宇野邦一のレビュー一覧
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ネタバレもしかしたら曲解してるかもしれないけど僕の理解は以下↓
表層に覆われて潜在している深層は、様々な速度や密度で流動する無限小の粒子としての無数の差異から成り、それらの間の関係の反復が複雑系のネットワークを思わせる生成のアレンジメントとしての多様体を為し、常に変容するその強度が閾値を越えると秩序的な外延として現働する。
力によって内部に織り込まれた外部たる襞がフラクタル的に無限に強度として連なる。
アンチオイディプスの、表層が硬直してひび割れるパラノイアと深層が肥大して分裂するスキゾフレニアというイメージが、千のプラトーでは様々な分野に横断して、リゾーム(根茎)、プラトー(高原)、器官なき身体 -
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ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったということ。
そのせいでどこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至っ -
Posted by ブクログ
「リゾーム」「多様体」「器官なき身体(CsO)」「強度」「顔貌性」「非正確(不正確ではなく)」「存立平面」「戦争機械」「抽象機械」といった数々のD-G用語について、おぼろげながら理解した。
本の主題は、資本主義と分裂病なのだが、内容は資本主義の分析にとどまらず、「人間」「言語」「国家」「生命」を、歴史的・宇宙的な規模から考察するどえらい内容となっている。
思考のフィールドが広大すぎて、さすがの翻訳者(宇野邦一先生)も、その全貌をとらえきれないという感じで、あとがきを書いておられる。発刊後43年が経過して、まだ、この本の本格的な解説書は現れていない。
リゾーム概念は、おそらくブロックチェーン -
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「生成変化」「リトルネロ」および、既出ではあるが幾度もリロードされアップデートされる「(脱/再)領土(化)」の3つの概念が中巻においては差し当たり極めて重要。その周囲に彼らの独創的ではっとするようなテリトリーがあり、おそらく彼らの予想を越えた含蓄がある(その予感が「文学をひきあいにだしすぎる」と非難されながらも[上p ]、文学性に近づけた動因ではないだろうか。その美しい表現は、まわりくどく曖昧ないいかただととらえることもできるだろう。しかし、「すべてを曖昧にしておくのは容易だなどと考えないでほしい。」[p64])。
第7-9章は、それらの重要な概念をもちいた実践例。「顔貌性」や「切片性 -
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序章の「リゾーム」は全体の概観を示す。まずこの小片が書かれて発表され、本書に繋がった。ここだけで「アンチ・オイディプス」とは比較にならないほどの射程と奥行きをもっているのがわかる。新しい語が唐突に用いられるので(リゾーム?脱領土化?器官なき身体?強度?存立平面?)、ごく一般的な生活をしている人には「浮いている」ので馴染みずらいか。まず書き方に慣れ、全体を通読、あるいは結論意外の章を[「結論だけはおわりに読むべきである」※冒頭の緒言より]好きな順に、開いた順にでもとにかく通読すること。細かい意味はあまり気にせずに、何度か通読して全体に慣れること。そうすると、この書物全体が地図であることがわかる[
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1082夜
ドゥルーズの中では一番好きだなあ。
1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手 -
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小林秀雄には人が歴史に翻弄されることへのペシミズムがある。歴史とは純粋な魂を襲う残酷な暴力である。詩人や芸術家との交感を演ずることで反歴史を実行した。
啓蒙主義、民族主義という二つの歴史観がある。ヨーロッパの社会思想はこの二つの間を揺らめいている。
レヴィ=ストロースは差異化された不均衡状態が必要とした。差異は戦乱を招くが一方で創造的な交通や交換を生み出す。進化とはルーレットの目が揃うようなものとし、進化と停滞の概念を拒否した。
思考の歴史は歴史哲学を生み出す一方反歴史思考をも増殖させる。小林秀雄にとって思考を脅かすのは公的、歴史的思考であった。
ハイデガーは存在、フロイトは無意識について思考 -
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Posted by ブクログ
この本の真骨頂である「欲望機械」や「分裂分析」、「器官なき身体」の定義、「欲望的生産」と「社会的生産」、死と強度の問題、革命の話などが展開される下巻。「脱コード化」という概念は流行ったが、今読むとそこはあまり面白くない。
むしろ、オイディプスの三角形、端的に言えば近代家族モデルであるが、これを解体するに飽き足らず、「人間」そのものも概念的に解体し、あらゆる欲望という切り口でその存在を捉えなおし、その欲望が社会の中へはめ込まれていく、あるいはそこから逸脱していくさまを描いたところが非常に面白い。この説明はわかりにくいだろうか?
つまり、自我を持つ主体としての人間という定義すら、DGは投棄し -
Posted by ブクログ
もう流行ったのは一昔前になるだろう。ドゥルーズ=ガタリのもっとも初期の著作、アンチ・オイディプス。
上巻は、「資本主義と分裂症」の後者、分裂症と精神分析、そしてオイディプスの三角形の批判が行われる一章と二章。そして、モルガン=エンゲルス的な唯物史観と絡めて論じる三章の前半だ。
多くの概念が、その内容を提示されないまま並べられ、論旨が進んでいくので、上巻だけでいろいろと読み込んでいくのは難しい。ただ、もう最初の方だけで「アンチ・オイディプス」という論の趣旨は十分に理解できる。とはいえ、この本の面白いところは「アンチ・オイディプス」の立論とは別にあるので、上巻はまだ前座といったところだ。
困っ -