今村仁司のレビュー一覧
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本書は、タイトルにある”近代性の構造”を、「時間論」「機械論」「自己規律論」の三点から批判的に検討。西洋近代のさまざまな思想のなかから、そのエッセンスを抽出していく分析は、各思想家の多面性を描き出していて興味深い。
1968年を転換点として今日まで、いわゆる近代への批判が展開されてきたが、いまだ乗り越えられない近代性のうちに留まっているように思う。一方で、結論部で著者がしめす「試みの精神」の今日のありようを、しっかりとらえていく必要がある。そうでないと、”絶望しか残らない”。
人(びと)が現実に存在するという事実がもつ根源的な”暴力”による「排除の構造」に対して、「あえて異者たれ」という呼 -
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去年からずぅ~と気になっていたことが何となくわかりかけてきた。
わたしのお金に対する異常な怨みと恐怖。その謎が解けそうである。
今村さんによれば「貨幣は人間存在の根本条件である死の観念から発生する。」そうだ。この本では詳しい論証がないのであるが、そう言われれば何となく分かるような気がする。わたしが気になっていたのも経済学上の貨幣ではなくて、人間存在の本質に関わる貨幣だったからだ。
貨幣は物の交換における媒介形式(間をとりもつもの)であり、法律や道徳的掟は市民生活の媒介形式である。人間の社会関係は、これらの制度になった媒介形式がなければ円滑には進行しない。もしもそれらを無視したり傷つけたりした -
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[ 内容 ]
群衆とは何か。
近代資本主義の誕生とともに、歴史と社会の表舞台に主役として登場してきた群衆。
二十世紀のナチズムもスターリニズムも群衆社会がつくりだした全体主義の脅威であったことは記憶にあたらしい。
一体われわれは、激流のような群衆化傾向に対して抵抗できるのだろうか。
ポー、ボードレールやニーチェ、メアリー・シェリーらの群衆への驚き、カネッティやモスコヴィッシの群衆分析、トクヴィルの民主主義論、ルボン、タルド、フロイトらの心理学的考察など、さまざまな視点からその怪物的性格を明らかにし、現代人の存在のあり方を根源から鋭く問う群衆社会批判。
[ 目次 ]
第1部 群衆の本質
第2部 -
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ベンヤミン『パサージュ論』とのそもそもの出会いは、笠井潔の『群衆の悪魔―デュパン第四の事件』だ。
それは、パリの街を舞台に探偵オーギュスト・デュパン、ボードレール、バルザック、ブランキなどのビッグネームが活躍するミステリーで、その中でベンヤミンと『パサージュ論』について触れられていたのだ。
この巻は、先日、『悪の花』、『ボードレール パリの憂鬱』の二冊の詩集を読んでもあまりピンと来なかったボードレールがテーマの巻ということで、案の定取り付く島もない感じではあったが、かろうじて心に残った断章を引用しておきたい。
《一八四〇年ころのユゴーについて。「同じころ、彼は、人間が孤独を好む動物だとすれ -
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ベンヤミン『パサージュ論』の最終巻だが、そもそも未完の書物なので完結編という訳ではない。
だが、この書物は、未完の断章形式であるということそのものによって、永く生き延びるのではないだろうか。
一つのストーリーによって、全ての断章が論理的に並べられ、不要なものは刈り込まれ、首尾一貫した一冊の書物としての完成をみていたとしたら、あるいはこの書物は、とっくに古びて打ち棄てられていたかも知れない。
断章であるが故に、その一つ一つが、様々な角度からの光線に、いつまでも七色に煌めいているのではないだろうか?/
ここでも、想起されるのはタイムラプス撮影で撮影した雲の映像だ。
丘の上に固定されたカメラから -
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ベンヤミン(1892年〜1940年)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。
代表作:『複製技術時代の芸術』、『写真小史』、『パサージュ論』。/
《1940年、ナチス・ドイツ軍はパリに侵攻した。亡命中のベンヤミンは膨大な未完草稿をジョルジュ・バタイユに託して、パリを脱出する。》
だが、アメリカへの脱出に失敗し、スペインの国境の町で服毒自殺を遂げた。/
『パサージュ論』の構成:
Ⅰ パリの原風景
Ⅱ ボードレールのパリ
Ⅲ 都市の遊歩者
Ⅳ 方法としてのユートピア
Ⅴ ブルジョワジーの夢
断章形式なので、驚くほど読みやすい。
僕でも読めると -
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この本の成功した点というのは、これを読んでも、そのキーワード自体の概念、それによって何が見え、また見えなくなるのか、という点を理解することは出来ない、という所にあるのじゃないかと思いました。
要はこの本を読んでも「わかったつもり」にならない、ということです。そもそもここで出てくる用語(脱構築、脱中心化、オートノミー、公共圏などなど)というのは、思想家達が社会現象などに取り組む際の概念装置なわけで、彼らやその思想とこの用語というのは不可分なはずなので。
そこから離れた用語の一人歩きというのは、安易な一般化を招くし誤解も招いてしまう。
じゃあこの本ってなによ?って思うかもしれないけど、僕は現代思想 -
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お堅くて合わないかもと思ってたマルクスだけど、思ったよりずっと親しめそう。思ったより現場主義だし。
やみくもに原初的共同体を懐古するのではなく、ヘーゲルの歴史的時間の概念を極めるような形で、現在における過去の包摂(現在の編制体の諸要素の形態的差異を峻別(ここがマルクス独特)し、遡及的に認識することで過去が見えてくる)を文明史のなかの資本主義に適用し、ギリシア的共同体を高次の状態で復活させようとしているのがパワフルだなと思った。
諸事象を物質的なもの(唯物論!)と観念的なもの(観念論!)の複合体であるとみなし、対象に向かう経済的批判(科学的考察)(形態的差異)と自己へと回帰する哲学的思索とを両立 -
Posted by ブクログ
自分にとっては少し難しい内容だったが、労働の尊厳を殊更に主張し、労働社会を促進するという意味においては資本主義も社会主義も同じであるという視点がとても面白かった。古代に見られるような、人間が生きるために必要不可欠な仕事が蔑視されるという状況は、現代の倫理観では受け入れ難いが、今もエッセンシャルワーカーこそ低賃金で働くことを余儀なくされ、見下されるという状況に重なりを感じる。自由で民主的とも表現されてしまうような古代ギリシア社会も、この労働の差別ゆえに奴隷制を必要としていたという事実を知ると、極一部の選ばれた市民だけが自由を謳歌していただけに過ぎない。そして万人が労働者となった現代は万人が労働の