【感想・ネタバレ】不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書)のレビュー

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Posted by ブクログ 2023年08月04日

なぜ今まで宗教学に興味をもってこなかったのかと後悔してしまうほどすばらしい内容。人間が考えたものである以上、政治思想や哲学や歴史や人々の価値観にはいつも宗教の下地があることが理解できる。もっと学びたい。
価値観が異なっても許容し共存するという意味での寛容は、「トルコから世界を見る ――ちがう国の人と...続きを読む生きるには? (ちくまQブックス)」に書かれていた「ものさしは複数ある」という認識に近いし、子どもの学級内での過ごし方としてよく言われる、「みんな仲良くは難しいが平和的に共存しよう」という考え方とも通じる。
皆が「礼節をもって、暴力に訴えず、会話を遮断せずに続けるだけの開放性を維持する」ことができれば平和になるので、さほど難しくはないように思えるが、その境地に至るのが困難だから諸々の問題が生じるのではと思う。まず自らの信念によほど強い確信がなければ、他者の異なる意見に接することで自分の内部に揺らぎが生じ、不安になる。自分を不安にするものは排除しなければならない、となる。相手の態度があまりに確信に満ちていると、自らの不安定を指摘されているようで、あたかも自分が攻撃を受けたかのように感じる。攻撃を受けたら自らを守るため反撃しなければならない、となる。これらの問題をどのように乗り越えるかが、私たちが考えなければならない課題だと思う。

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Posted by ブクログ 2023年03月07日

不寛容なしに寛容はあり得ない。
自分が嫌悪する、許容できないものに対してどうするのか、という問いこそが寛容論。

わかりあうことはできないが、わからないままに受け入れることはできる。

ウィリアムズを切り口に寛容論について述べられた本。この内容でこの読みやすさはとてもよかった。
内容としても、筆者が...続きを読む述べている通り、まさに今求められる考え方なのではないだろうか。

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Posted by ブクログ 2022年12月16日

不寛容なしに寛容はない と最初の方に出てくるが、「寛容」はこれに尽きる感じだ.アメリカへイギリスから移住したピューリタンが原住民と交渉しながら植民地を建設する過程で、「寛容」をどう取り扱うかを議論しているが、宗教の問題が基盤にあることは日本人には理解が難しいと思った.ロジャー・ウイリアムズに焦点を当...続きを読むてて「寛容」の問題を解説しているが、彼の頑なさはある程度理解できると感じた.契約を結ぶこと、宣誓をすることなど、現代社会にも通用することが17世紀のニューイングランドでなされていたことに驚いた.

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Posted by ブクログ 2021年07月13日

入国審査書面の契約ひとつとっても、何故そのような項目が設けられているのかという歴史的背景を知ると納得が出来る。他者と暮らすとは何かを考えるきっかけとなる。

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Posted by ブクログ 2021年02月06日

近代や現代の寛容論ではなく、その源流とも言える中世の寛容論を下敷きに、米国建設前(植民地時代)の人物でもあるロジャーウィリアムズに焦点をあて、彼にとって寛容が如何なるものだったのかを中心に論じている。
彼が重んじた「礼節」について、「マナー」に通じるところがあると感じつつも、「マナー」よりもより深層...続きを読むにあるような、所作や心情の向け方まで表したものであるように感じた。

ウィリアムズみたいなちょっとおかしな(褒め言葉のつもり)人達が社会から少しずつはみ出ることで、漸進的に社会が変わってきたのだと感じる。もちろん、そういうおかしな人たちを下支えしてきた他者や社会があってのことだけれど。

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Posted by ブクログ 2021年05月13日

私には難しそうで最後まで読み切れるかと心配したが、易しい言葉で、興味がずっと保たれたまま読み続けられた。
歴史から学ぶこと、遠い昔の他国の人や出来事から得たことを今現在を生きるに当たって知恵としてそのまま具体的に取り入れられること、しみじみと実感できた。

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Posted by ブクログ 2021年02月13日

通販生活の表紙に「私はあなたの意見には反対だけど、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というヴォルテールの言葉が掲げられていた。確かに、美しい言葉かもしれないけど、この通りにするのは、かなり無理をして、頑張らないといけない感じする。

この本によると、中世の「寛容」は、大きな悪が実現しないよ...続きを読むうに小さな悪をそのままにしておくという、かなり消極的な、相対的な考え方だったというのです。金貸しも、娼婦も、それ自体は悪には違いないけど、それが無くなったら、社会全体はもっと悪くなるので、まぁ、放っておくか。そんな考え方だと。

なるほど。

この現実主義が、カトリック教会をさまざまな極論から守り、大いなる中庸を維持させてきたんだろうと思う。

それに比べて、上記の近代啓蒙主義の寛容論は、多様性を守ることを「絶対視」するような「非」寛容が見え隠れする。人間はそうあるべき。啓かれた近代人は、そういう考え方をするべき。そんな生堅な人間観が見えてくる。

ここ数日のオリンピック組織委員会の森会長の「女性蔑視発言」を巡るゴタゴタも、「多様性」を「絶対善」として、それが否定されると、その相手を全否定するような潔癖感が現れていて、ちょっと危ない感じがする。

そんな時代に、この本は、もっと現実的な「寛容論」を提示してくれる。悪は悪なんだけど、そんなに大きな悪ではないので、とりあえずは放っておくか的な(現教皇の同性婚に対する「寛容」も、この線にあるのではないだろうか)。

またまた、今年のベスト3候補の1冊。

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Posted by ブクログ 2023年04月23日

BIBLIOTHECAで紹介された本。読み応えがあった。「悪を最小限に抑えるために寛容になる」というフレーズが印象的だった。

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Posted by ブクログ 2021年07月13日

「反知性主義」を面白く読みました。「不寛容論」も分析すべき現代アメリカの問題を論じてるのかと思い、書店にあったのを何度も見かけ、迷った末買ってみました。

けれど、「線」の思考、アースダイバー神社編、、と同じく。。いまこれを読む時間を割けるかというと、なかなか。。。ということで、途中でパラパラ読みに...続きを読むなってしまいました。。。

ただ、ピューリタンがパブティストなどを不寛容な態度を取っていた。契約結んで作られたコミュニティは、そのルールを承認してない人を入れる必要はない。。てことになる=不寛容=排斥。。って考えを学べました。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2021年04月10日

ちょっとだけ感動した。特に、平和と真理の対立の横にいるのが、言葉を発しない忍耐であることに。

不寛容論、というのは、異文化理解や多様性がキーワードとなった我々の目の前にある「寛容」の矛盾に向き合うにあたり、まず「不寛容」から考えてみようではないか、という取り組みを表す。不寛容の代表例はプロテスタン...続きを読むト(ピューリタン)へのカトリックの弾圧である。特に宗教と政治が繋がった時代において、宗教の違いがそのまま村八分と弾圧による死につながる問題であった。その根拠は、異端の存在が、コミュニティの平穏を揺るがす問題であるとの認識にあった。不寛容にもそれなりの根拠はあるわけである。それなりの根拠を持つ不寛容に対して何ができるだろう、というのをアメリカ史をたどりながらこの本ではみていく。

なお、寛容は日本では簡単に扱われがちだが、難民の数万規模で訪れる欧州では、イスラム教徒が増えていることを恐れる向きもあるし、日本でも外国人が増えて治安が悪くなるという恐れの声は聞こえており、簡単なものではない。冒頭(本ではエピローグ)の、平和と真理と忍耐の話は、理想論がぶつかり合う時、間には忍耐がいなくては、相互の関係は不可逆的に壊れてしまう、ということを表していると考えている。寛容とは、忍耐や礼節に近いものであって、必ずしも心から歓迎することではないのではないか。

寛容は、言葉の前提として、すでにその「寛容」の対象となる物事に否定的な姿勢がある。そして、その上でなお、存在を認めてあげる、というやや上から目線の姿勢である。しかもそれは、認めるのが正しいからではなく、面倒ごとになるよりはましだから、攻撃しないというのが、その原義である。これは中世カトリックが他宗教に対して持っていた考え方と共通する。
現代では寛容は、あくまでそれ自体が望ましく正しいことだから、多様性を歓迎するもののように扱われる。しかし、自分の文化と全く相入れない人が目の前に来た時、自分の生活が脅かされるかもしれないと感じる時、簡単に歓迎できるものとは言えなくなる。
さて、森本の紹介するロジャーウィリアムズは狂信的なクリスチャンであるからこそ、他の人の信仰もまた認めるべきであり、彼の異端的信仰は他の人によって侵害されるべきでないし、特に信仰の問題で街を追い出したりするべきでない、という寛容の論理を主張した。彼を弾圧したジョンコトンもまた、単なる頭ごなしの弾圧者ではなく、教派が異なっていて、心では信じていなかったとしても礼拝に出ていれば街から追い出さないという一定の寛容は見せていた。ここで彼らの差は、当然考え方の道筋にもあるが、結局のところ、どこまでがその人の許容範囲なのか、ということである。というのも、ロジャーウィリアムズは当初は弾圧される側、権利を主張する側だったわけだが、その後街を追い出されて自分でコミュニティを作る為政者となってから、そのコミュニティ内の異端分子に手を焼き、彼は彼でクエーカー教徒の信仰を痛烈に批判することになる。

ウィリアムズのこの転向に対しては批判もあるが、一貫して礼節を重視していたことは変わりない。ウィリアムズは礼節を重視したがクエーカーはそうではなく攻撃してきたから、批判したようである。森本は完全な答えを示しはしなかったが、このように信仰について正しい正しくないの結論をつけることはせずに、とにかく市民的な分野では礼節を保とう、ウィリアムズの立場を一つの人権史上の重大事件と捉え、これこそ今必要な寛容だという。

わかる。宗教的真理の統一、政治的平和の達成、そしてその双方の合一、全て、現実的には解決しきれない課題が山積みであり、それを見て見ぬ振りしながら、忍耐をして行くしかない現実がある、という話か。べき論とである論は分けて、どちらも必要であるが、どちらかだけになってはいけないし、どちらの方が重要とも言えない、というように思う。

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