伊勢田哲治のレビュー一覧
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哲学って何?が全くわからないので、たまに手を出したくなる哲学本。
科学視点からだとこう見えてるけど、実際どうなの?
という、理系ニンゲンが気になる所のど真ん中に豪速球を投げ込んでくれる一冊。
哲学というと「知を愛する」と訳されるように、世界についての新たな知識を得ようとする営みだと思っていた。
その点では科学とも同じ方向を向いているんだと思ってたけど、その前提からして違うらしい。
新たな知識を得てそれを積み上げる、という事から興味が無くなっている様子。
世界に対する知識というより、ヒトが世界を認識する事で生まれた「ヒトの中にある世界」を対象に「何か言う」という事をしたい、知識より議論の為の軸(ネタ)を並べる事に価値を見出している、と見えた。
※すでに世界の根源を探る営みでは無いんですね
価値観とか言葉の定義で如何様にも結論が変わる(そもそも結論なんて出ない)グラデーションの世界に、(言葉や概念を定義しないままに)俺の基準の解釈ならこう、いやいや私の基準ではこう、みたいなのを言い合うのが哲学だ、と言ってるように思える。
役に立たない物が価値がないとは考え無いけど、
これは(少なくとも説明されていた範囲の科学哲学は)学門ですらないよね。
というのが須藤先生のホンネではなかろうか。
そういった議論が大切な領域(倫理とか)もあり、今後一層重要な世界になっていくと思うが、
反実在論の話題については科学がすでに内蔵している物を見ずに、ただの俺様解釈ごっこをしてるだけに見える。(ようなご説明に終始してただけかもだが)
この本は須藤先生側から投げかける構成なので、どうしても科学哲学側が防戦というか相手のペースで答えていくスタイルになるので、
科学哲学のペースで語られるであろう本にも手を出してみたい。
そして親切な事に、本作中で良書が紹介されているので、次はソレですね。
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Posted by ブクログ
「道徳視がもっとも良くできる者が、もっとも道徳的に望ましい結果を生むとは限らぬのが、道徳というものの難しいところでもあり、面白いところでもあるのです」P428
人に「倫理って結局何?」って聞かれていつも答えられなかったけど、「善悪」や「してもよい」、「すべきだ」といった事柄に関することを広く倫理と捉えて良いと書いてあった気がする(メタ倫理)。今後はこんな感じで答えようと思った。
全体を通して最も書かれていると自分が感じたことは、「複視的視点」を持つことが重要ということだった。めっちゃ簡単に言うなら、自分からの世界の見え方以外に、他人の立場からの世界の見え方を想像して、それを行き来するような思考が大事だと理解した。
それをサポートする「倫理メガネ」のような概念はかなり好きで、ポケモンGOのようなAR技術になぞらえる部分とかはかなり分かりやすい。
相手の立場になって考えるってちょっと当たり前っぽいけど、どんな倫理メガネをかけてるのか、価値判断基準を持っているのか、倫理のものさしは何を重要視しているのか等、実は色々考えられるんだなと。
倫理問題を具体的に考えてもらうためのSFショートストーリーがちょくちょく挟まっていて、それが個人的には抜群に面白かった。単発単発に差し込まれてるのかと思ったら、本書全体を通じた物語になってて感動。
流石に気合い入ってるなって思ったら、あとがきで気合い入れましたって書いてあって嬉しかった笑
個人的にめっちゃ新しい学びのような物は無かったけど、倫理関連の知識に関してすごく頭の中が整理された気分で心地良い。 -
Posted by ブクログ
副題に「科学者、哲学者にモノ申す」とあるように、実際は宇宙物理学者が「科学哲学は科学の役に立っていない」と疑問を呈し、科学哲学者がそれに答える本。
非常に面白い一冊で発見が多かった。
須藤靖、伊勢田哲治両氏ともにそれぞれの分野ではそれなりの実力のある方だと見受けられますが、罵り合いにならないことをまずは寿ぐべきというレベルで噛み合わない。
言葉の定義が異なると話し合うことすらできない。「原因」とは何か。「因果」とは何か。それを巡って定義を合わせようとするところ、つまり議論の最初ですでに同意できない。
普段から論文や発表や講義という形で議論をこなしている学者同士であってもベースラインが違うと建設的な議論は難しいというのは、「話せばわかる」と思っている楽天的な進歩主義者には正視しにくい。
二人とも繰り返し「先ほどから何度も申し上げているのですが」と自説を展開し、「なるほど私は自分の意見を変えました」とはならない。意見を変えたら負けと思っているかのよう。
(いわんや素人のネット議論をや。)
私はどちらかというと科学哲学好きなので、主に科学哲学側にシンパシーを覚えながら読んだが、その中で気になったのは『科学を語るとはどういうことか』というタイトルにそった話し合いにならず、科学者が「科学哲学は科学にどう役に立ってくれるんですか、役に立ってくれないんなら存在意義はないから消えろください」という態度でモノ申していたこと。
普段「世の中」からよせられる「宇宙のことを研究して私たちの生活の何に役立つんですか」に感じる苛立ちをそのまま科学哲学にぶつけているかのよう。
もっとも、科学者は文中でアンリ・ポアンカレの言葉を引いている「科学者は役に立つから自然を研究するのではない。楽しいから研究するのであり、自然が美しいからこそ楽しいのである」。でも自分の物理学はそれでいいのに科学哲学はそれじゃダメというのかしっくりこなかった。(最後の方で、ほとんどの科学哲学はまともだと分かったとは書いてある)
最後まで噛み合わない、それなりのボリュームの対談が一冊の本に纏まっている。そのこと自体にとても大きな価値があると感じた。(科学哲学者はあとがきで「噛み合っていないかもしれないけど、みのりが多かった」と書いていて、それには諸手を挙げて賛成します)
これを一冊の本にまとめあげたのは、それぞれの著者の力量もさることながら、間にたった編集者の力量がものすごく大きかったのだと思う。「河出書房新社の朝田明子さん」へ最大の賛辞を贈りたい。少しでも編集的な仕事に携わったことのある方なら、本書を形にすることがいかに困難な大異形だったのか、想像しただけでお腹が痛くなるレベルでわかると思う。 -
Posted by ブクログ
科学哲学の価値に大きな疑いをいだく宇宙物理学者の須藤靖さんと,気鋭の科学哲学者の伊勢田哲治さんの科学哲学をめぐるかなり本気な対談.ずっと緊迫した会話が続き,読んでいてとても疲れた.だがとても勉強になった.
頭脳明晰な二人が,あいまいな妥協なく,とことんまで話し,お互いを理解しようと懸命に努力をする.しかし,互いの問題意識をうまく共有することができない.話し合いでわかりあうことの難しさ!お互い熱くなって論争しているが,緻密に議論をすすめているのがすごい.
私は戸田山和久「科学哲学の冒険」のレビューで「ここに出てくる(科学的実在論の)議論のほとんどは哲学者には大問題でも科学者にとってはほとんど気にもならない問題なのではないかな.」と書いた.この本で須藤さんは,日頃科学哲学に感じているこのような違和感を伊勢田さんに堂々とぶつけている.
第1章,第2章では須藤さんの疑問に答えながら,科学哲学の流れを丁寧に辛抱強く伊勢田さんが説明して行く姿が印象的.説明もわかりやすい.
第3章で哲学者の問題意識が科学者とはちがうという話をするあたりから,議論が白熱する.議論が白熱する要因はいくつかある.まず議論の基礎となる部分で,
(1) 哲学者が専門用語を無定義のまま使ってしまい,物理学者からわからない,定義の問題だと言われる.異分野の人と話をするときは,なるべく専門用語を使わない,それができないなら,それが大まかにでもどういう意味かを説明しないとうまくいかない.具体的に言えば,自由意志,マーク,メタフィジックスなど.「物理理論がメタフィジカルな部分まで正しい」って,意味が分からないのは須藤さんだけではあるまい.定義自体が問題だといわれれば確かにその通りなんだけど,それだと話しができない.「視覚情報や文字情報として我々がもっているデータというのは,ある意味非常に二次元的な色の空間配置のデータなんですよ.そこからまず,その背後にある,何か世界に関する推論をして,その世界の持っている規則性について推論する.」(p.259 )なんてのもよくわからない.須藤さんは「それを職業としているからには,自分の考えたことをわかりやすく言語に翻訳する責任はありますよね.」(p.227)と言う.
(2) 物理学者が,いろいろな状況で何度も具体例を求めるのに,十分に具体的とはいえない返答が多い.非実在論の説明を具体的に求められて,「物理理論はそのまま受け入れるし,それが観測可能な事実を良く説明することも受け入れる.ただ,その理論がうまくいっている理由がメタフィジカルな部分まで正しいからなのか別の理由によるのかについては保留する.どういう態度か,という説明としてはこれで十分具体的だと思います.」(p.202)と答えてるが,これは十分具体的だろうか.実際,後で何度も何度も説明することになる.また難しい言葉,概念が登場したとき,難しい抽象論をすすめるとき具体例が欲しくなるの当然なのだが,これはたぶん「具体例で議論する性質の問題じゃないんですよ.」(p.106)という本質的な壁があるのかも.それだったらなぜそうなのかは説明が欲しいところ.
そして,議論の本質となる部分では,
(3) 科学哲学の究極の目標は「科学とは何か」を探求することにある.そしてそのために,因果論とか,実在論・非実在論を議論している.因果論では,非常にシンプルなモデルから出発して,現象の原因を探ろうとしている.実在論・非実在論では科学の全く無いところから始めて,科学を積み上げていったときに,我々は科学をやることによって何をしていることになるのかというのが問題意識なのだそうだ.なるほど.須藤さんは,それを理解した上で,300年前ならいいかもしれないが,現在の科学,特に物理学の状況を考えれば,あまりにも問題設定がプリミティブだし,そのようなことをしていてはいつまでたっても「科学とは何か」に迫ることはできないだろうと批判する.そして,そのような思考を通じて,「具体的にどのような成果があったか?どういう新たな知見を得たのか?」と尋ねる.哲学者には酷だろうな.「もし科学の本当の姿を捉えたいのであるとすれば,方法論を考え直すべきではないでしょうか.それはプログラムとしては壮大だけど,「五感しか信じない」という出発点からそんなことが本当にできるのだろうか.」(p.204).「かつての偉大な哲学者と同じ出発点にしがみついたまま物事を考えてはいけないと思います.過去の哲学書を読むだけではなく,その後の科学による新たな知見を加えた上で,再度その問いに現代的な意味があるかを常に問い直してから出発するかどうかを判断しなければ.」(p.190)とも.
最後まで,お互いの文化をわかりあえたという感じではないのだが,この厳しい議論を通じて,科学哲学が何を問題にし,そしてそこに何が足りないかがよくわかる対談だった.
蛇足だが「クリシン」という略語がかっこわるい. -
Posted by ブクログ
科学哲学という業界に「アホがアホを再生産しているのではあるまいか」と疑念を持つ物理学者と,それを迎え撃つ気鋭の科学哲学者との対談。物理学者の須藤氏の半ば先入観に基づく(しかし科学者が科学哲学に対して抱く印象としては極めてまっとうな)疑問に対し,科学哲学の伊勢田氏が丁寧に答えていくというスタイル。対談本にしては,予定調和のないガチンコ対決という風情で非常に刺激的。だらだらしゃべって文字起こしという安易な作りではなく,事前の論点整理,事後のやりとりの反映や正確を期するための補足も入念になされていて,文章が散漫にならないのも良い。「科学を扱いながら科学界への具体的提案のない,独りよがりで内向きの学問なのでは?」,「同業の権威者の説や奇異な理論を取り上げて些細な点を執拗にあれこれし,議論が堂々巡りする不毛な業界では?」,「おかしなことを言っているか,当たり前のことをややこしく言っているだけなのでは」という素朴な疑問をぶつけていく須藤氏も,科学哲学に素人とはいえ,入門書を複数読み概要を踏まえた上で対談に臨んでいる。研究や研究室の業務に忙しいまっとうな科学者が,ある程度の興味をもって科学哲学者と率直にやりあうこういう機会は貴重だし,それがしっかりした書籍として世の中に出たのはとても有意義。科学に興味をもつ多くの人にとって示唆に富む内容。
読む人が科学にどれほど信頼を置いているかによって,この本の印象はだいぶ異なったものになりそうだ。頭の硬い科学者を,社会や人間存在というものを踏まえた大局的見地に立った哲学者がたしなめていくという風に読む人もいるだろうし,現場の科学者の常識的・合理的な感覚に対して,哲学者が役にも立たない些末な揚げ足取りを繰り返し極端な懐疑論まで擁護していると読む人もいるだろう。でも,本書から読み取るべきことは,そのどちらでもない。いくつかレビューを見ると,対談は最後まで平行線という感想が目立つけど,哲学の考え方,立ち位置に須藤氏が次第に納得していく様子も見られる。ソーカル事件の顛末を知って科学哲学に対して抱いた敵意と,ビリヤードを用いた旧態依然の因果論に対する激しい違和感で,業界全体に対する感情的な反発をもってしまっていたこともはっきり認めて反省している。その種の多くの誤解は解けたし,二人の間で意見が一致する論点が多々あることも最終的には確認できている。ただ須藤氏は最後まで「学問の目的」という点では納得いかない様子だ。問題設定が具体的で目指すべきゴールのはっきりした科学と,実用性からは幾分遊離した哲学のものの見方にはやはり大きな距離がある。科学のために科学哲学があるわけではなく,科学哲学者は自身の哲学的に興味に基づいて科学を哲学しているのだから,この差はある意味当然なのだろう。
科学の専門家でない立場から科学全体を俯瞰するという行為が,今や密接不可分となった科学と社会を考える上で意味のある営みであることは否定しがたい。仮に現在の科学哲学がそれほど意義ある内容のものでないとしても,学問の世界,特に人文系の学問にはその程度の遊びは必要だと思う。高価な実験器具や大規模な調査など要らないから,たいして金がかかるわけでもないし,大いにやればいいんじゃないかな。いくつか著書を読む限り,伊勢田氏は聡明で知的に誠実な学者だし,彼もその一員である科学哲学業界がまるごとダメダメな業界とも思えない。ただ科学者との交流が少ないのは事実と思われるので,そこは改善の余地がありそう。必ずしも良い関係である必要はなくて,立場の違いからのすれ違い,いがみ合いがあってもいい。この点現状で特に手薄なのはやはり科学者側の科学哲学に対する関心のようなのだが,科学者側になかなか余裕がなさそうなのがネックかも知れない。極端な成果主義を改めて,もっと遊びを設けることができればいいのだけれど…。 -
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日本神経科学学会が脳神話への声明を出していることは他の教育関係の本では引用は見かけない。成績が良い児童には朝食をとっている児童が多いことから、朝食を食べると成績が上がるという間違ったマスコミの例(家庭環境が関連すると想定されるのだが)が掲載されているので、学生に関連と因果を考えさせるいい材料になるであろう。また、宝くじが当たるために、神社に祈ったか祈らなかったで本当にご利益があったかを調べるために、疫学の考えとして、以下の4マスで確率を考えるとしている。これは、学生にとってとても役に立つ道具である。例えば、電子教科書を使わなくて、成績上がった学習者をがすぐ頭に思い浮かべることができるという利点がある。1、2章は役に立つであろう。
効果あり 効果なし
祈った ( ) ( )
祈らない( ) ( ) -
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良書だと思う。
科学のあり方について、大学の研究者やライターなど様々な人が語っていて、新書ながら内容が非常に濃かった。
科学というと、どうしても絶対正しいものだとか、必ず答えが用意されているものと思いがちだ。しかし、実際にはそうではなくて、不確実な面もあるということを忘れてはいけないだろう。そして、不確実な面もあるけれど、それをなるべく正しい答えを導き出そうとする、方法論についてはやはり信用に足るものだと思う。
今回の震災で、科学の見方が大きく変わった。研究者も一般市民も科学の見方について、もう一度しっかりと科学について、理解する必要があるのではないだろうか? -
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トンデモ科学,似非科学など,人をダマす「科学もどき」が後を絶ちません。その内容は,「誰が見てもウソだろう」と思うものから,ちょっと見では気づかない科学っぽい話まで身の回りには実にたくさんあります。「誰が見てもウソだろう」と思うのにさえ誰かが引っかかるのは,人の弱さにつけ込むからでしょう。
福島原発の爆発事故によって放射能が飛び散りました。放射能は確かに危険だけれども,その危険性を必要以上に煽って,金儲けにつなげようとしている人もいます。本書でもそういう事例が何例も取り上げられています。ただ,こういう例は姿・形を変えて次から次へと出てくるに違いありません。一つ一つに対処している訳にはいかないのです。
だからこそ私たち一般人は,「科学的に考える」とはどういうことかをしっかり学んでおかなければならないのでしょう。
100の結果のうち自分の都合のいい結果を1つだけ取り上げて宣伝しても,それは事実であることは確かですが,報道されない「あとの99はどうだったか」をしっかり見ることのできる眼を持ちたいものです。
本書で2度も取り上げられている「2×2(4分類法)」という疫学的な見方」はとても役に立ちます。これだけでも身につけておきたいです。 -
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震災後,政府不信とともに科学不信が蔓延していて,その結果いかにも胡散臭い情報に引っかかって騙される人が増えているようだ。その処方箋。
今回の原発などの問題は,科学自体の信頼性を損なうものではなく,科学が用いる方法論の有効性は,微塵も揺らいでいない。科学が有用であり,科学なしに現代社会の存続はありえないということは明らかなのに,従来の科学を忌避して損をするのはもったいない。
第一章は,ニセ科学の批判をずっと続けている物理学者の菊池教授が執筆。ニセ科学とは,科学でないのに科学を装って一般の人を騙す言説だ。血液型性格診断,マイナスイオン,『水からの伝言』,ホメオパシー,ゲーム脳等。巧妙な宣伝で信奉者を獲得している。
実は科学を非科学からどう峻別するかという「線引問題」には決着がついていない。でもだからといって極端な相対主義に走ると,「科学とそうでないものの区別など存在しない」となってしまって意味がない。ここでは「多くの科学者が科学と思うものが科学」という認識で話がすすむ。
科学とは,「再現性のある客観性的事実」で,メカニズムが未解明なだけではニセ科学とは言えない。ここでは「客観的」というのがポイントで,主観的な経験を短絡的に事実と結びつけるやり方はもちろん科学でない。超伝導のように,現象の確認が先にあって,あとから理論的説明が付いてくることも多い。
ただ,科学的に考えにくい出来事でも「自分は経験した」という人は存在する。そういう個人的体験を全否定することは間違い,と菊池教授は言う。個人的経験はその人にとっては本物。ただそれと科学とを別に考えてもらえるようにするのは,なかなか難しいんだろうな。
第二章は,科学哲学者の伊勢田哲二准教授。線引問題に詳しく,以前読んだ「疑似科学と科学の哲学」はとてもよかった。この著書を含め,科学哲学が従来取り扱ってきたのは,物理や天文学,生物学,化学などの事実解明的な科学。それをモード1科学と呼ぶ。
モード1科学を支える価値観は,CUDOSと言われるそう。共有主義,普遍主義,利害の超越,組織的懐疑主義。発見を共有し,えこひいきや利害を排除して,研究内容のみを鵜呑みにせず吟味して評価するという態度。これが重要なのだが,モード1に属しない科学でこれを徹底しようとすると不都合が。
モード1に属しないモード2科学とは,「応用の文脈における知」を指す。この場合,超領域的な状態が避けられない。すなわち産学連携のように,モード1科学的な価値観に属している以外の人たちも関わってくるので,CUDOSに忠実であることより問題解決が優先されてくる。
モード2科学では,「今は証明不十分でも問題解決につながるから使う」という姿勢が擬似科学と共通してくる。モード1,2の科学,擬似科学の間の関係はグラデーションで,はっきりとした境界はないが,明らかに科学の範疇に入るものと,明らかに擬似科学であるものの区別をつけることはできる。
それは「信用できる方法論があるのに、それを使わないようなもの」が擬似科学,という分類法。代替医療なんかも,信頼できる検証方法である二重盲検法で効果が見いだせないのに効果を主張する。有用な伝統的知識が発見され,広く利用されることがあるが,取り入れる側の態度が科学的であることが大事。
第三章は,松永和紀氏による「報道はどのように科学をゆがめるのか」。報道は注目してもらえなければ意味がない。そのため,人々に受け入れられやすいように問題を極度に単純化し,センセーショナルに恐怖を煽る傾向がある。科学者を登場させて「こういう説もある」と紹介すれば報道機関の責任は軽い。
エコナ発癌性問題(定量的検証を欠いた議論),遺伝子組み換え(組み換えナタネとイヌガラシの交雑騒動)などの事例を通じて,警鐘報道がもたらす擬似科学の独り歩きを指摘。メディアは誤報を訂正しないので(訂正情報はニュースバリューがない),科学的に間違った認識が社会に残り続ける。
第四章では,サイエンスコミュニケーションのありかたを問う。イギリスでは,BSE騒動の反省(信頼の危機)から科学コミュニケーションにおいて大きな方針転換があった。従来の「理解」重視から「対話」重視への転換だ。これを参考に考える。
伝統的な科学コミュニケーションでは,一般市民の科学理解(PUS)といって,知識のある者からない者へという一方的発信が主流だった。「正しい理解を広めれば不安はなくなる」とする考え。しかし,これではうまくいかなかった。この状況はいまの日本と相通じるものがあるなぁ。
科学への信頼を再構築するためには,科学者,政府,産業,市民の間の双方向的対話や,政策決定への参加を重視する「公共的関与」が必要になってくる。科学技術に関する意思決定を,誰がどうやって行なうのが良いのか,それも含めて議論していかなくてはならない。ただ,議論の前提として,一定のリテラシーはやはり求められるよね…。そこはやはり教育しかないのではという気がします。
付録に,片瀬久美子氏の「放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち」も収録。マクロビ,EM菌,米のとぎ汁乳酸菌…。…怪しすぎです。シノドスジャーナルで一部が読めるので,未読の方はぜひ。