【感想・ネタバレ】反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―のレビュー

あらすじ

アメリカでは、なぜ反インテリの風潮が強いのか。なぜキリスト教が異様に盛んなのか。なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか。なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか。そのすべての謎を解く鍵は、米国のキリスト教が育んだ「反知性主義」にある。反知性主義の歴史を辿りながら、その恐るべきパワーと意外な効用を描く。※新潮選書版に掲載の図版の一部は、電子版には収録しておりません。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 アメリカとは何かを理解するのに不可欠な本。
 アメリカにおいて、政治や教育を左右するのがキリスト教という認識があったが、なぜそうなったのか、をキリスト教がアメリカに根付いていく過程をアメリカ史を背景に詳述する。
 アメリカに移民した人々がまず作ったのが大学。それは牧師の養成に必要だったから。もし大学がなければ本国イギリスから定期的に牧師を招かねばならず、アメリカの独立はそこでつまづく、と考えられた。
 大卒のインテリ牧師が行う説教は長く難解だった。それに対抗する動きが反知性主義。わかりやすく、時に笑いや涙を交えてキリスト教を説く。その流れは現代アメリカにも脈々と引き継がれ、宗教専門チャンネルや伝道集会用の巨大な教会の建設につながっている。
 バブティスト、メソジストなど基本用語もきちんと説明される。
 ちなみに、この巨大な教会で行われる伝道のように熱狂し、完全服従してアイドルを育てろ、というのが、朝井リョウの「イン・ザ・メガ・チャーチ」。同じような時期に読んだのでよく理解できた。

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2025年09月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

反知性主義という切口でアメリカのキリスト教、歴史、政治、社会を分析する。反知性主義は知性に反対するのではなく知性が権力と結びつくことに反発するものだとして、その負の面も描きつつ肯定的な評価も与えている。

アメリカの歴史の流れや、自分の中で曖昧だった「ピューリタン」や「福音主義者(エヴァンジェリカル)」の定義が少し理解できた。

また、トランプに対しても本書を読むことで少し見方が変わった。アンドリュー・ジャクソンとの共通点など、トランプはアメリカにとって決して新しい存在ではないのだと思った。

アメリカのラディカルな平等理念が反知性主義を生むというのも面白かった。今の格差社会アメリカを見ると平等とは結びつけづらいが、元来アメリカは貴族が支配するヨーロッパに反抗して生まれた国であり、底流には平等主義があるということだろう。トマ・ピケティもそのようなことを言っていた。確かに、目上の人ともファースト・ネームで呼び合うなど、フラットな文化には違いない。結果としての格差はあるが、機会の平等を重視しているということだろう。

フィニー、ムーディ、サンデーらリバイバル運動のヒーローが、時代のニーズを捉えて伝道していくところは、クリスチャンとして見習わねばと思わされた。ムーディが少年時代に想像上の大観衆を前に演説の真似をしていたというエピソードは微笑ましく思った。自分の子どもたちの性質も将来、主のために用いられることを祈る。

【以下、面白かった箇所の要約】

P34-47
ハーバード、イエール、プリンストン大学はピューリタン牧師養成を目的として設立された。だが、中世ヨーロッパの神学校とは違い、教理教育や博士号は重視しなかった。重視したのは一般教養。牧師(=説教者)には一般教養こそが必要というのがピューリタンの考え。プロテスタントの中でもルターはカトリックの影響が強く神学博士号を持っていた。カルヴァンはピューリタンに近く、広範な著述にも関わらず、修士号も博士号も持っていなかった。

P52-53
初期のピューリタンはオルガン、尖頭、結婚式のドレスや指輪、クリスマス等もカトリック的として拒否した。違反には罰金もあった。性愛の悦びは率直に認めた。ピューリタンは生真面目で率直。笑えるエピソードも多く、それを大真面目に記録していることも面白い。

P56-70
リバイバルはアメリカの平等の理念を呼び覚まし、以下のような多くの社会運動に影響を与え、その精神的支えとなった。
(18世紀)独立革命
(19世紀)奴隷廃止、女性の権利
(20世紀)公民権運動、消費者運動
リバイバル発生の内的要因として、人々の間の回心体験への渇望が挙げられる。明確な信仰を持つ植民第一世代と比べ第二世代以降は信仰が明確でない人が増えてきたが、信仰告白をし教会員籍を得ないと公民権も得られなかったことから、回心体験を求めた。
孤独で不安な新規入植者たちもリバイバルの担い手になった。定住者による安定した社会の維持を願っていた既存教会は、そのような不安な新規入植者たちを受け入れる準備ができていなかった。

P121-122
反知性主義はラディカルな平等論に育まれる。それは、ごく普通の人びとが、道徳的な判断能力をもっていることを前提とする。それはまた、民主主義の前提でもある。

P133-141
エドワーズやエマソンは自然の中に神の栄光を見る。エマソンの神は、キリスト教的な世界観と接してはいるが、聖書的な人格神ではなく、宇宙万物に内在する精神。その精神と個人の精神が呼応する。主客の区別への反逆。宇宙の原理ブラフマンと個人の魂アートマンとの不二一元論という古代ヴェーダ哲学に通じる。エマソンは直感を重視し、ヨーロッパの知的権威を批判する。

P141-142
ソローはエマソンの著書「自然」に感激し、エマソンの庇護のもと「森の生活」を書いた。

P145-153
十九世紀にアメリカの国土は拡大。独立に際しイギリスからミシシッピ川以東を割譲→ナポレオンから大陸中部を購入→西武開拓。この時期に成長したのがメソジストとバプテスト。

P155-173
反知性主義の大統領ジャクソン。名家の知識人であるアダムスに選挙で敗れたのを不正と言い続ける。あからさまな先住民追放政策。

P172
反知性主義の目的は権力者の鼻をあかすこと。手段はスマートでなければならない。反知性主義には、相当の知性が必要。

P175
第二次リバイバルのリーダーであるフィニーは、古色蒼然としたプリンストンの奨学金付入学を断る。反知性主義者は、どんなに世間の評判がよくても、自分自身の判断でそれを退ける。

P176
自然科学を高く評価するのはピューリタンからの伝統。

P177-183
フィニーは、リバイバルは神の奇跡ではなく、人間が自然法則にしたがって合理的に努力することにより起こせると言った。「神は自ら助くる者を助く」と精神。宗教的興奮はすぐ醒めるのが人間の生理的特性だが、それで構わないと言った。ある程度の間隔を空けないと次のリバイバルは来ないので、休んで待つことを説いた。

P185-186
リバイバルを十万人規模の集会による巨大なビジネスにしたドワイト・ムーディ。
ムーディの時代、アメリカは農業から工業へ移行し、移民も増え、大都市には孤独で不安な労働者が溢れていた。ムーディのリバイバル伝道は、そのような労働者の心を捉えた。

P221-245
反知性主義の完成者ビリー・サンデー。
サンデーのようなショービジネス化したキリスト教は、政教分離の帰結。政教分離により税金で教会を運営できないため、大衆を楽しませることにより献金を集めるしかない。逆に言えば、アメリカのキリスト教が先進国の中で例外的に活発なのもそのため。
サンデーは右傾化。進化論は全否定。

P272
日本の反知性主義者は、空海、親鸞、日蓮、田中角栄など。日本は知性も反知性も中途半端な「半」知性主義。ハーバードが「上」という序列意識はアメリカにはない。

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2024年06月28日

Posted by ブクログ

ネタバレ

"知性にせよ信仰にせよ、旧来の権威と結びついた形態は、すべて批判され打破されねばならない。なぜなら、そうすることでのみ、新しい時代にふさわしい知性や信仰が生まれるからである。その相手は、ヨーロッパであったり、既成教会であったり、大学や神学部や政府であったりする。反知性主義の本質は、このような宗教的使命に裏打ちされた「反権威主義」である。 (p.140)"

 現代日本において反知性主義と言えば、"最近の若者は本を読まなくなったとか、テレビの低俗な娯楽番組で国民の頭脳が毒されているとか、大学はレジャーランド化して単なる就職予備校に成り下がったとか(p.3)"といったネガティブな事例、あるいは社会に蔓延するナショナリズムやポピュリズムを指す言葉となっている。しかし、この用語が生まれたアメリカでは、元々もっとポジティブな意味を与えられていた言葉だった。それは、「反-知性」主義というよりも寧ろ反-「知性主義」と括るべきもので、"知性と権力の固定的な結びつきに対する反感(p.262)"を原動力とする。
"大家のもつ旧来の知や権威への反逆であって、その反逆により新たな知の可能性を拓く力ともなる。反知性主義は、知性の発展にも重要な役割を果たすのである。(p.237)"
そして、アメリカの反知性主義は決して最近になって突然現れたわけではなく、キリスト教を背景としてその社会に深く根差している。本書では、建国以来の「アメリカのキリスト教」史を振り返り、反知性主義という大きな流れがどのように発展していったかを非常に分かりやすく解説している。

 結論を先に言えば、アメリカの反知性主義の根底にあるのは、既成教会に対する反発から生まれた宗教的な平等主義と、真面目な努力には神が必ず祝福を与えてくれるという道徳観念である。
 前者は、入植当時のニューイングランドにおけるピューリタン社会が高度に知性的な社会だったという事実が前提としてある。歴史的に見て、当時のニューイングランドは人口当たりの大学卒業者の割合が異常に高かったという。また、プロテスタント教会は一般信徒にも聖書を読むことを奨励するので、日曜日の礼拝は聖書の内容を牧師が解説する難解なものだった。元々、ピューリタニズムは、教会の純化を求める革新運動として始まった。だが、"旧世界では既存の体制を批判する人びとであったが、新世界ではみずからが体制を建設しこれを担ってゆく側にある。(p.63)" 極端な知性主義は、反動として「信仰復興運動(リバイバル)=宗教心の急速かつヒステリックな高揚が広がっていく現象」を引き起こすことになった。その担い手は巡回説教師であったが、彼らは大学で神学を勉強したわけでもなく、"みずからの信仰的確信だけを頼りに、ある日どこからともなく町にやってきては、人びとを集めて怪しげな説教をして回る(p.83)"のである。当然町の牧師たちは彼らを批判するが、人気は衰えない。彼らの説教が抜群に「面白い」からだ。
"それまで人びとが聞いてきた説教といえば、大学出のインテリ先生が、二時間にわたって滔々と語り続ける難解な教理の陳述である。それに比べて、リバイバリストの説教は、言葉も平明でわかりやすく、大胆な身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語り出す。既成教会の牧師たちがいくら警告を発しても、信徒がどうしてもそちらになびいてしまうのも無理はない(p.83)"
この信仰復興運動は、徹底した平等理念に繋がっていく。つまり、一人ひとりがそれぞれ心に抱いた信仰の確信こそが正しく、インテリ牧師の、学術的に裏付けされているとしても何だか小難しい話より尊重されるべきものだという考えである。
"アメリカ人の心に通奏低音のように流れる反権威志向は、このようなところから養分を得て根を張っている。彼らは自分で聖書を読み、自分でそれを解釈して信仰の確信を得る。その確信は直接神から与えられたのだから、教会の本部や本職の牧師がそれと異なることを教えても、そんな権威を怖れることはない。よく言えば、これが個々人の自尊心を高め、アメリカの民主主義的な精神の基盤を形成することになるのだが、悪くすると、それはまことに独善的で自己中心的な世界観に立て籠もる人びとを作ってしまう。(p.151)"
 後者は、神学的に言えば、神と人間との間に結ばれた契約において、双方がお互いに履行すべき義務を負っている("対等なギブアンドテイクの互恵関係(p.23)")という側面を強調していることになる(このような契約理解は、建国期に活躍したピューリタン指導者ジョン・ウィンステップが語った説教の中に既にその片鱗を垣間見ることができるという)。現状がどんなにどん底であっても、回心して真面目に生きれば神からの祝福を得るという福音のメッセージは、確かに救いである。だが、「努力すれば報われる」という道徳が、「報われたのは自分が努力したからだ、正しかったからだ」(ヴェーバーはこれを「幸福の神義論」と呼んだ)という自己正当化に転換するのは容易だ。特に、時代が進んでリバイバルが産業化・娯楽化していくにつれてこの傾向が顕著になっていく。つまり、宗教と現世的な利益・実利志向のビジネス精神が結びついたのである。リバイバル集会は自己啓発に近いものとなり、"宗教的訓練はビジネスの手段(p.267)"と化す。二十世紀初頭の大衆伝道家ビリー・サンデーに対する筆者の心理分析を、少し長いが引用する。
"つまり彼は、世間的に成功することで、自分が大きく道を踏み外してはいない、ということを実感したいのである。(略)世俗的成功は、それ自体が目標なのではなく、自分の生き方の正しさを計るバロメーターとなった。彼にとって、信仰とはすなわち道徳的な正しさであり、世俗的な成功をもたらすものである。だから、もし自分が世俗的に成功しているならば、それは神の祝福を得ていることの徴なのである。
 彼が長老派教会の牧師として正規に任職されることを求めたのも、ことさらに奢侈でおしゃれな服装を好んだのも、そして臆面もなく集会の人数や献金の多さを誇ったのも、みなこの同じ論理に基づいている。何ともわかりやすい感覚であるが、あまりに直接的で、何かしらもの悲しいところがある。(略)
 癒しがたい空洞を内心に抱えているからこそ、外面ではどこまでも自分を膨らませてゆく。それがこの時代のアメリカの特徴であり、ビリー・サンデーという個性の特徴でもあった。サンデーは、まさに時代の子である。(p.244)"
 サンデー以降の反知性主義は、その大衆的な成功のために「権威化」していくという矛盾に陥り、元来の反権威的性質を次第に失っていくことになる。

 最後に、現代日本の反知性主義について考えたことを書いて終わる。筆者はあとがきで、
"強力な知性主義がなければ、それに対抗する反知性主義も生まれず、逆に強力な反知性主義がなければ、知性主義も錬磨されることがない。(p.272)"
と書いているが、まさにその通りだと思う。日本では思想の伝統化が終ぞ行われることがなかった、と述べたのは丸山眞男である(『日本の思想』)。これを彼は神道の「無限抱擁性」に起因するものだと分析したが、この無限抱擁性のためにキリスト教やマルクス主義のようなその下に概念を整序することを内面的に強制する思想に対しては不寛容であり続けた(相対主義が、それ自体を相対化する視点を決して許さないように)。ともかく、現代日本に蔓延る反知性主義が、アメリカにあったような創造的な「反権威主義」ではなく、単なる大衆迎合と拝金主義であるとしても怪しむに足りない。例えば、所謂「成功者」の言動を批判する人に対して「お前も成功してからモノを言え」といった物言いがなされるのを時折目にするが、これはまさに上述の「世俗的な成功」=「正しさ」という図式に当てはまるだろう。ただ、そこには宗教的意味合いはまったくなく、金の多寡があるだけだが。「成功者」の言うことに聞くべきものが皆無だとはもちろん思わないけれど、彼らの発言を何でもかんでも有り難がるのは危ういと感じる。きっと、「成功」が全面化した価値観にとっては、実際には「成功」するための手段にはどこまで行っても正解が存在しないという事実の為により一層、「成功者」の示す「正解」が生活のあらゆる場面で正しいのだという、ある種の道徳に至るのではないかと想像する。

はじめに
プロローグ
第一章 ハーバード大学 反知性主義の前提
極端な知性主義 ピューリタンの生活ぶり
第二章 信仰復興運動 反知性主義の原点
宗教的熱狂の伝統 「神の行商人」 反知性主義の原点
第三章 反知性主義を育む平等の理念
アメリカの不平等 宗教改革左派とセクト主義 宗教勢力と政治勢力の結合
第四章 アメリカ的な自然と知性の融合
釣りと宗教 「理性の詩人」と「森の賢者」
第五章 反知性主義と大衆リバイバリズム
第二次信仰復興運動 反知性主義のヒーロー リバイバルのテクニック
第六章 反知性主義のもう一つのエンジン
巨大産業化するリバイバル 信仰とビジネスの融合 宗教の娯楽化
第七章 「ハーバード主義」をぶっとばせ
反知性主義の完成 知性の平等な国アメリカ アメリカ史を貫く成功の倫理
エピローグ
あとがき

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2023年01月21日

Posted by ブクログ

ネタバレ

アメリカはプロテスタントが作った国。
ほんとこれに尽きるんだなぁと思った。

プロテスタントとは、富と権力を欲しいままにして肥大化したカトリック教会に反抗した人々。
同時の最高の学問は神学で、中世以前のヨーロッパでは支配者階級たちが独占していた。神の教えは聖職者によって民衆へ与えられるものだったが、その教えが本当に正しいのか疑問を持ち、自ら聖書を読んで旧い土地を去ったのが彼らだ。

反知性主義は決して知性そのものに反対しているのではない。知性が権力を持ち、自分たちを支配してくることに反対をし、平等な社会を希求している。ヨーロッパ的キリスト教世界を脱した彼らの社会は、社会の建設を志す一団とその支配者を常に警戒する一団とが両輪となって独自の進化を遂げてゆく。

アメリカの社会に対する様々な違和感の正体がこの本によって明らかになって面白かった。

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2022年02月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

アメリカの反知性主義の「ヒーロー」たちの歴史を追った本。学歴や派閥や権威にとらわれず、自分の力で聖書を読んで人々にわかりやすく伝える、というあり方はある種理想的にも聞こえるし、イエス自身が律法学者を批判しているように反知性主義的なところがあるので説得力もある。けれども、それが行き過ぎると結局悪い意味で世俗的であったり、現世利益的であったり、排外主義につながったりする。というか、それまで積み重ねてきた学問研究とか教養というものへのリスペクトがないよね。宗教が権威的になったり、権力と癒着するのはたしかにもっての外ではあるけれども。ジャクソン大統領とか若干のトランプみを感じた。ポリティカルコレクトネスは、民衆の本音とは乖離していることが(少なくともアメリカ社会では、いや日本も?)多々あるのだろう。功利主義との親和性は確かに高そう。ゆえにこそアメリカ的。
キリスト教ウイルスは宿主によって変異していく、という比喩で語られていて、たしかにそれは分かりやすい。キリスト教の亜種か…だとしたら原種はむしろどこにあるのだろう。
いずれにしても、反省を忘れた権威的キリスト教への反骨、は分かるとしても、神学や語学やその他聖書研究を知ろうとせず、むしろ開き直ってそれを批判するような態度は、反知性主義というか単純に知性がないように思えて危険だと思う。反知性主義の人たちが皆説教がうまくて、パフォーマンス力に秀でているというのもまた危ない。日本も、変なところ学歴社会なくせに、あるいはその反動かもしれないけど、ネトウヨとかそういうところで同様な危うさあると思う。学問や教養に、そして己を振り返る知性に価値を置き、謙虚であろうとする姿勢が政治にも人々にも大事。

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2024年06月14日

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