あらすじ
よい読書体験はよい人間形成につながると信じる.真っ暗な地下鉄の線路を歩いた昔日の彷徨から,自らの実存の問いと対峙した神学遍歴,半世紀後に届いた「魂の教育」を願う母の祈りまで――.ルネサンス期の幅広い人文主義的な教養主義の理想「ボナエ・リテラエ」を冠する『世界』連載で紡がれた,ある救済の物語.
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Posted by ブクログ
読み始めた動機としてキリスト教について、というか宗教について批判的な目線を持っていたので頭のいい人がどういう理由から宗教に傾倒していったのか興味があった。
世界中を魅了する一大コンテンツ「キリスト教」の魅力にまだ自分が気づいていないだけなのではないかと。
読んだ感想は宗教だから、キリスト教を信仰したから人は救われるのではなく、自分を肯定したり、自分の実存を存分に発揮したり、徳性を高めたり、生きる勇気を持つ事ができるようになったり、他人を愛せるようになる為に行われる営みの一つとして信仰というものが用いられていると感じた。
作者の人生とその時々の本との出会い、それによる思想の変遷が率直で恥ずかしいほど正直に綴られていて好感が持てた。牧師が皆この人ほどの人格者なのだとしたら毎週早起きして教会に通って説教を聞く時間は幸福な時間なんだろうな。
以下印象に残ったところ
人間は罪を犯す生き物で悪意から切り離す事などできない、罪を自覚し悪意を飼い慣らし、出来るだけ善良に生きようとする試みが信仰という営み。
人間には決して理解することの出来ない神という存在を理解しようとする神学者達は当然だが互いを常に批判し合っている。各々の解釈は当然異なるので。
聖書を読破したキリスト教信者は全体の1割程度。
自分のお母さんが一番!という感情は世界中の誰かのお母さんと比べているわけではない。
宗教も一緒、自分の宗教が一番!という感想は他人の宗教は二番!という結論には至り得ない。
Posted by ブクログ
特に神学の話などは、自分が良く理解できているとはとても思えないですが、何度でも繰り返し読みたくなる、内容のたくさん詰まった、切れ味のスパッとした本でした。ちょっと予算オーバーだったけど、最近一番「買って良かった」と思えた本。
Posted by ブクログ
「魂の教育」といった仰々しいタイトルや章題からして説教じみた神学者の教えのように捉えられてしまう外観が勿体ないほどに
研究者のライフヒストリーという自分好みのモノが、連載形式の小気味よさで綴られている。
神学の学究のあり方や、そもそもの神学的な思考や生活自体に縁遠くそういった細部まで踏み入れられずとも、一本筋のとおった物語的な筆者の営みが描かれていて、深く思考を強いられるとともに単純にストーリーとしても楽しめる。筆使いもさすが。
Posted by ブクログ
一つ一つがとても知らない世界だらけで、
引き込まれながら読みました。
何だか全然関係ないような細かい話のようで、なんでか読み進めてしまう、素晴らしい書き手・語り手の技でした。
森本あんりさんの子どもの頃のこと、どんな子だったか、名前、
懸賞論文への応募と新聞社の論調に合わせた作文で勝ち取った豪華旅行(やっぱすごい、小さいときから書ける人だったのですね)、
どうやって大学(ICU)に行くことになったか、
ガールフレンドが教会に行っていたからクリスチャンになった、
交換留学での出会い、
プリンストン神学大学に行くことになったか、
その5年間のアメリカ生活での豊かな人間関係、
四国で牧師さんになったり、
もうなんだか物語のような人生、
でもそれは本書のメインテーマではなくて、
いろいろな章に散りばめられた森本あんりさんのいろいろな過去が、
少しずつ明らかになりつつ、
実際の主役は、ボナエ・リテラエー良い書物。
本と言っても、気軽に手に取れないものが多い、
著者の紹介なしには、垣間見ることもあまりなさそうな偉大な知の書物というか、
こんなふうに本とともに自分を振り返られるって素敵だなーと思いながら、
そんなふうにもしかしたら私たち一人ひとりも、自分の思考が形作られてきた過程を本を通して他者に伝えられるかもしれないですね。こんなに知的ではなかったとしても。おもしろそう。
Posted by ブクログ
「あんり」という著者の名前の由来から。
女性のような名前に対し、自らの禿頭を自虐しつつ、この名前による幼少期からのエピソードを語る。著者の見た目は可愛らしい?感じだが、全体的にこの〝率直さ”が本書の魅力であり、教育(学習)における思いや、キリスト教に対する向き合い方も同じ調子で語っていく。特に、キリスト教については洗礼を受けるまでの気持ちの変化は、その信仰がないものにとっては不思議な感覚だ。そうした著者を構成する思想や経験を告白した自伝でもある。
ー わたしは受験勉強というものをいっさいしなかった。というより、すべきではないと思っていた。大学受験なんて、現状に尻尾を振る不潔な破廉恥漢のすることだ。そうではなく、ひたすら読みたい本を読んで考えることこそ、自分の知性を高め人格を磨く正しい道だ。そうじていた。今から思うと、貴重でありがたいボナエ・リテラエの時間だった。
私にも同じ時期があったから良く分かる。もっとも、私は本も読まなかったし、知識そのものを軽蔑していた。ただの厨二病であった。その後、勉強の面白さに気付いて尻尾を振って受験勉強をすることになるのだが、その時、反動のように受験勉強以外の読書がしたくて仕方なくなった。だが、結局、大学で違う楽しみを見つけて読書生活にも入らなかった。
ー 古代ギリシアでは、こういう人を円環的な教養人と呼ぶ。アリストテレスによると、人は笛を吹く楽しみを知っていなければならないが、あまり上手になりすぎてはいけない。熟達しようとすると、人間性の他の部分を犠牲にして努力してしまうからである。これは、長く大学の教員を見ているとよくわかる。優れた業績を上げるため、たしかに人間性の他の部分を犠牲にして研究に没頭してきたのだろう。真の教養人は、大学には稀である。
そうなのだろうか。嗜むだけの教養ではなく、もっと人生や信仰と一体化していくような差し迫った教養を望んでいた。没頭こそ究極だというように。気付くと著者の半生を聞きながら、自らと対話してしまうような、語り出したくなるような読書だった。