あらすじ
アメリカでは、なぜ反インテリの風潮が強いのか。なぜキリスト教が異様に盛んなのか。なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか。なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか。そのすべての謎を解く鍵は、米国のキリスト教が育んだ「反知性主義」にある。反知性主義の歴史を辿りながら、その恐るべきパワーと意外な効用を描く。※新潮選書版に掲載の図版の一部は、電子版には収録しておりません。
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Posted by ブクログ
もともとの意味での反知性主義とは、「かなり特定の系譜をもったアメリカ的な現象」なのだという。
カトリック世界を脱出して新世界を作り出そうとした人々がたどった歴史的経緯によって生み出され、展開してきたのだという。
それを解説した一冊。知らないことだらけだったが、いろいろ腑に落ちる。
ほぼ丸々、アメリカのローカルな事情と論理から成り立っているので、そんなことに世界を巻き込まないで欲しいと思うが、仕方ないのだろう。
われわれは明確に意識はしないが、中国のローカルな事情と論理に基づく世界観を受け入れ続けてきた日本からすれば、それがアメリカに代わっただけともいえるわけだし。
Posted by ブクログ
アメリカとは何かを理解するのに不可欠な本。
アメリカにおいて、政治や教育を左右するのがキリスト教という認識があったが、なぜそうなったのか、をキリスト教がアメリカに根付いていく過程をアメリカ史を背景に詳述する。
アメリカに移民した人々がまず作ったのが大学。それは牧師の養成に必要だったから。もし大学がなければ本国イギリスから定期的に牧師を招かねばならず、アメリカの独立はそこでつまづく、と考えられた。
大卒のインテリ牧師が行う説教は長く難解だった。それに対抗する動きが反知性主義。わかりやすく、時に笑いや涙を交えてキリスト教を説く。その流れは現代アメリカにも脈々と引き継がれ、宗教専門チャンネルや伝道集会用の巨大な教会の建設につながっている。
バブティスト、メソジストなど基本用語もきちんと説明される。
ちなみに、この巨大な教会で行われる伝道のように熱狂し、完全服従してアイドルを育てろ、というのが、朝井リョウの「イン・ザ・メガ・チャーチ」。同じような時期に読んだのでよく理解できた。
Posted by ブクログ
アメリカのキリスト教は、平等や自由を尊ぶ精神と相俟って変異し、アメリカの反権威主義=反知性主義をもたらす、というストーリーをアメリカ宗教史に鑑みながら紹介した著作。
Posted by ブクログ
アメリカでの、「信仰復興運動」「リバイバリズム」の歴史について、反知性主義とからめて、書かれています。
アメリカの歴史や成り立ちは、おもに政治制度などを追う形でざくっと勉強したように思いますが、宗教に特に焦点を当てて辿ってみると、またこんなに違って見えてくるんだなーと。
「信仰復興運動」というのも波があるようです。その波の中で特に主導的役割を果たした人物を取り上げて紹介されています。
初めて知ること、初めて得る視点が満載で、とても興味深く読みました。
Posted by ブクログ
冒頭で日本における『反知性主義』と本来のアメリカにおけるそれとは微妙に意味が異なると書かれているが、微妙どころではない。この本を読むと完全に意味をはき違えている事が理解される。日本では知性に欠ける指導者が人気を博す事を揶揄する場合に使われることが多いが、本来の意味での反知性主義とは『上から目線への抵抗』である。
日本で何故このような勘違いが横行するのかと考えるに、そもそも権力者に知性がないことが原因と思われる。大物政治家の子や孫が世襲で権力を維持することに対する反感は日本にもそれなりにあるが、その人たちに知性が感じられないのでそれを『反知性主義』と呼称するのがしっくりこない。何とも残念な状況。
それはそれとしてアメリカという国の作られ方や、ヨーロッパ知識人との考え方の違いなど、今まで知らなかった史実をたくさん知ることができた。その意味でオススメ。
Posted by ブクログ
反知性主義という切口でアメリカのキリスト教、歴史、政治、社会を分析する。反知性主義は知性に反対するのではなく知性が権力と結びつくことに反発するものだとして、その負の面も描きつつ肯定的な評価も与えている。
アメリカの歴史の流れや、自分の中で曖昧だった「ピューリタン」や「福音主義者(エヴァンジェリカル)」の定義が少し理解できた。
また、トランプに対しても本書を読むことで少し見方が変わった。アンドリュー・ジャクソンとの共通点など、トランプはアメリカにとって決して新しい存在ではないのだと思った。
アメリカのラディカルな平等理念が反知性主義を生むというのも面白かった。今の格差社会アメリカを見ると平等とは結びつけづらいが、元来アメリカは貴族が支配するヨーロッパに反抗して生まれた国であり、底流には平等主義があるということだろう。トマ・ピケティもそのようなことを言っていた。確かに、目上の人ともファースト・ネームで呼び合うなど、フラットな文化には違いない。結果としての格差はあるが、機会の平等を重視しているということだろう。
フィニー、ムーディ、サンデーらリバイバル運動のヒーローが、時代のニーズを捉えて伝道していくところは、クリスチャンとして見習わねばと思わされた。ムーディが少年時代に想像上の大観衆を前に演説の真似をしていたというエピソードは微笑ましく思った。自分の子どもたちの性質も将来、主のために用いられることを祈る。
【以下、面白かった箇所の要約】
P34-47
ハーバード、イエール、プリンストン大学はピューリタン牧師養成を目的として設立された。だが、中世ヨーロッパの神学校とは違い、教理教育や博士号は重視しなかった。重視したのは一般教養。牧師(=説教者)には一般教養こそが必要というのがピューリタンの考え。プロテスタントの中でもルターはカトリックの影響が強く神学博士号を持っていた。カルヴァンはピューリタンに近く、広範な著述にも関わらず、修士号も博士号も持っていなかった。
P52-53
初期のピューリタンはオルガン、尖頭、結婚式のドレスや指輪、クリスマス等もカトリック的として拒否した。違反には罰金もあった。性愛の悦びは率直に認めた。ピューリタンは生真面目で率直。笑えるエピソードも多く、それを大真面目に記録していることも面白い。
P56-70
リバイバルはアメリカの平等の理念を呼び覚まし、以下のような多くの社会運動に影響を与え、その精神的支えとなった。
(18世紀)独立革命
(19世紀)奴隷廃止、女性の権利
(20世紀)公民権運動、消費者運動
リバイバル発生の内的要因として、人々の間の回心体験への渇望が挙げられる。明確な信仰を持つ植民第一世代と比べ第二世代以降は信仰が明確でない人が増えてきたが、信仰告白をし教会員籍を得ないと公民権も得られなかったことから、回心体験を求めた。
孤独で不安な新規入植者たちもリバイバルの担い手になった。定住者による安定した社会の維持を願っていた既存教会は、そのような不安な新規入植者たちを受け入れる準備ができていなかった。
P121-122
反知性主義はラディカルな平等論に育まれる。それは、ごく普通の人びとが、道徳的な判断能力をもっていることを前提とする。それはまた、民主主義の前提でもある。
P133-141
エドワーズやエマソンは自然の中に神の栄光を見る。エマソンの神は、キリスト教的な世界観と接してはいるが、聖書的な人格神ではなく、宇宙万物に内在する精神。その精神と個人の精神が呼応する。主客の区別への反逆。宇宙の原理ブラフマンと個人の魂アートマンとの不二一元論という古代ヴェーダ哲学に通じる。エマソンは直感を重視し、ヨーロッパの知的権威を批判する。
P141-142
ソローはエマソンの著書「自然」に感激し、エマソンの庇護のもと「森の生活」を書いた。
P145-153
十九世紀にアメリカの国土は拡大。独立に際しイギリスからミシシッピ川以東を割譲→ナポレオンから大陸中部を購入→西武開拓。この時期に成長したのがメソジストとバプテスト。
P155-173
反知性主義の大統領ジャクソン。名家の知識人であるアダムスに選挙で敗れたのを不正と言い続ける。あからさまな先住民追放政策。
P172
反知性主義の目的は権力者の鼻をあかすこと。手段はスマートでなければならない。反知性主義には、相当の知性が必要。
P175
第二次リバイバルのリーダーであるフィニーは、古色蒼然としたプリンストンの奨学金付入学を断る。反知性主義者は、どんなに世間の評判がよくても、自分自身の判断でそれを退ける。
P176
自然科学を高く評価するのはピューリタンからの伝統。
P177-183
フィニーは、リバイバルは神の奇跡ではなく、人間が自然法則にしたがって合理的に努力することにより起こせると言った。「神は自ら助くる者を助く」と精神。宗教的興奮はすぐ醒めるのが人間の生理的特性だが、それで構わないと言った。ある程度の間隔を空けないと次のリバイバルは来ないので、休んで待つことを説いた。
P185-186
リバイバルを十万人規模の集会による巨大なビジネスにしたドワイト・ムーディ。
ムーディの時代、アメリカは農業から工業へ移行し、移民も増え、大都市には孤独で不安な労働者が溢れていた。ムーディのリバイバル伝道は、そのような労働者の心を捉えた。
P221-245
反知性主義の完成者ビリー・サンデー。
サンデーのようなショービジネス化したキリスト教は、政教分離の帰結。政教分離により税金で教会を運営できないため、大衆を楽しませることにより献金を集めるしかない。逆に言えば、アメリカのキリスト教が先進国の中で例外的に活発なのもそのため。
サンデーは右傾化。進化論は全否定。
P272
日本の反知性主義者は、空海、親鸞、日蓮、田中角栄など。日本は知性も反知性も中途半端な「半」知性主義。ハーバードが「上」という序列意識はアメリカにはない。
Posted by ブクログ
政教分離後エンタメ化した伝道集会が熱狂を呼び、ナショナリズムや平等意識と相性が良く、権力と知性の世襲が嫌われた。誰でも回心してまじめに生きれば救われる、帰依すれば聖書にないことは否定しなければいけない。それが今のアメリカの一部だと理解しました。
Posted by ブクログ
いまを知るためには歴史を知る必要があるし、歴史を知るためにはその中で大きな役割を果たしてきた宗教について知ることが欠かせない。アメリカがなぜ「アメリカ」なのか、本書を読んでようやく理解することができた。
サンデー以降、現代につながる流れや、他国での思想についても学びたい。
Posted by ブクログ
アメリカの反知性主義について書かれた本。
社会的病理・ポピュリズム・ナショナリズム等で象徴的なキーワードとして聞いたことがあったが、その根底にあるアメリカ独自のキリスト教思想や歴史について記載されていて、非常に面白く興味深い内容だった。
■アメリカはもともと中世の無い社会、王様のいなかった社会だった歴史から、知識層が大きな力をもってきた。それに対抗するものが反知性主義。
■アメリカではキリスト教が独自の解釈で広まった。神との契約とは、神からの無償の慈悲を指すモノから、自らもしっかり信仰しないといけないという考えに変わる。これが信仰復興運動につながる。
■アメリカキリスト教の副産物として、極端に平等を求める思考がある。信仰復興運動と相まって強烈な反インテリにつながる。インテリなだけでは大統領になれない。
Posted by ブクログ
"知性にせよ信仰にせよ、旧来の権威と結びついた形態は、すべて批判され打破されねばならない。なぜなら、そうすることでのみ、新しい時代にふさわしい知性や信仰が生まれるからである。その相手は、ヨーロッパであったり、既成教会であったり、大学や神学部や政府であったりする。反知性主義の本質は、このような宗教的使命に裏打ちされた「反権威主義」である。 (p.140)"
現代日本において反知性主義と言えば、"最近の若者は本を読まなくなったとか、テレビの低俗な娯楽番組で国民の頭脳が毒されているとか、大学はレジャーランド化して単なる就職予備校に成り下がったとか(p.3)"といったネガティブな事例、あるいは社会に蔓延するナショナリズムやポピュリズムを指す言葉となっている。しかし、この用語が生まれたアメリカでは、元々もっとポジティブな意味を与えられていた言葉だった。それは、「反-知性」主義というよりも寧ろ反-「知性主義」と括るべきもので、"知性と権力の固定的な結びつきに対する反感(p.262)"を原動力とする。
"大家のもつ旧来の知や権威への反逆であって、その反逆により新たな知の可能性を拓く力ともなる。反知性主義は、知性の発展にも重要な役割を果たすのである。(p.237)"
そして、アメリカの反知性主義は決して最近になって突然現れたわけではなく、キリスト教を背景としてその社会に深く根差している。本書では、建国以来の「アメリカのキリスト教」史を振り返り、反知性主義という大きな流れがどのように発展していったかを非常に分かりやすく解説している。
結論を先に言えば、アメリカの反知性主義の根底にあるのは、既成教会に対する反発から生まれた宗教的な平等主義と、真面目な努力には神が必ず祝福を与えてくれるという道徳観念である。
前者は、入植当時のニューイングランドにおけるピューリタン社会が高度に知性的な社会だったという事実が前提としてある。歴史的に見て、当時のニューイングランドは人口当たりの大学卒業者の割合が異常に高かったという。また、プロテスタント教会は一般信徒にも聖書を読むことを奨励するので、日曜日の礼拝は聖書の内容を牧師が解説する難解なものだった。元々、ピューリタニズムは、教会の純化を求める革新運動として始まった。だが、"旧世界では既存の体制を批判する人びとであったが、新世界ではみずからが体制を建設しこれを担ってゆく側にある。(p.63)" 極端な知性主義は、反動として「信仰復興運動(リバイバル)=宗教心の急速かつヒステリックな高揚が広がっていく現象」を引き起こすことになった。その担い手は巡回説教師であったが、彼らは大学で神学を勉強したわけでもなく、"みずからの信仰的確信だけを頼りに、ある日どこからともなく町にやってきては、人びとを集めて怪しげな説教をして回る(p.83)"のである。当然町の牧師たちは彼らを批判するが、人気は衰えない。彼らの説教が抜群に「面白い」からだ。
"それまで人びとが聞いてきた説教といえば、大学出のインテリ先生が、二時間にわたって滔々と語り続ける難解な教理の陳述である。それに比べて、リバイバリストの説教は、言葉も平明でわかりやすく、大胆な身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語り出す。既成教会の牧師たちがいくら警告を発しても、信徒がどうしてもそちらになびいてしまうのも無理はない(p.83)"
この信仰復興運動は、徹底した平等理念に繋がっていく。つまり、一人ひとりがそれぞれ心に抱いた信仰の確信こそが正しく、インテリ牧師の、学術的に裏付けされているとしても何だか小難しい話より尊重されるべきものだという考えである。
"アメリカ人の心に通奏低音のように流れる反権威志向は、このようなところから養分を得て根を張っている。彼らは自分で聖書を読み、自分でそれを解釈して信仰の確信を得る。その確信は直接神から与えられたのだから、教会の本部や本職の牧師がそれと異なることを教えても、そんな権威を怖れることはない。よく言えば、これが個々人の自尊心を高め、アメリカの民主主義的な精神の基盤を形成することになるのだが、悪くすると、それはまことに独善的で自己中心的な世界観に立て籠もる人びとを作ってしまう。(p.151)"
後者は、神学的に言えば、神と人間との間に結ばれた契約において、双方がお互いに履行すべき義務を負っている("対等なギブアンドテイクの互恵関係(p.23)")という側面を強調していることになる(このような契約理解は、建国期に活躍したピューリタン指導者ジョン・ウィンステップが語った説教の中に既にその片鱗を垣間見ることができるという)。現状がどんなにどん底であっても、回心して真面目に生きれば神からの祝福を得るという福音のメッセージは、確かに救いである。だが、「努力すれば報われる」という道徳が、「報われたのは自分が努力したからだ、正しかったからだ」(ヴェーバーはこれを「幸福の神義論」と呼んだ)という自己正当化に転換するのは容易だ。特に、時代が進んでリバイバルが産業化・娯楽化していくにつれてこの傾向が顕著になっていく。つまり、宗教と現世的な利益・実利志向のビジネス精神が結びついたのである。リバイバル集会は自己啓発に近いものとなり、"宗教的訓練はビジネスの手段(p.267)"と化す。二十世紀初頭の大衆伝道家ビリー・サンデーに対する筆者の心理分析を、少し長いが引用する。
"つまり彼は、世間的に成功することで、自分が大きく道を踏み外してはいない、ということを実感したいのである。(略)世俗的成功は、それ自体が目標なのではなく、自分の生き方の正しさを計るバロメーターとなった。彼にとって、信仰とはすなわち道徳的な正しさであり、世俗的な成功をもたらすものである。だから、もし自分が世俗的に成功しているならば、それは神の祝福を得ていることの徴なのである。
彼が長老派教会の牧師として正規に任職されることを求めたのも、ことさらに奢侈でおしゃれな服装を好んだのも、そして臆面もなく集会の人数や献金の多さを誇ったのも、みなこの同じ論理に基づいている。何ともわかりやすい感覚であるが、あまりに直接的で、何かしらもの悲しいところがある。(略)
癒しがたい空洞を内心に抱えているからこそ、外面ではどこまでも自分を膨らませてゆく。それがこの時代のアメリカの特徴であり、ビリー・サンデーという個性の特徴でもあった。サンデーは、まさに時代の子である。(p.244)"
サンデー以降の反知性主義は、その大衆的な成功のために「権威化」していくという矛盾に陥り、元来の反権威的性質を次第に失っていくことになる。
最後に、現代日本の反知性主義について考えたことを書いて終わる。筆者はあとがきで、
"強力な知性主義がなければ、それに対抗する反知性主義も生まれず、逆に強力な反知性主義がなければ、知性主義も錬磨されることがない。(p.272)"
と書いているが、まさにその通りだと思う。日本では思想の伝統化が終ぞ行われることがなかった、と述べたのは丸山眞男である(『日本の思想』)。これを彼は神道の「無限抱擁性」に起因するものだと分析したが、この無限抱擁性のためにキリスト教やマルクス主義のようなその下に概念を整序することを内面的に強制する思想に対しては不寛容であり続けた(相対主義が、それ自体を相対化する視点を決して許さないように)。ともかく、現代日本に蔓延る反知性主義が、アメリカにあったような創造的な「反権威主義」ではなく、単なる大衆迎合と拝金主義であるとしても怪しむに足りない。例えば、所謂「成功者」の言動を批判する人に対して「お前も成功してからモノを言え」といった物言いがなされるのを時折目にするが、これはまさに上述の「世俗的な成功」=「正しさ」という図式に当てはまるだろう。ただ、そこには宗教的意味合いはまったくなく、金の多寡があるだけだが。「成功者」の言うことに聞くべきものが皆無だとはもちろん思わないけれど、彼らの発言を何でもかんでも有り難がるのは危ういと感じる。きっと、「成功」が全面化した価値観にとっては、実際には「成功」するための手段にはどこまで行っても正解が存在しないという事実の為により一層、「成功者」の示す「正解」が生活のあらゆる場面で正しいのだという、ある種の道徳に至るのではないかと想像する。
はじめに
プロローグ
第一章 ハーバード大学 反知性主義の前提
極端な知性主義 ピューリタンの生活ぶり
第二章 信仰復興運動 反知性主義の原点
宗教的熱狂の伝統 「神の行商人」 反知性主義の原点
第三章 反知性主義を育む平等の理念
アメリカの不平等 宗教改革左派とセクト主義 宗教勢力と政治勢力の結合
第四章 アメリカ的な自然と知性の融合
釣りと宗教 「理性の詩人」と「森の賢者」
第五章 反知性主義と大衆リバイバリズム
第二次信仰復興運動 反知性主義のヒーロー リバイバルのテクニック
第六章 反知性主義のもう一つのエンジン
巨大産業化するリバイバル 信仰とビジネスの融合 宗教の娯楽化
第七章 「ハーバード主義」をぶっとばせ
反知性主義の完成 知性の平等な国アメリカ アメリカ史を貫く成功の倫理
エピローグ
あとがき
Posted by ブクログ
アメリカの反知性主義について分かりやすく書かれた1冊。キリスト教の流入から端を欲し、平等な社会であるアメリカだからこそ、知性と権力に反したリバイバルが反知性主義につながる過程が分かりやすく書かれている。
Posted by ブクログ
アメリカはプロテスタントが作った国。
ほんとこれに尽きるんだなぁと思った。
プロテスタントとは、富と権力を欲しいままにして肥大化したカトリック教会に反抗した人々。
同時の最高の学問は神学で、中世以前のヨーロッパでは支配者階級たちが独占していた。神の教えは聖職者によって民衆へ与えられるものだったが、その教えが本当に正しいのか疑問を持ち、自ら聖書を読んで旧い土地を去ったのが彼らだ。
反知性主義は決して知性そのものに反対しているのではない。知性が権力を持ち、自分たちを支配してくることに反対をし、平等な社会を希求している。ヨーロッパ的キリスト教世界を脱した彼らの社会は、社会の建設を志す一団とその支配者を常に警戒する一団とが両輪となって独自の進化を遂げてゆく。
アメリカの社会に対する様々な違和感の正体がこの本によって明らかになって面白かった。
Posted by ブクログ
反知性主義とは知性に反対する主義ではなく、知性が権威を不当に行使している構造をチェックしようとすること。また、チェックしようとする過程で新たな知的創造が生み出される可能性もある、というのが本書のポイント。なので、都市文明を大学の外から鋭く批判したエマソンやソローも反知性主義。また、フィニーという反知性主義者が創立したオベリン大学も、米国初の男女共学大学であった。
一方で、反知性主義の抵抗精神は、独善的で自己中心的な世界観に籠る人びとを生み出す可能性も有している。今のところこちらに大きく傾いているようにも見える現代の反知性主義は、どのような知的創造を生み出すことができるだろうか。
Posted by ブクログ
反知性主義とは知性の欠如を礼賛するものではなく、むしろエスタブリッシュメント化した知性に異を唱え本質への議論を巻き起こす、極めて知的な営みが出発地点だったということがわかる。
アメリカにおけるキリスト教の在り方、変遷を学ぶという観点でも実に興味深い内容。
インテリの2時間かかる難解な説教より、身振り手振りとユーモアを駆使した俗な説教のほうが耳目をあつめるというのはさもありなん。
反知性主義も、批判的視点に立脚している限りはその大義を果たすことができるのだろう。しかし耳目を集めることが目的化してしまったり、単に知性から目を背けた無知性主義にどうしても陥ってしまう。
そういった最適解のなさこそ、歴史から学び取るべきなのだろう。
Posted by ブクログ
トランプ大統領就任のころからよく目にするようになった反知性主義だが、その意味合いがよくわからない。
まえがきにある、佐藤優の「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解しようとする態度」と定義が一番実感に近いように思う。
本書は、反知性主義という社会問題を説明・分析するようなものではないため、そのようなものを期待すると肩すかしを食らうことになる。本書は反知性主義がアメリカにおけるキリスト教から発生した歴史、その際の反知性主義のヒーローを紹介する。難しくなく、読み物としてもすごく面白い。
ヨーロッパにおいてカトリックへの対抗としてプロテスタントが興ったが、プロテスタント(ピューリタン)が建国したアメリカにおいては、ピューリタンへの対抗として反知性主義が興ったという。
反知性主義においては、説教者は、ピューリタンのような難解な説教をするよりも、民衆の心情にわかりやすく訴え、回心させること(さらには回心させた人数)を重視する。
その背景には、神のもとでは知識人も非知識人も平等であるという確信があるようだ。
本書においては反知性主義は、知性が権力と結びつくことをチェックする機能を果たすというポジティブな意味合いで使われている。
なんか便利そうな言葉だけど、思ってたのと全然違う感じだった。
Posted by ブクログ
最近話題(?)の反知性主義の本。読む前は反知性主義を単なるインテリに対する妬み嫉みの類だと思っていたけれど、信仰の問題だと考えると反知性主義という言葉がまた違った様相に見えてくる。信仰はインテリだけのものではなくて、みんなのもの。インテリだってそうじゃなくたって、信仰を持ったっていいじゃない。信仰心は知性とは必ずしも結びつかないから、もっと信仰をみんなのものにしよう!という前向きな意味として反知性主義を捉えれば、それは決してダメなことではないと思う。
最近日本で言われる反知性主義は、「感情でイケイケどんどん、理屈やエビデンスなんて糞食らえ」みたいな意味で使われていることが多いと思うので、ちょっと違うんだな、と知られて満足。
反知性主義は深掘りすると、意外にも結構深度のあるテーマなのだ。
Posted by ブクログ
反知性主義という言葉自体はここ最近、トランプ政権の誕生や各国家での保守派の台頭を指したものとして聞かれるものだった。そうした風潮に「反知性主義」という批判を浴びせるという文脈で使われていた言葉。
しかし、この本を読むと「反知性主義」という言葉はむしろ褒め言葉のようにも思えて来る。
反知性主義は、知性の越権行為を監視するもの。知性が学問以外の領域に進出し、影響力を持つことに対する反感。また、単純な反感だけではなく、知性が特定の人々のものになり、世襲化し固定化することに対する反感であること。
アメリカの場合、その根底には社会の階層に囚われない平等という概念があること・・(また、さらに平等の根底にはアメリカで土着化したキリスト教が深く関わっていること)・・・などを学べた。
個人的には、本書の説明から何故歴史の流れの中で、本流と異端が入れ替わり続けるのかという疑問の解消の一助となった気がする。(ユダヤ教とキリスト教の入れ替わり、カトリックとプロテスタントの入れ替わりなど)。
異端が発展して、本流となっていく中で知性と結び付く。知性と結び付いたことで、活動が難解なものになる。それに反感を持つ人たちが、本流を積極的に否定する活動を形成する。
この本は近代アメリカのキリスト教という観点から、反知性主義を話していたが、現在の政治でも同じようなことが起きているのかも。反知性主義という言葉がマスメディアや知識人を通じて出てくるということは、自分たちは知性を持つ層であることを自認している。その時点で、本流とそれに反感を持つ層の対立が起きる土壌が出来ている。リベラリズムという価値観が強い影響力を持って、現実の社会に対して大きな影響力を持っている。そこにある程度の強制力が生じるが、そこに反感を持つ人がリベラリズムという本流に対しての異端を作る。こうしたことが繰り返されていくために、本流は安定しない・・・みたいなことかなー。
Posted by ブクログ
すばらしくおもしろかった。絶賛。アメリカという国や音楽その文化、そのライバルとしてのヨーロッパ、19世紀以降のキリスト教とかってのに興味ある人はぜったいに読むべき。
ちなみになんかいまネットでなんやかんやいわれているネトウヨだのそういうのとはほとんど関係がない。
Posted by ブクログ
とても良かった。反知性主義とは単なる知性に対する反発ではない。知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である、と。そう考えると、そこには危険性と同時に可能性もある。そして、読んで特に考えたことは、「それってあなたの感想ですよね?」的な言い回しで相手を"無知性"と一方的に切り捨てる所作を見ながら我々はワーキャーしてる場合ではないのだ、ということである。当の本人(たち)にそれを省みる姿勢が欠如しているのであれば、結局はどっちもどっちなんだ、と、早晩気が付かなければならない。知性を反知性で斬るならば、別の次元の知性に確固たる足場を作らねば。
Posted by ブクログ
アメリカがいかに宗教国家であるかというアメリカで定期的に生じる宗教的な熱病を歴史的にみていくことで説明していく本。説得力は高い。
そして、アメリカ的なキリスト教はやはり独特のもので、それがある種のポピュリズム的な動きと連動しやすいものであることがよくわかる。
Posted by ブクログ
感染症におけるマスクの有効性や進化論を否定したり、地動説を唱えたりする人たちは、どうしてそういう考えに至ったのかを納得したくて読み始めたんだけど、完全には納得できなかった。
ざっとこの本の結論をまとめると、アメリカは、ヨーロッパの権威から逃れてきた人たちから成立した国なので、反権威主義としての反知性が根本的な気質として備わっている。
また、封建主義を歴史的に経験していないため、知識人が社会の権威者としての存在に近かったことも大きく影響している、となる。
そういう意味では、日本という国の成り立ちが、周辺諸国(古代においては中国、近代においては欧米)から知識を取り入れることで成長してきたことから、反知性はあまり馴染まないのかもしれない。
でも、科学を信じることは「権威主義」なのか?
有名大学の著名な教授が言っているから何も考えずに信じているとでも?違うだろ!
ニュートンは、自分が大きな科学的前進を成し遂げられたのは「巨人の肩にのっていたから」と書いた。
例え科学者であっても、全ての科学的知識を自分で確認している人はいない。
誰かが行った実験結果、誰かが行った観測結果、誰かが証明した説を前提に次の仮説を立てる。
誰もが自分の頭で考えるというのは、素晴らしいことのように思えるけど、それは原始人では。
この本の中では、反知性主義が異なる文脈では異なる側面を表示している。
トクヴィルがアメリカで普通の市民が「ヘンリー五世」を読み、国際政治を論じるのを目にして、驚愕する。
「トクヴィルがここで注目しているのは、単に高等教育を受けた知的エリートが存在しない、ということではない。それを代々世襲で受け継いでゆく「知的特権階級」が存在しない、ということである。」
「反知性主義の原点にあるのは、この徹底した平等主義である。本書の冒頭で説明したように、反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である。つまり、誰もが平等なスタート地点に立つことができればよい。世代を越えて特権が固定されることなく、新しい世代ごとに平等にチャンスが与えられれば良いのである。」(p235)
知りたかった進化論については、「彼らの反対は、進化論という科学そのものに向けられているのではなく、そのような科学を政府という権力が一般家庭に押し付けてくることに向けられているからである。」らしい。
でも、「進化論と政治が結びついている」という主張は根拠がないように思える。
例えば、「政治と温暖化(気象学)が結びついていて、太陽光発電の利権を分け合っている」なら理屈(だけ)は通るけど、進化論を信じることによって政府に都合がいいことがあるかというと思いつかない。
逆に、膨大な地質学的証拠(北米には状態の良い恐竜の化石も多い)の前に、教会(これも権威だ)が主張しているだけの進化論を信じているのは権威主義以外の何ものでもない。
で、この本を読む前は、この本にはアメリカでなぜ反知性主義が生まれたか、それを避けていくにはどうすればいいのかが書いてある本なのかと思ったけどそうではなかったです。後書きに「日本にも、そういう真の反知性主義の担い手が続々と現れて、既存の秩序とは違う新しい価値の世界を切り拓いてくれるようになることを願っている。」とあるので。
ここでいう「真の反知性主義の担い手」は、知性がありつつ権威に縛られない人、という意味らしいけど、それって普通に知性主義では。
というか、こーいう感じで反知性主義を礼賛することが、「権威を壊すこと」を主張して、単に人目を集めるだけのヤクザを増やしている気もする。
(と、最近のイーロンマスクとか見てると思います)
おもしろかったけど、なんかいろいろ納得がいかない。
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アメリカの反知性主義の「ヒーロー」たちの歴史を追った本。学歴や派閥や権威にとらわれず、自分の力で聖書を読んで人々にわかりやすく伝える、というあり方はある種理想的にも聞こえるし、イエス自身が律法学者を批判しているように反知性主義的なところがあるので説得力もある。けれども、それが行き過ぎると結局悪い意味で世俗的であったり、現世利益的であったり、排外主義につながったりする。というか、それまで積み重ねてきた学問研究とか教養というものへのリスペクトがないよね。宗教が権威的になったり、権力と癒着するのはたしかにもっての外ではあるけれども。ジャクソン大統領とか若干のトランプみを感じた。ポリティカルコレクトネスは、民衆の本音とは乖離していることが(少なくともアメリカ社会では、いや日本も?)多々あるのだろう。功利主義との親和性は確かに高そう。ゆえにこそアメリカ的。
キリスト教ウイルスは宿主によって変異していく、という比喩で語られていて、たしかにそれは分かりやすい。キリスト教の亜種か…だとしたら原種はむしろどこにあるのだろう。
いずれにしても、反省を忘れた権威的キリスト教への反骨、は分かるとしても、神学や語学やその他聖書研究を知ろうとせず、むしろ開き直ってそれを批判するような態度は、反知性主義というか単純に知性がないように思えて危険だと思う。反知性主義の人たちが皆説教がうまくて、パフォーマンス力に秀でているというのもまた危ない。日本も、変なところ学歴社会なくせに、あるいはその反動かもしれないけど、ネトウヨとかそういうところで同様な危うさあると思う。学問や教養に、そして己を振り返る知性に価値を置き、謙虚であろうとする姿勢が政治にも人々にも大事。
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アメリカを理解する視点として、このキーワードが実に重要なことがわかりやすく書かれていた。実に自分がものを知らないかがわかったというのもおかしな話ではあるが、このことを教えてくれることはいわゆる学校ではないように思う。
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進化論否定、トランプを信用など、アメリカで起きていることが理解し難いが、この本を読むとそこに至る経緯がわかる。かと言って、進化論否定を肯定する物ではない。
アメリカには、ヨーロッパ階級社会から逃れてきたスタートがある。特定の知識階級が正しさを決めることへの反発。
それに対して、その正しさの拠り所が聖書であるなら、聖書を読むことは自分でもできるわ、となっていく。この過程の説明はとても面白い。なるほどな、と納得する。
一方で、この場合、聖書の存在が大きすぎる。聖書にさえしたがっていれば道徳的に社会的に問題がない。というのは無理な話で、多くの書物にあたって多角的に物を見ることか望ましいと思うけれど、それはなされない。その結果、進化論が否定されてしまう。
著者は,アメリカ国民が否定してるの進化論ではなく、家族の教育分野まで政府が口出しすることだと,言っているがそれは違うと思う。
勉強はしない、出世もしていない。でも私は全くもって問題がないという自尊心の拠り所が無くなっているのではないか。そこに聖書が入り込んでいる。
毎週教会に行けば牧師が教えてくれる聖書は、唯一我慢できる勉強なのだとしたら、それだけは理解できるから、それで教養は充分であり、自分には自分なりの考えや,意見があると言えるとなっているのでは?その結果、進化論が否定されている気がする。
平等を求める心理はわかる。でも、平等でなくなっているから、その社会で生き抜くのに、命綱がいる。それが聖書という人が多い国なんだろうか。
書かれていることは理解できるし、面白い。反知性主義とはなんだったかも理解できた。
でも、それで今の状況が説明し切れるとは思えない。反知性主義が生まれた経緯とその本来の意味から、現実は乖離してるのではないか。
また、宗教=学問に絡んだ権威が強いアメリカで、反知性主義が生まれるのはわかるが、そもそも親が食べなくても子供に学問という価値観の日本では、反知性主義なんて出てこないと思う。また日本の方が序列好きな印象もある。平等が大事なアメリカとは違うと感じた。
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またこれもトランプ支持を理解したくて読んだ本。反科学
や陰謀論など理解し難い主張を反知性主義で説明できるのか、あんな人物を大統領にしてしまう人々のことをこの言葉で理解できるのか、と思い手に取った。
まず序章で反知性主義の定義からなんとなくの理解を覆される。大衆化しおよそ知性と考えられるものに何にでも反対する姿勢のことを日本では反知性主義と呼ぶが、アメリカでは異なる意味合いを持つ、として、アメリカという独特な環境でどのように反知性主義が育ってきたのかの説明がはじまる。
最終章を先取りしてまうと、『反知性主義とは知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である』というのがエピローグでのまとめだ。既存の知識体系を古いものとし、常に批判を加えながら新しい考えを呼び込む。平等を尊び反ヨーロッパを旗印にして国を興したアメリカならではの思想である。
このように書くと止揚的で理想の社会発展のように聞こえるが、筆者は必ずしもこの思想を手放しで礼賛するわけではない。曰く、こうした考えはキリスト教のリバイバリズム(復興運動)によって強化されて来、リバイバリズムはその支持を拡大するために平易に既存権威(カトリック)を批判し、そうした大衆的な語り口が熱狂を起こし、反知性主義を強化してきたとする。
このアメリカ特有のキリスト教の広がりは、そもそもアメリカ建国という偉業に立ち向かう人々が求めた結果、世俗の成功を善とする単純な二元論に変質して起きたものであり(宗教の「土着化」)、その語りは過剰に大衆化されてきた。
反知性主義がアメリカ特有の歴史に根ざしてきた容易には変え難いものであり、これこそがアメリカの強さであり危うさの源泉なのだなと思った。権力への批判的な視線やオープンな議論といったプラスの影響は大いにあり、アメリカで働いていると一度立ち止まって本当に必要なのか議論するのを推奨しようと言われるが、文化的土壌にはまさにこうした新国家建国に向け旧体制に追従しない議論の姿勢があるのだなと感じる。一方で、それが行き過ぎると反科学であったりトランプのように既存権威をただばかにしているような言い方に支持が集まるのだと思う。(トランプ支持には新自由主義とリベラル政治により尊厳を奪われた国民の支持があったわけだがそれは別の話として)最近のキャンセルカルチャーやゼロトラランスもこうした過剰な既存体制への批判、実践を重んじる思想が表れているのかなと思う。日本人的にはなんでそんな極端にやっちゃうのかと呆れてしまう面もあるが、その背景としての思想を知れたように思った。ヨーロッパ等他のキリスト教国とも違う社会なのだろう。
他の点で行くと自然崇拝が平等意識と反権力意識を育んだという点も触れており、人文的な観点からは自然信仰がこの国にもあり社会の基盤に影響しているというのはとても興味深かった。また、やはり宗教を理解できないと社会の成り立ちがわからないなと改めて痛感。
語り口が予想外に軽妙、、というか軽薄?笑なところがあり、読み物としても楽しかった。リバイバリズムの興隆でで反知性主義が生まれるところでは、『反知性主義の原点とは、...このぴちぴちとしたコーラスダンサーが振りまく魅力であり、その若い娘たちに見とれている亭主の心持ちなのである』(p83)と言い切っており、タイトルの最重要ワードを死後で説明するそのカジュアルさに笑ってしまった。
次はアメリカの強さの源泉を探って本を探したい。
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米国はキリスト教主義の国と言われるが、同じキリスト教のヨーロッパ各国と違いは何なのか?それが政治に影響を与えていることはここ近年の共和党の岩盤支持層がキリスト教福音派と報道されることが多い、その深い意味は何なのか?米国建国前のメイフラワー号での移民の歴史から説き起こし、数回起こったリバイバル(信仰復興)運動との関係から説明する。独立前の第1回の運動ではジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホイットフィールド、19世紀の第2回にはチャールズ・フィニー、ドワイト・ムーディー、19世紀終わりから20世紀初頭の第3回はビリー・サンデーと大衆説教者が続き、にはまたピューリタンが英国教会に出自はあるが、改革派の神学に影響を受けたこと、エリート層の宗教としてメソジスト、更にバプテストを見下していたことが語られ、これは現在の米国の宗教界に及んでいることも感じ、非常に納得することが多かった。これは米国の共和党・民主党大会の雰囲気にもその流れを感じる。「反知性主義」とは何か、著者は分かり易くの要約する。以下の文はこの書の結論であるとも言える。なお、現在トランプ大統領が敵視さえしているハーバード・イェール・プリンストンの3大学の成立が神学を教える公立学校だったとは全く初聞の興味深いことだった。
「反知性主義は単なる知性への軽蔑と同義ではない。それは、知性が権威と結びつくことに対する反発であり、何事も自分自身で判断し直すことを求める態度である。 そのためには、自分の知性を磨き、論理や構造を導く力を高め、そして何よりも、精神の胆力を鍛えあげなければならない。この世で一般的に「権威」とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ、という覚悟が必要だからである。だからこそ反知性主義は、宗教的な確信を背景にして育つのである。」(p177)
「初等教育は誰もが受けられるが、高等教育にはほとんどの人で注目しているのは、単に高等教育を受けた知的エリートが存在しない、ということではない。 それを代々世襲で受け継いでゆく「知的特権階級」が存在しない、ということである。「反知性主義の原点にあるのは、この徹底した平等主義である。本書の冒頭で説明したように、 反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である。つまり、誰もが平等なスタート地点に立つことができればよい。 世代を越えて特権が固定されることなく、新しい世代ごとに平等にチャンスが与えられればよいのである。」(p235)
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アメリカにおいてのキリスト教について、詳しく知ることができた。私はこの一冊だけではいまいち「反知性主義」についてうまく飲み込めず理解できなかったので、著者の別の本も読んでさらに理解を深めたいと思いました。
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2016年、まだトランプが就任する前にたまたま興味を持って読んだ。
今思えば、トランプ当選という現象の源流にあるものについて知れていたのかもしれない。
アメリカがニューイングランドと呼ばれていた時期に、イギリス人宣教師がキリスト教を「大衆化」したことが反知性主義の源流だ、という内容だった気がする。
要はエリートの特権だった「高尚」なキリスト教を、大衆にも分かりやすく翻訳して広めた宣教師がいたと。
キリスト教を広める、という大義を持ってよかれと思ってやったのだろうが、そのおかげでキリスト教が持っていた規律性も失われた部分があるのだろう。元々はコミュニティを形作る機能も持っていたわけで、一定の排他性と、情報の非対称性による統治のしやすさとかがあっただろうに。
宮台真司も言っていたが、どのプラットフォームも大衆化する段階で「クズ化」するものなのだなあ。
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副題は『アメリカが生んだ「熱病」の正体』となっています。
反知性主義とは、
かいつまんでいうと、
知性と権力とが結びついたものに対する嫌悪や、
それらに反対する心理や行動のようです。
学のあるエリートと大衆的でおおらかな人物とが、
たとえば大統領選挙でまみえると、
前者は知性主義的であり後者は反知性主義的であるので、
後者が勝ちやすいみたいなところがアメリカにはあるようです。
そんな反知性主義はどうして生まれ、
アメリカ人の根底に流れるようなものになったか。
そこには、アメリカという国そのものの歴史、
それも宗教史を考えていくとわかるものがある。
イギリスで起こったピューリタン(清教徒)の系列のキリスト教が、
アメリカに移民とともにはいってきますが、
それはとても知性的な宗教だったのです。
勉強に勉強を重ねたエリート中のエリートが牧師になれて、
それぞれの土地の重鎮みたいにその土地の顔のようになり、
人々を導く役割を持つ。
そんなところに、あまり神学について学の無い伝道者が、
各地を巡回して説教をする時代になる。
それによって、回心という現象が多発するようになります。
これをリバイバル、という。
もともとキリスト教の洗礼をうけてはいたものの、
ぼんやりとした宗教心しかもっていなかった多くの人々が、
伝道者のわかりやすく巧みな話術(説教)に触れたことで、
キリスト教に、あらためて、
いや初めてといってもいいような覚醒をするんですね。
失神したり痙攣したりといった、
狂信的な意識レベルに入ることで起きるような身体現象を伴いもしたようです。
といったように、
そういった反知性の伝道者が受け入れられ、その後、
伝道者によってお金儲けと信心とが結び付けられていき、
まさにアメリカ的なキリスト教になったことで、
反知性主義はアメリカ人たるものの根底にあるものになる。
反知性主義の源泉には、平等(フェアネス)をよしとし、
求め、実現しようという理念があります。
また、たとえば誰かを助けるときにおいて、
知性主義の人は、
立場や法律など社会システムに照らしてから助けるか否かを決め、
反知性主義の人はその誰かの命や生活を優先して
社会システム度外視で助ける、みたいなところがあるようです。
そういうのを知ると、反知性主義のほうでいいじゃないか、と思ったりもしませんか。
しかし、どんな主義思想にも欠点はつきもので、
反知性主義には、よくない意味での熱狂を生むし、
原理主義と親和性があり陥りやすいというのがあります。
反知性主義って、
神の子羊である存在を肯定するようなところがあるように見受けられる。
勉強して子羊以上の存在になった者よりも、
子羊のままでいいのだ、と。
そんな無知な子羊が子羊として無垢な存在であるためには、
社会から競争と資本主義を取り去る必要があると思います。
そこはもっと個人的にも考えていかないと、ですね。
「知能」と「知性」は違うという話もおもしろかった。
知能犯はいても、知性犯はいない。
知性とは、自分を振り返る技術や性向をいうのだ、とされていました。
だからといって、反知性主義にも知性は必要で、
権力と知性の結びつきをきびしく監視し分析するのに使われます。
反知性主義ときくと、ちゃらんぽらんな状態がいいのだ、と誤解しそうですが、
本書を読むと、反知性主義であろうと知性主義であろうと、
知性なしでは進んでいかないものであることがわかります。
やっぱり、無知って悪と結びつくとも言われるので、
「主義」はぬかして、知性は大事だなと感じるのでした。