安な新規入植者たちもリバイバルの担い手になった。定住者による安定した社会の維持を願っていた既存教会は、そのような不安な新規入植者たちを受け入れる準備ができていなかった。
P121-122
反知性主義はラディカルな平等論に育まれる。それは、ごく普通の人びとが、道徳的な判断能力をもっていることを前提とする。それはまた、民主主義の前提でもある。
P133-141
エドワーズやエマソンは自然の中に神の栄光を見る。エマソンの神は、キリスト教的な世界観と接してはいるが、聖書的な人格神ではなく、宇宙万物に内在する精神。その精神と個人の精神が呼応する。主客の区別への反逆。宇宙の原理ブラフマンと個人の魂アートマンとの不二一元論という古代ヴェーダ哲学に通じる。エマソンは直感を重視し、ヨーロッパの知的権威を批判する。
P141-142
ソローはエマソンの著書「自然」に感激し、エマソンの庇護のもと「森の生活」を書いた。
P145-153
十九世紀にアメリカの国土は拡大。独立に際しイギリスからミシシッピ川以東を割譲→ナポレオンから大陸中部を購入→西武開拓。この時期に成長したのがメソジストとバプテスト。
P155-173
反知性主義の大統領ジャクソン。名家の知識人であるアダムスに選挙で敗れたのを不正と言い続ける。あからさまな先住民追放政策。
P172
反知性主義の目的は権力者の鼻をあかすこと。手段はスマートでなければならない。反知性主義には、相当の知性が必要。
P175
第二次リバイバルのリーダーであるフィニーは、古色蒼然としたプリンストンの奨学金付入学を断る。反知性主義者は、どんなに世間の評判がよくても、自分自身の判断でそれを退ける。
P176
自然科学を高く評価するのはピューリタンからの伝統。
P177-183
フィニーは、リバイバルは神の奇跡ではなく、人間が自然法則にしたがって合理的に努力することにより起こせると言った。「神は自ら助くる者を助く」と精神。宗教的興奮はすぐ醒めるのが人間の生理的特性だが、それで構わないと言った。ある程度の間隔を空けないと次のリバイバルは来ないので、休んで待つことを説いた。
P185-186
リバイバルを十万人規模の集会による巨大なビジネスにしたドワイト・ムーディ。
ムーディの時代、アメリカは農業から工業へ移行し、移民も増え、大都市には孤独で不安な労働者が溢れていた。ムーディのリバイバル伝道は、そのような労働者の心を捉えた。
P221-245
反知性主義の完成者ビリー・サンデー。
サンデーのようなショービジネス化したキリスト教は、政教分離の帰結。政教分離により税金で教会を運営できないため、大衆を楽しませることにより献金を集めるしかない。逆に言えば、アメリカのキリスト教が先進国の中で例外的に活発なのもそのため。
サンデーは右傾化。進化論は全否定。
P272
日本の反知性主義者は、空海、親鸞、日蓮、田中角栄など。日本は知性も反知性も中途半端な「半」知性主義。ハーバードが「上」という序列意識はアメリカにはない。