宇野邦一のレビュー一覧
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動産「黒人」観
「黒人とは一つの動産でしかない。一六七〇年以来、長距離を移動して商品化される生産を見込んで、いかに大量の労働力を稼働させるか、ということが問題になってきた。〈黒人〉の発明は、この問題に対する答えとなる。〈黒人〉とは、まさにプランテーションを通じて、その時代の富の蓄積のために、最も効果的な形態の一つを創出することを可能にしながら、商業資本主義、機械化、そして服従労働の管理の統合を加速する歯車なのだ」(本書より)
本書は難解。著者のアシル・ムベンベを研究する甥から勧められ読んでみたのだが、のっけから歯が立たず、意味が通じた部分だけ拾い読みすることにした。で、拾った部分「そのイチ」が上の記述だ。
立ち止まったのは、以前読んだエマニュエル・トッドのインタビュー集『パンデミック以後』を思い出したからだ。トッドはこう述べている。
「自由貿易の「自由」というのは、英国の名誉革命の自由とリンクしているようで聞こえはいいのですが、実は、奴隷制と関係があるのです」
つまりは、黒人は環大西洋大規模農園を成り立たせる労働力であり、富を蓄積させる歯車だった。これが資本主義を生む。奴隷、資本主義、自由は不可分の概念で、ムベンベもトッドも同じことを述べている。資本主義の歴史は、プロテスタンティズムやワットの蒸気機関の発明で語った気になってはいけない。奴隷貿易による巨富の蓄積の動きが何より重要だ、ということだろう。
ちなみに昔読んだ柄谷行人著『日本近代文学の起源』も思い出す。柄谷は、ダビンチのモナリザの背景に描かれた「風景」の発見を書いた。風景とは近代的な自己にとっての外部性のことだ。自分の外側にあるものが風景であり、風景を認識することで自己を意識し、これが近代的な自己の発見だと書いた。
西欧人がそうした自己を見つけたのは、黒人との接触によって「外部性」を意識したからだろうか。ムベンベの本書を意訳すれば、西欧人は、黒人を人間扱いせず単なる労働力とみなして富を蓄積し、自分を人間扱いしたことで人権思想を育んだ。植民地で暴力を振るう享楽を隠蔽しながら、だ。
本書が取り上げたいわゆる「黒人」観への問題意識は、アフリカ系の人たちに対するものだけではなく、自由=格差拡大の流れに抗う動きとして拡大したように見える。ごく最近の話で言うと、多様性、公平性、包摂性を唱えるDEI運動が世界的に広がった。だが、この運動も富裕層のサロン的な思想の域を出ず、生活が苦しい層の現実的な要望に応えられなかった。トランプ米政権はこうしたDEI的なものを毛嫌いするが、没落した中産階級である「忘れられた人々」から支持され誕生したことを考えると、これも自由と格差拡大に抗う動きのように見える。
ちなみに格差の系譜は、時代を少し遡って19世紀の社会を見ても、既に相当複雑化していた。映画でも有名な『風と共に去りぬ』は、大農園を仕切る誇り高い黒人と、下賎な貧乏白人が描かれている。奴隷制といっても、米南北戦争当時ですら黒人の有り様はさまざまだった(鴻巣友季子著『謎とき『風と共に去りぬ』』)。
人種差別は将来、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』で描かれたように、クローンに向けられる可能性がある。また、日本のアニメ『新造人間キャシャーン』のように、人型ロボットに向けられる可能性もある。本書が取り上げた「黒人」観は未来社会でも問題であり続けるだろう。
あらためて言うが、本書は難解だ。完読はしたが、結局、昔読んだ本を思い出してばかりいた。拾い読みとは、難解な現実を逃避しながら、そのエッセンスを吸収する読書術なのだ。 -
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ネタバレもしかしたら曲解してるかもしれないけど僕の理解は以下↓
表層に覆われて潜在している深層は、様々な速度や密度で流動する無限小の粒子としての無数の差異から成り、それらの間の関係の反復が複雑系のネットワークを思わせる生成のアレンジメントとしての多様体を為し、常に変容するその強度が閾値を越えると秩序的な外延として現働する。
力によって内部に織り込まれた外部たる襞がフラクタル的に無限に強度として連なる。
アンチオイディプスの、表層が硬直してひび割れるパラノイアと深層が肥大して分裂するスキゾフレニアというイメージが、千のプラトーでは様々な分野に横断して、リゾーム(根茎)、プラトー(高原)、器官なき身体、戦争機械などの概念に拡張される。深層としての欲望にもとづく表層としての資本主義および経済もこのイメージで捉えられる。
表層に膠着させる権力に抗い、各世界を横断して粒子の三点を繋いだ内在平面としての概念を創出する、デペイズマンにも通ずるノマドロジーで、深層の粒子たちの活動を喜ぶ実践が必要である。
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ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったということ。
そのせいでどこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至ったという大きな事実。
それら複雑多岐にわたる文脈を加味した上で、ドゥルーズガタリは強烈なカウンターとしての今作を生み出した。
「アンチ・オイディプス」というタイトルはニーチェの「アンチキリスト」を思い浮かべたが、まさに価値観の転倒をハンマーで持って成し遂げようとした偉大な先輩に対する敬意と、そのさらに先を行こうと欲する野心がチラチラと見える。
三角形的家族構成に絶対的価値をもたせることに対し疑義を抱き、強烈な批判をぶつけ、ひいては資本主義における欲望の生産について、器官なき身体、欲望機械、外延や内包など、独創的な言葉で持って、舌鋒鋭く事細かに論ずる二人の胆力ある文体には、哲学、社会、心理学の垣根を超えた言葉の芸術としての「文学性」すらも帯びていて、その衝撃のでかさを前巻とはいえ大きく痛感。
底なしのヤバさを食らう大著。 -
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「リゾーム」「多様体」「器官なき身体(CsO)」「強度」「顔貌性」「非正確(不正確ではなく)」「存立平面」「戦争機械」「抽象機械」といった数々のD-G用語について、おぼろげながら理解した。
本の主題は、資本主義と分裂病なのだが、内容は資本主義の分析にとどまらず、「人間」「言語」「国家」「生命」を、歴史的・宇宙的な規模から考察するどえらい内容となっている。
思考のフィールドが広大すぎて、さすがの翻訳者(宇野邦一先生)も、その全貌をとらえきれないという感じで、あとがきを書いておられる。発刊後43年が経過して、まだ、この本の本格的な解説書は現れていない。
リゾーム概念は、おそらくブロックチェーンやDAO、DeFiといった非中枢型・分散型組織/経済が実装化した現代においてこそ、さらなる発展可能性をもっているような気がしている。 -
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「生成変化」「リトルネロ」および、既出ではあるが幾度もリロードされアップデートされる「(脱/再)領土(化)」の3つの概念が中巻においては差し当たり極めて重要。その周囲に彼らの独創的ではっとするようなテリトリーがあり、おそらく彼らの予想を越えた含蓄がある(その予感が「文学をひきあいにだしすぎる」と非難されながらも[上p ]、文学性に近づけた動因ではないだろうか。その美しい表現は、まわりくどく曖昧ないいかただととらえることもできるだろう。しかし、「すべてを曖昧にしておくのは容易だなどと考えないでほしい。」[p64])。
第7-9章は、それらの重要な概念をもちいた実践例。「顔貌性」や「切片性」といった概念は触発される美しい概念ではあるが、周辺機器であり、実践の結果細分化されたもの。ただし、「此性 hecceite」は散発的で短命(※その前後で表立たない)だが、重要[p208「人称や主体、あるいは事物や実体の個体化とはまったく違った個体化の様態がある。われわれはこれを指して<此性>hecceiteと呼ぶことにする。」]。そうはいっても、ひとによって、気分によっては有用性がありうる。
馴染みがないひとは、事前に「原子」「分子」「モル(状)」「質量[料]」「コード(化)」「強度」「速度」などについて調べて、自分なりに考えておくとつまずかない。メタファーに馴れないと翻弄される。こんな絵画的な書物はない。いや、地図的な書物だ。たとえば、「存立平面」「緯度」「経度」といったなぞらえは、「地図化すること」に基づいて理解できる[p207「存立平面の上では、一つの身体はもっぱら経度と緯度によって定義されるのだ。」]。地図はつかうことができる(車のナビ…)。それはリゾームともたとえられる。それが「千のプラトー」全体を貫く原理であり、この書物が目指された姿。 -
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序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[p18]ので、次は現在地と目的地を確認するだけだ。これが「千のプラトー」の意義、活用法であって、従来の哲学書のイメージを覆す。ほとんどハウツー本。
なぜ、何度か通読する必要があるのかというと、この書物自体が帰結ではなくドゥルーズとガタリの手探り感がある生き生きとした思考の過程そのものの提示であるような、悪く言うと「曖昧な」書き方に貫かれているからだ。例えば、捨てられる、あるいは潜り込んでしまうイメージの概念もたくさんある[「それらを網目組織と呼ぶことにしよう」p25などは、このあとほとんど用いられない]ところ。でもそれは、やっつけ仕事などではなく、序章で示されたように「リゾーム」としての書物だから。言い方は厳密ではないが、「活用してもらう」ことこそ、彼らの願いであったはず。様々な新しい概念のキワが絶妙にぼかされていて、読み手の可変的(可塑的)な解釈を許す(=柔軟性がある)ので、絵画にも近い。 -
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1082夜
ドゥルーズの中では一番好きだなあ。
1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手につくりあげたニセの主体性(そのくせ後生大事にされている主体性)を嫌っているんだということだけは、すぐわかった。「たとえば?」と尋ねると、「フロイトもユングも、それからラカンもね」と、眼鏡の奥でニコリと笑った。精神分析医のガタリがそんなことを言うのだからよほどのことだろうが、そのときはそれ以上の話はしていない。
ここに登場してきた、これまた奇妙な「器官なき身体」という概念は(ドゥルーズは概念を考えることが一番好きな哲学者なのだ)、アルトーが使っていた用語をそのまま流用したもので、ドゥルーズの説明では、ヨーロッパの歴史と社会の深層の危機を告げる拠点にあたるものだとされた。
そのイメージはアルトーの次の詩に暗示されている。
皮膚の下の体は過熱した工場である
そして外では病者が輝いている
彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて
まさに分裂症の渦巻く衝動を綴っている。ドゥルーズはしかし、この衝動を本物ととらえたのである。意識の本来の正体はこういうものだとピンときた。
そして、このような分裂症的な衝動(すなわち欲望)こそが思索の本来を貫くものとなり、さらには社会の滞留点をどんどんぶっこわしていくものになるのではないかと推理した。ただし、そこにニセの主体性やニセの精神分析による制御が加わらないかぎり――。
こうした内容をもつ『差異と反復』の発表のあと、1968年のおわり近く、ドゥルーズはガタリと初めて出会う。ガタリはまさに精神病を研究している現場の精神科医だった。 -
Posted by ブクログ
小林秀雄には人が歴史に翻弄されることへのペシミズムがある。歴史とは純粋な魂を襲う残酷な暴力である。詩人や芸術家との交感を演ずることで反歴史を実行した。
啓蒙主義、民族主義という二つの歴史観がある。ヨーロッパの社会思想はこの二つの間を揺らめいている。
レヴィ=ストロースは差異化された不均衡状態が必要とした。差異は戦乱を招くが一方で創造的な交通や交換を生み出す。進化とはルーレットの目が揃うようなものとし、進化と停滞の概念を拒否した。
思考の歴史は歴史哲学を生み出す一方反歴史思考をも増殖させる。小林秀雄にとって思考を脅かすのは公的、歴史的思考であった。
ハイデガーは存在、フロイトは無意識について思考しつつ歴史の外部を問題とした。
国家理性の思想家としてのヘーゲルは一方で死と闇という否定性に直面しながら思考した。死と闇から逃れるのが労働であり、ヘーゲルの弁証法はそこからスタートしている。他方バタイユは労働による隷属を破壊しようとした。労働に依拠するヘーゲル哲学そのものに労働の終焉を見た。
歴史とは、書かれたこと、書かれなかったこと、あっこと、あり得たことの間にまたがるあいまいな霧のようなものである。歴史は拒むことも表象することもできない。歴史を構成するものだけでなく、構成過程を思考する必要がある。