森本あんりのレビュー一覧
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ヨーロッパ各国もキリスト教国なのだが、米国がそれとは全く異なる「キリスト教国」である所以を理解する貴重な本。1620年のメイフラワー号事件、盟約から始まり、決して熱心なクリスチャンばかりでなかった初期の人たちのことが意外だったし、1776年の独立時のワシントンやジェファーソンも正統的なクリスチャンではなく、むしろ理神論者だったいうことも不思議。その中で会衆派、長老派が少数派に転落し、メソジスト派、そしてバプテスト派が増えていって、現在の共和党の岩盤支持層と言われる流れへの繋がりが興味深い。奴隷制、人種分離主義がキリスト教信仰と矛盾するように思われる点がどういう理屈づけができるかも理解が進む。
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米国はキリスト教主義の国と言われるが、同じキリスト教のヨーロッパ各国と違いは何なのか?それが政治に影響を与えていることはここ近年の共和党の岩盤支持層がキリスト教福音派と報道されることが多い、その深い意味は何なのか?米国建国前のメイフラワー号での移民の歴史から説き起こし、数回起こったリバイバル(信仰復興)運動との関係から説明する。独立前の第1回の運動ではジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホイットフィールド、19世紀の第2回にはチャールズ・フィニー、ドワイト・ムーディー、19世紀終わりから20世紀初頭の第3回はビリー・サンデーと大衆説教者が続き、にはまたピューリタンが英国教会に出自はあるが、改革派の神学に影響を受けたこと、エリート層の宗教としてメソジスト、更にバプテストを見下していたことが語られ、これは現在の米国の宗教界に及んでいることも感じ、非常に納得することが多かった。これは米国の共和党・民主党大会の雰囲気にもその流れを感じる。「反知性主義」とは何か、著者は分かり易くの要約する。以下の文はこの書の結論であるとも言える。なお、現在トランプ大統領が敵視さえしているハーバード・イェール・プリンストンの3大学の成立が神学を教える公立学校だったとは全く初聞の興味深いことだった。
「反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。 そのためには、自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛えあげなければならない。この世で一般的に「権威」とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ、という覚悟が必要だからである。だからこそ反知性主義は、宗教的な確信を背景にして育つのである。」(p177)
「初等教育は誰もが受けられるが、高等教育にはほとんどの人で注目しているのは、単に高等教育を受けた知的エリートが存在しない、ということではない。 それを代々世襲で受け継いでゆく「知的特権階級」が存在しない、ということである。「反知性主義の原点にあるのは、この徹底した平等主義である。本書の冒頭で説明したように、 反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である。つまり、誰もが平等なスタート地点に立つことができればよい。 世代を越えて特権が固定されることなく、新しい世代ごとに平等にチャンスが与えられればよいのである。」(p235) -
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最近巷でよく聞く「教養を身に着けたい!」という声。
が、その内実をよくよく聞くと知識人ぶって一目置かれたいだとか世界のエリートがやっているから身につけなくちゃというものが多い。
でも、それってホントに教養なの?
という疑問から始まった本書。
本書でいう教養とは
良き市民をつくるためのベースである。
そのため、知識を付ければ良いというものでなく
それらから影響を受けて醸成されて人格を形成せねばならないため必ず時間がかかる。
という内容をベースに様々な社会的潮流について4人の学者と対談している。
教養の意義については手放しで賛成ではあるが、せっかく日本人の議論なのに東洋哲学・思想の出てくる場面が少なかったのと、大学という人の一生からすれば極短い期間のみを討論対象にしていたのが少し残念。
むしろ教養の必要性を感じる壁にぶつかるのは社会人になってからが圧倒的に多いからだろうに。。 -
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ネタバレちょっとだけ感動した。特に、平和と真理の対立の横にいるのが、言葉を発しない忍耐であることに。
不寛容論、というのは、異文化理解や多様性がキーワードとなった我々の目の前にある「寛容」の矛盾に向き合うにあたり、まず「不寛容」から考えてみようではないか、という取り組みを表す。不寛容の代表例はプロテスタント(ピューリタン)へのカトリックの弾圧である。特に宗教と政治が繋がった時代において、宗教の違いがそのまま村八分と弾圧による死につながる問題であった。その根拠は、異端の存在が、コミュニティの平穏を揺るがす問題であるとの認識にあった。不寛容にもそれなりの根拠はあるわけである。それなりの根拠を持つ不寛容に対して何ができるだろう、というのをアメリカ史をたどりながらこの本ではみていく。
なお、寛容は日本では簡単に扱われがちだが、難民の数万規模で訪れる欧州では、イスラム教徒が増えていることを恐れる向きもあるし、日本でも外国人が増えて治安が悪くなるという恐れの声は聞こえており、簡単なものではない。冒頭(本ではエピローグ)の、平和と真理と忍耐の話は、理想論がぶつかり合う時、間には忍耐がいなくては、相互の関係は不可逆的に壊れてしまう、ということを表していると考えている。寛容とは、忍耐や礼節に近いものであって、必ずしも心から歓迎することではないのではないか。
寛容は、言葉の前提として、すでにその「寛容」の対象となる物事に否定的な姿勢がある。そして、その上でなお、存在を認めてあげる、というやや上から目線の姿勢である。しかもそれは、認めるのが正しいからではなく、面倒ごとになるよりはましだから、攻撃しないというのが、その原義である。これは中世カトリックが他宗教に対して持っていた考え方と共通する。
現代では寛容は、あくまでそれ自体が望ましく正しいことだから、多様性を歓迎するもののように扱われる。しかし、自分の文化と全く相入れない人が目の前に来た時、自分の生活が脅かされるかもしれないと感じる時、簡単に歓迎できるものとは言えなくなる。
さて、森本の紹介するロジャーウィリアムズは狂信的なクリスチャンであるからこそ、他の人の信仰もまた認めるべきであり、彼の異端的信仰は他の人によって侵害されるべきでないし、特に信仰の問題で街を追い出したりするべきでない、という寛容の論理を主張した。彼を弾圧したジョンコトンもまた、単なる頭ごなしの弾圧者ではなく、教派が異なっていて、心では信じていなかったとしても礼拝に出ていれば街から追い出さないという一定の寛容は見せていた。ここで彼らの差は、当然考え方の道筋にもあるが、結局のところ、どこまでがその人の許容範囲なのか、ということである。というのも、ロジャーウィリアムズは当初は弾圧される側、権利を主張する側だったわけだが、その後街を追い出されて自分でコミュニティを作る為政者となってから、そのコミュニティ内の異端分子に手を焼き、彼は彼でクエーカー教徒の信仰を痛烈に批判することになる。
ウィリアムズのこの転向に対しては批判もあるが、一貫して礼節を重視していたことは変わりない。ウィリアムズは礼節を重視したがクエーカーはそうではなく攻撃してきたから、批判したようである。森本は完全な答えを示しはしなかったが、このように信仰について正しい正しくないの結論をつけることはせずに、とにかく市民的な分野では礼節を保とう、ウィリアムズの立場を一つの人権史上の重大事件と捉え、これこそ今必要な寛容だという。
わかる。宗教的真理の統一、政治的平和の達成、そしてその双方の合一、全て、現実的には解決しきれない課題が山積みであり、それを見て見ぬ振りしながら、忍耐をして行くしかない現実がある、という話か。べき論とである論は分けて、どちらも必要であるが、どちらかだけになってはいけないし、どちらの方が重要とも言えない、というように思う。 -
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副題は『アメリカが生んだ「熱病」の正体』となっています。
反知性主義とは、
かいつまんでいうと、
知性と権力とが結びついたものに対する嫌悪や、
それらに反対する心理や行動のようです。
学のあるエリートと大衆的でおおらかな人物とが、
たとえば大統領選挙でまみえると、
前者は知性主義的であり後者は反知性主義的であるので、
後者が勝ちやすいみたいなところがアメリカにはあるようです。
そんな反知性主義はどうして生まれ、
アメリカ人の根底に流れるようなものになったか。
そこには、アメリカという国そのものの歴史、
それも宗教史を考えていくとわかるものがある。
イギリスで起こったピューリタン(清教徒)の系列のキリスト教が、
アメリカに移民とともにはいってきますが、
それはとても知性的な宗教だったのです。
勉強に勉強を重ねたエリート中のエリートが牧師になれて、
それぞれの土地の重鎮みたいにその土地の顔のようになり、
人々を導く役割を持つ。
そんなところに、あまり神学について学の無い伝道者が、
各地を巡回して説教をする時代になる。
それによって、回心という現象が多発するようになります。
これをリバイバル、という。
もともとキリスト教の洗礼をうけてはいたものの、
ぼんやりとした宗教心しかもっていなかった多くの人々が、
伝道者のわかりやすく巧みな話術(説教)に触れたことで、
キリスト教に、あらためて、
いや初めてといってもいいような覚醒をするんですね。
失神したり痙攣したりといった、
狂信的な意識レベルに入ることで起きるような身体現象を伴いもしたようです。
といったように、
そういった反知性の伝道者が受け入れられ、その後、
伝道者によってお金儲けと信心とが結び付けられていき、
まさにアメリカ的なキリスト教になったことで、
反知性主義はアメリカ人たるものの根底にあるものになる。
反知性主義の源泉には、平等(フェアネス)をよしとし、
求め、実現しようという理念があります。
また、たとえば誰かを助けるときにおいて、
知性主義の人は、
立場や法律など社会システムに照らしてから助けるか否かを決め、
反知性主義の人はその誰かの命や生活を優先して
社会システム度外視で助ける、みたいなところがあるようです。
そういうのを知ると、反知性主義のほうでいいじゃないか、と思ったりもしませんか。
しかし、どんな主義思想にも欠点はつきもので、
反知性主義には、よくない意味での熱狂を生むし、
原理主義と親和性があり陥りやすいというのがあります。
反知性主義って、
神の子羊である存在を肯定するようなところがあるように見受けられる。
勉強して子羊以上の存在になった者よりも、
子羊のままでいいのだ、と。
そんな無知な子羊が子羊として無垢な存在であるためには、
社会から競争と資本主義を取り去る必要があると思います。
そこはもっと個人的にも考えていかないと、ですね。
「知能」と「知性」は違うという話もおもしろかった。
知能犯はいても、知性犯はいない。
知性とは、自分を振り返る技術や性向をいうのだ、とされていました。
だからといって、反知性主義にも知性は必要で、
権力と知性の結びつきをきびしく監視し分析するのに使われます。
反知性主義ときくと、ちゃらんぽらんな状態がいいのだ、と誤解しそうですが、
本書を読むと、反知性主義であろうと知性主義であろうと、
知性なしでは進んでいかないものであることがわかります。
やっぱり、無知って悪と結びつくとも言われるので、
「主義」はぬかして、知性は大事だなと感じるのでした。