三谷 宏治
(みたに こうじ、1964年3月8日 - )は、K.I.T.虎ノ門大学院(金沢工業大学虎ノ門キャンパス)教授[1]、早稲田大学ビジネススクール客員教授、女子栄養大学客員教授。永平寺ふるさと大使、NPO法人 アフタースクール理事[2]、NPO法人3keys理事[3]、Linkers株式会社アドバイザー[4]。前職は経営コンサルタント。福井県出身。[5]大阪府生まれ、福井県育ち[6]。1982年 福井県立藤島高等学校卒業。1987年 東京大学理学部物理学科卒業[6]。
1992年 INSEAD MBA修了(フランスフォンテーヌブロー校)[7]。1987年 - 1996年 ボストンコンサ...続きを読む ルティンググループ勤務[7]。
1996年 - 2006年 アクセンチュア勤務 戦略グループ統括 エグゼクティブパートナーとして活躍[7]。2008年 - K.I.T.虎ノ門大学院(金沢工業大学 虎ノ門キャンパス)教授(現職)[1]。
受賞歴
『一瞬で大切なことを伝える技術』 啓文堂書店 2012 ビジネス書大賞
『経営戦略全史』 ダイヤモンドHBR 読者が選ぶベスト経営書2013 第1位[8]、ビジネス書大賞2014 経営書部門 大賞[9]
『ビジネスモデル全史』ダイヤモンドHBR 読者が選ぶベスト経営書2014 第1位[10]
「クックパッドなど CGM( Consumer Generated Media:顧客生成型メディア)と呼ばれるものでは、その主要なコンテンツ(たとえば調理レシピ)を一般利用者自身が無料でつくってくれます。なので「投稿者」がターゲットとしては誰より大切ですが、その投稿を見て評価・コメントしてくれる多くの「閲覧者」がいてくれてこそ、投稿者もヤル気が出ます。 CGMは無料であることが多いので、それらの仕組みを収益上支えてくれる「広告出稿者」も大切です。 つまり CGM運営者にとっては、投稿者、閲覧者、広告主のすべてが「ターゲット」なのです。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「新聞やラジオ・テレビといったマス広告の隆盛もあり、結局多くの企業は 1970年代までマスをターゲットとした経営に勤しみました。その後、特定セグメントをターゲットとするようになったのが 70 ~ 80年代。 85年には博報堂が「日本の消費者はもはやマスではなく『分衆』と化した」 022と評しました。日本メーカーも多品種少量生産に取り組みますが、その実現は容易ではありませんでした。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「 特にパリのカフェは、お店の名を言えば、そこに通うお客さんの職業や価値観が特定されるほど、濃いつながりの場になりました。 常連客が共有する話題は同時にカフェのカラー、結果的にはカフェごとの特色となったのです。 パリに現存する最古のカフェ、ル・プロコップは政治(とゴシップ)の場。政治家や政治家志望の若者たちがターゲットでした。ルソーやヴォルテール、ベンジャミン・フランクリンが常連さんで、フランス革命のときにはマラー、ロベスピエールやナポレオンも通っていました。 パティニョール通りのカフェ・ゲルボアは、かの「印象派 025」発祥の地です。 1869年、マネを中心にして若き才能たちが木曜夜に集まっては芸術論を戦わせるようになりました。モネ、ドガ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ルノワール……。 たとえば「影の表現法」が延々と議論され、反射光の重要性が認識されました。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「カフェは男性たちの熱き議論の場となってしまい、女性には近寄りにくい場所となりました。そこに革命を起こしたのがルイ =エルネスト・ラデュレです。 フランス南西部で製粉業を営んでいたラデュレは、 1862年パリのマドレーヌ寺院近くにパン屋を開業します。フランス屈指の高級職人たちが集まる新興ビジネス街に打って出たのです。 ところが 1871年に政治的動乱に巻き込まれて火災が起き、再出発を余儀なくされます。パン屋から洋菓子店に変え、内装は著名なポスター作家に任せてとても洒落たつくりになりました。 そこにカフェという別ジャンルのものを組み合わせることを、ラデュレの妻ジャーヌ・スシャールが思い付きます。この新生メゾン・ラデュレはカフェとパティスリーの合体版なのです。 カフェを女性向けにしたことで、大いに繁盛しました。飲みものはコーヒーもありますが、紅茶が中心だったのでサロン・ド・テ( Salon de the、英語ではティー・サロン)と呼ばれます。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「サロン・ド・テは、昼の手軽なおしゃべりの場を求めていたパリジェンヌに瞬く間に拡がりました。 1903年には「アンジェリーナ」がルーブル美術館につながるチュイルリー公園前に開業します。モンブランが有名で、ルイ 15世風のインテリアが優雅なこの店はココ・シャネル( CHANELの創始者)が愛した場所でした。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「彼はアメリカ人にエスプレッソの美味しさを伝えようと、エスプレッソと大量のミルクを組み合わせた「シアトル風コーヒー」をつくり、それをテイクアウト 053型店舗で売り始めます。これがシアトルの学生や若い社会人女性に大受けし、 2年後の 1987年にはスターバックスの店舗と商標を 400万ドルで買い取りました。 コーヒー自体を味わいつつ、そこにいることを楽しむ空間「 The Third Place」がそのコンセプトです。家でも会社でもない、人生における第 3の居場所。それを広めるために、彼はその全財産を投じたのです。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「 1970年代以降、世界を席捲したのは資源のない極東の島国、日本の企業群でした。その戦後の急激な経済成長にもっとも貢献した外国人をもしひとり挙げるとすれば、それは間違いなくエドワーズ・デミング 073その人でしょう。 彼は第二次世界大戦後の 1947年、日本政府が行った国勢調査支援のために来日します。数学と物理学の博士号を持ち、統計のプロであったデミングは、その品質管理手法が製造現場だけでなく経営全般に活かせることを理解していました。それが、日本科学技術連盟の人々の目にとまります。 デミングは以降、何度も日科技連などに招かれ、多くの日本人経営者、技術者、学者らにその考えを伝えることになりました。「規模に頼らずとも、品質を上げればコストも下がり、顧客満足度も上がる」「そのためには統計を駆使して、モノだけでなくプロセスの品質を上げよ」 日本企業は彼の統計的プロセス制御や品質管理技法を深く理解し、それを製造現場における QC活動や、それを全社に展開した TQC活動に発展させていきました。デミングこそは日本企業にとっての「科学的管理法」の父であったといえるでしょう。その学びを最大限に取り込んだのが自動車メーカーでした。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「鳥羽博道、朝のシャンゼリゼで刮目す 1960年代、日本でも喫茶店が増え始め、 2万店からあっという間に 15万店に達します。でもそのイメージは「不健康で暗い」ものでした。薄暗い店内に煮詰まったコーヒーの臭いとタバコの煙が充満するところ、だったのです。 のちのドトール創業者である鳥羽博道は、高校を中退して 17歳で飲食業界に入り、喫茶店で働き始めコーヒー豆と出合います。 19歳で店長に抜擢され成功しますがもの足りず、ブラジルへ渡りコーヒー農園の現場監督になりました。帰国後、商売を始めますが社員に喫茶店の開業資金を持ち逃げされるなど散々です。それでもめげずに仕事を続けていましたが、喫茶店やコーヒー豆販売店といった業態の限界を感じていました。 1971年の夏、鳥羽は業界 20名での欧州視察旅行に参加します。「次の業態へのヒント」を必死で探し求めていた彼は、パリに滞在していたときも仲間たちとホテルで朝食をとることもせず、朝 8時のシャンゼリゼ大通りを歩き回ります。 凱旋門を目指して歩いていると、多くの人たちが地下鉄駅から上がるとすぐに、最寄りのカフェに吸い込まれていくではありませんか。そしてよく見ると、みな店内のカウンターの前で二重・三重になりながら、立ったままコーヒーを飲んでいます。「席もあるのに、なぜ立ったまま飲むのだろう」 その答えは料金体系にありました。ギャルソンによってサービスされる店内席(たとえば 1杯 500円)やテラス席( 550円)より、カウンターでの立ち飲み( 250円)の方がずっと安いのです。それにクロワッサンかパンオショコラをつまんで朝食完了です。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「客層を絞ったドトール。美味しいコーヒーを半額で! そして 1980年、鳥羽が満を持してつくったのがドトールでした。 あのシャンゼリゼ通りのカフェの姿をなんとかして日本でも実現したい!朝昼夕忙しい人たちをターゲットにし、提供するバリューは、美味しくて安いコーヒーが第一です。しかも駅に近い一等地でなくてはいけません。 1号店は東京・原宿駅前と決めました。 当然、フルサービスではなくセルフサービスですが、注文から提供までは極力素早く。滞在時間は短いはずですから、居心地のいいイスやソファは要りません。ただし、コーヒーの質にはこだわり、かつ当時の喫茶店にはなかった焼きたてパンを提供することにしました。店内には、挽き立てのコーヒーの香りと、美味しいパンの匂いが漂います。 気軽に利用してもらうために、コーヒー 1杯の値段は当時ふつう 300円のところを、 150円に設定しました。これで待ち合わせ客を捕まえることができました。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「現場での OJTでなく練習場での訓練ですから、どんどん失敗できます。そしてどこが悪かったか、手本(モデル)と見比べることで差が直感的にわかります。こういった「モデリング手法」は、ただのマニュアルやノウハウの詰め込みとはまったく異なります。「真似する能力を高める」訓練でもあるのです。だから応用が利きます。 テクニカルスキルを自律的に上げていく向上心(ヒューマンスキルのひとつ)を獲得しているともいえるでしょう。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「そのためにネッツトヨタ南国は展示車のないカフェのような店舗をつくり、顧客が集う場所に変えました。そして何より関係構築力をヒトに求めました。そのための究極の人材戦略が「ひとり 100時間かけての採用」と「放任型育成」です。 最低限の新入社員研修が終われば、新人たちは担当を持たされて任されます。失敗し問題を起こし顧客に叱られ、でもその中で仲間に頼ることを覚え、顧客とのコミュニケーション力や潜在的問題の察知能力を培っていきます。このときの上司の仕事は指示でも支援でもなく、顧客への謝罪です。だから、研修や上司頼りの育成では決して獲得できないスキルが得られるのです。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「 1990年以降、 Appleと同様に多くの大企業が停滞や危機に陥りました。しかし Appleのような「商品の極端な絞り込み」と「カリスマ型リーダーシップ」だけが答えではありません。部下たちを支配でなく支え導く「サーバント(支援)型リーダーシップ」 088や、共に考え働く「コラボレーション(協調)型リーダーシップ」がより有効な場合も多いのです。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「 昔、ヒトはただ 1種類の言語を話し、全能に近かったといいます。自らの力に酔ったヒトは増長し、天に届く塔を造り始めました。天に住む神がみに挑戦するために。それが「バベルの塔」です。 神は怒り、その業によって塔は崩れました。 その塔を壊したのはしかし、雷でもなんでもありません。聖書に曰く、神はただ、「言葉を乱した」のです。ヒトの言語を今のようにバラバラにしました。出身国によって地方によって立場によって、異なる言葉を使うようになりました。すぐに塔の建設作業は滞ります。柱にズレが出て、床は歪み、塔はまもなく自壊したのです 193。 言葉が揃わなくては、みなで力を合わせて何かを成し遂げることはできません。ただ自壊するのを待つのみです。 この「バベルの塔」の寓話で聖書は、今の世界の困難の原因を「言葉がズレているから」と断じています。 組織がシステムとして自律的に動くようにするために、必要な 2つ目のパーツは「共通言語」です。組織の成員が同じ考えのフレームワークを使いこなさなくては、コミュニケーションはムダになり、ビジョンも事業目標もビジネスモデルも力を発揮できません。 使いこなすべき共通言語として、ここでは「デザイン思考」と「論理思考」を挙げましょう。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「組織が失敗を受容し、かつ、そこから学ぶ能力がなければ、試行錯誤型経営でなく、ただの「錯誤」経営になってしまいます。 アダプティブ戦略は、名前はアダプティブですが、ただ順応とか適応という意味ではありません。企業の「進化」を促す言葉なのです。 進化の反意語は退化 249ではなく停滞です。そして進化は(通常)一代で起こることではなく、変異と淘汰によって起こる非連続でダイナミックな適応なのです。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「でもひとつ、社会に出るために役立つことがあるとすれば、それはアルバイトやボランティア活動だ。社会的な組織による活動にその身を投じてぜひ実感して欲しい。その価値や責任を。顧客や相手に感謝される喜び、同僚たちとのコミュニケーションの大切さ、店長やリーダーの本当の役割、研修やマニュアルの出来不出来、いざというときの組織の力、を。キミがそこでどんな立場であろうが、きっと思うだろう。「これはうまい仕組みだなぁ」「でもここはなんでこんな変なことになっちゃってるんだろう」「もっとよくできるのに」 それらビジネスの仕組みや問題、解決策を体系的に理解するための知識や枠組みを私たちは「経営学」と呼ぶ。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「19歳のキミは今、どこにいて何を目指しているだろうか。 悩み楽しみながら、自らの目指すもの(夢)を求める旅もよい。それをモラトリアム 251という。若者の特権だ。 目指すものが明らかなら、それを最短でつかむために頑張るもよし。さらには世にない何かを創り出そうとする者もいるだろう。それをビジョナリーと呼ぶ。 モラトリアムであろうがビジョナリーであろうが、それらのためにキミは今、何をして何を考えているだろうか。 社会に出ることを急ぐことはないし、同時に躊躇うこともない。じっくりウロウロすればいいし、思いきりぶつかって行って試行錯誤すればいい。自ら調べ考え決めたことであれば、道はなんでもいいのだ。」
—『新しい経営学』三谷宏治著
「私自身はこちらの部類です。 27歳で海外留学を経験し、 32歳で BCG 253からアクセンチュア 254に転職しました。アクセンチュアにとって新規事業だった経営戦略コンサルティング部隊の幹部候補として。中小企業や外資系で働くってそういうことです。精一杯背伸びをして、経営の世界に挑み続けます。」
—『新しい経営学』三谷宏治著