今村仁司のレビュー一覧
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未開、古代ギリシア、中世ヨーロッパ、近代ヨーロッパそれぞれの労働観をできるだけ共時的に切り取って提示した一冊。具に労働史を記述するのではなく、あくまでも労働観(本書では労働表象)を抽出することに注力しているから、コンパクトに収まっている。選ばれた対象が4つしかなく、ヨーロッパに偏っているけれども、現代の労働観を相対化するには十分な気もする。本書で述べられた労働観の変遷を簡潔に言うと、古代〜中世では、労働=必然性の連関に位置付けられた不自由なものであるため、労働は蔑視されていたが、近代では労働が肯定されるようになった。筆者は近代の労働肯定の行き過ぎに危惧を示しており、最後には、地球全体が労働者=奴隷であり、人間は一度も奴隷制を解体したことがない、という刺激的な主張で締められる。
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一昔前の西洋におけるキリスト教のように、今の私たちは“仕事”を絶対善と捉えているのではないでしょうか。
歴史的にはそれは決して当たり前なことではなく、むしろ特殊な時代であることを、今村仁司さんの『仕事』という本が教えてくれます。
1988年に書かれた本ですが、その視点は鋭く、令和を生きる私たちにも深く刺さる内容です。
今村さんは、当時の社会を“回復不可能な「労働主義」の過剰展開”と述べています。経済だけでなく、政治や文化、学問さえもが労働に合流する。その流れは間違いなく現代にもつながっています。
そこから抜け出す鍵となるのは、「余暇(余裕)」と「遊戯性(遊び)」。
それでも忙しい日常を手放せない私たちは、一体どうしたらよいのか。
学問や文化、芸術を労働化することなく、一つのあり方として許容できる社会に向けて、
私は暮らしの中心に読書を据えて、その道を探り続けます。 -
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本書は、タイトルにある”近代性の構造”を、「時間論」「機械論」「自己規律論」の三点から批判的に検討。西洋近代のさまざまな思想のなかから、そのエッセンスを抽出していく分析は、各思想家の多面性を描き出していて興味深い。
1968年を転換点として今日まで、いわゆる近代への批判が展開されてきたが、いまだ乗り越えられない近代性のうちに留まっているように思う。一方で、結論部で著者がしめす「試みの精神」の今日のありようを、しっかりとらえていく必要がある。そうでないと、”絶望しか残らない”。
人(びと)が現実に存在するという事実がもつ根源的な”暴力”による「排除の構造」に対して、「あえて異者たれ」という呼びかけに勇気をもって答えたい。
巻末の思想家紹介やブックガイドも秀逸。 -
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去年からずぅ~と気になっていたことが何となくわかりかけてきた。
わたしのお金に対する異常な怨みと恐怖。その謎が解けそうである。
今村さんによれば「貨幣は人間存在の根本条件である死の観念から発生する。」そうだ。この本では詳しい論証がないのであるが、そう言われれば何となく分かるような気がする。わたしが気になっていたのも経済学上の貨幣ではなくて、人間存在の本質に関わる貨幣だったからだ。
貨幣は物の交換における媒介形式(間をとりもつもの)であり、法律や道徳的掟は市民生活の媒介形式である。人間の社会関係は、これらの制度になった媒介形式がなければ円滑には進行しない。もしもそれらを無視したり傷つけたりした時は神話的世界が現出し人間は運命の波に翻弄され、罪を犯し、犠牲を要求される。
わたしたちは一見なんの不思議もないように日々の暮らしをおくっているのだが、こういった制度を引き剥がしたと人間の根本を覗きこむと実はとても恐ろしくおぞましいものがあったりするのかもしれない。
例えば、わたしは暑い日中に歩き疲れてビールが飲みたくなって、目についたコンビニに入る。あまりの暑さに頭がおかしくなっていて貨幣という制度をまったく忘れてしまっている。冷蔵庫をあけてビールを掴み飲もうとする。当然店員さんがそれを止めようとする。金を払えと。ところがわたしは暑さのあまりデモーニッシュな力に取り憑かれているので欲望のまま店員さんを振り切り自己の満足を目指そうとする。そして、力ずくでわたしの行為を阻止しようとした店員さんをたまたま持っていたナイフで刺し殺して、わたしは満足気にビールを飲むのである。
このように法や倫理や貨幣などの媒介形式のない神話的な世界は暴力と死に満ち溢れる結果となる。「なんでもあり。」なんてことはない。もし、そうすれば累々とした屍の山が築かれることになるだろう。
Mahalo -
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[ 内容 ]
群衆とは何か。
近代資本主義の誕生とともに、歴史と社会の表舞台に主役として登場してきた群衆。
二十世紀のナチズムもスターリニズムも群衆社会がつくりだした全体主義の脅威であったことは記憶にあたらしい。
一体われわれは、激流のような群衆化傾向に対して抵抗できるのだろうか。
ポー、ボードレールやニーチェ、メアリー・シェリーらの群衆への驚き、カネッティやモスコヴィッシの群衆分析、トクヴィルの民主主義論、ルボン、タルド、フロイトらの心理学的考察など、さまざまな視点からその怪物的性格を明らかにし、現代人の存在のあり方を根源から鋭く問う群衆社会批判。
[ 目次 ]
第1部 群衆の本質
第2部 群衆の分析
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
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ベンヤミン『パサージュ論』とのそもそもの出会いは、笠井潔の『群衆の悪魔―デュパン第四の事件』だ。
それは、パリの街を舞台に探偵オーギュスト・デュパン、ボードレール、バルザック、ブランキなどのビッグネームが活躍するミステリーで、その中でベンヤミンと『パサージュ論』について触れられていたのだ。
この巻は、先日、『悪の花』、『ボードレール パリの憂鬱』の二冊の詩集を読んでもあまりピンと来なかったボードレールがテーマの巻ということで、案の定取り付く島もない感じではあったが、かろうじて心に残った断章を引用しておきたい。
《一八四〇年ころのユゴーについて。「同じころ、彼は、人間が孤独を好む動物だとすれば、孤独を好む者とは、群衆の人だということを次第に悟るようになる。ー以下略ー」ガブリエル・ブヌール「ヴィクトール・ユゴーの深淵」(略)》
《新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるのは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群衆という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を癒すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群衆」は、七〇年後に民族共同体〔ナチズムを示唆している〕なるものが流し込まれる鋳型なのである。》
《大都市で売春がとった形態のもとでは、女性は商品として現われるだけでなく、明確な意味で大量生産品として現われる。化粧によって個人的感情を覆い隠し、職業的表情をするということから、その事態がわかる。後に、お揃いの衣装を着たレビューの踊り子たちがこうした事態をさらに強調することになる。》 -
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ベンヤミン『パサージュ論』の最終巻だが、そもそも未完の書物なので完結編という訳ではない。
だが、この書物は、未完の断章形式であるということそのものによって、永く生き延びるのではないだろうか。
一つのストーリーによって、全ての断章が論理的に並べられ、不要なものは刈り込まれ、首尾一貫した一冊の書物としての完成をみていたとしたら、あるいはこの書物は、とっくに古びて打ち棄てられていたかも知れない。
断章であるが故に、その一つ一つが、様々な角度からの光線に、いつまでも七色に煌めいているのではないだろうか?/
ここでも、想起されるのはタイムラプス撮影で撮影した雲の映像だ。
丘の上に固定されたカメラから、低速度撮影で、雲の動きを撮影する。
様々な雲が、生まれ、形を変え、流れては、あっという間に消えていく。
景色を観ているのだが、まるで時間そのものを観ているかのようだ。/
ここでは、カメラはあるパサージュを捉えている。
ショーウィンドウには、様々な商品が陳列され、大勢の人で賑わっている。
そこには数多の夢が生育し、種々の思想が繁茂している。
だが、時は流れる。
軒を並べていた商店の顔ぶれはいつしか移り変わり、賑わいも往時とは比べようもない。
当時の夢や思想もまた、打ち棄てられたポスターのように変色して、風に吹かれている。/
【上層階級のイデオロギーである倦怠にとって経済的下部構造をなす工場労働。「いくどもいくども同じ機械的工程が果たされていくだけで、いつまでも終わりなく続く苦しい労働の陰鬱な単調さはシジフォスの仕事にも似ている。労働の苦しみは、疲れ切った労働者の上にシジフォスの岩のように何度も何度も落ちてくる。」フリードリヒ・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』(略)】/
【『天体による永遠』について。墓場に入るのも近いころ、トロー城塞が自分にとって最後の牢獄となることがわかっていたブランキ、この本を書いて、新たな牢獄の扉を開けようとしたブランキ。】
【ブランキが彼の最後の牢獄で、彼の最後の書として書いたこの書物は、私の見るところでは、今日まで完全に無視されてきました。これは宇宙論的な思弁です。
ー中略ー
もしも地獄が神学の対象であるなら、実際にこのブランキの思弁は神学的思弁と呼んでいいでしょう。】
【「彼〔ブランキ〕は、自らの運命を、天体の限りない数のなか、さらに時間の経過の全瞬間において記述している。彼の牢は、数え切れぬまでに増殖してゆく。地上に幽閉者として在る彼は、その反抗の力、その自由なる精神をもって、全宇宙のなかにそのまま在る。」ギュスターヴ・ジェフロワ『幽閉者』】/
【「この思想をそのもっとも恐ろしい形で考えて見よう。このあるがままの人生、それには意味もなく目標もない。しかしいやがおうにも繰り返される。無へのフィナーレもなく。つまり「永遠回帰」。(以下略)」フリードリヒ・ニーチェ『力への意志』】/
【「この本が実際ほんとうに何かを科学的に展開しているとすれば、それはパリのパサージュの死滅、ある建築様式の腐敗過程である。」】/
【「地獄の時間としての「現代」。この地獄の懲罰とは、いつでもこの一帯に存在している最新のことがらであり続けねばならないということだ。「繰り返し同じこと」が生じるということが問題なのではないし、ましてここで永遠回帰が問題なわけでもない。むしろ肝心なのは、まさしく最新のものにおいて世界の様相がけっして変貌しないということであり、この最新のものが隅々にいたるまでつねに同一のものであり続けるということだ。ーーこれこそが地獄の永遠を形づくっている。「現代」をありありと示す特徴の全体を規定するということは、この地獄を描き出すことにほかならないだろう。」】/
【「時代を越えた永遠の真理」などという概念とは、きっぱりとたもとを分つのが良い。】 -
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ベンヤミン(1892年〜1940年)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。
代表作:『複製技術時代の芸術』、『写真小史』、『パサージュ論』。/
《1940年、ナチス・ドイツ軍はパリに侵攻した。亡命中のベンヤミンは膨大な未完草稿をジョルジュ・バタイユに託して、パリを脱出する。》
だが、アメリカへの脱出に失敗し、スペインの国境の町で服毒自殺を遂げた。/
『パサージュ論』の構成:
Ⅰ パリの原風景
Ⅱ ボードレールのパリ
Ⅲ 都市の遊歩者
Ⅳ 方法としてのユートピア
Ⅴ ブルジョワジーの夢
断章形式なので、驚くほど読みやすい。
僕でも読めるというか、むしろ、散漫な僕にはぴったりかも知れない。
その反面、どうにもとらえどころがない感じだ。
まあ、全巻読み終わったところで、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストに流れる数多のキスシーンように、僕の脳裏で何かが明滅してくれれば御の字だ。/
人は、なぜパリに憧れるのだろう?
パリはなぜ芸術の都と呼ばれるのか?
ベンヤミンは、なぜパリを「一九世紀の首都」と呼んだのか?
彼は、なぜパサージュにこだわったのか?
さまざまな疑問が渦巻いているが、フランスかぶれ、なかでもパリに心を奪われた者には、避けては通れない書物かも知れない。/
《『絵入りパリ案内』は言う。「産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはられている。(略)光を天井から受けているこうした通路の両側には、華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている。」》
(パリーー一九世紀の首都(フランス語草稿))
《「(前段略)‥‥‥われわれが進歩と呼んでいるものは、各々の地球に閉じ込められ、その地球とともに消え去る。常に、そして、いたるところで、地球の基地においては、同じ狭い舞台の上で同じ悲劇(ドラマ)、同じ舞台装置である。自らの偉大さに自惚れた騒々しい人類。自らを宇宙と思い込み、はてしない広がりに住んでいるかのように自らの牢の内に住み、やがては、深い侮蔑のうちに人類の高慢さの重荷を背負ってきた地球を道連れに破滅するであろう。(略)永遠は、無限に同じ芝居の上演を恒常不変に行うのである。」
この希望のない諦観こそ、偉大な革命家ブランキの最後のことばである。》(同上)
《ここではモードは、女と商品の間にーー快楽と死体の間にーー弁証法的な積み替え地を開いた。モードに長く仕えているなまいきな手先である死は、世紀を物差しで測り、節約のためにマネキンを自分で作り上げ、自分の手で在庫一掃をはかろうとする。このことをフランス語では「革命〔=回転〕(レヴオリユシオン)」と言う。》(B モード)
《あるものは破壊と繁殖だ
あるものは再創造と断片だ
あるものは断片と断片のなかの断片だ
あるものは破片と破片のなかの破片》
(田村隆一「言葉のない世界」より。) -
Posted by ブクログ
この本の成功した点というのは、これを読んでも、そのキーワード自体の概念、それによって何が見え、また見えなくなるのか、という点を理解することは出来ない、という所にあるのじゃないかと思いました。
要はこの本を読んでも「わかったつもり」にならない、ということです。そもそもここで出てくる用語(脱構築、脱中心化、オートノミー、公共圏などなど)というのは、思想家達が社会現象などに取り組む際の概念装置なわけで、彼らやその思想とこの用語というのは不可分なはずなので。
そこから離れた用語の一人歩きというのは、安易な一般化を招くし誤解も招いてしまう。
じゃあこの本ってなによ?って思うかもしれないけど、僕は現代思想についての(極めて簡略化された)入門書ではないか、と思います。 -
Posted by ブクログ
お堅くて合わないかもと思ってたマルクスだけど、思ったよりずっと親しめそう。思ったより現場主義だし。
やみくもに原初的共同体を懐古するのではなく、ヘーゲルの歴史的時間の概念を極めるような形で、現在における過去の包摂(現在の編制体の諸要素の形態的差異を峻別(ここがマルクス独特)し、遡及的に認識することで過去が見えてくる)を文明史のなかの資本主義に適用し、ギリシア的共同体を高次の状態で復活させようとしているのがパワフルだなと思った。
諸事象を物質的なもの(唯物論!)と観念的なもの(観念論!)の複合体であるとみなし、対象に向かう経済的批判(科学的考察)(形態的差異)と自己へと回帰する哲学的思索とを両立させているのがやはりすごいところ。(ヘーゲルも読まなくては…)
フェティシズムのところも面白そうだし、ベンヤミンとか読むべきかな。